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OCR化した8冊

304アベ『秩序の喪失』 2015/03/08 4:28 午後

 欧州辺境の闇

  凍結された紛争

  ウクライナだけの危機ではない

  完全なる主権国家に

 習近平主席の大戦略

  米中接近

  中国のソフト・パワー

 中東の点の光

  中東に戦略的思考を

 戦時の欧州 ジョージ・ソロス

  ロシアとの直接対峙を避けよ

  戦時経済で景気を浮揚できる

 機械いじりの修行時代 エリック・シュミット グーグル会長

  グーグルの発明

  グーグルも競争している

  新しい欧州の古い妖怪

 ロシアの反革命戦争

  プーチン体制はロシアの伝統か

  保身と蓄財に尽きる

509.21フジ『日本のものづくりの底力』 2015/03/08 5:32 午後

 環境、エネルギー、産業競争力の両立を考える--ミクロの視点の重要性

 1 日本が抱える矛盾

  複雑な連立方程式

  ミクロの視点の必要性

 2 グリーン政策が陥る罠

  グリーン家電普及促進事業の事例

  想定された効果と実現された効果

  同床異夢の罠

  「環境」「エネルギー」というマジックワード

 3 産業競争力から見た新エネルギーの可能性

  太陽光発電の可能性

  太陽光発電システムにおける日本企業の位置づけ

  普及政策の功罪

  地熱利用の可能性

  地熱発電の競争力

  日本における地熱発電開発の停滞

  問題克服の可能性--アイスランドの例

238クリ『ロシアの歴史』 2015/03/08 5:50 午後

 ペレストロイカからロシア連邦ヘ--今日のロシア

 1 ペレストロイカとソ連邦の終焉

  ゴルバチョフの登場

  本格化するペレストロイカ

  ソ連邦崩壊への過程

 2 ロシア連邦--今日のロシア

  ロシア連邦とエリツィン

  プーチンとメドヴェージェフ--強いロシア復活に向けて

 3 ロシアはどこへ

 4 その後のロシア

  二頭体制の始まり

  プーチン時代の再スタート

  ウクライナ危機

  クリミア併合

  ウクライナ--東と西で異なる背景

  深まる対立

019.2タツ『読書教育の方法』 2015/03/08 6:00 午後

 電子書籍の発展と多様なメディア活用

 1.電子書籍の普及

 2.図書館・出版社(者)と電子資料

 3.学校図書館における多様なメディアに関する現状

 4.日本における多様なメディア環境を用いた教育実践

 5.海外における図書館と多様なメディアに関する近年の動向

336.17エヌ『攻めのIT戦略』 2015/03/08 6:15 午後

 ITで顧客接点を高度化

 1 求められる新たな顧客経験価値の提供

  ITにより顧客接点の高度化

  顧客経験価値の向上に向けて

 2 好みに応える

  究極のパーソナライズ

  レコメンデーションの高度化

  ビッグデータの力
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究極の数学教科書を書く:ニコラ・ブルバキの『数学原論』

『Oxford数学史』より ⇒ 数学教室3年生の時にブルバキ『数学史』3500円を買うために、三日間、段ボール工場でアルバイトをした。

数学の歴史において数学の教科書は重要な役割を果たしてきた。だが、若干の重数要な例外はあるものの特に20世紀においては数学の教科書は一般に新しい結果を伝えるものではない。むしろ一つの分野の最新の状況を要約して提供することを目的としている。そのような要約は、描こうとしている知識の本体から見て中立的ではほとんどあり得ない。教科書を書くということは、それまで散在していた結果を単にまとめることにとどまらない。それは、題材や問題を選択し、それらを一貫した系統的なやり方で組織化し、さらに特定の技法、接近法や用語法を他の方法に対して優越させる。こうして、数学の教科書は、特定の研究方法を特権化することになる。数学の教科書を生み出すことは、何よりもまず、当該分野のきちんと定義された構造を与えることに関わっている。しかしこの構造は、一般には、著者に対して一通りのやり方で強制されるものではない。著者はその分野のはっきりとしたイメージを与えるために意味を持った選択をする。もしその教科書が成功を収め、影響力を持つならば、このイメージが当該分野の優越的なイメージとして広がっていくことになる。もし、著者が異なるイメージを選択していたり、あるいは、当該分野についての異なるイメージを伝える本がより大きな成功を収めていたならば、その分野のその後の発展はかなり異なるものとなった可能性もある。時には、ある教科書が打ち出したある分野の新しいイメージが、個々の結果におけるブレークスルーに劣らぬ革新を引き起こすこともある。

エウクレイデス『原論』は、もちろん、既存の知識から編纂され、しかも、二千年もの間数学(そればかりでなく)の形を決定づけるような、甚大なる影響力を持った学問のイメージを推進した教科書のパラダイム的な例である。ガウスの「数論研究』は、より明確に限定された目的を持ったものであるが、時に『原論』とも対比される第二の顕著な例である。近年では、ニコラ・ブルバキの「数学原論』が、20世紀の数学において同様の基本的な役割を果たそうとし、数学全体への衝撃を目指す遠大なる野心を持った、比類のない試みの産物である。それは、多くの傑出した数学者の努力を呼び込んだ集団的事業をなしており、1939年から1998年にかけて出版された多数の巻からなるシリーズとして世に出た(今日でも新版が出版されている)。その影響は数学界にあまねく広がっており、何十年にもわたって数学の研究・教育の進路を形成するのに貢献してきた。

プルバキの極端に厳格で特有の表現--そこからは図や外的動機づけは明確に排除されているーは、このグループのスタイルの刻印となっている。特定の問題、概念、記号法へのプルバキ流アプローチが広範に受け容れられていることは、その影響の広がりを物語っている。概念、および、理論は徹底的に公理的方法によって展開され、常に一般から特殊へと進行し、決して特殊な結果を一般化していくことはない。注目すべき一例を挙げれば、この書物で実数が導入されるのは、前もって代数と位相の重装備が準備された後で初めて可能になっていることである。

ブルバキ現象と『数学原論』に体現される表現法は、数学界において、好奇と興奮、畏敬、そして、しばしばというわけではないが、批判とあからさまな嫌悪が入り混じった形で迎えられた。『数学評論』誌からの次の一節は読者が直面する困難の的確な叙述である。

ニコラ・ブルバキによる本書を評価するという仕事にあたって、評者はアイガー北壁を登ることを求められているように感じている。表現は厳格で、巨大な一枚岩のようである。進むべき道筋のほとんどは、まったく動機の見えない幾多の定義に取り囲まれている。苦労して乗り越えねばならない演習問題の大群がいつも現れてくる。著者の他の多くの著作をひっきりなしに相互参照する覚悟ができていなければならない。進路が危険になり、今にも落下しそうになってきたとき、我々は、著者の該博な学識と権威を思い起こす。ブルバキは正しいに違いない。著者が与えるどんな些細な手がかりにもすがりつき、奈落に転落せずにすむようにと望みながら、ひたすら前進するしかない。

本稿は、『数学原論』執筆の計画の起源と発展について述べるためにある。それは、執筆に参加した数学者によって、しばしば、究極の数学教科書を編むこととみなされてきた。本稿はまず、このグループの起源とプロジェクトの初期の段階の叙述から始まる。そして、代数学と集合論にあてられた巻の執筆と、既存の教科書との関係に焦点をあてた叙述が続く。その先の項では、ブルバキによる数学のイメージにとって数学的構造という考えが中核をなしていること、また、それの『数学原論』の技術的内容との関係について論ずる。最後の項では、圏と関手の言語を数学を統一する一般言語として採用するかどうかという問題をめぐって、1950年代中頃に発生したグループ内での軋蝶について議論する。
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宇宙で目を覚ます

『進化とは何か』より

生命は宇宙の中で「進化」というゆっくりした過程を経て育つ

 まず最初に、両手を頭に持っていって、そっと自分の頭を触ってみてください。これはあなたにとっては実にたやすいことですが、こんなことができる機械を作ろうと思ったら、物理的にも金銭的にもそう簡単にできるものではないんですね。

 腕を上げていくと、あなたの腕の筋肉が今どこに位置しているかを正確につかむメカニズムが、筋肉内部に備わっている。また指先にある幾千ものセンサーが、あなたの髪の毛の質感や、耳の形、頭蓋骨の形をハッキリと感じ取る。あなたの脳が、自分の頭蓋骨の幅をとても精確に測っているのです。もしこういうことができる人工的なロボットの腕を作ろうと思ったら、一〇〇億円を超す費用がかかってし

 両手のあいだにあるあなたの脳のほうはどうか。脳はコンピュータのようなものですが、いまだかつて作られたことのないコンピュータです。もし人間の脳に匹敵するような働きをするコンピュータができたとしたら、その研究開発費用は、何百、何千億円というような数値になるでしょう。それなのに、あなたのと同じような脳、同じような手が、何百万という単位で毎日作り出されている。女性は、なんら研究開発の必要もなく、友人のちょっとした手助けと、九ヵ月の妊娠期間を辛抱することによって、それを成し遂げているのです。

 どんなに驚くべきテクノロジーでも、生命の素晴らしさの前では色あせてしまいます。では、生命はどこから来たのでしょう。生命とは一体何なのか、私たちはなぜこうして生きているのか、何のために生きているのか、生命の意味は何なのか。こういう問いかけに対して、科学は答えを持たないというのが、これまでの世間通念でした。しかし、もし科学がこれらの問いかけに対して答えを持たないのであれば、科学以外のどのような分野もそれに輪をかけてまったく答えを持っていないのだということを、ハッキリと言っておきたい。

 もちろんのことですが、実際科学はこれらの問いに対して、実にたくさんの答えを提示することができる。これからお話しする五つのレクチャーは、これらについてです。生命は宇宙の中で「進化」というゆっくりした過程を経て育つ。そして私たちは、自らの起源と存在意味についての理解を深めていくのです。

「エリート(少数精鋭)」だけが祖先になれる

 世界中のさまざまな社会は、ほとんどが何らかの祖先崇拝の習慣を持っています。別に崇拝することを薦めているわけではないけれど、生命の意味を理解するうえで、祖先というものが大事な鍵となっていることは確かです。祖先になるなんて簡単なことだと思われるかもしれません。しかし、確かに生殖は比較的簡単だけれども、祖先になるためには、何代にもわたって連綿と続く子孫を持たなければならない。これはかなり難しい注文です。

 生命の起源のころに立ち返って、細菌(バクテリア)のような割合簡単な生物のことを考えてみましょう。細菌は五〇世代分の繁殖を繰り返すと、どれくらいの数に膨れ上がるのか。これを実感するために、紙を折ってみます。一枚の紙の厚さは一世代に相当します。一世代経つごとに、(紙を半分に折るので)紙の厚さは二倍になる。ですから二、四、八、一六、三二、六四と、倍々になっていく。こうやって二を五〇回掛けていくわけです。

 二を五〇回掛けるとどうなるか。非常に大きな数になる。一〇〇〇兆、つまり一の後に○が一五個つく数になります。一枚の紙は一ミリの一〇分の一の厚さだとして、その一〇〇〇兆倍ということになると、一億キロメートルもの厚さになってしまう。これは地球から火星まで届くほどの厚さです。

 細菌のたった五〇世代後の数がそれほどになる。五〇世代なんて細菌にとっては朝飯前、わずか一日でクリアーしてしまう。一週間もたてば、細菌の数はこの宇宙にある原子の数の一〇億倍以上にもなってしまいます。これがすなわち数学者が言うところの、指数級数的な増殖というものです。もちろん実際にはここまで急激な増殖は起こらない。ある臨界点を過ぎると、細菌の数は別の自然要因によって制御されてしまうからです。

 祖先になることはたやすいと思ったのは聞違いだったわけです。「エリート(少数精鋭)」だけが祖先になれる。ダーウィンがやったように、細菌の場合と同様の計算を、われわれ人間やゾウを対象にしてやってみてください。細菌よりもっと時間はかかりますが、同じような結果になります。つまり割合に短い年数のうちに、宇宙はゾウまたは人間であふれかえってしまうことになる。そうならないのは、生まれた生命体のほとんどが、遠い祖先にならずして死んでしまうから。ほんのわずかの「エリート」だけが祖先になることができるわけです。「エリー卜」という言葉に抵抗を感じる人もいるでしょうが、単に運だけでは祖先にはなれないということを言いたいわけです。祖先になるのはそうなる能力があるから。生き残り、配偶者を見つけ、生殖し、食べられてしまわないよう気をつけ、食物を探し、よき親であり、といったようなさまざまなことができる必要がある。

 これはとりもなおさず、ダーウィンの自然選択説を別の言い方で言っただけです。われわれが今まで永らえ、生き残ってきたのは、これまでずっと成功しつづけてきた祖先たちの遺伝子を通じて、祖先として成功しつづけるために必要だった要素をすべて受け継いでいるからです。

私たちはスポットライトの中で生きている

 ちょっと視点を変えて、私たちが生きているということがいかに幸運なことか、という点を強調したいと思います。なぜ幸運かというと、われわれの先祖が生き残ってこなかった可能性のほうがはるかに大きいから。われわれでなく誰か別の人間が生き残った可能性のほうがとてつもなく高い。

 それから、私たちが生きているということは、また別の理由で実に幸運なことなのです。考えてみてください。宇宙はその誕生から約一四〇億年たっている。つまり、一億四〇〇〇万世紀です。そして今から六〇〇〇万世紀たつと、太陽は赤色巨星になって、地球を飲み込んでしまう。つまり宇宙誕生から太陽系の終焉まで約二億世紀の時間が流れることになります。

 宇宙が誕生してから一億四〇〇〇万世紀のあいだ、初めから一世紀ずつすべての世紀が、過去に「現世紀」であったことがあるのです。そしてこれから太陽系の終焉まで六〇〇〇万世紀のあいだ、一世紀ずつすべての世紀が「現世紀」となる。「現世紀」というのは、膨大な時間の流れの中の小さな一スポットライトに過ぎない。その一瞬のスポットライトの前はすべてが死滅した暗闇であり、そのスポットライトの後はすべてが未知の暗闇です。私たちはこのスポットライトの中で生きている。

 この二億世紀の膨大な時間の流れの中で、一億九九九九万九九九九世紀は暗闇に埋もれているのです。たった一つの世紀だけに光が当たっていて、その小さなスポットに、たまたままったくの偶然でわれわれが生きている。われわれの生きている世紀がたまたま「現世紀」となる確率は、ロンドンからイスタンブールまで行く途中でなにげなく放ったコインが、ある特別な一匹のアリの上に落ちるのと同じくらい、低いことなのです。
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