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ハイデガーの哲学--『存在と時間』とは?

134.9ナカ『現代ドイツ思想講座』より

ハイデガーはご存知のように、『存在と時間』(一九二七)で、「現存在 Dasein」と「存在 Sein」の関係をめぐる分析を行ない、それによって当時のドイツの若者に大きな影響を与えたとされています。漢字で「現存在」と書くと、いかにも概念概念した硬い感じになりますが、ドイツ語の〈Dasein)は、日常的にも使われる言葉で、「そこにあること」、あるいは単に「あること」「存在すること」という意味です。「存在すること」と訳してしまうと、「存在」を意味する〈Sein〉と区別が付かないので、「現存在」という硬い訳語を使っているわけです。

ドイツ語の授業のような話を少ししておきましょう。〈?F〉の頭文字の〈S〉を小文字で書いて、〈SF〉とすると、英語のF動詞に相当する動詞になります。「~がある」とか「~である」という意味です。〈Sein〉は、それを名詞化した言葉です。英語だと〈Being〉に当たります。

〈Dasein〉の〈da〉というのは、日本語では説明しにくいですが、英語の〈there〉に相当すると思って下さい。「あそこ」という意味ではなくて、〈There is an apple on the table.)とか、〈Is somebody there?)というような場合の、〈there〉です。強いて言うと、「現にある」とか、「そこにある」と言う時の「現に」とか「そこ」に当たる言葉です。「現に」というのは、「今此処に」と言い換えることもできますね。そういう意味合いを持っている〈da〉と、〈Sein〉が合わさって、「現にあること」とか「そこにあること」という意味の〈Dasein)という言葉が出来上がっているわけです。

〈Sein〉も〈Dasein)も、わりと普通に使われる言葉ですが、いろいろと哲学的にひねった解釈を加えることができそうですね。例えば、〈Sein〉それ自体は無規定で曖昧模糊としているけど、〈手(そこに)〉という限定を付けてやると、規定(限定)された存在になる、とか。その場合の「規定された」、というのは、具体的な内容を持ち、概念的に把握することが可能になるということです。ヘーゲルは、〈Dasein)を、弁証法的な過程を通して規定された「存在」という意味で使っています。ヘーゲル用語としての〈Dasein)は、「定在」とか「定有」と訳されます。

ハイデガーの場合、〈手〉に、「今、此処に(有る)」という意味を読み込んで使っています。「今、此処」性の究極の形態は、「私」自身です。私自身が、「今、此処に=現に」あるというのは、最も確実なことでしょう。大雑把に言えば、「現存在-私」、と考えてもいいでしょう。

それだったら、普通の哲学のように、「自我 das Ich」と言ってもよさそうなものですが、敢えて「自我」と言わないところがミソです。「自我」と言ってしまうと、「私」という〝もの〟が実在していることが、前提になっているかのような話になります。デカルト以来の近代哲学では、「我、有り」という命題から出発しますが、ハイデガーは、「私」とは言わないで、「現にあること=現存在」という言い方をし、「あること」という部分に意味を持たせようとします。「(私が)現に有る」と言う時の「有る」とは、そもそもどういうことなのか? デカルト以降の哲学は、「有ること=存在」の意味を深く掘り下げて考えず、「私」が存在することを自明の理としてきたけど、「存在」の意味を堀り下げて考えてこなかったので、「私」と「存在」との繋がりが分からなくなり、あたかも、「私」がこの世界の中に単独で〝ある〟かのような、独我論的な話になってしまう。ハイデガーは、「現存在」が「存在」するとはどういうことか、という問いを起点として、「存在」の意味の解明を行なおうとしたわけです。

ハイデガーに言わせると、「現存在」というのは、自分自身の「存在」について問いを発するという意味で、特別な「存在者 das Seiende」です。特権的な地位にある「現存在」には、自らの「存在」について問うことを通して、「存在」それ自体を探求するよう定められている……。こういう言い方をすると、いかにも意味ありげに聞こえますね。

「存在者」というのは文字通り、個々の「存在しているもの」のことです。英語だと、「存在している(個々の)もの」も、それら個々の存在者の根底に〝ある〟「存在」それ自体も、同じ〈being〉という言葉になってしまうので区別しにくい。ドイツ語も基本的にはそうなのですが、〈sein〉の現在分詞形である〈seiened〉を名詞化した、〈das Seiende)という言葉が、哲学用語として一応あります。ハイデガーは、その〈das Seiende〉と、〈Sein〉を対置する表現を多用して、個々の「存在者」の単なる寄せ集めではない、「存在」それ自体が〝ある〟ことを強調します。

「存在」それ自体というと、抽象的でピンと来にくいかもしれませんが、「存在」というのは、神に繋がる言葉です。旧約聖書の出エジプト記で、神がモーゼに対して、「私は有って有るもの」だと宣言したという話が出てくるのは有名ですね。他の何かによって、「有らしめられている」のではなくて、神自身が神の存在の根拠になっている、という話です。英語だと、〈I Am Then I Am.)もしくは〈I Am the Being.)と表現します。ドイツ語だと、〈Ich Bin, der ich Bin.)とか〈Ich Bin, was ich Bin.)などとなります。ドイツ人が、〈Sein〉そのものについて問う、というような表現を見ると、すぐに神を連想するはずです。ただハイデガーは、「神」という言葉はなかなか使いません。「神」と言ってしまうと、キリスト教などの、特定の神のイメージに限定してしまうことになるので、慎重に避けているわけです。

ハイデガーは、日常的に使われている言葉をいろいろいじって、変形・造語したり、意味の深読みをしたりしながら、独自の哲学を展開するのを得意とする人です。言葉から「哲学」を引き出す達人であるわけですが、悪く言えば、ドイツ語じゃないとできないような議論をこじつけているように見えなくもない。

ただ、ダテに言葉遊びをしているわけでもありません。「私=自我」を、「現存在」と言い換えることによって、哲学的思考の軸がシフトします。分かりやすく言うと、それまでの近代哲学では、世界の中心に「私」が〝存在〟していて、その「私」が様々な「私」と同じくらい確実に存在していると言えるかどうか曖昧な--対象を認識し、それらに働きかけ、関係を持つという形で展開していたわけです。その『私』の代わりに「現存在」と言うことで、「私」自身ではなく、「私」を「有らしめている」もの、「存在」に魚点をシフトさせ、自我中心ではない形で、哲学を展開しようとしたわけです。「存在」への遡及という形で、自我中心主義から離脱しようとするハイデガーの戦略は、不安の中で、「私自身の内に、私の生きる意味を見出すことはできない。私の生の意味を教えてほしい、与えてほしい」、という〝実存的〟な願望を抱いているドイツ人たちの心情にフィットし、大きな影響を発揮することになったわけです。

『存在と時間』の論理展開はかなり複雑で、デカルト、カントだけでなく、現象学などの基礎知識も必要なので、そんなに多くの人がちゃんと理解できたとは思えませんが、「現存在」の自己自身の「存在」についての問いかけとか、「存在」それ自体が問題である、というようなキーセンテンス的な部分は、文学プラス哲学的な表現にある程度慣れている人たちには、ピンと来やすかったのではないかと思います。哲学書って、そういうところがあるでしょう。全体の論理構造が難しいし、ヘンテコな用語も多いので、なかなか全体像が頭に入ってこないけど、何かインスパイアしてくれるような、文学的で高尚な感じのキーセンスが随所に出てくると、そこだけで分かった気になれる。分からなさと、かっこよさそうな専門用語のバランスが絶妙なのが、ベストセラーになるわけです。
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