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現象学 「みんなもそういってるから」

『アドラー心理学を深く知る29のキーワード』より

人間は「主観的」な生きものです。ここでいう「現象学」とは、事実に対する主観的な印象であり、主観的な見解であって、私たちはそうやって「意味づけ・解釈」した世界に生きているにすぎないということです。

ここに、ひとつのできごとがあり、100人が同じように遭遇したとしましょう。たとえば、交差点で自動車どうしの衝突事故を目撃したとします。はたして100人は同じようにそのできごとを〝経験〟するのでしょうか。ある人は「かわいそうに!」と当事者に同情し、ある人は「なんておろかなことを」と冷めた目で見ているでしょう。また、「なんでこんな見通しのよい交差点で事故が起こったのか」「どちらにより責任があるのか」「ケガがなければいいが」「私も注意しなくては」「保険にはちゃんと入っているだろうか」などと考える人もいます。

同じできごとを見ていても、おそらく100人がそれぞれの印象を持ち、それぞれの見解を持つにちがいありません。

この本を読んで、はじめてアドラー心理学について考える人も同様です。おそらく、人によって、それぞれが異なった印象、異なった見解を持つはずです。それぞれの印象と見解が、あなたにとっての主観的現実です。このことについてアドラー心理学は、外界に対する主観的な意味づけ・解釈をし、世の中を理解しているものと考えます。

つまり人間というものは、それぞれがユニークな存在であり、その人らしいユニークなライフスタイルによって、自分と世界のあいだに個人的で創造的な関係性を見いだしています。そして、現象学的な印象や見解によって認識しているのです。

ある日私が自宅でくつろいでいると、携帯電話に1本のメールが入ってきました。「いまから電話で話せる?」-ある友人からでした。「了解!」と返信すると、まもなく電話がかかってきました。友人は私がカウンセリングを学習していることを知っていたので、ときどきこういったやりとりをしていました。

その友人は、職場の同僚と仕事上のある案件において意見がぶつかり、そのまま口論となってしまいました。そのとき同僚に自分のアイデアに対する批判をされ、「誰だってそういうに(そのアイデアに対して批判をするに)決まってる!」といわれて、大きなショックを受けたというのです。

友人は、同僚の批判に対してカッとなってしまい、激しい罵声を浴びせてしまったそうです。そして、「ねぇ、これって私のほうが間違ってる?」と私に同意を求めながら、すぐさま「私のほうが正しいって、みんなもそういってるから」と、続けました。

話をまとめると、どうやら最初の論点からは脱線してしまっているようです。すこし整理しなくてはなりません。同僚が友人のアイデアに向けた批判--これには怒りたくなる気持ちが理解できないわけでありません。そう伝えたうえで、相手に罵声を浴びせたことが正しかったのかどうか--これは、よくなかったのではないかと率直に答えました。

しかし、これだけではまだ解決していません。私の頭の中では、彼らのやりとりにあった「誰だって」「決まってる」「みんなも」という言葉の選択に強い違和感を覚えていました。そこで、「ねえ、〝みんなも〟っていっていたけど、誰のこと?」と聞きました。すると、友人は具体的に〝ふたり〟の名前をあげたので、つぎのように答えたのです。

「同僚が、〝誰だってそういうに決まっている〟といったのは、たしかにその人の勝手な考え方だよね。〝だって〟というのは、いったい誰のことだろう? そのほかの人がどう思っているかなんて、わからないのだから。ところで、キミがいっていた〝みんな〟というのも、その(たった)ふたり……なんだよね」

すると、友人はハッと何かに気づいたらしく、ほがらかに笑う声が電話越しに聞こえてきました。こうして私が〝3人目〟にされることはなかったのです。後日、友人からメールがあり、「批判されたことに対してはまったく気にならなくなった。同じように批判された場合にも、どう冷静にふるまい、対処すべきかを考えるようになった」とありました。

私の大学院時代に、こんなできごとがありました。その日のミネソタは晩から降りつづいた雪がやみませんでした。翌朝、窓から外を見ると、あたり一面が銀世界です。ちょうどその日は土曜日だったので、そのまま静かにアパートの部屋で過ごすことにしました。そのとき突然、電気が落ちたのです。

おやっと思いながら、廊下に出てみると、非常用の電灯だけがもの寂しげに光っています。ようやく事態を把握します。停電でした。冷蔵庫の電源や暖房は切れ、インターネットもできない状態となってしまったのです。

すでに午後3時。この休日には、月曜日に締めきりの課題をやらなければなりません。リサーチが不十分だったので、インターネットの接続は生命線です。しかたなくノートパソコンをつかって書けるところだけ進めることにしたのですが、まもなくバッテリー切れのサインが点灯しはじめました。

土曜日であること、さらにちょうど学期をまたぐ週だったこともあり、大学院は休みです。いぜんとして大雪はやまず、外出も困難な状態になったので、「明日になれば復旧するだろう」と、今日はあきらめ、早々とベッドにもぐりこみました。この時期、ミネソタは午後5時過ぎには暗くなるのです。しかし、そんな時間から眠りにつけるわけでもなく、ただベッドに横だわって朝が来るのをジッと待ったのを覚えています。

はたして日曜日、結局午前中までに復旧せず、アパートのマネージャーにも連絡できません。ノートパソコンと携帯電話のバッテリーもついに切れたので、もよりのスターバックスヘと出かけました。そこで、充電とインターネットの接続をして、さっそく課題にとりかかりました。3時間が過ぎ、いったん確認のためアパートに戻るも、まだ電気はつながっていません。そのとき偶然、車でテレビを見ていた同じ建物の住人がいたので、復旧のめどをたずねてみますと、今夜、もしくは明日の午前中ではないかということでした。

「ああ、閉店ギリギリまでスターバックスで課題をやって、またあの暗くて寒い部屋に戻るのか」--そう考えたとき、思わずハアと大きなため息がでました。いっそホストファミリーのスキャンロンさん宅へお邪魔して、〝一泊食事つき〟をお願いしようとも考えたのですが、それでは、あまりにも安直すぎます。自分の学問のためにアメリカにまでやってきた覚悟というものが見いだせません。私は腹をくくりました。

「こんな経験は望んでも、なかなかできないぞ。ならばいっそのこと、このひどい状況を楽しもうじゃないか!」

そう考えると、何だかサバイバーの気分になって、ワクワクしてきたのでした。

このときの私も「意味づけ・解釈」という作業をしています。できごとや状況、それじたいが意味を持っているのではありません。私たちの「知覚」を通して、主体的に意味が〝つくりあげられる〟のです。

つまり、事実に対する意味は自分が決めています。事実に対する解釈のしかた、意味づけの方向性は、人それぞれです。結果として、それが正しいかどうかではなく、それぞれの意味づけの方向性、解釈のしかたによって行動するのが、人間というものでしょう。そして、いざ不測の事態が起こったとき、それぞれの異なった意味づけの方向性、ユニークな解釈のしかたが、必要になってきます。これは、その人の「信念」というべきものです。

以上の流れを図式であらわすと、つぎのようになります。

できごと・状況-知覚-意味づけ・解釈-信念
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