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一日早く、緊急入院

一日早く、緊急入院

 結局、緊急入院です。あそこでもう少し、呼吸困難を我慢すればよかった。だけど、10分経っても、続いたので、奥さんに状況を告げた。勝手に、二階で亡くなった時に原因が分からないと困るから、ということを思った。

 血圧が上がったのが、どうも原因みたいです。カレーうどんがまずかった。それに未唯の関係で心理的な要因が重なったのでしょう。結局、未唯の相手の両親との席には出れなかった。同じ、11時半に緊急入院で病室に入り込みました。

カテーテル検査の間で立ち止まり

 カテーテル検査の前で止まっている。カレーテル検査の後には、バイパス手術が入っている。それで初めて、呼吸困難の現象がなくなるでしょう。それを指摘している医者があまりにものんびり過ぎる。入院となると、先が長いです。毎日が過ぎていく。

身体は外部

 元々、身体は外部です。この概念を徹底させます。

入院環境

 四人部屋に偶々、一人です。ここは短期者の病室なんでしょう。その後を見るとカテーテルの患者ばかりです。

 無線LAN環境がないので、FBもツイッターもできない。ケータイは掛かってきません。それだけで、胸を病みます。

 機械音に溢れています。押せばいいボタンは分かっているけど、勝手に押せません。ナースは人からも呼ばれ、機械から呼ばれます。機械は当然、お礼の言葉を発しません。労働過重になるはずです。

 点滴で抗生物質を入れられ、それに反応して38.4度にあり、火曜日のカテーテル検査は一週間延期。

第5章の取り組み

 第5章は会社篇ですが、比較するときは大きく構えて、循環を検討していく。そうすると、組織の制約に引っかかります。そして、組織の制約を超えていくために、現場を使っていく。

 5.4「お客様情報」。お客様情報と書いてあるけど、店舗とお客様との関係を汎用的に考えていきます。必要な機能を明確にします。

四方さんを訪問したこと

 四方さんを訪問したのは、1996年7月19日。2時から4時までの予定であったけど、結局、7時まで話し込んでいた。ここで、井上さんから問題意識で「水素の活用」を述べられた。「水素」のプロジェクトに最初にゴーを掛けたのが、井上さんだった。

 1996年という年。丁度、池田晶子さんが46歳で亡くなった年です。(年齢の辻褄が合っていない)

 四方さんとも会ったりして、色々な方向を探っていました。そこで述べていることが、さほど、今と変わりはしません。名古屋の実体が分かって、もっと、目を広げないといけないという時だった。

ムハンマドの侵略

 ムハンマドは、ペルシャ帝国を破壊し、ビザンティン帝国を封鎖し、西洋を二つに分けた。あの付近の帝国名が中々、出てこない。

 ムハンマドは啓示が本物だと主張する、妻の言葉に耳を傾けた。私の場合は全て、戯言で済まされている。

 アラブ人を一つにしている。

入院の時間の意味

 この入院の時間は何のために与えられたのか。それを考えるための時間なんでしょう。これも<今>なんです。

 入院していることで、心臓病で死ぬ可能性は朝よりも、減っているのでしょう。だけど、医者は信用できない。組織に逆らうのは、私の信条です。

未唯空間の資料

 環境都市「フリチバ」

  2014年4月13日です。一年前のフリチバという都市。早速、タントのアントニーにぶつかっています。アンチノミー。

 純粋理性批判の解説書というけど、実体の知れないものです。

親戚中からの叱責

 奥さんと子供たち、妹と姪は私をクレーマーと決めつけている。

 入院の書類にも、付添いの妹は「クレーマーだから、言われたら、家族に連絡してください」とわざわざ、書いています。

 正義は私の方にあるのに、そんなことに構わずに、おとなしくすることを強要します。
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創造力 「こんな性格に誰がした?」

『アドラー心理学を深く知る29のキーワード』より

アドラーは、つぎのようにいいます。

「どの個人もみな、それぞれの性格と、その性格の形成の双方を表現しているといえる。たとえるならば、個人は絵画でもあり、自分という絵画を描く画家でもある。個人は自分の性格を描くアーティストなのである」

自分をつくりあげるのは自分しかありません。自分の行動のすべてを自分で決めることができます。もっといえば、自分しか決めることができません。私がアドラー心理学と出会って、もっとも感銘を受けたのが、この「創造力」という概念でした。創造力というと、すばらしいアイデアがひとりでに浮かぶ能力かと思われがちですが、それとは別物です。

小学生のころの私は本当によく泣いていました。いじめにあっていたわけでもないのに、ちょっと学校の友だちにからかわれるだけで、すぐ泣いてしまっていたのです。家に帰ってそのことを親に話すと、「男なんだから、そんな簡単に泣くもんじゃない!」と怒られました。自分の不幸が受けいれてもらえないと、「こんな性格になったのは、お父さん、お母さんのせいだ」と反発し、さらに泣きわめいていたのです。

アドラー心理学では、いわゆる一般的な性格のことを「ライフスタイル」といいます。このライフスタイルの形成において、3つの要因が考慮に入ります。それは、遺伝的要素、環境的要素、そして創造力です。

カウンセリングをしていますと、よく「性格は子供に遺伝するのですか」という質問を受けます。遺伝的要素と環境的要素については、あくまでライフスタイルの形成に「影響を与えるもの」であって、それじたい「決定要因ではない」と、お答えしています。つまり私たちは、それぞれに与えられた遺伝的要素や環境的要素といった限界と可能性の中で、創造力を用いて自分自身のライフスタイルを決定しています。

この創造力は、人間に「自己決定性」と「自己責任性」を与えてくれます。

そこには、選択と決定の自由意志があります。つまり人間は、遺伝的要素や環境的要素によって機械的に動かされているのではなく、それらの制限を受けながらも、自由な決断をくだし、自分をコントロールできる存在だということです。人間にとって、3つの要因の中でただひとつ、自分の意志で自由に決められるのが、この創造力なのです。

さらに、すべての人には「自分の決定に責任をともなう」という能力があるものと、私たちは信じています。

このことはまた、「自由意志論」、または「やわらかい決定論」という言葉でも説明されています。アドラーから強い影響を受けた、実存主義のヴィクトール・フランクルは、つぎのように語っています。

「刺激と反応のあいだには、少しのすき間がある。そのすき間において、人間は自分の反応を選択できるという力を持っている。そして、その反応の中には、私たちの成長と自由が眠っているのだ」

親へ責任を転嫁していた小学生の私は、社会人になっても、その呪縛から抜けだせていませんでした。大人になってからの事業者金融の営業でも、思うように成績が伸びなかったときや、会社の事業や営業の方針になじめず、納得のいかないことが起こったときにも、「自分がうまくいかないのは、社会のせいだ」と嘆いていたのです。ですが、その限られた環境の中でも、自分をコントロールでき、自由な決断ができていれば、創造力を発揮して、何らかの工夫や改善ができたはずでした。

社会心理学には、「根本的な帰属の誤り」という概念があります。これは、「人間の行為は、その人の内的要因、つまり気質や性格的なものである」というように、つい偏った見方をしてしまう誤りを示しています。

たとえば、仕事でミスをした同僚がいたとします。こういうケースでは、周囲の人は「いい人だけど、大ざっぱな性格だからなぁ」とか、「いいかげんな人だから、いつかはこうなると思っていたよ」とか、あたかもミスの原因が、その同僚の性格だけにあるかのような結論をしてしまいがちです。このとき、人間関係や状況などの外的要因は、ほとんど無視されてしまっているのです。

また、「行為者‐観察者バイアス(歪み)」という理論では、「行為者となった場合、自分自身の行為の原因は外的要因に帰属させるが、観察者となった場合には、その同じ行為の原因を行為者の内的要因に帰属させる傾向がある」と説明されています。つまり、「当事者の立場か、外野の立場か」によって、同じ行為に対しても見方が正反対になるということです。

これは、理論化されるまでもなく、誰しも心あたりがある話ではありませんか。ですから、自分自身がミスをした場合には、「パートナーがちゃんとやらなかったから」「運がなかったから」「状況が悪かったから」などと、外的要因を最初に考えてしまうわけです。

もうひとつ、似たものに「自己奉仕バイアス(歪み)」という理論もあります。これは、自分自身が何かで成功したり、うまくいったりしたときは、その内的な要因、つまり自分の能力や努力のおかげだといい、失敗したときは、外的な要因、つまり誰かほかの人や状況のせいと考えてしまう傾向です。

このような心理的なバイアス(歪み)は、成功の成果をひとりじめし、失敗の反省はしないという、私たちの悪い一面を正当化しています。

「人間のライフスタイルは6歳ごろまでに形成されるであろう」--アドラーはそういっています(現在のアドラー心理学では10歳)。形成期の子供は、試行錯誤しながらさまざまな行動を起こし、家族や学校などの環境のもと、自分の居場所、つまり「所属」を確立しようとします。そして、その行動の結果や相手との関係などから学び、つちかわれていく「創造力」を駆使して、自分や他者、そして世界観においての「信念」を形成していくのです。

しかし、形成期の子供には言語力が不足していますし、知識も十分にありません。そういった中で、彼らはいったいどうやって、それらの信念を獲得していくのでしょうか。

アドラー心理学には、「子供はすぐれた観察者ではあるが、未熟な解釈者である」という見方があります。ですから彼らは、あるできごとに対する経験や見解を感覚で理解していると考えられています。その経験や見解を表現するための言語レベルと適切な認知力が、十分に発達していないというだけなのです。

たとえば、「ボクが泣けば、いつでもお母さんが来てくれる。だから、何か嫌なことがあれば、すぐに泣いてお母さんに気づかせなきゃいけない。それでボクは安心できるんだ」などと言語的に認知しながら、泣きわめいているような子供はいないでしょう。ですが、こういった言語的な気づきと理解がなくても、この子供はそのように行動するのです。

つまり、経験というものは言語化された形で信念として獲得されるわけではなく、感覚という形で経験されるうちに信念がっくりあげられ、やがてライフスタイルを形成していくという反対の流れになります。

また、いったんこの信念が確立し、ライフスタイルの一部になると、できごとに対して選択的な注意を向けるようになります。この選択をもたらす<。色メガネ〃の役目をはたすのが「統覚・認知バイアス」です。

そして、統覚・認知バイアスにより「私的論理」の形成のプロセスが起こります。

その後は、あるできごとに遭遇したときにも、受けいれたいことには注意を向け、無視したいことには注意を向けなくなります。つまり、個人のライフスタイルに沿うように、経験やできごとは選択的に受けいれられ、「意味づけ・解釈」されるということです。さらに、そのプロセスはライフスタイルを強化する助けとなり、ある特定のできごとには、。無意識的に々そのライフスタイルにしたがって行動するようになるわけです。

この無意識も、一般的な理解とは異なります。アドラー心理学が考える無意識について、2つの視点から補足をしておきましょう。

ひとつ目は、さきほどの統覚・認知バイアスにより認識の選択がなされ、私的論理が形成されるプロセスで起こるものです。私たちは、自分のライフスタイルにしたがって、選択的にできごとをとりあげ、それに意味づけ・解釈をします。この流れが強化されると、なかば自動的ともいえる形で、いわば無意識的に行動するようになります。

もうひとつは、「暗黙的理解」です。これは、経験やできごと、状況といったものも「言語化されていない」かぎりは、それに「異論をとなえることができない」ということです。

アドラー心理学のカウンセリングの現場では、ライフスタイル診断というものがおこなわれます。その目的は、個人の「信念体系」(自己概念、世界像、自己理想)を言語化し、その誤りを見つけて修正していくことにあります。

しかし、この信念体系というものも、ライフスタイル形成期にはきちんと言語化されていません。そして、いつまでも言語化を実現できないまま成長し、成人している場合があるわけです。言語化されていなければ、その誤りに異論をとなえるどころか、それを認知することもできません。その状態が無意識のもとにあるというのが、暗黙的理解です。

これらは、フロイトがいったような〝抑圧された無意識〟ではないことをあらためて強調しておきたいと思います。
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現象学 「みんなもそういってるから」

『アドラー心理学を深く知る29のキーワード』より

人間は「主観的」な生きものです。ここでいう「現象学」とは、事実に対する主観的な印象であり、主観的な見解であって、私たちはそうやって「意味づけ・解釈」した世界に生きているにすぎないということです。

ここに、ひとつのできごとがあり、100人が同じように遭遇したとしましょう。たとえば、交差点で自動車どうしの衝突事故を目撃したとします。はたして100人は同じようにそのできごとを〝経験〟するのでしょうか。ある人は「かわいそうに!」と当事者に同情し、ある人は「なんておろかなことを」と冷めた目で見ているでしょう。また、「なんでこんな見通しのよい交差点で事故が起こったのか」「どちらにより責任があるのか」「ケガがなければいいが」「私も注意しなくては」「保険にはちゃんと入っているだろうか」などと考える人もいます。

同じできごとを見ていても、おそらく100人がそれぞれの印象を持ち、それぞれの見解を持つにちがいありません。

この本を読んで、はじめてアドラー心理学について考える人も同様です。おそらく、人によって、それぞれが異なった印象、異なった見解を持つはずです。それぞれの印象と見解が、あなたにとっての主観的現実です。このことについてアドラー心理学は、外界に対する主観的な意味づけ・解釈をし、世の中を理解しているものと考えます。

つまり人間というものは、それぞれがユニークな存在であり、その人らしいユニークなライフスタイルによって、自分と世界のあいだに個人的で創造的な関係性を見いだしています。そして、現象学的な印象や見解によって認識しているのです。

ある日私が自宅でくつろいでいると、携帯電話に1本のメールが入ってきました。「いまから電話で話せる?」-ある友人からでした。「了解!」と返信すると、まもなく電話がかかってきました。友人は私がカウンセリングを学習していることを知っていたので、ときどきこういったやりとりをしていました。

その友人は、職場の同僚と仕事上のある案件において意見がぶつかり、そのまま口論となってしまいました。そのとき同僚に自分のアイデアに対する批判をされ、「誰だってそういうに(そのアイデアに対して批判をするに)決まってる!」といわれて、大きなショックを受けたというのです。

友人は、同僚の批判に対してカッとなってしまい、激しい罵声を浴びせてしまったそうです。そして、「ねぇ、これって私のほうが間違ってる?」と私に同意を求めながら、すぐさま「私のほうが正しいって、みんなもそういってるから」と、続けました。

話をまとめると、どうやら最初の論点からは脱線してしまっているようです。すこし整理しなくてはなりません。同僚が友人のアイデアに向けた批判--これには怒りたくなる気持ちが理解できないわけでありません。そう伝えたうえで、相手に罵声を浴びせたことが正しかったのかどうか--これは、よくなかったのではないかと率直に答えました。

しかし、これだけではまだ解決していません。私の頭の中では、彼らのやりとりにあった「誰だって」「決まってる」「みんなも」という言葉の選択に強い違和感を覚えていました。そこで、「ねえ、〝みんなも〟っていっていたけど、誰のこと?」と聞きました。すると、友人は具体的に〝ふたり〟の名前をあげたので、つぎのように答えたのです。

「同僚が、〝誰だってそういうに決まっている〟といったのは、たしかにその人の勝手な考え方だよね。〝だって〟というのは、いったい誰のことだろう? そのほかの人がどう思っているかなんて、わからないのだから。ところで、キミがいっていた〝みんな〟というのも、その(たった)ふたり……なんだよね」

すると、友人はハッと何かに気づいたらしく、ほがらかに笑う声が電話越しに聞こえてきました。こうして私が〝3人目〟にされることはなかったのです。後日、友人からメールがあり、「批判されたことに対してはまったく気にならなくなった。同じように批判された場合にも、どう冷静にふるまい、対処すべきかを考えるようになった」とありました。

私の大学院時代に、こんなできごとがありました。その日のミネソタは晩から降りつづいた雪がやみませんでした。翌朝、窓から外を見ると、あたり一面が銀世界です。ちょうどその日は土曜日だったので、そのまま静かにアパートの部屋で過ごすことにしました。そのとき突然、電気が落ちたのです。

おやっと思いながら、廊下に出てみると、非常用の電灯だけがもの寂しげに光っています。ようやく事態を把握します。停電でした。冷蔵庫の電源や暖房は切れ、インターネットもできない状態となってしまったのです。

すでに午後3時。この休日には、月曜日に締めきりの課題をやらなければなりません。リサーチが不十分だったので、インターネットの接続は生命線です。しかたなくノートパソコンをつかって書けるところだけ進めることにしたのですが、まもなくバッテリー切れのサインが点灯しはじめました。

土曜日であること、さらにちょうど学期をまたぐ週だったこともあり、大学院は休みです。いぜんとして大雪はやまず、外出も困難な状態になったので、「明日になれば復旧するだろう」と、今日はあきらめ、早々とベッドにもぐりこみました。この時期、ミネソタは午後5時過ぎには暗くなるのです。しかし、そんな時間から眠りにつけるわけでもなく、ただベッドに横だわって朝が来るのをジッと待ったのを覚えています。

はたして日曜日、結局午前中までに復旧せず、アパートのマネージャーにも連絡できません。ノートパソコンと携帯電話のバッテリーもついに切れたので、もよりのスターバックスヘと出かけました。そこで、充電とインターネットの接続をして、さっそく課題にとりかかりました。3時間が過ぎ、いったん確認のためアパートに戻るも、まだ電気はつながっていません。そのとき偶然、車でテレビを見ていた同じ建物の住人がいたので、復旧のめどをたずねてみますと、今夜、もしくは明日の午前中ではないかということでした。

「ああ、閉店ギリギリまでスターバックスで課題をやって、またあの暗くて寒い部屋に戻るのか」--そう考えたとき、思わずハアと大きなため息がでました。いっそホストファミリーのスキャンロンさん宅へお邪魔して、〝一泊食事つき〟をお願いしようとも考えたのですが、それでは、あまりにも安直すぎます。自分の学問のためにアメリカにまでやってきた覚悟というものが見いだせません。私は腹をくくりました。

「こんな経験は望んでも、なかなかできないぞ。ならばいっそのこと、このひどい状況を楽しもうじゃないか!」

そう考えると、何だかサバイバーの気分になって、ワクワクしてきたのでした。

このときの私も「意味づけ・解釈」という作業をしています。できごとや状況、それじたいが意味を持っているのではありません。私たちの「知覚」を通して、主体的に意味が〝つくりあげられる〟のです。

つまり、事実に対する意味は自分が決めています。事実に対する解釈のしかた、意味づけの方向性は、人それぞれです。結果として、それが正しいかどうかではなく、それぞれの意味づけの方向性、解釈のしかたによって行動するのが、人間というものでしょう。そして、いざ不測の事態が起こったとき、それぞれの異なった意味づけの方向性、ユニークな解釈のしかたが、必要になってきます。これは、その人の「信念」というべきものです。

以上の流れを図式であらわすと、つぎのようになります。

できごと・状況-知覚-意味づけ・解釈-信念
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心を使っている限り、心を超えられない

『奇跡はいつも起きている』より 宇宙のバランスの中で、自然に身軽に生きていきましょう

ここまで、心によって湧き上がる欲望や執着、依存について、それらがひとつの幻であることをお話ししてきました。しかし、私たちがいただいた心や体は、本来素晴らしい機能を持っています。ただ、それをどう使ったらいいのかなんら説明書がありません。仕方がないので、子どものときから人のふりを見て、その真似をして行動してきました。

ヒマラヤ秘教の教えは、サマディから生まれた智慧です。この心身のしくみをつくった神の意識からのガイドです。そこには愛が盛り込まれています。愛のある生き方です。それをお伝えする前に、そうしたことを知らない心のあり方を見ておきましょう。

私たちは、過去生から、ずっと心を使い、さまざまな欲求を満たして生きてきました。感覚は、常に外側の情報を集め、それにしたがって心が動き、欲望が湧き上がり、行為を行います。こうしたサイクルは、ずっと続いていきます。もちろん必要があり、生きるためにそうなっています。

眠っているときの心は、どうでしょうか。眠っていても内側で働いています。昼間の刺激を受けて、印象に残る刺激から想像が膨らんで、夢となってさまざまな処理をしています。表面的には周囲との調和を図っていても、心は我慢して、エゴが苦しんでいます。そのぎりぎりの状態を夢にして、処理することもあります。夢を思い起こすと、気づきが深まり深層心理がわかるのは、そのためです。

心には表面の心、つまり顕在意識と、もうひとつ押し込められた潜在意識の心があります。潜在意識を浄めることで、運命が変わってきます。それがヒマラヤ秘教の恩恵です。

ディクシヤによって神につながること、それは純粋な意識につながることです。そして、サマディ瞑想やその他の瞑想を実践することで、意識が覚醒されていきます。抑圧されたエネルギーが溶けて浮き上がり、浄化されていきます。

それは、心を超えた純粋な意識です。潜在意識を浄化していくと、それを見ている純粋な意識が覚醒してきます。

また心は、常に幸福を選択しようとはしているのですが、その幸福が「みんなの幸福」でないことが多いのです。自分を少しでも守り、競争に勝つための、自分のみの幸福。セルフィッシュな幸福の追求になってしまっています。それは知らず知らずのうちにカルマを積み、人を傷つけ、自分を傷つけてしまうこともあります。

ヒマラヤの恩恵は、そうした恐れから解放し、大きな意識を持たせます。恐れや執着の心も浄化します。智慧によってそれを見ると、その矛盾が明らかになり、自然に愛が溢れ、溶かされていきます。

そして目からうろこが落ちるように、心の縛りが外されます。ふつうでは見えない心の執着や働きが外れていきます。

そのプロセスは気づきの連続で、あなたは豊かな智慧の人になっていくことができます。それが、心を超えていくという生き方です。
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