昨日は諏訪利明氏の「課題分析」の学習会があって、TEECHの手法を聞いておきたいと思い参加した。要するに課題分析は対象操作のための分析手法であって、対象の行動を任意の単位で切り離し、その問題のモジュールを分離することによって解決の手がかりを得るというものだった。
例えば棒を振り下ろしている人、Aさんがいたとする。
私はその人に棒を適正な場所に移動してもらいたいと考える。その基準とAさんの行動はミスマッチングを起こしている。ならば
1)元の棒置き場に近づく。
2)棒を手に取る。
3)周囲にぶつからないように注意する。
4)下の棒置き場に棒を置く。
と分けたとしよう。ここで3)が問題になる。
そこで「周囲にぶつからないように注意する」ことを教える。
とこうなるだろう。しかしAさんは
「棒が重いので振り下ろした」
「棒が濡れているといけないのでしずくを払った」
ということがあったとき、Aさんの意思はどこに行ってしまうのだろう。
一義的なことが「周辺との関係で安全を保つ」ということが相互理解され、
「重い場合は両手で支える」とか
「棒が濡れていることはないから、しずく払いは不要」
というような交渉をして 改善しているわけではないのだ。
Aさんが自閉症者であり、コミュニケーションが成り立たないという前提があって、彼の意思を超越して、彼を目的に矯正する手法と明言するなら、これはおかしいし、明言しないのなら経験的な場面あわせとなってしまう。
常に学びには相互交渉がある。彼に意思がある。このことを無視して、分析の結果を焦点化戦術化して「構造化」と呼ぶのは危険ではないか。
まだまだ疑問はあるが、まなびを外部操作によって学習者を形作るということが、教育の現場では問題化するのに、障がい児者の教育となるとそれが当たり前になってしまう。
私は軽度発達障害関係の活動に関わってきた。しかしここで特徴的なことは、二十年近くたっても、当人の自立した活動が生み出されないのはどうしたことだろう。親の会の活動がある。専門化との連携のなかで「子どもの育て上げ」の活動はある。この治療活動という罠に当人も身をおいている結果ではないか。その無自覚な眼差しを支えている科学の方法に敏感でありたいと思う。
例えば棒を振り下ろしている人、Aさんがいたとする。
私はその人に棒を適正な場所に移動してもらいたいと考える。その基準とAさんの行動はミスマッチングを起こしている。ならば
1)元の棒置き場に近づく。
2)棒を手に取る。
3)周囲にぶつからないように注意する。
4)下の棒置き場に棒を置く。
と分けたとしよう。ここで3)が問題になる。
そこで「周囲にぶつからないように注意する」ことを教える。
とこうなるだろう。しかしAさんは
「棒が重いので振り下ろした」
「棒が濡れているといけないのでしずくを払った」
ということがあったとき、Aさんの意思はどこに行ってしまうのだろう。
一義的なことが「周辺との関係で安全を保つ」ということが相互理解され、
「重い場合は両手で支える」とか
「棒が濡れていることはないから、しずく払いは不要」
というような交渉をして 改善しているわけではないのだ。
Aさんが自閉症者であり、コミュニケーションが成り立たないという前提があって、彼の意思を超越して、彼を目的に矯正する手法と明言するなら、これはおかしいし、明言しないのなら経験的な場面あわせとなってしまう。
常に学びには相互交渉がある。彼に意思がある。このことを無視して、分析の結果を焦点化戦術化して「構造化」と呼ぶのは危険ではないか。
まだまだ疑問はあるが、まなびを外部操作によって学習者を形作るということが、教育の現場では問題化するのに、障がい児者の教育となるとそれが当たり前になってしまう。
私は軽度発達障害関係の活動に関わってきた。しかしここで特徴的なことは、二十年近くたっても、当人の自立した活動が生み出されないのはどうしたことだろう。親の会の活動がある。専門化との連携のなかで「子どもの育て上げ」の活動はある。この治療活動という罠に当人も身をおいている結果ではないか。その無自覚な眼差しを支えている科学の方法に敏感でありたいと思う。