未唯への手紙

未唯への手紙

デカルトの情念論

2015年03月30日 | 2.数学
『アランの情念論』より

デカルトの『情念論』はアランが自己の思想を語る際に参照し続けた著作であり、アラン自身の情念論に融合している。しかしのちに見るように、アランはデカルトの学説をすべてそのままのかたちで受容したわけではなかった。ここではデカルトの学説がフランスの情念論の歴史的展開に果たした役割を確認するに留め、デカルトによる情念の定義と動物精気論に立ち入っておくことにしよう。

デカルトは『情念論』の第二七項で情念を次のように定義する。

 動物精気の何らかの運動によって引き起こされ、維持され、強化され、我々がとくに魂に関係づけるような魂の知覚、感覚、動揺。

この定義はデカルトの心身二元論、心身の合一、知覚認識における動物精気論の役割を前提としている。思考実体としての魂と延長実体としての物体をデカルトが区別したことはよく知られている。ところで、情念を論ずる際に両者の間での能動と受動の区別が重視される。能動と受動の区別は相対的であることをデカルトは説明す起こること、あるいは再起することを、哲学者たちは一般的に、それが到来する主体から見れば受動と、またそれを到来させる主体から見て能動と呼ぶことを私はまず考慮する。したがって、能動者と受動者は著しく異なることが多いが、能動と受動はそれらを関係づけることのできる二つの主体が異なるものだという理由により二つの名を持つ同一のものである。

この区別の相対性を心身の区別に適用すると、魂にとって受動であるものは身体において能動であると言うことができる(第二項)。すなわち、

 ・魂の能動は身体の受動である。

 ・身体の能動は魂の受動である。

 ・情念とは魂の受動のことである。

このような情念の概念が成り立つ前提としてデカルトは心身の合一を認める。魂は全体的に身体に結合しており(第三〇項)、一方から他方へと働きかけることができる。双方の働きかけを可能にするのが動物精気である。動物精気は血液が変化して微細な粒状になったもので、血管や神経中にくまなく行き渡っているとされる。この微粒子が身体の内で運動し、「魂が直接的に働きかける身体の部位」である「脳中の小さな腺」(松果腺)に接触して印象を伝える(第三一項)。あるいは逆に松果腺から精気が噴射されて特定の神経を動かす(第三四、三五、三六項)。前者の場合が知覚、後者の場合が随意運動に対応する。こうした認識論によれば、情念は松果腺に衝突する精気が形成した印象を魂が認識することによって起こる。この意味で情念は知覚の一種であり、精気の粒子を能動的な作用の主体とする精神の受動である。

しかし情念を感ずる人にとって情念の原因は魂であるように思われる。情念は外部の対象の知覚とは異なり、その原因を関係づけるべき対象が魂以外に見当たらないように思われる(第二五項)。これが情念の特徴であるが、情念の実際の原因が動物精気の運動であるならば、情念についての上記の観念は情念の原因についての判断の誤りから生じていると言うことができよう。

以上見てきたように、デカルトにおいて情念とは脳中の松果腺を「魂の主要な座」とした魂の受動、身体の能動であり、その実際の原因は動物精気の運動であるが、原因を私たちが自己の魂へ関係づけることによって成立する。

後世との連続性を考えるうえでデカルトの情念概念についてもう一つ注目されてよいことに情念と病との関わりがある。一部の情念は病の原因になるとデカルトは考えていた。デカルトと文通していたエリーザべト王妃が「空咳を伴う微熱」に悩まされていたことを知り、次のような診断を書き送った。微熱の最もありふれた原因は悲しみです。

エリーザベトの父であるボヘミア王は王位を奪われ、一家は亡命中であった。こうした状況が病の原因であるとデカルトは考えた。デカルトが後に『情念論』で基本情念のうちに数えた「悲しみ」は、社会的状況の認知から生まれ、微熱という身体症状として表れていた。

アランがデカルトの『情念論』から学んだのは、魂の受動としての情念観であり、身体運動にその生成を見ることであり、またデカルトの「最後の思想」とアランが呼んだジェネロジテの思想であった。アランの著作を読めば一目瞭然であるこれらの遺産に加えて、心と体の全体的な病としての情念観をアランはデカルトから受け継いだように思われる。アランにとって、激しい情念に駆られた人は、狂気に駆られた人とほぼ同義語であった。狂気が治療可能なものであるならば、治療方法は精神的かつ身体的なアプローチによらなければならない。デカルトの情念論から派生するこの精神医学は、次節で見るように一八世紀フランスで準備され、一九世紀初頭にピネル(乎吾17乱)らが展開したいわゆる道徳療法に受け継がれるが、一九世紀後半には神経生理学に立脚した精神医学の台頭により忘れ去られていく。アランの狂気観が道徳療法のそれに似ていることは偶然ではない。フランスにおける情念論の系譜を辿り直してみると、デカルト的伝統において両者は確かに縁戚関係にあることが理解されるのである。

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1 コメント

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私の情念 (魂と情念)
2020-03-01 18:04:50
≪…基本情念のうちに数えた「悲しみ」は、社会的状況の認知から生まれ…≫との情念の事例がSNSに漂流している。

『私の情念』は、魂の普遍に触れているのか? 
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