未唯への手紙
未唯への手紙
理想の共同体はいかに生まれるのか? ヘーゲルの歴史観
『試験に出る哲学』より
次に引用する問題は、ゲオルク・ヘーゲル(一七七〇~二八三こが唱えた重要な概念である「人倫」について問うものです。この概念は、法や道徳を論じた『法の哲学』という著作のなかに登場しました。本節ではこの問題を導きに、ヘーゲル哲学の特徴である弁証法をふまえて、人倫について見ていきましょう。
問 人倫という概念で道徳を捉え直した思想家にヘーゲルがいる。ヘーゲルの人倫についての説明として最も適当なものを、次の0~④のうちから一つ選べ。
①欲望の体系である市民社会のもとでは、自立した個人が自己の利益を自由に追求する経済活動が営まれるなかで、内面的な道徳も育まれるために、人倫の完成がもたらされる。
②人間にとって客観的で外面的な規範である法と、主観的で内面的な規範である道徳は、対立する段階を経て、最終的には、法と道徳を共に活かす人倫のうちに総合される。
③国家によって定められる法は、人間の内面的な道徳と対立し、自立した個人の自由を妨げるものなので、国家のもとで人々が法の秩序に従うときには、人倫の喪失態が生じる。
④夫婦や親子など、自然な愛情によって結び付いた関係である家族のもとでは、国家や法の秩序のもとで失われた個人の自由と道徳が回復され、人倫の完成がもたらさる。
(二〇一八年・センター本試験 第4問・問1)
ヘーゲルが描いた精神の成長物語
ヘーゲルの哲学では、「精神(ガイスト)」という概念が特別に重要な意味をもっています。というのも、精神は、単に事物を認識するだけではなく、自分自身を反省する能力もともなうからです。たとえば食事をしているとき、私たちは夢中になって食べることもあるけれど、「食事をしている自分」を考えることもできる。「いまの食べ方、ちょっと下品だったかな」と、反省することもあるでしょう。つまり、対象に没入するだけでなく、行為そのものを振り返るような反省的な意識をもつことができるのです。
ヘーゲルの主著『精神現象学』は、このような反省的な思考を糧として、精神が、意識→自己意識→理性へと成長していくプロセスを描いていくものです。その点では、『精神現象学』は、精神を主人公とする成長小説のように読むことができる作品です。
ヘーゲルの描く精神の成長プロセスは、カントの哲学と比較するとよくわかるでしょう。カントの場合、人間が自然の法則を理解できるのは、人間の側にあらかじめ、自然を法則的に理解する認識の枠組みが備わっているからでした。いわば人間はみな、自然科学のサングラスをつけている。逆にいえば、このサングラスは外すことはできないので、自然そのものの姿を認識することはできません。
それに対してヘーゲルが描く精神の成長とは、サングラスの能力が拡大していくことを意味します。たとえば、素人が見るリンゴと、農家が見るリンゴでは、明らかに農家のはうが一つのリンゴから多くのことを知ることができるでしょう。ということは、精神が成長することは、対象(リンゴ)がその姿を変えていくことでもあるのです。
しかもその対象は、物理的な自然に限定されません。自分というものの存在、他者との人間関係や社会制度、文化、宗教など、世界のありとあらゆる事象が、精神(サングラス)の成長とともに理解されていく。したがって、私の精神が成長して、世界のことを多く知れば知るほど、世界の側も新たな表情を帯びていくことになるわけです。
世界史とは自由が拡大していくプロセスである
ヘーゲル哲学の特徴は、こうした精神の成長を、歴史の発展として描き出す点にもあります。
ヘーゲルによれば、精神の本質は自由であり、「世界史とは自由の概念の発展にほかならない」(『歴史哲学講義(下)』長谷川宏訳、岩波文庫、三七三頁)。たとえば古代の東洋では、専制君主ひとりだけが自由だったのに対して、古代ギリシャでは少数の市民が自由を享受するようになりました。さらに近代社会になると、身分制は崩壊し、万人に自由が保障されるようになります。
こうした自由が拡大していく歴史を、ヘーゲルは「世界精神」という概念で語っていきます。世界精神とは、歴史を通じて現れる精神のことです。このように言うと、なにやらオカルトめいた話に聞こえるかもしれませんが、私たちも、ヘーゲルと同じような意味で精神という言葉をよく使っています。たとえば、「トヨタの精神」「二〇世紀の精神」「古代ギリシャの精神」というふうに、精神は集団や時代に宿るものでもあるのです。それを歴史全体に拡大したものが世界精神にほかなりません。
一八○六年に、ヘーゲルはドイツに侵入するナポレオンを目撃し、「今日ぼくは、馬上の世界精神を見た!」と手紙で綴っています。世界精神は、それぞれの時代において、有名無名の人々の行為を通じて自らの本質である自由を実現していくのです。
人倫とは「理想の共同体」
弁証法の具体例として、ヘーゲルの「人倫」(倫理)に関する議論を見てみましょう。
ヘーゲルにとって、世界史とは世界精神が自由を実現していくプロセスのことでした。したがってヘーゲルは、社会のなかに自由を根づかせる制度や組織がなければならないと考えます。この点は、もっぱら自由を個人の内面の問題と捉えるカントとは対照的です。
実際、ヘーゲルは『法の哲学』のなかで、「法の体系は、実現された自由の王国であり、精神自身から生み出された、第二の自然としての、精神の世界である」(『法の哲学I』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシックス、六五頁)と述べています。つまり、ヘーゲルにとっての法とは、自由を求める人間の精神が生み出した制度にほかなりません。そして『法の哲学』では、法もまた弁証法的に展開していきます。
法はまず、外面的な法という形式で現れます。客観的な法は、人間の自由な行動を保障しますが、法があるからといって、人間の自由が社会的な善と結びつくわけではありません。
そこで、精神は外面的な法を否定して、内面的な道徳律に目を向けます。その典型は、前節で解説したカントの定言命法です。わかりやすくいえば、社会的な問題は視野の外におき、もっぱら自分が道徳的に生きればよい、と考えるわけです。
客観的な法と、それを否定する主観的な道徳--。この両者が弁証法的に統合されたあり方を、ヘーゲルは「人倫」と呼びました。人倫とは、個人の内面である道徳と、社会全体の秩序をつくる法が矛盾なく共存する共同体であり、いわば、さまざまな人間が相互に自由を承認し合うような場のことです。
家族・市民社会・国家
では、人倫とは具体的にどのような場でしょうか。
ヘーゲルによれば、人倫は、「家族」→「市民社会」→「国家」と、弁証法的に展開するといいます。
「家族」とは、愛という自然な感情で結ばれた共同体です。ヘーゲルは、「愛とは総じて私と他者とが一体であるという意識である」といいます。この一体的な共同体のなかで、その成員は互いの人格を重んじ合う。家族という共同体では、外面的なルールと内面的な道徳感情は明確に分かれることなく一体化しています。
しかし家族は、前近代的な人倫の姿であり、近代社会に入ると、家族という共同体の原理は否定され、「市民社会」へと移行していきます。というのも、家族の原理のままでは、個人が独立して自らの自由を追求することができないからです。
市民社会の原理は「欲求の体系」です。市民社会では、個々の人間は、自分の欲求を満たすことを目的に活動します。しかし、自給自足の生活には戻れないため、個々人は他者に依存しなければ、自己の欲求を満たすことはできません。
たとえば、野菜が食べたければ、野菜を育てる農家、野菜を売る八百屋さんやスーパーで働く人々に助けを借りなければなりません。このような経済的な関係が成立するためには、法の整備も必要となります。したがって市民社会では、経済活動を通じて、所有権の保護といったルールが整備され、人々が相互に結びついていくのです。
しかし、個人の自由な競争を旨とする市民社会のなかでは、必然的に貧富の差が生じてしまいます。ヘーゲルの言葉を見てみましょう。
市民社会はこうした対立的諸関係とその縺れ合いにおいて、放埓な享楽と悲惨な貧困との光景を示すとともに、このいずれにも共通の肉体的かつ倫理的な頽廃の光景を示す。(『法の哲学Ⅱ』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシックス、九五頁)
市民社会では、家族のなかにあった人格的な結びつきは失われてしまう。人格的な結びつきを失って、倫理的に頽廃を示す市民社会のことを、ヘーゲルは「人倫の喪失態」と呼んでいます。
貧困をはじめさまざまな社会問題を抱える市民社会では、福祉行政や職業団体などが、個人の利益を管理して、貧しい人々に対して経済的救済に乗り出す必要が生まれます。その役割を担うのは「国家」でしょう。つまり、「欲求の体系」を原理とする市民社会は、自らのうちに、国家へと展開する契機を孕んでいるのです。
ただし、ヘーゲルが理想とする理性国家は、ルールにもとづき、福祉をおこなうだけでは不十分です。理性国家のもとでは、国民は、法によって家族のごとく結ばれていなければなりません。すなわち、市民社会的な個人の自立性と、家族がもつ一体性とが止揚された場が理性国家であり、こうした国家のあり方をヘーゲルは「人倫の最高形態」と呼んでいます。ヘーゲルによれば、こうした国家という段階ではじめて、真の自由が実現することになります。
なお、ここでイメージされている国家とは、啓蒙的改革が進む当時のプロイセンのことです。若き日のヘーゲルが世界精神を看取したナポレオンは程なく失脚し、一九世紀前半は保守反動的なウィーン体制がヨーロッパを支配します。当時のドイツでは、ウィーン体制に対して、自由主義的な改革とドイツ統一を求める運動が繰り広げられました。こういった状況のなかで、ヘーゲルは自らの理念をプロイセン王国に託したのです。
解答と解説
ここまで解説したように、「人倫」とは、外面的な法と内面的な道徳とが止揚されたものです。このことを理解していれば、正解は②とわかるでしょう。①は「欲望の体系である市民社会のもと」で「人倫の完成がもたらされる」としている点が誤り。③は、「国家のもとで……人倫の喪失態が生じる」が誤り。人倫の喪失態が生じるのは市民社会です。④は、家族のもとで「人倫の完成がもたらされる」としている点が誤りです。
次に引用する問題は、ゲオルク・ヘーゲル(一七七〇~二八三こが唱えた重要な概念である「人倫」について問うものです。この概念は、法や道徳を論じた『法の哲学』という著作のなかに登場しました。本節ではこの問題を導きに、ヘーゲル哲学の特徴である弁証法をふまえて、人倫について見ていきましょう。
問 人倫という概念で道徳を捉え直した思想家にヘーゲルがいる。ヘーゲルの人倫についての説明として最も適当なものを、次の0~④のうちから一つ選べ。
①欲望の体系である市民社会のもとでは、自立した個人が自己の利益を自由に追求する経済活動が営まれるなかで、内面的な道徳も育まれるために、人倫の完成がもたらされる。
②人間にとって客観的で外面的な規範である法と、主観的で内面的な規範である道徳は、対立する段階を経て、最終的には、法と道徳を共に活かす人倫のうちに総合される。
③国家によって定められる法は、人間の内面的な道徳と対立し、自立した個人の自由を妨げるものなので、国家のもとで人々が法の秩序に従うときには、人倫の喪失態が生じる。
④夫婦や親子など、自然な愛情によって結び付いた関係である家族のもとでは、国家や法の秩序のもとで失われた個人の自由と道徳が回復され、人倫の完成がもたらさる。
(二〇一八年・センター本試験 第4問・問1)
ヘーゲルが描いた精神の成長物語
ヘーゲルの哲学では、「精神(ガイスト)」という概念が特別に重要な意味をもっています。というのも、精神は、単に事物を認識するだけではなく、自分自身を反省する能力もともなうからです。たとえば食事をしているとき、私たちは夢中になって食べることもあるけれど、「食事をしている自分」を考えることもできる。「いまの食べ方、ちょっと下品だったかな」と、反省することもあるでしょう。つまり、対象に没入するだけでなく、行為そのものを振り返るような反省的な意識をもつことができるのです。
ヘーゲルの主著『精神現象学』は、このような反省的な思考を糧として、精神が、意識→自己意識→理性へと成長していくプロセスを描いていくものです。その点では、『精神現象学』は、精神を主人公とする成長小説のように読むことができる作品です。
ヘーゲルの描く精神の成長プロセスは、カントの哲学と比較するとよくわかるでしょう。カントの場合、人間が自然の法則を理解できるのは、人間の側にあらかじめ、自然を法則的に理解する認識の枠組みが備わっているからでした。いわば人間はみな、自然科学のサングラスをつけている。逆にいえば、このサングラスは外すことはできないので、自然そのものの姿を認識することはできません。
それに対してヘーゲルが描く精神の成長とは、サングラスの能力が拡大していくことを意味します。たとえば、素人が見るリンゴと、農家が見るリンゴでは、明らかに農家のはうが一つのリンゴから多くのことを知ることができるでしょう。ということは、精神が成長することは、対象(リンゴ)がその姿を変えていくことでもあるのです。
しかもその対象は、物理的な自然に限定されません。自分というものの存在、他者との人間関係や社会制度、文化、宗教など、世界のありとあらゆる事象が、精神(サングラス)の成長とともに理解されていく。したがって、私の精神が成長して、世界のことを多く知れば知るほど、世界の側も新たな表情を帯びていくことになるわけです。
世界史とは自由が拡大していくプロセスである
ヘーゲル哲学の特徴は、こうした精神の成長を、歴史の発展として描き出す点にもあります。
ヘーゲルによれば、精神の本質は自由であり、「世界史とは自由の概念の発展にほかならない」(『歴史哲学講義(下)』長谷川宏訳、岩波文庫、三七三頁)。たとえば古代の東洋では、専制君主ひとりだけが自由だったのに対して、古代ギリシャでは少数の市民が自由を享受するようになりました。さらに近代社会になると、身分制は崩壊し、万人に自由が保障されるようになります。
こうした自由が拡大していく歴史を、ヘーゲルは「世界精神」という概念で語っていきます。世界精神とは、歴史を通じて現れる精神のことです。このように言うと、なにやらオカルトめいた話に聞こえるかもしれませんが、私たちも、ヘーゲルと同じような意味で精神という言葉をよく使っています。たとえば、「トヨタの精神」「二〇世紀の精神」「古代ギリシャの精神」というふうに、精神は集団や時代に宿るものでもあるのです。それを歴史全体に拡大したものが世界精神にほかなりません。
一八○六年に、ヘーゲルはドイツに侵入するナポレオンを目撃し、「今日ぼくは、馬上の世界精神を見た!」と手紙で綴っています。世界精神は、それぞれの時代において、有名無名の人々の行為を通じて自らの本質である自由を実現していくのです。
人倫とは「理想の共同体」
弁証法の具体例として、ヘーゲルの「人倫」(倫理)に関する議論を見てみましょう。
ヘーゲルにとって、世界史とは世界精神が自由を実現していくプロセスのことでした。したがってヘーゲルは、社会のなかに自由を根づかせる制度や組織がなければならないと考えます。この点は、もっぱら自由を個人の内面の問題と捉えるカントとは対照的です。
実際、ヘーゲルは『法の哲学』のなかで、「法の体系は、実現された自由の王国であり、精神自身から生み出された、第二の自然としての、精神の世界である」(『法の哲学I』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシックス、六五頁)と述べています。つまり、ヘーゲルにとっての法とは、自由を求める人間の精神が生み出した制度にほかなりません。そして『法の哲学』では、法もまた弁証法的に展開していきます。
法はまず、外面的な法という形式で現れます。客観的な法は、人間の自由な行動を保障しますが、法があるからといって、人間の自由が社会的な善と結びつくわけではありません。
そこで、精神は外面的な法を否定して、内面的な道徳律に目を向けます。その典型は、前節で解説したカントの定言命法です。わかりやすくいえば、社会的な問題は視野の外におき、もっぱら自分が道徳的に生きればよい、と考えるわけです。
客観的な法と、それを否定する主観的な道徳--。この両者が弁証法的に統合されたあり方を、ヘーゲルは「人倫」と呼びました。人倫とは、個人の内面である道徳と、社会全体の秩序をつくる法が矛盾なく共存する共同体であり、いわば、さまざまな人間が相互に自由を承認し合うような場のことです。
家族・市民社会・国家
では、人倫とは具体的にどのような場でしょうか。
ヘーゲルによれば、人倫は、「家族」→「市民社会」→「国家」と、弁証法的に展開するといいます。
「家族」とは、愛という自然な感情で結ばれた共同体です。ヘーゲルは、「愛とは総じて私と他者とが一体であるという意識である」といいます。この一体的な共同体のなかで、その成員は互いの人格を重んじ合う。家族という共同体では、外面的なルールと内面的な道徳感情は明確に分かれることなく一体化しています。
しかし家族は、前近代的な人倫の姿であり、近代社会に入ると、家族という共同体の原理は否定され、「市民社会」へと移行していきます。というのも、家族の原理のままでは、個人が独立して自らの自由を追求することができないからです。
市民社会の原理は「欲求の体系」です。市民社会では、個々の人間は、自分の欲求を満たすことを目的に活動します。しかし、自給自足の生活には戻れないため、個々人は他者に依存しなければ、自己の欲求を満たすことはできません。
たとえば、野菜が食べたければ、野菜を育てる農家、野菜を売る八百屋さんやスーパーで働く人々に助けを借りなければなりません。このような経済的な関係が成立するためには、法の整備も必要となります。したがって市民社会では、経済活動を通じて、所有権の保護といったルールが整備され、人々が相互に結びついていくのです。
しかし、個人の自由な競争を旨とする市民社会のなかでは、必然的に貧富の差が生じてしまいます。ヘーゲルの言葉を見てみましょう。
市民社会はこうした対立的諸関係とその縺れ合いにおいて、放埓な享楽と悲惨な貧困との光景を示すとともに、このいずれにも共通の肉体的かつ倫理的な頽廃の光景を示す。(『法の哲学Ⅱ』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシックス、九五頁)
市民社会では、家族のなかにあった人格的な結びつきは失われてしまう。人格的な結びつきを失って、倫理的に頽廃を示す市民社会のことを、ヘーゲルは「人倫の喪失態」と呼んでいます。
貧困をはじめさまざまな社会問題を抱える市民社会では、福祉行政や職業団体などが、個人の利益を管理して、貧しい人々に対して経済的救済に乗り出す必要が生まれます。その役割を担うのは「国家」でしょう。つまり、「欲求の体系」を原理とする市民社会は、自らのうちに、国家へと展開する契機を孕んでいるのです。
ただし、ヘーゲルが理想とする理性国家は、ルールにもとづき、福祉をおこなうだけでは不十分です。理性国家のもとでは、国民は、法によって家族のごとく結ばれていなければなりません。すなわち、市民社会的な個人の自立性と、家族がもつ一体性とが止揚された場が理性国家であり、こうした国家のあり方をヘーゲルは「人倫の最高形態」と呼んでいます。ヘーゲルによれば、こうした国家という段階ではじめて、真の自由が実現することになります。
なお、ここでイメージされている国家とは、啓蒙的改革が進む当時のプロイセンのことです。若き日のヘーゲルが世界精神を看取したナポレオンは程なく失脚し、一九世紀前半は保守反動的なウィーン体制がヨーロッパを支配します。当時のドイツでは、ウィーン体制に対して、自由主義的な改革とドイツ統一を求める運動が繰り広げられました。こういった状況のなかで、ヘーゲルは自らの理念をプロイセン王国に託したのです。
解答と解説
ここまで解説したように、「人倫」とは、外面的な法と内面的な道徳とが止揚されたものです。このことを理解していれば、正解は②とわかるでしょう。①は「欲望の体系である市民社会のもと」で「人倫の完成がもたらされる」としている点が誤り。③は、「国家のもとで……人倫の喪失態が生じる」が誤り。人倫の喪失態が生じるのは市民社会です。④は、家族のもとで「人倫の完成がもたらされる」としている点が誤りです。
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まあ簡単に言うとシナジーとかアウフヘーベンということで
1+1=2 だけではなく
1+1=3 という世界を
数理的に表現しようとしたもののように受け止められる。
1/h^n=1/f^n+1/g^n、
第一式おもしろい着想ですね。マクロ経済学のホットな話題として財政均衡主義と現代貨幣理論(MMT)の競合モデルの方程式や関数なんてものはできないのでしょうかね。