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類と生命 収容所

『自由という牢獄』より 類と生命

ナチズスムやスターリニズムのような、二〇世紀の全体主義は、民主主義の外部にあるわけではなく、民主主義の内在的な転回として登場したということ、このことをわれわれは知っている。全体主義とは、人間が集まることから帰結する多様性の最も過激な否定である。すなわち、それは、多数の人間の集まりを一人の人間であるかのごとく閉鎖することにこそある。そうであるとすれば、全体主義こそば、自由と開放性を条件とする公共性にとって、最大の脅威であろう。全体主義への転換は、なぜ生ずるのか? 全体主義をまさにそれとして示している指標は、誰もが同意するだろうが、収容所である。全体主義は、普通の民主主義からの転回の産物であると述べたが、同じことは、収容所に関しても言える。

収容所は、全体主義国家にだけあったわけではない。最初の収容所は、一九世紀末にスペイン人がキューバに作った強制収容所であるとも、また二〇世紀初頭にイギリス人がボーア人対策のために建設した強制収容所であるとも言われている。いずれにせよ、最初の収容所は、植民地戦争に関連した、超法規的な例外措置から生まれたものであった。ここで思い起こしておきたい。われわれは、第1節で、現在において「公共性」が直面している困難を隠喩的に例示するために、映画『ゴースト・オブ・マーズ』を参照した。そこで描かれているのも、植民地における「先住民」との戦争であり、そして、公共的な空間を危機に陥れる恐るべき他者は、まさに植民地の「先住民」に投射されて表現されていた、ということを、あらためて思い出しておきたいのだ。

全体主義国家の収容所が、通常の国家の--ただし超法規的な例外状態や戒厳令下の--収容所に端を発しているということ、このことは、最も広く知られた収容所である、ナチスの収容所の場合は、殊のほかはっきりしている。強制収容の法的な根拠は、プロシアの「保護拘留」に関する、特別な警察的措置にある。それは、戒厳状態に関するプロシア法である。この法は、第一次大戦とその後の混乱期に大々的に利用された。最初の収容所は、その時に、つまり一九二三年に作られた。だから、アガンベンに倣って強調しておきたいことは、ドイツの最初の収容所は、ナチスではなく、社会民主主義政府が作ったということである。収容所に最初に送り込まれたのは、共産主義活動家だったが、その後は、ユダヤ人難民も入れられた。つまりユダヤ人強制収容所と限定したとしても、最初に、これに手を染めたのは、社会民主主義政権だったのである。無論、それは、絶滅収容所ではなかったが。

では、ナチスは、なぜ、あれほど熱心に、ドイツ社会からユダヤ人を排除しようとしたのか? なぜ、ユダヤ人を収容所に送り、最後には、この地上から抹殺しようとまでしたのか? このことを、われわれは、民主主義の原理に伏在していた論理の展開=転回として説明できなくてはならない。先に、民主主義的な(規範の)普遍化の機制の内に、ある逆説が--人権宣言に既に読み取ることができる逆説が--孕まれている、と述べておいた。それは、普遍性が特殊性に短絡することにおいて分節される、という逆説である。この逆説の極限値を取れば、ナチスの優生政策が得られるのではないだろうか。

一方で、人間を完全に普遍化した上で、対象化しようとすれば、われわれは、そこに、単に生命である限りでの人間を、つまり「類」としての人間を得ることになるだろう。他方で、しかし、その普遍的な類は、特殊化され、限定された形式においてのみ、つまり「種」の形式においてのみ、捉えられる。両者の重合、これ以上は考えられないほどに直接的な両者の短絡によって生み出されるのが、ナチスの「人種」--完全で純粋なアーリア人としてのドイツ民族--ではないだろうか。カール・シュミットは、ナチスの人種概念のずばぬけた重要性について、こう述べている。人種概念なしには、「国民社会主義国家が存在することもできず、その法的な生を思考することもできなくなる」と。最も重要な差異、差異の中の差異とも言うべき差異、つまり、「類」の中での相対的な「種差」ではなく「類」と「種」との差異の直接的な合致によって導かれるのが、「人種」である。

だが、このような人種概念には、大きな困難が付きまとう。類そのものの内部に、類の外部であるような種が入り込んでしまうのである。ドイツ人が、類を代表しつつ、同時に特殊な種(民族)でもあるとすれば、必然的に、その類の内に、ドイツ人という種の否定も含まれているはずだ。ユダヤ人とは、この類の内なる(類の)外部ではないか。だが、もしドイツ人によって、普遍的で包括的な類が代表されているのだとすれば、その外部であるところのユダヤ人という種は、(規範的に)存在してはならない種--というより事実的に存在するはずのない種--である。ナチスが、ユダヤ人を強迫的に絶滅させようとしたのは--いかなる合理的な計算にも見合わない執着をもってユダヤ人の存在の痕跡を抹消しようとしたのは--このためではないだろうか。

ここでわれわれは注意しなくてはならない。ユュダヤ人が排除されたのは、ユダヤ人が、ドイツ人と非常に違っていたからではない、ということを、である。ナチスの人種差別は、ュダヤ人が十分にヨーロッパ社会に同化し、遺伝的な特徴においても、生活様式においても、ほとんど差異がなくなったときにこそ、顕著になったのである。もし、ユダヤ人の排除が、以上に論じてきたような機制にしたがっているのだとすれば、ユダヤ人とは、ドイツ人の双子の分身である。もしドイツ人が、包括的な類と等値されているのだとすれば、ユダヤ人というもう一つの種もまた、当然、「ドイツ人」でなくてはならないからだ。それゆえ、ドイツ人にとって、類の普遍性を犯す、最も恐ろしい他者(敵)は、それ自身、自己に--つまりドイツ人に--内在していることになる。敵が外的な他者ではなく、ある観点からすれば自己自身であるとするならば、その敵を排除しようとする衝動は、原理的に、終わることがない。

第1節で、次のようなことを確認した。われわれは、現在、言ってみれば「人間」としての最小限の規範をも共有しえない(ように見える)、それゆえ公共的空間の内に迎え入れて共存することがとうていできそうもない、敵なる他者に直面している、ということ。しかも、その敵なる他者は、われわれ(の共同体)に深く内在しており、われわれ自身のもう一つの側面でもあるように思える--したがって外部に切り離すことができない--ということ。これらの事態こそが、公共性の避けがたい危機を構成しているのであった。ところで、今、ナチスに即してみてきたような逆説、すなわち、ドイツ人=ュダヤ人という逆説を、民族的な限定性をはずして一般化してみたらどうであろうか。それは、自己なるXと、これとおよそ通約しえぬ形式で対立する他者なるYとの間の、逆説的な一致という形式をとるに違いない。これこそ、われわれの公共的空間を困難ならしめている危機そのものではないだろうか。そうであるとすれば、われわれは未だに、ナチスを強迫的に駆り立てていたのと同質の衝動の中に捕らえられているのである。
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玲子との2時間の会話

未唯へ

 足が冷えてしょうがない。足をつっていた。親指がはねていました。

 新聞を振る音が嫌いです。大嫌いです。なぜなのか。ワザとらしいからでしょう。

検査入院の準備

 10時からだけど、本を読まないといけないけど。明日までに全部、片付けないと。

 検査入院だけど、結果次第では、そのまま、手術を考えておかないといけない。胸の様子は以前に比べると悪いですね。寝ているときも時々、痛くなります。

意見を言うものを聴く

 個人が会社とか、SNSに対して意見を出して言うものを見たけど、あくまでも、これは個人のあ勝手な意見だという感覚。逆に言うと私の意見もそう思われる。日本よりもアメリカの権威を当てにしている。この感覚はどこから生まれるのか

玲子との2時間の会話

営業マンの将来の目標

 彼らの言うところの目標、例えば、5年後の目標と言った時に、営業マンだと、何台売るとか二なります。大きな目標と言った時にその枠から出ない。自分の世界しかない。

 宇宙から見た時に、それはどんな意味を持つのか。これを159の本として出すことに意味をあるのか。

 ここで分からないのが、上司とか部下と言った時に、それは誰が決めたのか。その枠から出ていない、狭い世界に自分を押し込めるだけ。
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借出図書1772冊(14年4月~15年3月)

年間の〆

 14年4月~15年3月で借りた本は1772冊。346万円

 年間分類 0総記:152冊(9%) 1哲学:283冊(16%) 2歴史:221冊(13%) 3社会科学:549冊(31%) 4自然科学:169冊(10%) 5技術:82冊(5%) 6産業:95冊(5%) 芸術:60冊(3%) 8言語:16冊(1%) 9文学:126冊(7%)

豊田市図書館の30冊

 293.7『イタリア』トリコガイド “せっかくだから”を満たす、大人のガイドブック

 319.38『冷戦終結の真実と21世紀の危機』ゴルバチョフが語る

 914.6『単細胞にも意地がある』

 498.02『北海道ヘルスケアサービス創造』~北海道発モデルによる全国への提言・展開~

 140『アドラー心理学をを深く知る29のキーワード』

 126.6『奇跡はいつも起きている』宇宙を味方にする方法

 410.79『迷路の中のウシ』数学探検コレクション

 543.5『プロメテウスの罠9』この国に本当に原発は必要なのか!?

 007.3『ネット社会を安全に暮らす』-平成二六年度 懸賞論文論文集-

 596.37『世界のじゃがいも料理』南米ペルーからヨーロッパ、アジアへ。郷土色あふれる100のレシピ

 161『よくわかる宗教学

 596『365日しっかり朝ごはん』元気な一日をはじめるための手間をかけない簡単レシピ

 914.6『小さな幸せ46こ』

 209『漫画版 世界の歴史9』ロシア革命と第二次世界大戦

 209『漫画版 世界の歴史10』パレスチナ問題と東西冷戦

 336.3『できるリーダーはなぜメールが短いのか』残業ゼロで「圧倒的な成果」を上げる仕事術

 198.99『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』

 007.3『インターネットは永遠にリアル社会を超えられない』

 913.6『利休にたずねよ』

 104『暇と退屈の倫理学』

 778.7『なぜ日本は<メディアミックスする国>なのか』

 159.4『happy@work』情熱的に仕事を楽しむ60の方法

 147『すべての「別れ」は幸せのためにある』

 159.6『女性の知性の磨き方』お手本のない時代を生きる しなやかで、凛とした、いきいきと輝く女性の生き方

 289.1『死を思えば生が見える』

 135.5『アランの情念論』

 289.1『紛争解決人』

 159『ヒーロー』

 336.3『課長の覚悟』「責任は私がとる」と言えるリーダーになれ

 151.2『自由という牢獄』責任・公共性・資本主義
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Iさんに会う意味

まとめること

 1996年からの雑記帳を見ているけど、本当に順番通りです、ずーと、考えている20年間。だから、まとめることと過去のものと、未来に向けてやっていくこと。あそこで書いていることをできるだけ自分の内なる世界に取り込むようにしましょう。

Iさんに会う

 Iさんに会うために、6時34分のバスで名古屋へ。7時45分にサンロードに到着。

 「この時間はまだ」「ああ、そうなんですね」「酸素が必要だから、呼吸困難になるんですね」「一ヵ月は入院ですか」「入院とか分かれば、来てもらって」「フランスから送っているので遅くなるんです」「時空を超えないといけないので」

 「(玲ちゃんの話とパートナーの話)

 「お会いできてよかった」「愉しみにしていたんです」「相変わらずです。良くも悪くも」「人事考課でも相変わらずだったので」「ゆっくりしていってください」

 本当に変わらないですね。

 やはり、8時25分で帰りましょう。5分の会話と30分の滞在です。

未唯へ

 長島スパーランドで何かあるみたいです。中学生以下がバスセンターで並んでします。

 携帯ICレコーダーを吉野家で落とした。肌に付かない。

借出し本の〆

 一応、今週で〆です。岡崎図書館では借りてきません、統計をちゃんとして、一年間の終わりです。

ノマド化

 ノマド化しましょう。この二つのケースに全部、入れ込みます。パソコンは一回り、小さいのが欲しいけど、これ以上増やしても、結局は使わなくなるだけです。タブレットは寝ながら見るものにしましょう。入力はしません。できません。

毎日って何?

 働いていた時も含めて、毎日って、なんだろかな。その結論が出ないまま、過ぎていく。それが結論だったりして。

Iさんに会いに行く意味

 Iさんに会いに行ったけど、単にそれだけです。自分の存在を確認するだけで十分です。

 Iさんはいつもの通りの顔をしていました。他のメンバーからも挨拶なかったし、意外という感じではなかった。普段通りです。サンロードで考え事をするには落ち着かなかったので、ラテを飲んだだけで出てきた。

内なる世界の発想

 他の人の暮らし方は全然、気にはしません。自分で得たものではないから。自分のために用意されたネットの世界、クルマの意味、それらをどう処理していくのか、どう使っていくのか、どう壊していくのか。

 まとめてどうするかは考えません。と言いながら、やはり、気になりますね。だけど、発言したこと、為したことははっきりさせないといけません。今の一番の感覚は「ざま~みろ」です。

 137億年の活動がある限り、ここに生まれてきて、自分の視点しか見えない。それ以外のものはあるとは思っていない。この感覚がある以上は変わらないですね。

 14歳の時に、池田晶子ではないけど、「14歳の君に」会っていたら、変わっていた。何もないところでやってきて、数学にすがりついた。独我論についても後付けです。

逆パラレルワールド

 分岐する世界、パラレルワールドがあると同様に、集まってくる世界がある。例えば、この吉野家に来る人間、それぞれが歴史を持って集まってくる。それが何を意味するのか。
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心不全の症状

アッシー君

 今日から7時のつもりで来たけど、バックは忘れたり、通勤のラッシュに引っかかって、30分以上、遅れてしまった。通勤時間は苦痛ですね。動きゃしない。

心不全の症状

 心臓はなるべく使わないようにしないようにしておきましょう。心不全と心筋梗塞との違いはまだ、詰まっていないのが、心不全みたいです。だから、急いで手術しないのかな。

 以前なら、歩いて、10分ほどでなったけど、ここのところ、すぐになります。去年であれば、症状は軽かったんでしょう。

 サンロードのスタバに行けるのは、明日で最後になるでしょう。よほどでない限りは。一応、8月ぐらいを目途にしましょう。

図書館空間

 図書館空間に対する住民の認識は低い。従来通りのままである。図書館をエンパワーメント空間として意識することが必要になってくる。
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北欧公立図書館の将来的課題

『図書館トリニティの時代から揺らぎ・展開の時代へ』より エンパワーメントを醸成する北欧公立図書館:デンマークの公立図書館における住民サービスの変化

エンパワーメントを醸成する北欧公立図書館:デンマークの公立図書館における住民サービスの変化

4空間モデルに示されるような公立図書館の新しい機能が十分に発揮されるためには、司書の働きかけとそれに呼応する利用者の存在が必要である。しかし実際には図書館の多様な機能を利用者に結びつけようとする司書の働きかけに比べ、利用者の反応は鈍い。大部分の住民は公立図書館の変化に気づかず、資料の貸借を中心とする伝統的な図書館の利用法に留まり、しかも公立図書館の安定した資料提供サービスに満足している。したがって図書館にたいする要求水準や期待度が低く、図書館サービスヘの受け身の姿勢が常態化している。

北欧の図書館がさらに成熟した情報と文化の空間になる過程において、新たな図書館の機能に関する利用者自身による認知が欠かせない。図書館空間の可能性の発見という点では、マイノリティ住民は公立図書館が自分の生活と共鳴し自らを変えて行くエンパワーメント空間であることに意識的/無意識的に気づいた存在であると言える。

もう1つの課題は、図書館が文化的な領域を開拓することで、図書館の中核となる機能がみえにくくなっている点である。とりわけ移民を対象とした生活支援に関わるワンストップ・サービスや図書館における行政サービスの拡大は、図書館の存在意義に関わる議論を生起させている。公立図書館が多目的な文化機関、情報機関へと移行する過程で、教育的性格が相対的に弱まっている。メディアの多様化とインターネットの発達によって、図書館の基本的機能である情報アクセスに関わる情報や資料の提供機能は、相対的に比重が低くなっている。こうした現実に対応するために、現時点で図書館のミッションは情報と資料提供を基盤としながらも、文化活動を通じた住民同士の結びつきや地域社会の人間関係の醸成に設定されるようになった。こうした方向性は2010年代以降に新しく建築された図書館や、これからデンマークのオーフスやノルウェーのオスロ、フィンランドのヘルシンキに建設予定の図書館の建築プランに明示されている。
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コミュニティ・コーディネーター

『図書館トリニティの時代から揺らぎ・展開の時代へ』より 拡張サービスからアウトリーチヘ

拡張サービスからアウトリーチヘ コミュニティ・コーディネーター事業の拡充

コミュニティ・コーディネーターのブロックは次のように考えていた。「貧困地域は過少評価されがちだが、コミュニティ・コーディネーターの支援によって、不利益をこうむっている人に図書を読んでもらうことで、変化を生むことができる」。この考えを具現化するために、1966年から人びとが集まる場所で新たな方法で取り組んだのが3Bプログラムで、居酒屋(Bar)、美容院(Beauty Parlors)、理容室(Barbershop)に少量のペーパーバックを配置し提供する試みであった。この取り組みは、不利益をこうむっている人が多く集まる場所に資料を置き、生活に役立つ情報を得られることを実感してもらうことを目的としたものであった。

そのため、美容院には、育児書、料理本、買い物の本、居酒屋と理髪店には、スポーツやショート・ストーリー40)の本などを、注意深く選んで資料構成をしていた。この小さな蔵書で、聖書と同じようによく利用されていたものに、『消費者のための買い物案内』、「世界年鑑」があった。

この取り組みを主導したコミュニティ・コーディネーターのブロックは、ほとんど図書館内にはおらず、積極的に図書館から外へ出て居酒屋などに出向き、地域の人と接触しながら時間を共有していた。そうした活動を通して、当初は図書を売りつけるための小細工なのではないかと疑い、管理や盗難の危険性からも設置に否定的であった居酒屋45)、美容院、理容室も、利用者が増えることで、次第にこのプログラムを受け入れていった。

3Bプログラムも不利益をこうむっている人に図書を通して、生活に必要な情報を提供することで、「すべての人びとへのサービス」の理念と結びついていたのである。

1960年代末、ニューヨーク市の公立学校で教育のコミュニティ・コントロール運動が展開された。この運動は、人種差別を禁止し、黒人にたいして平等な教育の提供を目指した統合教育の失敗などを背景として、学校をコミュニティ・コントロールする、すなわちコミュニティによる自主的な管理におくことを目指すものであった。こうした教育界の動きは、例えば、1969年11月9日、ワシントンD.C.で首都東コミュニティ組織(CECO)が70のコミュニティ・グループの関わる公立図書館のコミュニティ・コントロールにむけて会議を行うなど、図書館界でも似たような動きを生み出した。

しかし、ブルックリン公立図書館で青少年へのサービスを担当していたミリアム・ブレヴァーマンは、「図書館員がしばしば顕在的および潜在的なコミュニティのニーズを図書館システムヘ解釈する役割を得ている。図書館員は悲しいかな、あまりにも頻繁に図書館員がコミュニティに代わって図書館システムに圧力をかける必要があり、オンブズマンのような役割を果たす」と述べており、コミュニティ・コントロールの実現が困難であることを示唆している。

またメリーランド大学の教授メアリー・L.バンディ67)は、地域住民がコントロールする権限を得るという闘いに関与することが難しい状況を指摘した。しかし、住民がコントロールする権限を自由に行使するため、図書館はコミュ、ニティの手足にならなければならないと述べている。そのための1つの方法として、地域分館レベルで代表者からなるコミュニティ委員会を設置し、分権化を図ることを提案した。

すでに述べたブルヅクリン公立図書館のコミュニティ・コーディネーター事業にみられるように、図書館員はコミュニティの団体や人びとと関わる方法でサービスに取り組み、図書館サービスにコミュニティが疑似的に関与する形式を確保していたのである。

本章では、拡張サービスからアウトリーチ・サービスヘの変化の背景に存在した利用者とサービス活動をブルックリン公立図書館の事例を中心に検討した。

公立図書館は「すべての人」へのサービスを標榜してはいたが、結果としてであっても白人中産階級を念頭におく図書館サービスになっていた。しかしながら、1950年代末から大都市の人口構成の変化と利用者の減少という現実に直面し、ブルックリン公立図書館の読書改善事業のように、都市の公立図書館のなかには地域の変化に対応した図書館サービスに取り組む図書館も存在した。ブルックリン公立図書館のコミュニティ・コーディネーター事業にみられるような図書館員とコミュニティの関係の変化は、図書館員の側からサービスを提供し、利用者がそれを受け取るという一方向ではないサービスが登場したことを意味した。図書館員は、積極的にコミュニティのさまざまな人、団体、施設と連携し、コミュニケーションを図りながらコミュニティのニーズに合ったサービスに取り組んでいく可能性を示した。

ブルックリン公立図書館の歩道サービス、さらにはコミュニティ・ウォークといったサービスは、コミュニティのニーズに適応する図書館サービスという現在の観点からすれば、特別に注目するほどの試みとは言えないかもしれない。しかし当時の図書館員は、白人中産階級の家庭で生まれ、その価値観、生活様式、読書観をわが身で経験し、それらは大学でさらに強化された。そうした図書館員が大都市公立図書館の分館で旧来の方式と同じやり方でサービスを行い、勤務時間が終わると急いで車で郊外の自宅に戻ったのである。図書館とコミュニティとの接点はなくなっており、それはコミュニティにおける図書館の存在意義に直接的にはね返ってくる。その架け橋となったのは黒人のコミュニティ・コーディネーターのフランクリン(後のワシントン・D.C.パブリック・ライブラリー館長)、連邦職員で図書館サービス建設法に直接に関わっていたフランツ館長、それに図書館での社会的責任派の代表であるデュチャック館長などであった。ここにはいわゆる知的自由派の出る幕はなかった。
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所有権を犯す海賊行為

『海賊と資本主義』より 海賊組織と所有権の意識 

ここ一五年で無形資産の価値は急激に高まり、先の需要を見越し、たとえその分野の事業を現在行っていなくても、特許の「青田買い」をする企業も出てきた。要するに、その特許が許可なく使用された場合に訴訟を起こし、損害賠償金をせしめることが目的なのである。実際のところ、アメリカの場合、こうした訴訟では告訴した側が有利になる傾向があり、多額の損害賠償金が支払われることも多い。訴えられた企業の側も、その技術の使用を禁じられるとさらに生産コストがあがり、不利益が生じることから、賠償金や示談金の支払いに応じているのだ。

所有権を買い占め利益をあげる。小規模で移動性--高いこうした組織は、パテント・トロールと呼ばれている。トロールとは、北欧の物語に登場する、醜く攻撃的な架空の生き物である。迷った旅人を襲ったり、殺したりするとされ、様々な伝説に登場する。

現代の海賊的トロールは、個人の特許保有者や、倒産寸前の企業を狙う。安値で特許を買い取り、それを元手に、大型船舶、つまりは巨大国際企業を攻撃するのだ。彼らは、脱テリトリー化された所有権の海を渡り歩き、特許保有者にとって最も有利な場所を選んで、攻撃を仕掛ける。高額の賠償金に魅力を感じて集まってきた弁護士と手を組み(当然のことながら、弁護士たちも賠償金の二部を報酬として受け取るのだ)、彼らは自分たちが保有している特許技術が使用されたと思われる商品をみつけ、「販売停止」を申し立てる。請求する金額も決して小さくはない。NTPに訴えられた、ブラックべリーの製造会社リサーチ・イン・モーション社が、六億一二五〇万ドルを支払い、示談に応じたことは記憶に新しい。NTPは小さな特許専門会社だが、小型端末ブラックベリーの製造に必要な特許を五件、握っていたのである。

特許を商売にしているアメリカの企業のうち、有名なものをあげてみよう。ナスダック上場企業アカシア社を筆頭に、データ・トレジャリー、フォーゲット、レンブラント・テクノロジーなどが続く。もちろん、これらの企業は、自分たちが海賊だともパテント・トロールだとも認めていない。自分たちで特許を使うわけではなく、単に特許の排他性だけに注目する、こうした企業が出現すること、それ自体が、資本主義の最先端をいく営業形態に疑問を示すものであり、国家のほうでも、所有権と市場独占に関する考えを見直さざるをえない状況になってい

国家、そして生産停止、販売停止を求められる企業にとって、こうした海賊的トロールは、技術革新を妨害するものであり、特許保持者が自分の発明プロセスを公開することによって本来、得るはずだった社会的評価をも奪うものである。彼らの言い分が正しいのなら、パテント・トロールの主張は、多くの人々にとって不利益なものということになる。だが、果たして本当にそうなのだろうか。

この問題を取り上げた学問的な研究論文は決して多くはないが、ミュンヘンエ科大学の経済学者ティモ・フィッシャーとヨアヒム・ヘンケルは、パテント・トロールの存在が経済的な停滞を引き起こしているとし、二つの問題点を指摘している。

一つ目は、特許を認可する公的機関そのものが、すでに存在する特許を把握しきれておらず、攻撃の標的となる企業に対して助言することができなくなっているという実情がある。実際、訴えられた企業は、特許保有者の標的にされることなど考えもせずに技術を使用し、製品をつくっているケースがほとんどである。海賊的トロールは、国家、もしくは複数の国家から成る公的機関(アメリカのUSPTOや欧州のOEB)が、急増する特許出願の処理に追われ、竹理が行き届かなくなっている状況を利用していると言えるだろう。

もう一つは、パテント・トロールの介入によって、技術分野の市場が停滞する懸念である。実際、ある程度の力をもち、商品化を急ぐ企業は、特許を買ったり、ライセンスを得るために特許保有者を探すことよりも、すでに他社で使用されている技術に改良を加え、商品化することを選ぶようになっている。パテント・トロールとの裁判沙汰を避けるため慎重にならざるをえなくなっているのだ。
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心不全の検査結果

未唯へ

 やはり、書き起こしはなかなか進まないですね・

 自分しかいないという感覚が日に日に増しています。137億年をかけて、ここまで来た。

 6166の車に轢かれそうになった。病院の駐車所ならば、治療はすぐにできるでしょう。そう言えば、警察の駐車場で車をぶつけた時はそのまま、処理をしてもらったことがある。

パラレルワールドの想像

 人間にとって一番重要なのは想像することでしょう。創造ではなく、想像することです。これは単純ではない。本来は多重世界のあり方を示しています。分岐点で分かれた世界を想像する。また、先の世界を想像する。それによって、今の世界がなぜ、こうなったかを想像する。その力です。空想という言い方のほうが強いけど。


 それが後部座席で寝ているリクとの違いでしょう。へたっているリクを写したけど、ガラケーのカメラだから、ピントが合っていません。やはり、カメラでないとダメですね。いい方のカメラを使えるようにしましょう。

宇宙からの見方

 自分の宇宙から他の宇宙をどう見ていくのか。それは小さければ小さいほど、細ければ細いほど、空想力が増します。なにしろ、<今>という時間は何でもできる。過去も未来の時間は何にもできない時間です。だから、時間を止めるのは<今>です。

 テキスト化は電子書籍化と同じです。それによって、未唯空間から未唯宇宙に飛び出しました。あまりにも、膨大な世界です。

 それを個々のレベルで行うことで、それらをつなげることで宇宙が生成できる。それが電子書籍の意味です。グーデンベルグの本の世界では繋がりができたけど、それが深さを持ってくる。それが知の体系化に結びついて、分化に対する統合を果たすことになる。

奥さんとの関係

 こうして、奥さんに相手してもらえるのも、今月一杯です。多分、来月から自分で動くでしょう。その間に何を得るかです。

水曜日は牛乳とタマゴ

 牛乳が安い。一人二本。三回レジを通って、全部で8本。4月から牛乳が10円上がる。ということで、FBに「水曜日は近くのスーパーで牛乳が安い。但し、一人二本なので、奥さんのお供。三回のレジで8本ゲット。来月になると10円値上げになります。」と投稿。珍しく、6人から「いいね」があった。

胸の痛みは「心不全」の判断

 月曜日から、二泊三日でカテーテルでの検査入院が決定。

 入院中はひたすら、本を読んで、これに書き出すだけにしましょう。身体は外部です。外なる世界です。この内容をどこに入れ込むか。やはり、パソコンなのでしょうか。多分、入力はできないから、言葉にするだけです。

 16GBのUSB×2本ほど。ICレコーダーのバックアップです。書き起こししなくてもOKです。主に、本で感じたことを述べます。ゆっくりと、他人にも分かるように。

 心臓への動脈が三本とも詰まっているみたいです。カテーテルでの治療は無理で、バイパスになるようです。入院は一ヵ月だと言っていた。

 まあ、どっち道、世の中と断絶することでは、この5年間と変わらないですね。ケータイだけでパートナーとつながるだけです。フェースブックはつながりません。だから、止めておきます。態勢はキンドルだけにします。そうなると大変だから、多分、パソコンを後から導入します。

 このままで行くと、プリンターが無駄になる。印刷うるものがないし、そういう状況ではない。またしても、奥さんに怒られた。

今後のスケジュール

 来週水曜日の卵と牛乳が買いに行けるかどうか。その日は退院だけだから、可能でしょう。火曜日の検査には奥さんが立ち会う。その時間を聞いてこなかったことで怒られた。

 明日は7時からスタバで入力です。金曜日は名古屋です。予定通りです。

 まあ、未唯の相手の両親との対面より後で良かった。

 本格的に部屋の片づけをしないといけない。外部要因でヤバいから。
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未唯空間第6章の後半

6.5「図書館コミュニティ」

 これは機能別コミュニティに必要な要素を上げています。

 コラボレーション、ポータル、ネットワークと空間になっています。これは起承転結で見ると、順番が若干おかしいです。

 サファイア構成から考えると、最初にネットワークがあって、ポータルがあって、コラボでの議論があって、空間ができるという順番になっている。だけど、社会の現実としては、ネットワークができるのは、ニーズとコンテンツがあったところで、ネットワークが意味を成す。最初にネットワークありきで考えるとインフラ中心になります。

 本当は議論する内容があればいいけど、そのためには、相手の状況を知らないといけないということでは、ポータルが先に来る。それをもとにコラボレーションがあって、ネットワークの広がりで空間を作りだすという順番にします。だから、ポータルが一番最初です。

 サファイアの場合は、最初にネットワークです。それを作った時に、形態からサファイアと命名しました。空間の概念を意識して、コミュニティのためにポータルを作り、最後にライブラリを含めたコラボレーションになりました。

 知の空間をライブラリとして考えると、ポータルではすべての要素をやっています。Sa-コラボをカタチにしたかったけど、何しろ、ポータルとライブラリがきっちりしないとコラボレーションできないのと、スタッフの分化が前提となります。

 命令系統があるところでは、上から下へ流すことはできるけど、下から上に上げるためには、チームでのコラボレーションが必要です。そのためにはそちらを向かないとダメです。これでかなり苦労しました。既存の組織はまだ、そういうものを許していない。

 経営者は自分のためにスタッフを使うという感覚が強い。それだけの思いをもっていないのにかかわらず。

6.6「情報センター」

 4つのセンター、社会センター、情報センター、知識センター、意識センターの一環です。情報センターは知識センターの入口です。

 従来の図書館の概念が先に来て、二番目で、それを知の入口として、進化させる。三番目の今後の環境社会での学習を支援するもの、単に学校だけではなく、色々な意味で学ぶというところ、個人が変わっていくところとしてのセンター。最後が意思決定できるということに変えていく。ここで大きく飛躍させます。

 6.6.4.2「どこでの図書館」を絞り込みます。「スタバでコンサル」にします。単に場所があるだけでなく、そういうところを仕事の空間にしていくことを明確にしていきます。とりあえず、項目名を変えてみました。そうすると、次の図書館でのカウンセラーが明確になってきます。

働く形態の多様化

 昨日の職安ではないけど、考えたのは、働くパターンが限定されている。もっと多様化しないといけない。それを意思決定とします。かなり、無理があるけど。無理をつなげることで、空間が作られます。

 部分にいながら、全体を考えて、先を見ていくというのは、たぶん、こういうことなんでしょうね。

孤立と孤独の世界

 今は、完全に「孤立と孤独」の世界にいます。誰からも認知されていない。誰も認知していない。これが望んだ世界です。ある意味、池田晶子も似たような形です。ただし、彼女に惚れていた人間は多かったみたい。これが答えとは言わないけど、現時点での結論です。だから、全体を考えて、先を進むしかない。

 パートナーの言動にかなり、心は左右されているけど、本来のところとあまり関係ないでしょう。本来のところとあまり関係ないでしょう。本来が何かわからないけど、この10年間やってきたこと。

6.6.4.4「散歩両論の本」

 図書館に関することで生まれた項目名だが、ここも意思決定からすると、「意見を聴く」というところです。

6.7.3「クラウド」

 抽象的な意味ではなく、図書館クラウドの仕様を提示しましょう。前提は地域コミュニティができて、皆が集めて、整理して、調べることをして、それでデジタル化と結び付けて、クラウド化していく。これはあくまでも地域の行政です。

 そして、6.7.4につなげます。本当は順番は逆ですけど。クラウドで使った世界がどうなっていくのか。情報共有の核としてのクラウドを使うながら、実質的な情報共有のメリットを上げます。

 情報共有の最初がライログだというのは面白いです。自分でやっていても、10年間で毎日、何を考えたのか。個人のライフログのデータも、クラウドに任せるのではなく、個人との関係で繋がりを作っていくことです。そして、分化と統合を行っていくということです。ビジネス支援が最後に来ているけど、これはもっと前に位置づけます。

6.7.4は「情報共有」

 「情報共有」ではなくて、「知の共有」に変えます。

 まず、個人のライフログがあって、それに対応して、社会ライブラリがあって、その分化を繋ぐものがあって、最終的に地を共有していくというカタチです。だから、個別に作るものではないです。かつ、与えられるものはない。皆が参画して作るものが知の共有です。

 知のカプセルはこれとは別の次元で考えていきます。
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