goo

創造力 「こんな性格に誰がした?」

『アドラー心理学を深く知る29のキーワード』より

アドラーは、つぎのようにいいます。

「どの個人もみな、それぞれの性格と、その性格の形成の双方を表現しているといえる。たとえるならば、個人は絵画でもあり、自分という絵画を描く画家でもある。個人は自分の性格を描くアーティストなのである」

自分をつくりあげるのは自分しかありません。自分の行動のすべてを自分で決めることができます。もっといえば、自分しか決めることができません。私がアドラー心理学と出会って、もっとも感銘を受けたのが、この「創造力」という概念でした。創造力というと、すばらしいアイデアがひとりでに浮かぶ能力かと思われがちですが、それとは別物です。

小学生のころの私は本当によく泣いていました。いじめにあっていたわけでもないのに、ちょっと学校の友だちにからかわれるだけで、すぐ泣いてしまっていたのです。家に帰ってそのことを親に話すと、「男なんだから、そんな簡単に泣くもんじゃない!」と怒られました。自分の不幸が受けいれてもらえないと、「こんな性格になったのは、お父さん、お母さんのせいだ」と反発し、さらに泣きわめいていたのです。

アドラー心理学では、いわゆる一般的な性格のことを「ライフスタイル」といいます。このライフスタイルの形成において、3つの要因が考慮に入ります。それは、遺伝的要素、環境的要素、そして創造力です。

カウンセリングをしていますと、よく「性格は子供に遺伝するのですか」という質問を受けます。遺伝的要素と環境的要素については、あくまでライフスタイルの形成に「影響を与えるもの」であって、それじたい「決定要因ではない」と、お答えしています。つまり私たちは、それぞれに与えられた遺伝的要素や環境的要素といった限界と可能性の中で、創造力を用いて自分自身のライフスタイルを決定しています。

この創造力は、人間に「自己決定性」と「自己責任性」を与えてくれます。

そこには、選択と決定の自由意志があります。つまり人間は、遺伝的要素や環境的要素によって機械的に動かされているのではなく、それらの制限を受けながらも、自由な決断をくだし、自分をコントロールできる存在だということです。人間にとって、3つの要因の中でただひとつ、自分の意志で自由に決められるのが、この創造力なのです。

さらに、すべての人には「自分の決定に責任をともなう」という能力があるものと、私たちは信じています。

このことはまた、「自由意志論」、または「やわらかい決定論」という言葉でも説明されています。アドラーから強い影響を受けた、実存主義のヴィクトール・フランクルは、つぎのように語っています。

「刺激と反応のあいだには、少しのすき間がある。そのすき間において、人間は自分の反応を選択できるという力を持っている。そして、その反応の中には、私たちの成長と自由が眠っているのだ」

親へ責任を転嫁していた小学生の私は、社会人になっても、その呪縛から抜けだせていませんでした。大人になってからの事業者金融の営業でも、思うように成績が伸びなかったときや、会社の事業や営業の方針になじめず、納得のいかないことが起こったときにも、「自分がうまくいかないのは、社会のせいだ」と嘆いていたのです。ですが、その限られた環境の中でも、自分をコントロールでき、自由な決断ができていれば、創造力を発揮して、何らかの工夫や改善ができたはずでした。

社会心理学には、「根本的な帰属の誤り」という概念があります。これは、「人間の行為は、その人の内的要因、つまり気質や性格的なものである」というように、つい偏った見方をしてしまう誤りを示しています。

たとえば、仕事でミスをした同僚がいたとします。こういうケースでは、周囲の人は「いい人だけど、大ざっぱな性格だからなぁ」とか、「いいかげんな人だから、いつかはこうなると思っていたよ」とか、あたかもミスの原因が、その同僚の性格だけにあるかのような結論をしてしまいがちです。このとき、人間関係や状況などの外的要因は、ほとんど無視されてしまっているのです。

また、「行為者‐観察者バイアス(歪み)」という理論では、「行為者となった場合、自分自身の行為の原因は外的要因に帰属させるが、観察者となった場合には、その同じ行為の原因を行為者の内的要因に帰属させる傾向がある」と説明されています。つまり、「当事者の立場か、外野の立場か」によって、同じ行為に対しても見方が正反対になるということです。

これは、理論化されるまでもなく、誰しも心あたりがある話ではありませんか。ですから、自分自身がミスをした場合には、「パートナーがちゃんとやらなかったから」「運がなかったから」「状況が悪かったから」などと、外的要因を最初に考えてしまうわけです。

もうひとつ、似たものに「自己奉仕バイアス(歪み)」という理論もあります。これは、自分自身が何かで成功したり、うまくいったりしたときは、その内的な要因、つまり自分の能力や努力のおかげだといい、失敗したときは、外的な要因、つまり誰かほかの人や状況のせいと考えてしまう傾向です。

このような心理的なバイアス(歪み)は、成功の成果をひとりじめし、失敗の反省はしないという、私たちの悪い一面を正当化しています。

「人間のライフスタイルは6歳ごろまでに形成されるであろう」--アドラーはそういっています(現在のアドラー心理学では10歳)。形成期の子供は、試行錯誤しながらさまざまな行動を起こし、家族や学校などの環境のもと、自分の居場所、つまり「所属」を確立しようとします。そして、その行動の結果や相手との関係などから学び、つちかわれていく「創造力」を駆使して、自分や他者、そして世界観においての「信念」を形成していくのです。

しかし、形成期の子供には言語力が不足していますし、知識も十分にありません。そういった中で、彼らはいったいどうやって、それらの信念を獲得していくのでしょうか。

アドラー心理学には、「子供はすぐれた観察者ではあるが、未熟な解釈者である」という見方があります。ですから彼らは、あるできごとに対する経験や見解を感覚で理解していると考えられています。その経験や見解を表現するための言語レベルと適切な認知力が、十分に発達していないというだけなのです。

たとえば、「ボクが泣けば、いつでもお母さんが来てくれる。だから、何か嫌なことがあれば、すぐに泣いてお母さんに気づかせなきゃいけない。それでボクは安心できるんだ」などと言語的に認知しながら、泣きわめいているような子供はいないでしょう。ですが、こういった言語的な気づきと理解がなくても、この子供はそのように行動するのです。

つまり、経験というものは言語化された形で信念として獲得されるわけではなく、感覚という形で経験されるうちに信念がっくりあげられ、やがてライフスタイルを形成していくという反対の流れになります。

また、いったんこの信念が確立し、ライフスタイルの一部になると、できごとに対して選択的な注意を向けるようになります。この選択をもたらす<。色メガネ〃の役目をはたすのが「統覚・認知バイアス」です。

そして、統覚・認知バイアスにより「私的論理」の形成のプロセスが起こります。

その後は、あるできごとに遭遇したときにも、受けいれたいことには注意を向け、無視したいことには注意を向けなくなります。つまり、個人のライフスタイルに沿うように、経験やできごとは選択的に受けいれられ、「意味づけ・解釈」されるということです。さらに、そのプロセスはライフスタイルを強化する助けとなり、ある特定のできごとには、。無意識的に々そのライフスタイルにしたがって行動するようになるわけです。

この無意識も、一般的な理解とは異なります。アドラー心理学が考える無意識について、2つの視点から補足をしておきましょう。

ひとつ目は、さきほどの統覚・認知バイアスにより認識の選択がなされ、私的論理が形成されるプロセスで起こるものです。私たちは、自分のライフスタイルにしたがって、選択的にできごとをとりあげ、それに意味づけ・解釈をします。この流れが強化されると、なかば自動的ともいえる形で、いわば無意識的に行動するようになります。

もうひとつは、「暗黙的理解」です。これは、経験やできごと、状況といったものも「言語化されていない」かぎりは、それに「異論をとなえることができない」ということです。

アドラー心理学のカウンセリングの現場では、ライフスタイル診断というものがおこなわれます。その目的は、個人の「信念体系」(自己概念、世界像、自己理想)を言語化し、その誤りを見つけて修正していくことにあります。

しかし、この信念体系というものも、ライフスタイル形成期にはきちんと言語化されていません。そして、いつまでも言語化を実現できないまま成長し、成人している場合があるわけです。言語化されていなければ、その誤りに異論をとなえるどころか、それを認知することもできません。その状態が無意識のもとにあるというのが、暗黙的理解です。

これらは、フロイトがいったような〝抑圧された無意識〟ではないことをあらためて強調しておきたいと思います。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 現象学 「み... 一日早く、緊... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。