国民国家の揺らぎ
わたしたちの生活はさまざまな制度によって支えられてきた。これらの制度の根底には,西欧近代が生み出した理念がある。すなわち,「自由」で「平等」な「個人」,自分自身で考え決定し行動して,その結果に責任を負う「個人」と,このような個人を主体とする「人権」という理念である。そしてこの理念は「国民国家」によって現実化されると考えられてきた。国家は国境で領域(領土)を画定し,国籍で成員(国民)を決定して,原則的にこの枠内で個人の安全と生活を守るのである。憲法をはじめとして,国家の諸制度はこのような考え方からできている。さまざまな束縛的関係から解放されて自由になった主体的な「個人」と領域性をもった「国民国家」,これこそが制度構築の大前提になってきたのである。
ところが,今日,国民国家は揺らいでいる。経済・政治・文化・社会・メディアのグローバル化によって世界はますます相互依存的に結びつき,均質化し一元化しつつある。先進諸国はその恩恵を享受しているが,その一方で,さまざまな問題にも直面している。グローバル化にともない国境の壁はずいぶん低くなり,多種多様なものが国境を越えて出入りするようになった。そのために,領域性とそのなかでの均質性とを前提としてきた国民国家は,かってのようには機能できなくなっている。例えば,次のような事態が生じている。経済的合理性・効率性の徹底的な追求とグローバルな市場経済化が世界規模で競争を激化させ,さまざまな分野で標準化を進めてきた。その結果,どの国でも,それまで独自の制度によって保障してきた生活のための諸条件(雇用条件,社会保障,年金制度など)が維持し難くなり,社会生活の細部まで管理と保護の網の目を張りめぐらしてきた国家は大きく後退しつつある。いまや多くの人々が生活を脅かされ不安を感じているが,国家はうまく対処できていない。
グローバル化という現象は国民国家というシステムを揺るがし,その役割を変化させ,さらには,同質的な国民と領域性をもった国家とを前提とする発想そのものの見直しも促しているのである。
孤立と不安
国民国家の揺らぎと人々の不安はグローバル化だけが原因ではない。問題の根底には西欧近代,とりわけ,わたしたちが生きている後期近代のふたつの側面に関わる問題がある。すなわち,「個人」とその自由とを何よりも尊重し,すべてを個人の観点からとらえようとする個人主義の傾向,つまり個人化と,あらゆることを徹底的な批判的検証の対象とする傾向である。
今日では,「個人の自由」が徹底して追求され,個人化が著しく進んでいる。ところが,この個人化の行き過ぎが新たな問題状況を生んでいる。物質的な生活水準が高まり,社会保障など制度的な生活保障が発展したことで集団的制約からの解放が可能になって,人々はかつてのように強固な集団的な枠組みや規範に縛られることを好まなくなった(集団の優越性の衰退)。集団的なものとのつながりを断ち切ってこそ自由になれると考えられたのである。しかし,社会が流動化するなかで,この傾向は,社会的に発生する失業などの問題を集団や社会の問題としてではなく,何よりも個人的な問題として受けとめるよう促し,人々を不安定な状況に置いている。集団的なものに守られなくなって,社会的なリスクに直接さらされ,自分ひとりで何とかしなければならないと感じるところまで人々は追い込まれているのである。人に頼らず,何もかも自分でしなければならないとか,問題があれば「自分のせいだ,自分で何とかしなければ」という感覚である。
また,すべてを批判的に検証しようとする傾向は,個人化と同じように近代を特徴づける特質のひとつであるが,近代における強い確信の源,変化を求めるエネルギーの源であった諸々の理念や価値,それに基づく国家の諸制度さえも徹底的な批判的検証の対象とした。こうして,近代の理念や価値は初期の神秘性・絶対性を失った(「近代の徹底化」,「近代の非ユートピア化」)。依拠すべき確かなものが何もない,不安な状態を生み出したのである。
したがって,後期近代は個人を集団的・社会的制約から解放し,自由をもたらし、選択肢を増大させたが,他方で,近代を支えてきた諸理念や諸価値,国家の諸制度を揺さぶり,個人を社会的な絆を欠いた不確実で不安定な状態においてしまったのである。
わたしたちの生活はさまざまな制度によって支えられてきた。これらの制度の根底には,西欧近代が生み出した理念がある。すなわち,「自由」で「平等」な「個人」,自分自身で考え決定し行動して,その結果に責任を負う「個人」と,このような個人を主体とする「人権」という理念である。そしてこの理念は「国民国家」によって現実化されると考えられてきた。国家は国境で領域(領土)を画定し,国籍で成員(国民)を決定して,原則的にこの枠内で個人の安全と生活を守るのである。憲法をはじめとして,国家の諸制度はこのような考え方からできている。さまざまな束縛的関係から解放されて自由になった主体的な「個人」と領域性をもった「国民国家」,これこそが制度構築の大前提になってきたのである。
ところが,今日,国民国家は揺らいでいる。経済・政治・文化・社会・メディアのグローバル化によって世界はますます相互依存的に結びつき,均質化し一元化しつつある。先進諸国はその恩恵を享受しているが,その一方で,さまざまな問題にも直面している。グローバル化にともない国境の壁はずいぶん低くなり,多種多様なものが国境を越えて出入りするようになった。そのために,領域性とそのなかでの均質性とを前提としてきた国民国家は,かってのようには機能できなくなっている。例えば,次のような事態が生じている。経済的合理性・効率性の徹底的な追求とグローバルな市場経済化が世界規模で競争を激化させ,さまざまな分野で標準化を進めてきた。その結果,どの国でも,それまで独自の制度によって保障してきた生活のための諸条件(雇用条件,社会保障,年金制度など)が維持し難くなり,社会生活の細部まで管理と保護の網の目を張りめぐらしてきた国家は大きく後退しつつある。いまや多くの人々が生活を脅かされ不安を感じているが,国家はうまく対処できていない。
グローバル化という現象は国民国家というシステムを揺るがし,その役割を変化させ,さらには,同質的な国民と領域性をもった国家とを前提とする発想そのものの見直しも促しているのである。
孤立と不安
国民国家の揺らぎと人々の不安はグローバル化だけが原因ではない。問題の根底には西欧近代,とりわけ,わたしたちが生きている後期近代のふたつの側面に関わる問題がある。すなわち,「個人」とその自由とを何よりも尊重し,すべてを個人の観点からとらえようとする個人主義の傾向,つまり個人化と,あらゆることを徹底的な批判的検証の対象とする傾向である。
今日では,「個人の自由」が徹底して追求され,個人化が著しく進んでいる。ところが,この個人化の行き過ぎが新たな問題状況を生んでいる。物質的な生活水準が高まり,社会保障など制度的な生活保障が発展したことで集団的制約からの解放が可能になって,人々はかつてのように強固な集団的な枠組みや規範に縛られることを好まなくなった(集団の優越性の衰退)。集団的なものとのつながりを断ち切ってこそ自由になれると考えられたのである。しかし,社会が流動化するなかで,この傾向は,社会的に発生する失業などの問題を集団や社会の問題としてではなく,何よりも個人的な問題として受けとめるよう促し,人々を不安定な状況に置いている。集団的なものに守られなくなって,社会的なリスクに直接さらされ,自分ひとりで何とかしなければならないと感じるところまで人々は追い込まれているのである。人に頼らず,何もかも自分でしなければならないとか,問題があれば「自分のせいだ,自分で何とかしなければ」という感覚である。
また,すべてを批判的に検証しようとする傾向は,個人化と同じように近代を特徴づける特質のひとつであるが,近代における強い確信の源,変化を求めるエネルギーの源であった諸々の理念や価値,それに基づく国家の諸制度さえも徹底的な批判的検証の対象とした。こうして,近代の理念や価値は初期の神秘性・絶対性を失った(「近代の徹底化」,「近代の非ユートピア化」)。依拠すべき確かなものが何もない,不安な状態を生み出したのである。
したがって,後期近代は個人を集団的・社会的制約から解放し,自由をもたらし、選択肢を増大させたが,他方で,近代を支えてきた諸理念や諸価値,国家の諸制度を揺さぶり,個人を社会的な絆を欠いた不確実で不安定な状態においてしまったのである。