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豊田市図書館の30冊

3月19日 豊田市図書館の5冊

 492.92『精神看護技術』看護実践のための根拠がわかる

 007.3『ライフログのすすめ』人生の「すべて」をデジタルに記録する!

 304『森鴎外 椋鳥通信(中)』

 519.8『地球白書2012-13』持続可能で心豊かな社会経済を目指して

 104『暮らしの哲学』池田晶子 「宇宙の旅人」の語源の確認 2007年2月23日、没。その直前の本

3月20日 豊田市図書館の25冊

 238.05『クリミア戦争 上』

 238.05『クリミア戦争 下』

 159『【超図解】7つの習慣』基本と活用法が1時間でわかる本

 188.52『空海はいかにして空海となったか』

 167『「イスラム国」殺戮の論理』血で血を洗う

 159『運が味方する笑顔とありがとうの法則』世界一簡単な方法で 仕事が変わる 人生が変わる

 380.1『柳田国男の歴史社会学』続・読書空間の近代

 376.48『沈黙の国から来た若者たち』日本の文化とコミュニケーション力

 335.89『NPOの教科書』初歩的な疑問から答える

 336『ハーバード流「気づく」技術』

 377.5『博士になろう!』理系のための研究生活ガイド

 233『大英帝国衰亡史』

 302.74『ミクロネシアを知るための60章』

 379.04『地域学習の創造』地域再生への学を拓く

 294.34『彩りの街をめぐる旅 モロッコへ』

 159.8『座右の銘2000』必ず感動する言葉が見つかる

 219.9『近代日本の「南進」と沖縄』』

 104『幸福に死ぬための哲学 池田晶子の言葉』

 159『自信をつける心理学』緊張。イライラ、不安が消える

 123.84『孟子』

 133.9『プラグマティズム入門講義』

 289.3『アメリカン・スナイパー』

 326.34『入門 犯罪心理学』

 335.13『ジェフ・ベゾス ライブルを潰す仕事術』企業・業界・組織・人、誰もができる悪の技術

 143.1『大切にされる女 報われない女』
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池田晶子 あなたの親は親ではない

104イケ『暮らしの哲学』070909 池田晶子 ⇒ 「宇宙の旅人」の源流

 先般、父親が亡くなったのですが、闘病が長かったこともあり、唐突感はありませんでした。本人も周囲も、気持はさほど遠くはないだろう「そちら」へ常から向いていたので、その意味では現代的な大往生だったと思われます。

 私自身、予想していたよりも、気持に変化が認められない。悲しい、淋しい、悔やまれるといった否定的な感情は(叱られそうですが)、愛犬を失った時よりよほど少ない。たぶん、順番が順当ということで納得しているのだと思います。

 冷たくなった父の手を握り、出てくる言葉は素直に「ありがとう」でした。どうしてかそれは「さようなら」ではない。「さようなら」と言えばおしまいみたいですが、なぜかそれはおしまいの感覚ではなく、これまでへの感謝なんですね。おしまいと言えば確かにおしまいなのですが、それがさほど重大なことだとは感じられない。「もう会えない」というより、「またいつか」、ひとまずこれまで「ありがとう」。

 なぜ感謝なのか。改めて考えるに意外なことで、というのは、私は父にとくに「何かをしてもらった」という記憶がない。特別な教育とか、強い薫陶とか、与えられたわけでもない。事実としてそうだし、実感としても子供の時からそんな感じで、私はひたすら自分で自分になってきたという感じしかしないのです。むろん彼は普通の父親として私を養育してくれたし、たぶん普通の父親よりは優しく子供思いでしたが、私にとってはその「子供思い」が、むしろうっとうしくもあった。まあこれも人並みの範囲でしょうが、心配されたり、行動を制限されるのが邪魔くさかっか。だから彼の生前、彼に感謝の情を覚えたことなんて、じつはなかったんですよ。

 なのになぜ、死んだ後のこの感謝なのか。するとこれは、生前あれやこれやをしてもらった、育ててもらった、愛してもらった、などへの感謝ではないようです。いや逆に、今でも腹が立つこと、いっぱいあります。思い出しては腹が立つ。この感情は彼が死んでも変わっていない。その意味では彼のその所行を私は未だ許していないと言える。しかし、許せなくとも、許せないまま、それでもいいんですよ。なんというか、とにかく彼はそこに居た、そのことだけでもう全部いいじゃないか、そんな感じなんですね。

 たまたま彼は父であり、たまたま私は娘だった。なぜか二人は親子としてしばしの時間を共にした。このことがこのことだけで、ありがたいこと、奇跡的なことだと感じられるので、この出会いの奇跡に思いが及ぶと、得難いなあ、在り難いなあ、ありがとう。と、素直にこうなるようです。

 たぶん、彼の生きているうちに面と向かって、「ありがとう」と言えていたら、もっとよかった。でも、そんなことできるようなら、人はもう聖人の域ですよ。聖人ならぬ凡俗の我々は、お互いに相手が生きているうちは、どうにも素直になれません。ああされた、こうしてくれなかった、あれやこれやにこだわって、相手がそこに居るだけでありがたいなんて、平穏な気持にはなかなかなれない。彼が生きていたうちは、彼の所行について力いっぱい腹を立てていたものでした。でも、おかしいじゃないですか、お父さんが悪かったんだから、私は絶対謝らないからね、この気持は今も寸毫動いていないのですが、じじつ危篤の彼の耳元で彼の手を握り私はそう言ったのですが、この気持自体、なんか今は、愛おしく感じるんですよ。彼が居たからこその怒りじゃないか。

 あえて言いますが、親子の問で素直になれないというのは、たぶんに親のせいであります。親が、自分は子供の親であり、子供は自分の子供なのだと思い込んでいるからです。何を当たり前なことを言っているかというと、「出会いの奇跡」の奇跡性を打ち消してしまうのは、親が子を自分の製作、だから自分の所有なのだと錯覚しているからなのです。

 しかし、そんな馬鹿なことはないでしょう。子供が自分の製作だなんて、精子と卵子の結合によりひとつの生命が誕生するという摩訶不思議なプロセスは、自然が用意したものであって、まさか人間の技ではない。ましてや、ある精子とある卵子の結合としてのある生命がその人であるなんて、これこそ奇跡、どうしてそれが人間の親がそうしようとしてそうしたことなんかであるもんですか!

 そういう不思議に思いを致さず、自分がセックスをしたから子供は自分の製作であり、自分の腹から出たから子供は自分の所有である。ほとんどの親はそう思っています。これが子供には癩にさわるんですね。とくに、自分はたまたまここに生まれただけで、自分そのものは誰でもない、そういう存在の不思議に気づいている子供はなおさら、親に親のような顔をされたくないんですよ。

 私には子供がいないから、正確には言えないのですが、もし自分に子供が生まれたら、必ずこう感じると思います。「お前は誰だ。どこから来たんだ」。そして対等に接する態度をとります。

 そうではないでしょうか。我々、それぞれが寄る辺なき魂として、この無辺際の宇宙の中で、どこから来てどこへ行くのかを全然知らない。自分かある人格としてこの世に生存しているなんて理解不能の事態であって、なるほどたまたまある親の腹から生まれたけれども、その親だって本当は、自分が誰であるかを知らないわけです。それが、どういうわけだか、人はある人の腹の中に宿り、親子となる。数十年かの親子の縁を結ぶことになるのですが、その前後、無辺際の宇宙の中で、瓦いに互いが誰であるのか、完全に闇のうちに沈んでいます。つかのまの出会いの時間と、そして別れてどこへやら、これは本当に驚くべきことだとは思いませんか。

 だから奇跡だと、繰り返し私は言うのです。御縁は奇跡、人知を超えた出来事なのだと。

 彼が私の父親である必然性はあったのかなかったのか、人間である私にはわかりません。なのになぜか彼は今生では私の父親であった。だからそれは偶然なのです。一期には一会しかおりません。だから出会いは大切にしなくちゃなりません。だって、出会わなかったかもしれないのに出会ったんだから、やっぱりこれは凄いことじゃないですか!

 親をやってる皆さん、こういう感じ方をしてると、親子関係ははるかに味わい深いものになりますよ。不思議の御縁を大切にしましょう。いずれ我々、宇宙の旅人なんですから。
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池田晶子 好き嫌いとの付き合い方

104イケ『暮らしの哲学』070909 池田晶子

 「好きなものは好きだ」「嫌いなものは嫌いだ」としか人間は言えない。それ以上それを説明できない、理由を遡れない「好み」もしくは「趣味」の不思議について、前回は考えました。好みと趣味の不思議は、動物にすら観察される、ゆえに、この情動こそ人間と動物とを根底から衝き動かしているものだと言いました。

 しかし、「情動」と言うから、それは人間と動物に限られるように聞こえますが、どうもそれだけではなさそうだ。「好みのオス」「好みのメス」という原始的なレベルをさらに遡ると、原子レベルにすら、この「情動」は働いているのではないか。

 なぜ、水と油は合わないのでしょうか。なぜ「合わない」ということが起こるのでしょうか。逆に、水と塩ではなぜ合うのでしょうか。「合う」「合わない」はなぜ決まっているのでしょうか。

 科学的には、水の分子と油の分子、水の分子と塩の分子、それぞれの分子式がこうだから、だから「合う」「合わない」と言えましょう。しかし、「なぜ」、それはそういうことになっているのか。

 あるいは、さらにミクロの原子の世界で働いている力、ある原子とある原子の間で作用している引力と斥力、これ自体、そもそも何なのか。「引き寄せる」「斥ける」とは、好きと嫌い以外の何ものでもないと、私には見えます。

 その力は、そのままマクロの世界に働いているのも観察されます。「引力」、月と地球が引き合う力、「斥力」、互いに離れてゆく星雲同士、なんと、宇宙とは、壮大な好き嫌いのドラマではないのですか。

 鉄の魂は磁石の魂に恋していると言ったのは、ゲーテだったか、古代の哲人だったか忘れましたが、科学を超え、さらに「なぜ」を遡ってゆくと、世界の光景はどうしてもそういうふうに見えてくるんですね。世界すなわち宇宙とは、引き寄せ合い、斥け合う魂たち、すなわち宇宙的な諸力の混然たる運動性であるといった光景です。

 それで、我々人間を、とりあえずこの「魂」、宇宙的な諸力のある種の現われとしての魂と置いてみると、この好き嫌いの謎の形が、見えてくるように思います。「合う」魂、「合わない」魂とは、引力と斥力の関係ですね。当人には、どうしてそうなのかわかりません。「どういうわけか」、好きなものは、どうしても好きで、嫌いなものは、どうしても嫌いだ。「自分には」、これはどうしようもない。だって、気がついたら、そうとしか感じられない自分であったのだから。

 これを、「前世」の記憶から説明しようとする人もいます。ある種の嗜好とは、前世の経験による決定だという理解です。しかし、そのように理解しようとするまさにその理解が、その人の好みの理解だということを思い出しましょう。魂の何であるかなど、人間の理解を超えています。人間を「人間」として表象するのでなければ、魂を個人として特定するのは不可能です。しかし魂とはそれ以前に、宇宙的混沌における何らかの作用みたいなものでしょう。そっちの側から見てみると、「前世」による理解は、あくまでも物語です。

 私はむしろ、この「好き嫌い」の説明不能性を、物理的初期条件に似たものと解します。初期条件、すなわち、(何らかの理由で)この宇宙が存在した刹那、このようでなくともよかったのに、このようであったという、まさにそれが嗜好です。どうしてそうなのか。宇宙白身にも説明不能でしょう。だって、どっちでもよかったんだから。その意味で、好みというのは偶然のものです。偶然のものだから説明できないのだ。

 いずれにせよ、好みは個人的にして主観的なものだという理解がいかに浅いか、おわかりでしょう。好みは個人のものではない。個人なんてものをはるかに超えて、宇宙へ通じる深い謎です。宇宙生成の動因とも言うべき、不可知の力なのですよ。

 そういう視線でこの人間社会を見てみると、好きの嫌いの、引き合ったり斥け合ったりしている魂の光景は、それなりに面白く見えてきます。水と油とは、どうやったって合わないのです。好きなものは言われなくても好きだし、嫌いなものは好きになれと言われても無理だ。それならそれで、人は自分に正直になってよろしいのではないのでしょうか。だってそれは、個人の責任ではどうしようもないのだもの。

 私もかつては、根性が悪い人間というのがどうしても好きになれず、それはよくないのではないのかと思っていたことがありました。心性の卑しい人間などは存在しない、それは相対的な判断であって、本来的な人間として遍く平等に感じなければならないと。

 それは原理的にはその通りなのですが、生理的には生身の人間には、やっぱり無理なんですよ。そしてまたじじつ、心が卑しく貧しい人間というのは、やっぱり存在するんですよ。

 でも、そんなことは、じつは、ピーマンというものがこの世に存在する。そしてピーマンが嫌いな人はピーマンが嫌いだ。でも嫌いなら食べなければいいんだ。これと同じことだと気がついてから、楽になりましたね。なるほど存在することは認める、でも私は関知しないと、こういう態度でいいんですね。嫌いを嫌いと排斥せずに、共存することが可能になります。無理はやっぱりよくありません。嫌いなものを無理して食べると、きっとお腹を壊します。

 好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとは、まるで子供のわがままみたいですが、とりあえず素直にこれに従ってゆくという手はあるでしょう。ただしこの場合大事なのは、あくまでも「素直に」ということであって、素直に好みに従っているように自分では思っていても、じつは素直でない場合が多い。人は、利害や損得と好き嫌いとを混同しやすいのです。自分の得になるものが好きで、損になるものが嫌いだと思うのは、素直な情動のようでいて、そうではない。これは単なる計算です。

 お金持ちが好きで、貧乏人は嫌いだ。そういう好みで、お金はあるけど心は貧しく卑しい人と付き合っていると、その人の心も貧しく卑しいものになります。これは、その人の魂の健康にとっては悪いことですね。だからそういう計算は間違いのもと、好き嫌いはそういうこの世の地平を超えているという原点に、常に立ち戻るようにしましょう。

 これ以上は遡れないという自分の嗜好、つまり原点に気づいた時こそ、人は、自分の魂の求めに従い、自ずからの人生を送ることができるようになるのでしょう。
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新刊書争奪

3時前に豊田市図書館についてしまった。5階の新刊書争いに参画して、5階だけで、24冊を充当。昨日借りた、5冊と予約本が一冊なので、これで満杯です。3階と4階は明日です。
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