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ヨーロッパ・アメリカのイスラーム

『よくわかる宗教学』より

①現代世界のムスリム人口

 21世紀の現在、イスラームはもはや中東に特有の宗教ではない。ムスリムの過半数がアジア太平洋地域に居住し、ムスリム人口の上位4ヶ国はインドネシア、パキスタン、インド、バングラデシュといずれも南・東南アジアの国々である。同時に長らく非イスラーム圏の中心であったヨーロッパ・アメリカでもムスリムの人口増加とともにその社会・文化・政治的な存在感が増している。ピュー・リサーチ・センターの調査によると、2010年には世界のムスリム人口の3%がヨーロッパ・アメリカに居住しており、西欧ではキリスト教に次いで第2の、北米ではキリスト教、ユダヤ教に次ぐ第3の宗教となっている。

②西洋とイスラームの邂逅

 西洋とイスラームの大規模な接触は、イスラーム誕生時にさかのぼる。イスラームが勃興した7世紀には地中海地域に教父時代のキリスト教が存在し、またエチオピアのキリスト教国とも交流をもった。7~8世紀にイスラームの「大征服」が起きると、地中海地域のキリスト教圏は大きく後退した。11世紀末に、西欧諸国が十字軍による地中海東岸地域への遠征・植民活動を本格化させたのをきっかけにふたつの世界が衝突するようになった。この活動は、ローマ教皇の権威の下で13世紀末まで続いた。十字軍は対立だけではなく、西欧キリスト教(ローマ・カトリック)世界とイスラーム世界の文化的・学術的交流をももたらした。

 1453年、版図を拡大しつつあったオスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世は、イスラーム誕生以来国境を接していたビザンツ帝国(東ローマ)の首都コンスタンティノープルを征服し、帝国を滅亡させた。その後、第10代スルタンのスレイマン大帝の治下で最盛期を迎えるまで、その勢力範囲は北アフリカ、バルカン半島、中央アジアに向かって拡大し続けた。今日のヨーロッパのイスラーム地域(アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボなど)では、オスマン朝崩壊(1922年)後にもムスリムが多数派として残存している。

 一方、ヨーロッパの西端、イベリア半島ではイスラーム時代が8世紀にわたって続いた。しかし、カスティーリャ王国やアラゴン王国などのローマ・カトリック諸国がレコンキスタ(国土回復運動)を推し進め、1492年にはナスル朝下のグラナダを陥落し、イスラーム勢力は西欧から駆逐された。

③EUへ流入するムスリム労働者と新しいイスラーム   ’

 中世に濃厚な関係をもったキリスト教圏とイスラーム圏は。コンスタンティノープル陥落(ビザンツ帝国滅亡)以降近世に入り、領土をめぐって直接的な政治的・軍事的接触を繰り返してきた。最終的に軍事的な成功を収めたのは、ヨーロッパである。17世紀から19世紀にかけて、イべリア半島やオスマン帝国の版図のみならず、ほぼすべてのイスラーム圏は西洋列強に植民地化され、諸王朝は解体された。

 近現代に入り、ヨーロッパとイスラーム諸国の関係は、旧宗主国と旧植民地、先進国と発展途上国の関係となった。イスラーム諸国から多くのムスリム移民が、経済的な機会を求めて、ヨーロッパを目指した。外国人労働者およびその家族として多くのムスリム人口を抱える国にイギリス、オランダ、ドイツ、フランスなどがあり、イギリスは総人口の約3%がムスリムで、旧植民地の南アジアからの移民が中心を占めている。オランダでは総人口のおよそ6%を占め、旧植民地(インドネシア、スリナム)とトルコ、モロッコからの労働者が多い。ドイツでは総人口の約4%で、トルコ系移民が大半である。

 フランスは全人口の5~10%のムスリムがいると言われ、その大半はアルジェリアやモロッコからの労働者とその家族である。1980年代末から2000年代にかけて、公立学校において女子生徒がイスラーム風のスカーフを着用することを、ライシテ(世俗主義)の原則に反するものとして禁止したことから、「スカーフ問題」に発展し、大規模な文化摩擦が起こった。いずれの国でも労働者一家の定住化と第2世代の誕生に伴って、ホスト社会との間に社会・経済一文化的摩擦が避けがたくなっている。

 北米において、ムスリム人口は南アジアや中東からの移民によって増加するとともに、アフリカ系アメリカ人(黒人)が自己のルーツを祖先の宗教に求めて改宗するブラック・ナショナリズム運動が起こった。1930年にデトロイトにおいて結成された「ネーション・オブ・イスラーム」は、30年代にイライジャ・ムハンマド、50年代にマルコムXなどの活動によって拡大し,現在ではアメリカ最大のイスラーム組織になっている。

 1960年代後半からのニューエイジ運動などの中で、スーフィズムを通じてイスラームに改宗する白人改宗者も出始めた。2000年代以降には、9.11事件を契機に社会全体に「イスラモフォビア」が広がっている一方,アメリカ生まれでアメリカ育ちの、アメリカ文化以外をほぼ知らない新世代のボーン・ムスリムたちが、ほかのエスニックな出自をもつ若者たちと同じ社会に暮らしており、彼らにとってはイスラームを通じたポジティブな自己認識の模索が課題となっている。
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ヘーゲル歴史哲学 自由と平等のトレードオフ

『自由という牢獄』より 資本主義における格差問題

自由と平等のトレードオフ

 最も基本的なレベルから考え直してみよう。近代社会は、伝統社会にはなかった二つの価値を見出した。そのうちのひとつは、前節にも述べたように、個人の「自由」である。これと並んで近代が追求した価値は、個人の間の「平等」である。最初のうちは、両者の間に矛盾があるとは考えられていなかった。平等とは、もともと、自由のための平等、自由の平等だったからである。

 へーゲルの歴史哲学における有名なテーゼは、このアイデアを表現している。へーゲルの考えでは、世界史は、野蛮で勝手気ままな意志が訓練されて、普遍的で主体的な自由が、つまり平等な自由が実現されるまでの論理的過程である。この尺度にそって、歴史は、ひとりが自由であることが認識されている状態(東洋的専政)から、特定の人々が自由であることが認識されている状態(ギリシア・ローマ世界)を経て、万人が自由であることが、つまりすべての人々が平等に自由であることが認識されている状態(ゲルマン世界≒西洋)へと至った、とへーゲルは論ずる。露骨なオリエンタリズムが貫かれているが、今日の観点からこれを批判することには意味がない。われわれが注目すべきことは、論理的形式を支える価値観である。へーゲルの歴史哲学は、自由の平等を至高の価値と見なしている。

 しかし、一九世紀の半ばより、(西欧では)自由と平等との間には矛盾が生じうる、ということが知られるようになる。両者を同時に達成することは困難である、と自覚されるようになるのだ。たとえば、自由が誘発する競争は、富の不平等を帰結する。富の不平等は、実質的に自由をもつ者と、形式的にのみ自由が与えられており、実質的には自由をもたない者との間の分化を意味している。

 図式的に単純化してしまえば、自由と平等の二つの主要な価値のうちどちらを優先させるかで、二つの主要な政治イデオロギーが生まれる。自由を優先させれば、リベラリズムが得られる。平等を優先させ、平等のための自由の制限を許容すれば、社会主義が得られる。

 この二つのイデオロギーの対立が、二〇世紀に冷戦を生み出した。リペラリズムに準拠する資本主義体制と、平等の実現を優先させた(ことになっている)社会主義体制との間の、戦わない戦争を、である。そして、二〇世紀の末期に、冷戦は終結した。第1章でも述べたように、冷戦において最も重要な事実は、一度も「熱戦」を経由せずに決着がついた、ということである。かくして、二〇世紀の政治の思想的教訓は、「自由」の優越である。自由を制限する根拠は、(他の)自由以外にはありえず、自由以外の価値によって、自由を制限すべきではない、と。

 ちなみに、ジョン・ロールズが『正義論』で提起した、正義の二原理は、リベラリズムの優位にそった構成になっている。第一原理は、平等な自由について規定している。つまり、自由を優越させた原理である。格差原理と呼ばれる第二原理は、第二原理に抵触しない範囲での平等化を要求している。『正義論』は、独特の設定の社会契約の思考実験から、近代を構成した二つの価値を、自由の優位のもとに配分するようなかたちで、正義の原理を導き出しているのである。

資本主義のための社会主義

 しかし、二一世紀に入ってから、現代社会は、再び、不平等の問題に、格差の問題に苦しむょうになった。人びとの間の富の格差、経済的格差の問題に、である。

 この経済のレベルでの格差の問題と手を携えるようなかたちで、政治の場面で前面に出てきたのが、資本主義と社会主義の間の奇妙なブレンドである。二〇〇八年のリーマン・ショックのときのことを思い起こすとよい。大投資会社リーマン・ブラザーズが破綻した後、アメリカ政府が採った--あるいは採ろうとした--政策は何であったか。大手金融機関や自動車等の大企業を救済するために、莫大な公的資金が投入された。考えてみると、この政策は、(一部の)大企業を半国有化することである。とすれば、こうした政策は、国家社会主義的だと言うこともできるだろう。

 ただし、現代の社会主義的政策は、本来の社会主義とは逆の方向を目指している。つまり、それは、仮に社会主義的だとしても、いわば逆立ちの社会主義である。本来の社会主義は、あるいは社会主義寄りの政策は、失業している貧困層を救済するなど、資本主義がもたらす貧富の差を是正するためにこそ採用される。しかし、現在の、二一世紀の社会主義的政策の目的は逆である。それは、富裕層や(貨幣の貸し手である)金融機関を救済するためにこそ動員されたのだ。

 かつて、資本主義に対抗する体制だった社会主義が、今では、資本主義を延命させるため、失速した資本主義にあらためてアクセルを踏むために導入されている。資本主義は、その敵である社会主義に勝った、と言われている。だが、勝利の後、資本主義は体調を崩した。資本主義の健康を回復させるために最も効果があった薬は、一服の社会主義だったのだ。

 アメリカと対照的なことが起きているのが中国である。二〇世紀末に冷戦が終結したと言うとき、われわれはしばしば、一〇億人をはるかに超える人口を抱えた大国が、未だに、社会主義の看板を掲げていることを忘れている。そのくらい中国は、今や資本主義的である。さすがに、「資本主義」を名乗るわけにはいかないので、中国政府は、自国の経済を、「社会主義市場経済」と呼んでいるが、それは、資本主義に限りなく近い社会主義という意味である。かつての東欧の社会主義諸国やソ連は、中国のように積極果敢に資本主義を取り入れることができなかったために、社会主義体制を終結させた後に本格的に資本主義化するしかなかふた。しかし、中国は、社会主義の外観を保ちながら、資本主義化することに成功したのだ。

 この現状を、中華人民共和国の歴史の中で見たときには、われわれは歴史のアイロニーのようなものを感じざるをえない。まだ資本主義化する前の「純粋社会主義」の範囲で中国が試みた最大の革命的な冒険は、文化大革命である。文革のスローガンは、日常そのものを革命と化すことであった。しかし、周知のように、文革は、数多くの悲惨な犠牲者を生んだが、革命としては大失敗であった。しかし、改革開放路線にしながらて導入された資本主義が、中国に、まさに「毎日が革命」という表現にふさわしいダイナミズムをもたらしている。資本主義が弱ってきたときに、社会主義を少しばかり食べることで元気になったのと並行的に、中国では、資本主義を大量服用することで、社会主義時代の夢を実現しつつあるのだ。

 中国の経済を見ていると、さらに大きな皮肉もある。現在、中国は、最も元気な「資本主義国」である。つまり、二一世紀の序盤である現在、中国こそが、資本主義の優等生だ。なぜ、中国の資本主義が相対的に順調なのか。少なくとも目下のところの原因は、中国が未だに社会主義的だ、という点に主として求められる。たとえば、中国に大量の廉価な労働力があることの一因は、農村戸籍/都市戸籍という区別があって、中国の労働者が移動や居住に関して完全な自由をもっていないことにある。資本主義は、一般に、資本主義化の程度が不十分な周辺部を、とくに廉価な労働力の供給源として必要とするのだが、中国の戸籍制度は、国内に、そのような周辺部を作為的に維持する装置となっている。あるいは、共産党による支配は、いわゆる「開発独裁」には明らかに有利であり、目標さえはっきりしていれば、資源の効率的な配分を可能にする。中国の社会主義的残滓が、いつまで中国の資本主義にとって有利に作用するかは、見解が分かれるだろう。しかし、少なくとも今までは、社会主義的政策の遺物(の一部)が、中国の資本主義の成長率の高さをもたらしてきた、と言うことができる。

 したがって、結論的には、こう言うことができる。今や、資本主義のためにこそ、(部分的な)社会主義は活用されているのだ、と。社会主義は、資本主義に敗れただけではなく、一部は資本主義の捕虜になり、奴隷として資本主義に奉仕しているのである。
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類と生命 収容所

『自由という牢獄』より 類と生命

ナチズスムやスターリニズムのような、二〇世紀の全体主義は、民主主義の外部にあるわけではなく、民主主義の内在的な転回として登場したということ、このことをわれわれは知っている。全体主義とは、人間が集まることから帰結する多様性の最も過激な否定である。すなわち、それは、多数の人間の集まりを一人の人間であるかのごとく閉鎖することにこそある。そうであるとすれば、全体主義こそば、自由と開放性を条件とする公共性にとって、最大の脅威であろう。全体主義への転換は、なぜ生ずるのか? 全体主義をまさにそれとして示している指標は、誰もが同意するだろうが、収容所である。全体主義は、普通の民主主義からの転回の産物であると述べたが、同じことは、収容所に関しても言える。

収容所は、全体主義国家にだけあったわけではない。最初の収容所は、一九世紀末にスペイン人がキューバに作った強制収容所であるとも、また二〇世紀初頭にイギリス人がボーア人対策のために建設した強制収容所であるとも言われている。いずれにせよ、最初の収容所は、植民地戦争に関連した、超法規的な例外措置から生まれたものであった。ここで思い起こしておきたい。われわれは、第1節で、現在において「公共性」が直面している困難を隠喩的に例示するために、映画『ゴースト・オブ・マーズ』を参照した。そこで描かれているのも、植民地における「先住民」との戦争であり、そして、公共的な空間を危機に陥れる恐るべき他者は、まさに植民地の「先住民」に投射されて表現されていた、ということを、あらためて思い出しておきたいのだ。

全体主義国家の収容所が、通常の国家の--ただし超法規的な例外状態や戒厳令下の--収容所に端を発しているということ、このことは、最も広く知られた収容所である、ナチスの収容所の場合は、殊のほかはっきりしている。強制収容の法的な根拠は、プロシアの「保護拘留」に関する、特別な警察的措置にある。それは、戒厳状態に関するプロシア法である。この法は、第一次大戦とその後の混乱期に大々的に利用された。最初の収容所は、その時に、つまり一九二三年に作られた。だから、アガンベンに倣って強調しておきたいことは、ドイツの最初の収容所は、ナチスではなく、社会民主主義政府が作ったということである。収容所に最初に送り込まれたのは、共産主義活動家だったが、その後は、ユダヤ人難民も入れられた。つまりユダヤ人強制収容所と限定したとしても、最初に、これに手を染めたのは、社会民主主義政権だったのである。無論、それは、絶滅収容所ではなかったが。

では、ナチスは、なぜ、あれほど熱心に、ドイツ社会からユダヤ人を排除しようとしたのか? なぜ、ユダヤ人を収容所に送り、最後には、この地上から抹殺しようとまでしたのか? このことを、われわれは、民主主義の原理に伏在していた論理の展開=転回として説明できなくてはならない。先に、民主主義的な(規範の)普遍化の機制の内に、ある逆説が--人権宣言に既に読み取ることができる逆説が--孕まれている、と述べておいた。それは、普遍性が特殊性に短絡することにおいて分節される、という逆説である。この逆説の極限値を取れば、ナチスの優生政策が得られるのではないだろうか。

一方で、人間を完全に普遍化した上で、対象化しようとすれば、われわれは、そこに、単に生命である限りでの人間を、つまり「類」としての人間を得ることになるだろう。他方で、しかし、その普遍的な類は、特殊化され、限定された形式においてのみ、つまり「種」の形式においてのみ、捉えられる。両者の重合、これ以上は考えられないほどに直接的な両者の短絡によって生み出されるのが、ナチスの「人種」--完全で純粋なアーリア人としてのドイツ民族--ではないだろうか。カール・シュミットは、ナチスの人種概念のずばぬけた重要性について、こう述べている。人種概念なしには、「国民社会主義国家が存在することもできず、その法的な生を思考することもできなくなる」と。最も重要な差異、差異の中の差異とも言うべき差異、つまり、「類」の中での相対的な「種差」ではなく「類」と「種」との差異の直接的な合致によって導かれるのが、「人種」である。

だが、このような人種概念には、大きな困難が付きまとう。類そのものの内部に、類の外部であるような種が入り込んでしまうのである。ドイツ人が、類を代表しつつ、同時に特殊な種(民族)でもあるとすれば、必然的に、その類の内に、ドイツ人という種の否定も含まれているはずだ。ユダヤ人とは、この類の内なる(類の)外部ではないか。だが、もしドイツ人によって、普遍的で包括的な類が代表されているのだとすれば、その外部であるところのユダヤ人という種は、(規範的に)存在してはならない種--というより事実的に存在するはずのない種--である。ナチスが、ユダヤ人を強迫的に絶滅させようとしたのは--いかなる合理的な計算にも見合わない執着をもってユダヤ人の存在の痕跡を抹消しようとしたのは--このためではないだろうか。

ここでわれわれは注意しなくてはならない。ユュダヤ人が排除されたのは、ユダヤ人が、ドイツ人と非常に違っていたからではない、ということを、である。ナチスの人種差別は、ュダヤ人が十分にヨーロッパ社会に同化し、遺伝的な特徴においても、生活様式においても、ほとんど差異がなくなったときにこそ、顕著になったのである。もし、ユダヤ人の排除が、以上に論じてきたような機制にしたがっているのだとすれば、ユダヤ人とは、ドイツ人の双子の分身である。もしドイツ人が、包括的な類と等値されているのだとすれば、ユダヤ人というもう一つの種もまた、当然、「ドイツ人」でなくてはならないからだ。それゆえ、ドイツ人にとって、類の普遍性を犯す、最も恐ろしい他者(敵)は、それ自身、自己に--つまりドイツ人に--内在していることになる。敵が外的な他者ではなく、ある観点からすれば自己自身であるとするならば、その敵を排除しようとする衝動は、原理的に、終わることがない。

第1節で、次のようなことを確認した。われわれは、現在、言ってみれば「人間」としての最小限の規範をも共有しえない(ように見える)、それゆえ公共的空間の内に迎え入れて共存することがとうていできそうもない、敵なる他者に直面している、ということ。しかも、その敵なる他者は、われわれ(の共同体)に深く内在しており、われわれ自身のもう一つの側面でもあるように思える--したがって外部に切り離すことができない--ということ。これらの事態こそが、公共性の避けがたい危機を構成しているのであった。ところで、今、ナチスに即してみてきたような逆説、すなわち、ドイツ人=ュダヤ人という逆説を、民族的な限定性をはずして一般化してみたらどうであろうか。それは、自己なるXと、これとおよそ通約しえぬ形式で対立する他者なるYとの間の、逆説的な一致という形式をとるに違いない。これこそ、われわれの公共的空間を困難ならしめている危機そのものではないだろうか。そうであるとすれば、われわれは未だに、ナチスを強迫的に駆り立てていたのと同質の衝動の中に捕らえられているのである。
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玲子との2時間の会話

未唯へ

 足が冷えてしょうがない。足をつっていた。親指がはねていました。

 新聞を振る音が嫌いです。大嫌いです。なぜなのか。ワザとらしいからでしょう。

検査入院の準備

 10時からだけど、本を読まないといけないけど。明日までに全部、片付けないと。

 検査入院だけど、結果次第では、そのまま、手術を考えておかないといけない。胸の様子は以前に比べると悪いですね。寝ているときも時々、痛くなります。

意見を言うものを聴く

 個人が会社とか、SNSに対して意見を出して言うものを見たけど、あくまでも、これは個人のあ勝手な意見だという感覚。逆に言うと私の意見もそう思われる。日本よりもアメリカの権威を当てにしている。この感覚はどこから生まれるのか

玲子との2時間の会話

営業マンの将来の目標

 彼らの言うところの目標、例えば、5年後の目標と言った時に、営業マンだと、何台売るとか二なります。大きな目標と言った時にその枠から出ない。自分の世界しかない。

 宇宙から見た時に、それはどんな意味を持つのか。これを159の本として出すことに意味をあるのか。

 ここで分からないのが、上司とか部下と言った時に、それは誰が決めたのか。その枠から出ていない、狭い世界に自分を押し込めるだけ。
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