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職安で社会の配置を決める

未唯空間第6章本・図書館

 第6章をやっているが、図書館から汎用化することで変わります。

思いつかない

 なんとなく、ボヤーとしています。花粉の性だけではなさそうです。

 思い付きは元々、ないんだから。今あるのは、池田晶子だけです。

メールのトラウマ

 Iさんのメールが中々、返ってきませんね。1時前に金曜日の居るかどうか聞いただけなのに。間の時は3/3 10:31に打ったけど、返ってこなくて、3/5 10:25に呼びかけたら、13:09に返ってきた。

 まあ、普通ならば、いつまでも付き合っていられないという感覚ですね。そこは信じます。

 パートナーは構えていると来ない。

職安で感じたこと

 職安はやたら、人が多い。それも平板に居るから、やたら、多く見える。あまり、効率的ではない。6つに分かれているけど、情報伝達はよくない。職安で調べると言っても、ネットで同様機能があるのだから、喫茶店のような形にして、調べさせればいい。あの環境である必要はない。

 職安ポータルでもって、市販のアルバイトニュースなども個人に情報集約するとか、仲間内でのコミュニティする形態ではリクルートには負けるでしょう。それよりも、若者は何を望んでいるのか。どこで自己顕示するのか、教育するのか。そっち側です。そこでは職安の枠を超えるものは一杯在ります。

 アルバイトニュースなどとの関係をどうしていくのか、もっと咆哮できるようにしないといけない。個人がいかに分化できるようにするのか。

 あんな狭い駐車場にして、交通整理で二人を出すよりも、もっとオープンな感じにすることです。管轄が違うけど、行政にとっても、就職は大きなテーマです。環境での人の配置も絡みます。就職した時に儲かるカタチにしないといけない。

 それとおしゃべりしながら、高齢者はいかに惹きつけるか。就職活動と組織との関係を多様化しないといけない。あまりにも、活動がステレオタイプになっている。NPOとかインターン制度とか、色々なモノが周縁には来ています。それに対応できるだけの見識を持たないとダメです。

 マーケティングの分野とか、スタバとかからも求人が来ていない。街を見ると、色々なところに求人があります。色々な場の出会いを設定するのか。だけではなく、新しい行政をつくり出すのか。

図書館活動との対比

 色々なコミュニティとの関係で、図書館みたいな役割を職安は持っていかないといけない。社会保険事務所も同じです。

 図書館で知識と意識の場と設定しているが、本によるとさらに情報の場と社会の場が開いてあった。この4つの場をどのように配置するのか。横軸として、図書館と同様にして、職安も配置することができるのではないか。図書館が本屋との関係をどうしていくかと同様に、職安もネット上の同様な機能と関係づけていく。

機能での横軸

 それとコミュニティとの関係をどうつけていくかは未唯空間第6章本・図書館で目指しているものです。機能で分けた時の図書館とのアナロジーです。これらを考える出発点は図書館です。相手が本であるか、別のものであるかの違いがあるだけで、図書館と同じように考えればいい。そこに住んでいる人たちの思いがあるはずです。

 そして、図書館は本を取り巻く環境があります。その中で自分たちの位置づけを大きく捉えていく。そこで自分たちの役割を再構成していく、というやり方です。

図書館のアウトリーチ

 刈谷の図書館セミナーで菅谷さんが言われた言葉のヒントは「アウトリーチ」です。外に出かけていくというものです。これをブルックリン図書館での活動をOCRしました。米国公共図書館のアプローチです。

 構えるだけでなく、入り込んでいく。この原型は環境学習設備のハメリンナのDr.ヘリのアピール・アンケートの考え方と一視します。

就職というのは社会の配置

 図書館の場合は、パブリックという概念でした。日本では公立図書館と訳しています。行政主体の市立図書館です。ニュージーランドでは、完全にNPO的な感覚です。市民がお金を出し合ってやっています。

 こういうものに対しても、どのようにリクルートしてくるのか。社会の配置という捉え方ができないか。池田晶子「14歳の君へ」などで感じたのは、中学生レベルで、自分の内部での視点から、社会での役割を決めて、多様な社会を作りだしていく。

 ターゲットが一つではない世界の効率のよさ。東富士のところはプロが自分の頂点も求めることで、多様なアイデアが可能になったが、名古屋の営業では地区担当に集約された世界のために、自分のことしか考えられない世界になっていた。社会全体での配置を個人レベルで、くみ上げていく。

 そこにあるのは本屋への思い、著者への思い、それでもって、世の中の人を知の世界に持っていく、意識の世界に持っていくことです。

今日で一段落

 今日で、一段落です。これで外へ出ていかなくても、生きていけるし、死んでいける。

 そうなると、部屋の整理ですね。未唯からもよく言われます。どこから手を付けましょうか。机の上とプリンターの設置面積の確保です。これが一番最初です。スタバへもっていくことで、パソコンとプリンターの存在の再確認です。

未唯空間6.4.4「教育を変える」

 難しいのは、6.4.4「教育を変える」ですね。テーマに対して、内容が、起承転結で行くと、気付きから、コラボレーション、そして、ツールと環境学習です。これをどうつなげるのか。つながっていそうでつながっていない。

 とりあえず、ツールは「ライブラリ」とします。知の体系化ではないけど、いかに蓄積するかというところです。教育のためのバックボーンです。

 難しいのは「環境学習」です。これはESDとしましょうか。持続可能なための教育。どのように教育を変えていくのか。

 教育を変えるためには、家庭が変わり、企業が変わっていくという循環が変わることです。現在の就活が企業のスタンス次第であり、その逆をあります。だから変わらないということになっている。

 それらを同時に変えずして、環境学習だけでできるわけがない。特に企業との関係は大きいです。職安を見ても、思います。従来の「従業員」意識では成り立たない。それとオカ名をもらえるという意識では何も変わらない。

<今〉を気づく

 先ずは自分から攻めないと。そのためには<今>を気づくことです。
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エスニック紛争への陥穽

『アラブ諸国の民主化』より 現状への視角

シリアの内戦、リビアの国内対立、イラクの「イスラーム国」との戦闘。これらは、いうまでもなく民主化の阻害要因といったレべルの問題ではなく、国家の存立や地域の安定に関わる重大な事態である。しかし、ここでは民主化に関わる政権への批判や政治改革の要求が、いつの間にか宗派紛争や地域間対立に転化してしまった事例としてとらえる。その過程を確認することによって、アラブ諸国の多くにみられる政治変化が紛争化しやすい社会的な脆弱性を指摘したい。この問題については、反政府デモが宗派紛争へと変容したバハレーンの事例も該当する。

シリアの紛争は、当初アラブ各国の政変に呼応した政治的自由化を求めるデモと、それに対する政府の弾圧への抗議であった。ここまでは、二〇一一年政変の多くの事例と大きな違いはない。しかし、アサド政権は少数宗派のアラウィー派(シーア派の一派)を中心としたいわゆる少数派政権であり、反政府デモやその後の武装蜂起の主体が、体制から冷遇・抑圧されてきた多数派のスンナ派住民であったことから、シーア派対スンナ派という宗派対立の構図でみられるようになった。反政府派は、当初からそのような宗派紛争ではないことを繰り返し主張し、シリア国民による独裁体制打倒の運動であると強調した(もちろん政権側も宗派には触れず、テロリストとの戦いであるとした)。しかし、反政府側は結局、宗派紛争ではないシリアにおける新しい性質の政治闘争であることを説明する論理やレトリックを構築できず、その一方で反政府デモは内戦に発展して、アラウィー派政権対スンナ派武装組織との戦いという理解が定着していく。さらに、ヌスラ戦線をはじめとするスンナ派イスラーム主義武装勢力や北部での支配を確保したクルド人勢力の存在が、シリア内戦をエスニック紛争により結びつけた。

リビアの国内対立は宗教宗派や民族ではなく、地域間の対立・対抗関係であるとされる。ここでは、その各地域をエスニック・グループとみなして、問題を整理してみたい。既述のように、リビア内戦は反政府側の勝利に終わり、それはリビア国民による独裁体制の打倒とされた。その後は、新生リビアの国家再建や民主化が目的とされ、制憲議会選挙まで実施された。ところが、内戦時の反政府武装組織は内戦終結後の正規軍への編入や武装解除を拒み、逆に各地に割拠して治安維持という名の支配を続けている。このような状況は、「地域主義」と呼ばれている。その理由は、さまざまな対立が東部と西部との大きな対抗関係のなかに還元され、政府の統治能力が低いために、それによる混乱状態が長期化していることにある。

首都トリポリを中心とする西部(トリポリタニア)と、ベンガジ(リビア王国時代の首都)を中心とする東部(キレナイカ)は、もともと歴史的な対抗意識が強い。カッザーフィー政権期にはトリポリに政治経済の実権が集中し、東部は石油資源が豊富であるにもかかわらず、政権からは冷遇された。二〇一一年政変において、東部のベンガジから反政府デモが生じたことは、これを背景としている。ベンガジがカッザーフィー打倒をリードしたにもかかわらず、内戦後はふたたびトリポリが政治経済の中心を担う態勢となったことも、東部の人々の大きな不満となっている。ただし、地域主義や地方対立といった呼称は、象徴的・便宜的に用いられている面が強い。実際は経済格差や新旧の世代対立、世俗と宗教の対立といったさまざまな社会的亀裂が、地域間対抗軸に重なることによって紛争が増幅されている。

そうしたなか、二〇一四年七月からアンサール・シャリーアがベンガジを、別のイスラーム主義武装勢力がトリポリを攻撃し、両都市の主要部分を制圧した。ベンガジでは、アンサール・シャリーアが「イスラーム首長国」の独立を宣言したと伝えられた。地域主義は、彼らと世俗主義の議会・政府との闘争という世俗と宗教の対立や、自国でのイスラーム国家樹立というイスラーム過激派の再変質と、重なり合う様相を強めている。

イラクは二〇〇三年イラク戦争後の民主化の結果、国内のマルチ・エスニックな状況に対応した政治制度が整えられた。イラクは南部を中心としたアラブ人シーア派、中西部を中心としたアラブ人スンナ派、北部のクルド人に大きく分かれ、おおよその人口比は推定でそれぞれ五〇%、三五%、一五%となっている。各エスニック・グループを支持基盤とした政党がいくつも結成され、選挙や議会などで活動する政党連合もエスニック・グループごとに形成されている。エスニック・グループを横断するような大政党がないため、これまでの政権はシーア派、スンナ派、クルド人の政党連合による連立内閣であり、首相は総選挙で最大の議席をえるシーア派の政党連合から指名されている。しかし、二〇一四年八月まで続いたマーリキー政権は、スンナ派を冷遇したため、中西部の各都市で反政府デモが活発化した。
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二〇一一年政変の意義

『アラブ諸国の民主化』より 現状への視角

二〇一一年政変の意義

 二〇一一年政変を、前章で記した一九九〇年代を中心とする過去の民主化事例とあらためて比較してみると、両者は大きく異なる性質の政治変化であることがわかる。過去の例は、既存の政権が国民生活の保障から撤退しながらも権力を維持するという、特定の政治的目的をもつものであり、それがゆえに「上からの民主化」、過去の清算をともなわない民主化であった。しかし、二〇一一年政変はいかなるイデオロギーにも依拠せずに反不正のみを掲げるという、特定の政治的目的をもたないものであり、民衆レベルからの発露で、前大統領への裁判や与党解党といった過去の清算をともなう民主化である。まさに、一九九〇年代の民主化の瑳欧を挽回するかのような展開を示していた。

 さらに二〇一一年政変の特徴を考えれば、「制度的特殊性の減退」と「イスラーム主義の相対化」の二点を指摘できる。前者については、過去の民主化は普通選挙と複数政党制を導入し、たしかに大きな政治変化をもたらした。しかし、そこでは制度と運用に操作や作為がほどこされ、いかなる状況でも既存の政権が勝利するような選挙権威主義の態勢が整えられた。この制度と運用に関わる特殊性が、二〇一一年政変で取り除かれた。ただし、リビアの制憲議会選挙では比例代表制と小選挙区制の並立において、小選挙区には無所属しか立候補できないといった特殊性がみられ、イエメンの大統領選挙も候補者一人に対する信任投票という権威主義的な手法が用いられた。しかし、これらはあくまで移行期間における例外的な措置である。リビアの場合は、組織力のある地域的な政治勢力を警戒・牽制し、政変に参加しながらいまだ政党をつくれていない人々のためになされたものであり、イエメンの場合は、国内の安定化を最優先したGCC調停文書の内容にそうものであった。いずれにしても、正式な憲法や選挙法が施行されれば、解消される特殊性である。二〇一一年政変によって、誰がみても奇異に感じるような選挙制度の制定または運用は、もはや不可能になったといえる。

 後者については、権威主義体制下で野党の多くがコオプテーションの対象となった結果、政権に反対する純然たる反政府派は、認可されたイスラーム政党もしくは非合法のイスラーム主義勢力しかないという状況が続いた。そこでのイスラーム主義勢力は、権威主義体制を批判し、政府の汚職や不正を糾弾して、弱者の保護を訴えるという重要な政治的・社会的役割をはたし、民衆からの支持もえていた。しかし、そのような役割の担い手が彼らのみであったため、イスラーム主義勢力は独善的な性格を帯びることとなる。もともと宗教的な価値を政治に反映させることを目的としていたため、自分たちに反対する者は宗教を否定する者だといった排他的な姿勢を示していた。一般の人々もまた、イスラーム主義に反対すると、イスラームという宗教を軽視しているとみなされるのではないかといった警戒感をもっていた。それが権威主義体制との対立のなかで、正義を求める唯一の存在というイスラーム主義勢力の自負につながり、権威主義に反対する立場にありながらそれと同じように、自らへの批判を許さない絶対的な存在であるかのように振る舞った。

 そこに二〇一一年政変が生じると、イスラーム主義勢力は当然自らが次の政権を担うべき存在であると理解した。事実、第1章でみたように、選挙においてイスラーム政党が与党となった例は多かった。しかし、おそらく彼らにとって想定外であったのは、多くの人々がイスラーム主義への嫌悪を公然と示し、その勢力に反対する姿勢を明確に示したことだった。イスラーム主義やその勢力は決して絶対的な存在ではなく、互いに対抗する政治諸勢力の一つに相対化された。これは、イスラーム主義勢力にとっては許容しがたいことであったろうが、民主化という観点からすればあるべき正常な状態であるといえる。イスラーム主義勢力は、もはや「唯一の正義の味方」ではなくなったのである。

 このようにみてみると、二〇一一年政変は過去の民主化やその後に生じた欠点や患部を補い修正するものであったともいえる。一九九〇年代の民主化が失敗し、二〇一一年政変が成功したのではなく、現在の民主化は紆余曲折をへながら、二〇年をかけてたどりついたものなのかもしれない。それは特定の政治的目的のない、過去の清算をともなう「下からの民主化」であり、制度的特殊性の減退やイスラーム主義の相対化といった政治制度・政治状況の正常化もあわせもつものであった。であるにもかかわらず、なぜ二〇一一年政変はその後に期待を裏切るような展開をみせたのか。現時点でその理由を特定することは困難であるが、以下に世俗と宗教の対立、イスラーム過激派の再変質、エスニック紛争への陥穿の三つの側面から考察を試みたい。
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チュニジア 予測されざるものの前兆

『チュニジア近現代史』より 尊厳・自由・正義のための革命

二〇〇四年および二〇〇九年の大統領選挙、議会選挙のいずれも、その結果は一九八九年に戻るパターンを本質的に何の逸脱もなく忠実に再現し、政治的風景を有意に変更するわずかな期待ももたせなかった。弱く分裂した野党は、それがルーティン化していたように、歴史的にネオ=ドゥストゥール党とその後継者のみが達成したこと--国民の重要部分を活気づけ、現状の変化を一致して求めさせるのに動員すること--を実現しえなかった。市民社会組織は、注意深く作られた見せかけにもかかわらず、ほとんどが当局の許した限定的範囲を超えて少しでも効果的に機能する能力をもたず、UGTTのような最大の、もっともよく組織されもっとも強固なものだけが、それも相当な慎重さと用心深さによってのみ、政権の行為に挑戦する現実的可能性をいくらかでももっていた。実際、国家の声高な批判者は、ますます規則的に厳しく恣意的な報復を受けるようになり、それは個人的監視や、当局が不満に思う行動が抑制されない場合の仲間や家族への脅迫から、約一三万人(チュニジア人のおよそ八〇人に一人)を数えるまでに膨らんだ国家保安機関の要員が割り当てる、いっそう深刻な司法的懲罰----逮捕・拘留・拷問の水準に至りうる身体的・精神的虐待--に及んだ。

その要員は、ベン・アリを鼓舞した中東の保安機関ムハッバラトと負けず劣らず国民から心より厭われていたが、彼は警官としての訓練および経歴に常にふさわしく、権力を握って以来チュニジアでの彼らの人数を三倍にしたのだった。彼らは国内の反政府派に注意を集中したが、同じ範暗に属すると知っている、あるいは疑っている国際的ジャーナリストをいじめることに何の良心の呵責も覚えず、たとえば二〇〇五年のUNESCO主催「情報社会世界サミット」の際に起きた事件がある。それがチュニスで開催されることは、地元の政府批判者と国際社会の事情通のメンバー--グローバルな相互接続性を推進しようとするこの会合が、その国民にインターネットの無制限利用を日常的に禁じ、「国境なき記者団」に「インターネットの敵」と呼ばれ、『フォーブズ・マガジン』にインターネットに関して世界でもっとも抑圧的な三カ国の一つと見なされた国で行われようとしていることを理解していた--をともにいらだたせた。たぶん驚くべきごとではないが、「国境なき記者団」に参加しているオブザーバーは、会合を取材するために入国するのを拒否された。代表団が集まって、ベン・アリ政府の偽善と、異論に対してますます自動的に抑圧で応える傾向に注意を向けようとし、デモ隊が街頭に繰り出した。当局は、国際メディアが記録しようとしたまさにそのこと〔抑圧〕をして、抗議者に得点を与えた。新千年紀の初期のチュニジアは、これらや同様の権威主義的態度をとったがゆえに、現代の政治理論家の一部が「非自由主義的民主主義」あるいは「自由化された独裁政治」と呼び始めたものの好例だった。

経済戦線では、チュニジアを長く特徴づけた入念な国家計画は変わらず続いていた。野心的な五ヵ年計画が、経済の全体目標を構成諸部門の特定目的とともに定め、それらは少なくとも紙の上ではしばしば達成された。二〇〇三-七年の計画は、製造業部門、とりわけ輸出所得の重要な鍵となる繊維産業を強化することに集中した。二〇〇七-一一年の計画は六・一%の年間成長率を要求し、それは二〇〇八年のグローバルな金融危機の結果が同国でも感じられるようになるまでは達成されていた。政権は、国際通貨基金や世界銀行その他のグローバルな金融機関の勧告をずっと以前から日常的に取り入れてきたが、それらに勇気づけられて経済的繁栄により政治的不満を緩和する戦略に従おうと、これらの年月を通じ最善を尽くした。しかし、二〇〇八年の劇的な下降以前にさえ、幅広い層の経済的諸階級や社会的背景、国内諸地域から何百万人ものチュニジア人が、最近の発展や傾向を認識し、ある者は本能的に、他の者は個人的経験から、表向き好景気の経済は危険な欠陥を隠しているし、政治的領域ではすべて政府が描こうと望むようではないことを理解し始めていた。

新千年紀の初期に、猛威を振るった消費主義が生活費を押し上げ、インフレ率を当初の緩やかな二・七%から二〇一〇年末の感心できない四・五%へ上昇させ始め、急増する個人負債は世帯当たりで平均二〇〇〇ドル相当以上にさえなった。ほぼこの同期間に、公式統計は一人当たり所得が三七・六%増え、貧困生活を送るチュニジア人は人口の四・二%から三・八%に減ったことを示したが、こうした数字を注意深く検討すると、同国の状況を可能な限り最大限好ましい風に見せようと意図した細工がうかがわれる。たとえば、貧困を定義するのに用いられた基準は敷居を非現実的なほど低く(一人一日当たり四〇〇ディナール)、米ドルでは一人一日当たり一ドル未満に設定した。事実として、より現実的な尺度によってさえ貧困生活を送っていたチュニジア人の比率は、石油に基づく経済の諸国を除きこの地域に住む他のいかなる国民より小さかっか。その結果、統計操作の価値が下がっただけでなく、データの吟味によって政府は信用できないという証拠が現れたのだ。同様に、大いに褒めちぎられた中間階級の成長を厳密に分析すると解釈上の問題が顕わになったが、そのうちもっとも目立つのは、政府の基準では安定的な中産階級とされる人たちのかなり多く、実に半分もが、より正確に言えば「漂流する中間附級」、すなわち所得か職の安定、あるいはその両方が常に貧困への転落の縁でぐらついている層をなしていたことだ。チュニジアにあれほど深く関与していた国際金融諸機関が、同国のデータの報告や解釈における深刻な問題を警告するこうした赤旗を、どうして見のがしえたのかは、「皇帝の新しいお召し物」の精神、すなわち地域の模範生徒がカンニングをしているとか、仕事の不当な解釈をそうと知りながら提出しているとかを暴露しないよう、チュニジアの状況をあまり注意深く調べないことにしたのを反映していたかも知れない。「それら[諸機関]が、バラ色の国の姿を描いているが、表層の下で進展している不均衡・不平等・そしてゆがみをごまかしている、選ばれたマクロ経済指標に依存していた』ために、それらは、現場の現実を見る限り、既存の環境の劇的変化がなければいつか実現するという希望をほとんどもてない、自己成就的予言を行ったのだ。

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