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精神症状をもつコミュニケーション

『精神看護技術』より コミュニケーション技術 精神看護におけるコミュニケーションの枠組み

これまで、心のケアが必要な患者全般を想定して、コミュニケーション技術について述べてきた。それらの技術の多くは、精神症状をもつ患者にも利用できる。そして、精神症状が活発な場合には、これまで述べた技術に加えて、症状に合った独自のコミュニケーション技術も必要になる。

1)活動性の低下と抑うつ感情

 活動性の低下がみられる場合でも、すべてが同じコミュニケーションの方法で対応できるわけではない。抑うっ感情や強い無力感を伴っているとき、および統合失調症の急性期にある患者とのコミュニケーションは慎重に行う。

 そのような状況ではなくて、ある程度持続的な活動性の低下がみられる場合、「やってみればそれほど難しくありません。○○さんならきっとできます」と保証し、「一緒にやります」と行動を共にし、「頑張りましょう」と励ます方法が使える。ただし、プライドが高い患者の場合には、「やってみればそれほど難しくありません」が逆効果になる場合がある。また、自信が低下している場合には「○○さんならきっとできます」は言わないほうがよい。もちろん、改善がみられたら「一緒にやります」は不要である。このように保証と励ましと共同行動が、活動性の低下した患者に対して用いられる。

 これに対して、抑うっ状態やうっ病の場合は、励ましは禁物である。「必ずよくなります」と保証するのはよい。しかし、言葉のはずみで「だから頑張りましょう」と言ってはいけない。患者は、頑張りすぎて、もうこれ以上頑張れなくなった状態で発症している。「一緒にやります」と行動を共にするのも、患者が自ら行う気のあることだけにとどめる。「看護師がやっておきますから任せてゆっくり休んでいてください。そのうち自分でできるようになりますよ」と言うべきである。

2)誤解・無知と妄想

 誤解・無知などは正しい情報によって訂正可能である。訂正方法の要点は、相手にとって(自分にとってではなく!)わかりやすい説明をする、繰り返し説明をする、論理的な説明をする、などである。本人は理屈ではわかっていても自分の誤解・無知を認めたくないこともあるので、感情的に受け入れやすいような説明の仕方をする、という配慮も欠かせない。

 これに対して、妄想はどんなに正しい情報を与えたり論理的な説明をしても訂正不可能である。妄想を訂正しようとする目的では、あらゆる説得が無効で、感情的な訴えも効果はない。そのため、妄想ぱ肯定も否定もしない”のが原則である。

 しかし、妄想により深刻な事態が予測される場合もある。そのような場合は、妄想そのものではなく、妄想に基づいた行動やその影響だけを話し合う。具体的には、被害妄想により他者への加害行動が懸念される場合は、行動を行わないよう説得する。被毒妄想による拒薬について患者と話し合うべきことは、“病院で出される薬に毒が入っているはずがない”ということではない。“(妄想の影響による)不眠や嫌な出来事から逃れるためには薬が有効である”ということや“飲んでもよいと思う薬はどれがということである。妄想自体は訂正不可能な確信であるので、コミュニケーションに取り上げると、否定しても肯定しても確信を強めるだけである。

3)かかわりを拒絶する

 看護師のかかわりを拒絶する患者がいる。そのような患者でも、特定の看護師だけを受け入れない場合と、ほとんどの看護師は受け入れないが特定の看護師だけは受け入れる場合と、すべての看護師を受け入れない場合とがある。それぞれの場合によって、とるべき対策が異なる。

 (1)特定の看護師だけを受け入れない

  原因がはっきりしていれば、原因を取り除く必要がある。たとえば、患者と約束したことを忘れてしまった場合は、気づいた時点ですぐ謝る。そして、その後に信頼を取り戻すよう努力する。

  しかし、理由がわからないこともある。そのときは、避けもせず積極的にかかわりもせずという姿勢で臨む。だれも完璧ではない。柑陛がある。無理して事態をこじらせないほうがよい。拒絶が極端でなければ、決まりきった日常の業務としてのかかわりはする。しかし、それ以上はかかわらないほうがよい。時間が解決してくれることもある。

  精神科病棟での経験によれば、症状が活発なときの拒絶は、症状の改善とともに解消することが多い。反対に症状が落ち着いてからのよそよそしさや避けているような様子は、なかなか消えない。

 (2)特定の看護師だけを受け入れる

  一人の看護師の援助しか受け入れない事態に直面することもある。その場合は、その看護師が必要なかかわりをし、病状の改善を待つ。かかわれる看護師の人数を無理に増やそうとしないほうがよい。ほかの看護師は、避けもしないが特に積極的なかかわりをするわけでもないという程度にする。

 (3)だれも受け入れない

  この場合は、皆で積極的にかかわる必要がある。強引に何かをさせようとしたり、いきなり患者の内面に踏み込もうとしてはいけないが、理由をつけて再三巴者の所に足を運ぶ。被害妄想が活発でなければ、間違った振りをして2回血圧測定に行くことも構わない。

4)訴えが多い

 訴えが多い場合は、その訴えを十分聞く。途中で口を挟んだり説明しようとしたりしないほうがよい。

 聞いた後の対応は患者により多少異なる。話を終えると「これでスッキリしました」という場合もある。また、自分で話した内容を要約する場合もある。これらの場合は「よかったですね」とか「わかりました」と答えてそれでおしまいにする。こうした訴えを繰り返して、訴えがなくなることもある。

 患者が自分で話した内容を要約しない場合は、話が途切れた、または終わった時点で「○○さんが言いたかったのは~ということでしょうか」と看護師が要約するほうがよい。要約が適切であれば、患者は理解者を得たという感じを受け、「患者一看護師関係」が進展する。また、適切な要約は、患者が自分の考えをまとめる助けにもなる。
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どこでベソスは「啓示」を受けたのか

『ジェフ・ベゾス ライブルを潰す仕事術』より それでもアマゾンは顧客のためにある

年に2300%成長していたもの

 ペゾスは学生時代から自分の会社を興すことを夢見ていたが、大学卒業時には、ビジネスや世界の仕組みを勉強するために、いったんは企業に就職している。これがベゾスに幸運をもたらす。それは、1994年、D・E・ショー社時代のことである。

 ベゾスは小学校で初めてコンピュータに触れて以来、コンピュータを20世紀に人類が生み出した素晴らしいツールと高く評価していた。大学でもコンピュータサイエンスと電気工学を専攻し、コンピュータ関連のクラスは全部とったというほどのめり込んでいる。

 ベゾスがコンピュータ能力を買われてファイテルに就職したのは1986年だが、1990年代に入ると、コンピュータの魅力を何倍にもするインターネットの普及が進み始める。使いこなしたり、ビジネスに活用したりする人はまだほとんどいなかったが、インターネットの将来性は高く評価されていた。

 「ある仕事をなすには、それにふさわしい時代に生まれ合わせることが必要だ」というのは、パナソニック創業者の松下幸之助氏の言葉である。ペゾスがまさにそうだ。卒業してすぐに起業していれば、アマゾンというアイデアに出会うことはなかった。

 1994年春、ペゾスは、ボスのデビッド・ショーからインターネット事業が持つ可能性についての調査を命じられた。調査するうちにベゾスは驚くべき事実に気づく。ウェブの使用状況が実に年率2300%という驚くべき数字で成長しているのだ。

 作家のジョン・クォーターマンが発行しているニュースレターに、1993年1月から翌年1月の1年間で、ウェブ上でやり取りされるバイト数は2057倍に増え、パケット数は2560倍に増えていると分析されていたのだ。

 ベソスはここから2300%という数字を出した。それは、100人のサークルが3年間同じぺースで成長すれば100万人を優に超えることを意味していた。

 ペゾスはこの数字を見て、めったにないことだと興奮した。

 「年に2300%成長するものは、今日はまだ目につかなくても、明日になれば巷にあふれるようになります」

大きな趨勢を見るな、小さな変化に乗れ

 100人のサークルには気づかなくとも、100万人の規模になれば誰だって気づく。しかし、その途中で誰も気づかないのはなぜか。ペゾスは「人間は指数関数的な成長を正しく理解するのが苦手なものだ」と理解した。

 同じ現象、同じデータを見ても、コンピュータやインターネットヘの関心が薄ければ見過ごしてしまうだろう。「その先」への関心がなければ「へーっ、すごいな」で終わってしまうはずだ。こうした人たちとベゾスが異なっていたのは、ペゾスがコンピュータに精通していただけでなく、ビジネスヘの深い関心を抱いていた点だ。

 ペゾスにとって、この驚くべき数字は神の啓示とでも言えるものだった。「これ以上のビジネスチャンスはあるのだろうか」と考えた。

 1994年頃まで、インターネットは国防省が主導し、大学や政府機関によって整備が進められていた。だが、同年に政府が手を引いたことによって民間の参入ができるようになり、ネットは爆発的な発展期を迎えたのだった。ベゾスはまさにその最初の発展期に驚くべき数字を目にしたのである。

 ペゾスは、一歩進めて「これはどの成長にマッチするのはどのような事業計画だろう」と考え始めた。

 驚異的な成長はチャンスにつながる。ペゾスとデビッド・ショーは、インターネットの持つ可能性をどうビジネスに結びつけるかを考えるようになった。

 変化が趨勢になってから気づく人はたくさんいるが、ごく小さな変化の時に気づき、さらに、それを生かすべく行動を起こす人はほとんどいない。ここに大きな分かれ道がある。

  「真に重要なことは趨勢ではない。変化である」

 これは経営評論家のピーター・ドラッカーの言葉である。本当にチャンスをもたらしてくれるのは小さな変化であり、みんながなだれを打つ趨勢ではない。小さな変化に気づき、即座に行動を起こす人だけが、時代の変革者となり得るのだ。

迷ったら「後悔最小化フレーム」で決める

 ショー自身、スタンフォード大学コンピュータサイエンスの博士号を持ち、コロンビア大学のコンピュータサイエンス学部の教授を経て、証券会社モルガン・スタンレーのテクノロジー担当副社長となった経歴の持ち主だった。その職を捨て、1988年にD・E・ショー社を立ち上げた起業家だった。

 それだけに、素晴らしいと信じるアイデアに出会い、その実現のために「起業したい」というベゾスの気持ちもよくわかった。しかし、それでも金融業界とは畑違いの「本を売る」ビジネスでの起業にはリスクが高すぎると感じていた。

 だからこその忠告だった。そして説得力があった。

 難しい決断に思えたが、ペゾスはある論理によって、案外あっさり答えを出している。

 それは、ベゾスが「後悔最小化フレーム」と呼ぶ理論だ。年を取って人生を振り返った時、どちらの道を選んだほうが後悔をしないですむのかと考えるのである。

 こう話している。

  「80歳になった時に、1994年のウォール街のボーナスをその年の半ばで棒に振ったことを後悔する可能性はゼロ。そんなことはきっと覚えてもいない。でも、この絶対にいけそうなインターネットに首を突っ込まなかったとしたら、後悔する可能性はかなりある。挑戦して失敗しても、後悔はしないだろう。そう考えたら、決断するのは信じられないくらい簡単になった」

 ペゾスには、ほかの選択肢もあった。時間をかけてデビッド・ショーを説得すればいい。もし了解を取りつけることができれば、起業というリスクを冒すことなくビジネスを始められる。

 だが、時間をかけることはチャンスを逃すことと同じだった。

 インターネットラッシュがそこに近づいており、しかもそれは驚くほどの巨大な鉱脈であることを誰も気づいていなかった。ペゾスの前にはチャンスがほぼ手つかずのまま転がっていたようなものだった。かといって安心しているわけにはいかなかった。ペゾスが気づいたのと同じようなことに気づいて先に事業を立ち上げる人がいれば、ペゾスの挑戦は一気にリスクの高いものになってしまうのだ。
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中東の国が国民国家になれない理由

『「イスラム国」殺戮の論理』より 中東イスラームの世界観

さて、牧畜社会の思想的構えとは、それこそ「何を信じようと勝手にしろ」と言った態度だ。そのようなものは「自由にすればそれでいい」と。

それよりも問題は財である。被支配者からいかに財(税)を巻き上げるかが一番の問題だった。

したがって、それが満たされない場合には、ただちに軍を急行させた。そして過酷な取り立てを実施した。身近で言えば、暴力団の債権取り立てに似ていよう。

が、彼らの苛烈さはそこで止まる。財以外のことについてはきわめて寛容なのである。中世遊牧帝国が宗教的に寛容なのは、ほぼこのことによっている。事実、モンゴル・ウルス(モンゴル国家)もオスマン・トルコも宗教を尊重こそすれ、押しつけるまねはしなかった。逆に言えば、キリスト教社会が思想・宗教にきわめて非寛容なのは、砂漠から離れたため牧畜文化が希薄になり、僧院制度が発達し(中世ではヨーロッパの成人男子の大多数が何らかの形で修道院に関係していた)、血縁幻想が効かなくなったせいである。

その結果、イスラームは、同期のキリスト教よりはるかに宗教的に寛容であり、はるかに血縁重視の社会であった。彼らは非ムスリムの信者らを二流市民に追いやったが、彼らが義務を果たす(税を払う)分にはその司法自治を認めていた。オスマン・トルコのミッレト制とは、その典型的な例である。

これは、無数にある宗教共同体を支配・管理するためにできたもので、古くはアラブ・イスラーム王朝が異教徒保護民(ジィンミー)に適用したものであった。オスマン朝では特に、ギリシア正教徒、アルメニア人、ュダヤ人が重視された。例えてみれば、スンニー派イスラームの雲海に、大小さまざまなミッレトが顔を出している状態と言っていい。そのミッレトは、オスマン朝に忠誠を誓う首長(ミッレト・バシ)によって管理され、その義務(徴税等)の見返りに、共同体内の司法権を獲得していた(後の悪名高いカピチュレーションはこの司法権に外交権を付与したもので、これが帝国主義列強の侵略の足場になる)。

だから、こと司法権に関する限り、ミッレトごとにパラパラで、国家内国家ができている状態と言っていい。これは、今の体制にまで引き継がれ、ここ中東では統一した国法で治められている国はない。とりわけ民法はそうである。

具体的な例を挙げよう。この地での結婚は、すべからく宗派ごとの宗教法に依っており、国法に依っていない。しかも、宗派ごとに分かれた社会は異宗間との結婚を認めないため、あえて結婚を貫く場合は欧米にでも行って届け出るしかないであろう。

これが、この世界の実情である。しかもその際、双方の一族から完全に締め出され、デラシネの夫婦となるであろう。

しかし、国家の司法がこのような状態にある限り、近代国家は成り立たない。そこで、宗教法を上回る国法を造ろうとの動きが出るが、それがうまくいったためしはない。中東で最も近代化されているイスラエルでもそれは無理で、相変わらずそれぞれの宗教法が共同体の問題(とりわけ民事)を処理している。

これが、いかに問題かは、彼らが他の国民国家(欧米や日本等)と交わる時に現れる。早い話が右の結婚である。周知の通り、イスラーム法では一夫多妻制を採っている。したがって、男性が第一・第二・第四妻を持つのは違法ではない。では、右に挙げた先進国でそれをやろうとした場合はどうなるか? 果たして、それは有効なのか無効なのか?

例えば、アメリカを例に取れば、同国は地縁の国故、他国の法律・習慣は一切考慮されえない。「アメリカではこうなっている。それが嫌ならここから出て行け」と言って終わりである。だから、いくらイスラーム法を振り回し一夫多妻を主張しても駄目なのだ。

だが、日本は地縁の国ではないために、これはできない。

その際は、重婚罪を盾に取り無効を宣言するだろうが、確信を持ったものとはならないはずだ。

では、当該のムスリムが、その日本人の妻候補を自国(例えばサウジ)に連れ帰って結婚し、その後日本で婚姻届けを出した場合はどうなるか。果たしてその結婚は有効か?

まことに、考えるだにめんどうくさい。そのめんどうくさいことを彼らは逐一やっているのだ。この地の苦労の一端が偲ばれよう。また、これで、国法の統一を基礎とする国民国家ができない理由も理解できよう。

では、その至難な国民国家を建てようとした場合はどうなるか?

まずは、ミッレトのもととなる宗教を潰さねばならなかった。これが共同体化しているから二重規範が出来上がり、国家への忠誠がないがしろにされるのだ。

そこで、トルコ建国の父ケマル・パシヤはイスラームを徹底的に抑え込んだ。他のミッレトにも同様に苛烈に対した。彼がイスラーム勢力を根絶やしにし、少数民族(アルメニア人等)を粛清し、ひたすら脱宗教体制を図ったのはこのことがあるからだ。

一方、トルコと同様独立を保ったサウジの場合は、タリーカ(イスラーム神秘主義教団)を潰しシーア派を抑え込みワッハーブ派一色にすることで国家統一を成し遂げた。

この両国が独立を保ったのは、偶然の所産ではないのである。それは国法を統一し、国家内国家を殲滅し、国民という均一の集団を造り上げたせいである。

ちなみに、このミッレト制が近代とそぐわなかったのは、それが身分制を取っていたからでもある。ミッレトに認められた宗教的マイノリティーは皆二流市民でしかなかった。

オスマン朝は、民族や人種でなく、宗教により人を位置付ける体制である。したがって、ひとたびムスリムでないとなると、生存権は認められても、それ以上の権利は獲得できず、それに耐えなければならなかった。

例えばユダヤ人の場合であるが、強制改宗さえ強いられていないものの、さまざまな制限が加えられた。

おまけに、ムスリムとのトラブルではイスラーム法が優先されてしまう結果、常に不利な状態に据え置かれた。彼らの地位は、中世キリスト教よりわずかにいい、というその程度だった。ユダヤ人は、キリスト教世界の迫害(強制改宗等)によりイスラーム世界へ逃げ出したが、再びそこからも逃亡した。イスラエルにアメリカからの移民が少なく、中東からのそれが多いのはこのことがあるからである。
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