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新経済システム

クルマは不完全な存在

 なぜ、こんな不完全なもの、中途半端なものが存在するのか。人類は知恵と言うものを本当に持っているのか。悪くするものだけしか持っていない。

国に依存

 BIは国に依存するカタチです。国家の責任と言っても、そんなものを持っているという実体がない。境界がないのに、それができるのか。流れとしては、本当は違う。ではどういうカタチが正しいのか。

OCRの対象が増えている

 本は色々なことのキッカケになります。おかげで、やたら、難しくなります。関心が増えているので。借りてきた本の半分が対象になります。

新経済システム

 消費者の収入源である、雇用が機械化で左右されても、市場経済を変わらずに機能させることができる。消費税と特殊な直接税を組み合わせて、企業に課すことにより、オートメーション化していなければ、本来支払されてきた賃金を補足しようとするものである。

 それを新経済システムという名前で呼んでいます。これは色々なものと関係します。BIとも関係して、今後の世界をどういうカタチでやっていくのか。

 その中で一番関係するのは、消費者という立場でしょう。消費=生産までロジックを持っていかないと、答えにはなり得ない。

 企業と言うものが、そういうところで存在できるのか。企業そのものが変わらないといけない。企業と言うものを、コミュニティに変えていく、全てが変わる必要はないが、それが生活者という立場から変えていくこと。

 当然、その中でベースになるのは、個人の意識です。機構ではないです。仕組みだけを変えても矛盾が増すだけです。

宇宙と私

 宇宙の中になぜ、我々が存在するのか、私が存在するのか。今は、200億年の宇宙の歴史の中でのワンポイントなんです。137億年かけて、ここまで期待右です。

 生きる意味の間違い探し。よくやるわ。

 生きることは考えることは、ハンナ・アーレントから来ているみたいです。歴史のなかでは。

コーヒーの戦略

 ネスカフェの20円作戦。マクドナルドの100円。スタバの300円以上、この差に何があるか。コーヒーと言うものをどういうカタチで見ていくのか。これと消費者との関係。域外との関係。
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グーグルの巨大プロジェクト

『デジタル・アーカイブの最前線』より 本をアーカイブする

ニ○○四年一二月、グーグルは「グーグル・ブリント・フロジェクト」を発表した。これは、ハーバード大学、スタンフォード大学、ミシガン大学、オックスフォード大学、およびニューヨーク公共図書館と協力し、これらの一〇〇〇万冊以上もの蔵書をスキャン方式(実際はカメラ撮影だがスキャンと呼ぶのが普通)で電子化する事業である。このうちスタンフォード大学とミシガン大学については、著作権の残存している書籍も電子化するとした(米国の著作権法では一九二三年より前の書籍の著作権はすべて消滅しているので、それ以降の書籍)。二〇〇五年一一月、このプロジェクトは「グーグル・ブック・サーチ」と改名された。

図書館の蔵書の電子化は図書館プロジェクトと呼ばれるが、その進め方は次のとおりである。図書館は蔵書を提供するだけで、電子化はすべてグーグル社がおこなう。その技術の詳細は一切公表しない。費用はすべてグーグル社が負担するかわりに、デジタル・データの権利はすべてグーグル社が保有する。デジタル・コピーは図書館にも提供するが、PDFのみである。わが国でも、慶應義塾大学図書館がパートナーとなることが二〇〇七年に発表された(著作権が切れた本のみ電子化)。

このプロジェクトで実際にどのように電子化をおこなっているか、オックスフォード大学を例に見ていこう。

オックスフォード大学のボドリアン図書館は、一六〇二年に設立された、英国でもっとも古い大学図書館である。日本では国内で発行された本はすべて国立国会図書館に納本しなくてはいけないが、英国ではこの納本先が、大英図書館(元大英博物館の一部)と、このボドリアン図書館になっている。同図書館の蔵書数は一一〇〇万冊にのぼるが、これは国立国会図書館(約九六〇万冊)より多い。

グーグルは二〇〇二年から接触し、交渉した結果、著作権が切れたボドリアンその他の図書館の一九世紀の書物一〇〇万~一五〇万点をデジタル化することとなった。グーグルの担当者は二〇〇五年八月より図書館に滞在してスキャン作業場の建設などをおこない、二〇〇六年三月よりスキャンを開始した。

ボドリアン図書館では古い本にはバーコードがついておらず、またカタログもきちんとできていないものがあって、作業が大変だったようである。さらに約二〇%の本は、ぺージがカットされていなかった(昔の洋書は袋状になっていて自分でナイフを入れ、カットして開くようになっていた)。本は車で図書館から作業場に運送し、そこで昼夜休みなく二交代でスキャンがおこなわれたという。

このプロジェクト全体で現在、どのくらいの書籍がスキャンされているかについての一番新しいデータは二〇一〇年一〇月のもので、それによれば約一五〇〇万冊が電子化されたという。ただし複数の図書館から同じ本をスキャンしている可能性があるので、重複を除くと一二○○万~一四〇〇万タイトルではないかと思われる。

二〇〇八年には七〇〇万冊をスキャンしたが、そのうち六〇〇万冊が図書館の蔵書であった(残りは出版社から入手)。この中でパブリック・ドメイン、すなわち著作権が切れているものは一〇〇万冊だったという報告がある。つまり約八六%は著作権が生きている。しかしその大部分は絶版であり、さらに多くが著作者と連絡がつかない、いわゆる孤児著作物(Orphan Works)である。なお米国では、現在の著作権法が成立した一九二三年を境に、それ以前に発行された書籍はすべてパブリック・ドメインとなり、電子化を含めて自由に利用できるが、それ以降の書籍の扱いは日本と似ており、著者の死後七〇年(日本は五〇年)は著作権が保護される。
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国際関係の構造的変化

『イスラエルとユダヤ人に関するノート』より

 1.過去二十年で、国際社会の構造が抜本的に変化している。その根本要因は、ソ連型社会主義体制の崩壊である。

 2.民主主義的な国家は、カネと情報に対する統制を失いつつある。

 3.以前から、世界全体の上位五パーセントの富裕層が、富の相当部分を保有していた。このような金持ちは、共産主義革命を恐れたので、国家の反共政策に協力し、富の再分配にも応じた。共産主義体制の崩壊によって、富裕層には政府の要請に応じて富の再分配を行なう動機がなくなった。

 4.さらに富裕層の上層部に富が蓄積される傾向が強まっている。個人で途上国の年間予算以上の資産を持っている人も珍しくない。IBMの資産は、中堅国家のGDPに相当する。このような事態は、過去になかった。政府の金融、財政政策が実体経済に与える影響もきわめて限定的である。
 5.さらに政府は情報に対する統制を失った。質量共に飛躍的に増大する社会の情報を政府部門は把握することができない。情報テクノロジーの進歩のスピードに政府機関はついていくことができない。

 6.もちろん民間部門は軍隊のような暴力装置を持っていない。従って、国家の暴力装置を背景にカネと情報を統制することが、理論的には可能である。しかし、現実的に考えた場合、民主主義制度の発達した国で、このようなシナリオを採用することは不可能である。

そもそも軍人は政治に関与してはならないという教育を民主主義国では、職業軍人に対して徹底的に刷り込んでいる。この刷り込みの枠組みから、軍隊全体が逸脱することはできない。社会における軍人の地位が高いイスラエルでも、将官クラスの経験を持つ軍人が政治に関与することが以前と比べ、はるかに少なくなっている。

 7.政府と民間部門のギャップを埋める新しいメカニズムが生まれている。ビル・ゲイツをはじめとする超富裕層に属する人々は、例外なく自らのファンド(基金)をつくり、そこに私財を投入している。大雑把に言って、超富裕層は個人資産の五〇パーセントを基金に寄付している。これは慈善事業ではない。超富裕層が、政府を経由しないで社会に富を還元するメカニズムを作ろうとしている。超富裕層が自らの地位を安定的に維持するためには、このような富の再分配機構が不可欠になる。この種の基金は、超富裕層と社会をつなぐパイプなのである。

 8.このようメカニズムが普及することによって、政府の社会に与える機能は、当然のことながら弱くなり、社会における国家の占める場も少なくなる。米国のケネディーセンターには、「あなたが国家から何をしてもらえるかでなく、あなたが国家のために何をできるかを考えよ」というスローガンが書かれているが、いまやそれを「あなたが国家から何をしてもらえるかでなく、国家なしにあなたが何をできるかについて考えよ」と書き改める必要がある。いずれにせよ、政府を経由しない富裕層から社会へのパイプが国内外の政策策定に無視できない影響力を行使するようになっている。

 9.ウクライナ危機で、民族問題の危険性が再認識されている。民族問題をめぐっては悲観論に立たざるをえない。歴史は繰り返す。民族問題は解決されたのではなく、停滞期に入っていたに過ぎない。再び民族意識高揚の波が世界的規模で襲っているのだと思う。人間の性格は百年程度の短期間に根本的に変化することはない。波動が繰り返すだけである。

 10.米国のオバマ大統領には、歴史哲学がない。それだから、民族主義の危険性を過小評価している。

 11.イスラエルとして警戒しているのは、世界的規模での民族主義の高揚が反ユダヤ主義と結びつくことだ。ユダヤ主義には、

第一に宗教的な反ユダヤ主義(ユダヤ人がイエス・キリストを殺したという類いの言説)

第二にユダヤ人は遺伝的に他の人々と異なるという人種主義的反ユダヤ主義がある。たいていの場合、反ユダヤ主義にはこの二つの要素が混在している。

特に、超富裕層の政治と社会に与える影響が大きくなりつつある中で、「金持ちのユダヤ人が世界を動かしている」という類いの反ユダヤ主義が再び台頭する危険がある。ユダヤ人に、金持ちもいれば貧乏人もいる。その点については、他の人々と変わらないのに、反ユダヤ主義者には現実が曲がって見える。ウクライナとロシアの双方で、反ユダヤ主義が高まりつつある。

 12.ウクライナ問題に関して、イスラエルは米国と一線を画している。この問題に深入りすることで、ロシアのユダヤ人に不利益があってはならないという観点でネタニヤフ政権は対応している。同時に、ロシアとウクライナの間でもイスラエルは厳正中立の立場を崩していない。どちらかに加担することで、両国に居住するユダヤ人に不利益が生じることを警戒しているからだ。

 13.ガリツィア地方(ウクライナ西部)のウクライナ民族主義者の反ユダヤ主義は、ナチス・ドイツに劣らない。ガリツィアからイスラエルに移住したユダヤ人の親族の多くがウクライナ民族主義者によって殺害された。この記憶が残っているので、イスラエル人はウクライナ新政権に対しても警戒心を持っている。

 14.ロシア、中国、イランなどは、十九世紀の古典的戦争観に基づいて政策を遂行しているように思える。すなわち、戦争には、必ず勝者と敗者があるという前提で、勝者には戦利品を獲得する権利があるという発想だ。

これに対して、米国、EU、イスラエルは、国内的コストを考えると、なかなか戦争という手段に訴えることができない。従って、外交への依存度が高くなる。問題は、イラン、ロシア、中国が、「欧米が強硬な警告を発してもそれは口先だけで、戦争には訴える腹はない」と、認識していることだ。

従って、今後、しばらくの間、戦争に訴える覚悟をした諸国が国際政治において実力以上の影響力を行使することになるであろう。
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心の未来 多宇宙

『心の未来を科学する』より

このパラドックスを解決する第三の手だては、一九五七年にヒュー・エヴェレットが提唱したエヴェレット解釈(多世界解釈)だ。数あるなかでも一番奇妙な理論である。この解釈によると、宇宙は絶えず分岐して多宇宙となっている。ある宇宙では猫は死んでいるが、別の宇宙では猫は生きている。このアプローチは、次のように要約できる。波動関数は収縮せず、ただ分岐する。エヴェレットの多世界理論がコペンハーゲン解釈と唯一異なるのは、波動関数の収縮という決定的な仮定を取り下げた点だ。ある意味で、これは量子力学の最も単純な定式化だが、最も気味の悪いものでもある。

この第三のアプローチは甚大な影響を及ぼす。つまり、ありうるすべての宇宙が存在でき、奇想天外で一見ありえないような宇宙さえ存在しうるのだ(ただし、奇想天外な宇宙ほど、存在する可能性は低くなる)。

すると、われわれの宇宙では死んでしまっている人々が、別の宇宙ではまだ生きていることになる。しかも死んだ人々は、自分の宇宙こそが正しい宇宙で、われわれの宇宙(彼らが死んでいる宇宙)は偽物だと主張する。だが、こうした死んだ人々の「幽霊」がどこかでまだ生きているのなら、なぜわれわれは会えないのか? なぜそうしたパラレルワールドに触れられないのか?(奇妙に思うかもしれないが、この考えによれば、エルヴィス・プレスリーはどこかの宇宙でまだ生きているのだ)さらに、こうした宇宙のなかには、生命がまったくいない死の宇宙もある一方、ひとつの重要な違いを除いてわれわれのとそっくりな宇宙もあるかもしれない。たとえば、たった一本の宇宙線が衝突しても、それは些細な量子論的事象である。ところが、この宇宙線がアドルフ・ヒトラーの母親を貫通し、おなかにいたヒトラーを流産させてしまったら、どうなるだろう? すると、一本の宇宙線の衝突という些細な量子論的事象によって、宇宙がふたつに分かれてしまう。一方の宇宙では、第二次世界大戦は起こらず、六〇〇〇万人が死なずに済んでいる。もう一方の宇宙では、われわれが第二次世界大戦の惨禍を経験している。このふたつの宇宙は大きくかけ離れてしまっているが、最初に隔てたのは、ひとつの些細な量子論的事象なのだ。

この現象については、SF作家フィリップ・K・ディックが『高い城の男』(浅倉久志訳、早川書房)で取り上げている。この小説では、たったひとつの出来事によって別の並行宇宙が生まれる。一発の銃弾によって、フランクリン・ローズヴェルトが暗殺されるのである。この決定的な出来事のせいで、アメリカは第二次世界大戦への備えができず、ナチスと日本が勝利を収め、アメリカを両者で分け合う。

しかしまた、銃弾が発射されるか不発に終わるかは、火薬のなかで微小な火花が散るかどうかに左右され、その火薬の点火も、電子の動きをともなう複雑な分子反応に左右される。そのため、ひょっとしたら火薬のなかの量子ゆらぎが銃の発射か不発かを決め、それがまた連合国とナチスのどちらが第二次世界大戦で勝つのかを決めるのかもしれない。

すると、量子の世界とマクロの世界を隔てる「壁」など存在しないことになる。量子論の奇想天外な性質が、われわれの「常識的な」世界に忍び込んでいる可能性があるのだ。これらの波動関数は収縮しない--どこまでも分岐しつづけて並行する現実を作っていく。別の宇宙の創造は止まることがない。そうしたら、ミクロの世界のパラドックス(つまり、死んでいると同時に生きていること、同時にふたつの場所に存在すること、姿を消してどこかほかの場所にまた現れることなど)が、われわれの世界にもあることになるわけだ。

だが、波動関数が絶えず分岐していて、その際にまったく新しい宇宙を作り出しているとしたら、なぜわれわれはそこへ行けないのだろう?

ノーベル賞受賞者のスティーヴン・ワインバーグはこれを、部屋でラジオを聴くことになぞらえている。部屋には方々から届く何百もの電波が満ち満ちているが、ラジオのダイヤルはひとつの周波数にだけ合わせられている。言い方を変えれば、ラジオはほかのすべての局とは「干渉性を失って」いることになる(干渉性とは、レーザー光線のように、すべての波が完全に同期して振動している状況を指す。干渉性の消失は、こうした波の位相がずれだして、振動が同期しなくなっている状況である)。ほかの周波数もすべて存在しているのに、ラジオがそれらを受信しないのは、ダイヤルを合わせたのと同じ周波数で振動していないからだ。そういうわけで干渉性を失っているのである。

同じように、死んでいると同時に生きている猫の波動関数も、時間が経つと干渉性が失われてしまう。これが意味するところは、かなり驚異的なものだ。あなたは自分の部屋で、恐竜や海賊、エイリアン、怪物の波と共存している。それでも、そんな量子空間の奇妙な住民と同じ空間にいることなど知らずにのほほんとしている。あなたの原子はもはやそれらと同期して振動していないからだ。このような並行宇宙は、どこか遠いおとぎの国に存在するのではない。あなたの部屋に存在しているのだ。

こうしたパラレルワールドのひとつに入ることを、「量子飛躍」または「スライド」といい、SFのトリックとしてよく使われる。並行宇宙に入るには、そこへ量子飛躍しなければならない(以前、人々が並行宇宙を行き来する作品として、『スライダーズ』というテレビシリーズまであった。この話は、青年がある本を読むところから始まる。その本がなんと拙著『超空間』(稲垣省五訳、翔泳社一なのだが、この話の背景にある物理学については、私は責任を負わない)。

実際には、別の宇宙に飛躍するのはそう簡単なことではない。博士課程の学生に出すことのある問題のひとつに、レンガの壁を通り抜けて反対側に着く確率を計算させるというものがある。その結果には思わずひるんでしまう。レンガの壁を量子飛躍やスライドで通り抜けるには、宇宙の寿命より長く待たなければならないだろう。
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心の未来 哲学的な問題

最後に、心の秘密を解き明かすにあたって科学は度を越してしまい、解明が非人間的で、人間の品位を落とすものになった、と主張している批評家もいる。何もかもが少数の神経回路を活性化する少数の神経伝達物質に還元されるのなら、新しいものを発見したり、新しいスキルを身につけたり、のんびり休暇を楽しんだりするのを、なぜわざわざ喜ぶのだろうか?

言い換えれば、天文学がわれわれを、冷酷な宇宙に浮かぶ微々たる塵のかけらに還元したのとまったく同じように、神経科学はわれわれを、神経回路を流れる電気信号に還元してしまったということになる。だが、本当にそうだろうか?

本書は、科学における何より大きなふたつの謎に焦点を当てて、議論を始めた。心と宇宙だ。このふたつは、歴史や物語に共通点があるだけでなく、哲学にも、ひょっとしたら運命にさえ、共通点があるのではないか。科学は、持てる力をフルに使って、ブラックホールの中心を覗き込んだり、遠くの惑星に着陸したりしながら、心と宇宙にかんするふたつの包括的な哲理を生み出した。コペルニクス原理と人間原理である。どちらも既知の科学といっさい矛盾しないが、内容は正反対だ。

第一の大きな哲理、コペルニクス原理は、四〇〇年以上前に望遠鏡の発明とともに生まれた。この原理は、人類には特権的な地位などないとするものだ。この一見単純に思える考えが、数千年にわたり大切にされてきた神話や確立されている哲学を覆した。

聖書の話でアダムとイヴが知恵の実をかじってエデンの園を追放されて以降、人類は屈辱的にもどんどん特権的地位から引きずり下ろされていった。まず、ガリレオの望遠鏡によって、地球が太陽系の中心なのではなく、太陽が中心なのだということがはっきり示された。このイメージは次に、太陽系が、天の川銀河の中心から約三万光年の場所を回っている小さな点にすぎないとわかって覆された。そして一九二〇年代、エドウイン・ハッブルは銀河が数多く存在することを発見した。宇宙は突如として、何十億倍も広くなったのだ。現在ではハッブル宇宙望遠鏡によって、可視宇宙に最大一〇〇〇億個もの銀河が存在することが判明している。われわれのいる天の川銀河は、はるかに広大な宇宙の舞台では、針の先ほどの点になってしまった。

もっと最近の宇宙論では、宇宙における人類の地位はさらに下がっている。インフレーション宇宙論によると、一〇〇〇億個の銀河を抱えるわれわれの可視宇宙は、インフレーションによってはるかに遠くにまで広がった宇宙のなかでは、針を刺してできた穴ほどの点でしかない。インフレーションで広がった宇宙は非常に大きいため、遠くの領域の光はまだほとんどわれわれのもとへ届いていないのだ。そこには、望遠鏡で見ることもできず、光より速く進めないわれわれには訪れることもできない、広大な空間がある。そして「ひも理論」(私の専門分野)が正しければ、この宇宙全体までもが、一一次元の超空間のなかでほかのいくつもの宇宙と共存していることになる。つまり、三次元空間すら絶対的なものではないのだ。物理現象の真の舞台は、浮遊する泡宇宙でいっぱいの多元宇宙(マルチバース)なのである。

SF作家のダグラス・アダムスは、『宇宙の果てのレストラン』(風見潤訳、新潮社など)で総合認識渦動化装置なるものを考案し、このように自分の存在が引きずり下ろされつづける感覚を端的に示そうとした。この装置は、どんなにまともな人間も発狂させてしまう。装置の小部屋に入ると、見わたすかぎり、宇宙全体の巨大な地図が広がっている。そして地図上に小さな、ほとんど見えないぐらいの矢印があって、「あなたはここ」と書いてあるのだ。

したがって、コペルニクスの原理によれば、われわれは星々のあいだをあてどなく漂う、微々たる宇宙のかけらにすぎない。だがその一方、最新の宇宙のデータはどれも、もうひとつの理論と一致している。人間原理という正反対の哲理だ。

この原理は、宇宙は生命に適合しているというものである。ここでもまた、この一見単純に思える文に深い意味が含まれている。一方では、宇宙に生命が存在するということに異論の余地はない。しかし、生命の存在を可能にするには、明らかに宇宙に存在する力が絶妙に調整されていなければならない。物理学者のフリーマン・ダイソンはかつてこう言った。「宇宙はわれわれの登場を知っていたかのように見える」

たとえば、核力がもう少し強かったら、太陽は何十億年も前に燃え尽きたはずだから、DNAが出現する暇はなかっただろう。逆に核力がもう少し弱ければ、太陽はそもそも点火されず、やはりわれわれは存在してはいまい。

同様に、重力がもっと強かったら、宇宙は数十億年前にビッグクランチを起こし、われわれはみな焼け死んでいたはずだ。反対に重力がもう少し弱ければ、宇宙は急激に膨張してビッグフリーズに至り、われわれはみな凍え死んでいただろう。

このような微調整は、身体の一個一個の原子にまで及んでいる。物理学では、われわれは星屑でできている、身のまわりにある原子はすべて恒星の熱で作られた、などと言われる。われわれは文字どおり星の子どもなのだ。

しかし、水素を燃やして、われわれの体を構成するもっと重い元素を作り出す核反応は、きわめて複雑なので、いくつもの段階で失敗していた可能性がある。もしそうなら、われわれの体を構成する重い元素はできず、DNAや生命を形作る原子が存在することはなかっただろう。

言い換えれば、生命は貴重であり、奇跡なのだ。

微調整すべきパラメータがあまりにも多いので、これは偶然の一致ではないと主張する人もいる。そこで弱いタイプの人間原理は、「生命が存在するということは、宇宙の物理的パラメータはきわめて厳密に決定されていなければならない」と説明している。強いタイプの人間原理は、さらに踏み込んで、神あるいはなんらかの設計者が、生命が存在できるのに「ちょうどよい」宇宙を作ったのでなければならないと言っている。
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