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メッセージ機能

ライブラリ機能

 ライブラリ機能はファイルの管理ではない。メールとの関係、チャッターとの関係、外部のライブラリとの関係、リスト形式の表現などがあります。

 特に、このリスト形式の表現は、今まではお仕着せだったけど、ダッシュボードで加工すること、蓄えることも可能にします。併せて、コンテンツに対する自由度が増せば、販売店の強力なツールになります。販売店の気づきに基づいて、一歩ずつ、具体化します。

 本来は、もっと大きな概念からやっていきたいけど、現行とのつながりでやっていかないと、販売店も開発担当者にも分からないでしょう。それに気づいたところが、機能を開発していけばいいでしょう。

 システム設計をしているのではなく、運用設計、というよりは活用設計をしています。リストで貯められるとなれば、情報系で行っている、日報なども対象にできます。

メッセージ機能

 情報系は店舗でのスタッフと店長の間だけの関係になっている。それを店舗内とか、コラボレーションのために情報共有が可能になります。重要なのは、スタッフ自身が入れられるということと、検索機能です。その先にあるのは、スマホのチャッターとの接続です。

 モバイル機能については、SFDCでどこまでできるかというよりお、世の中がどれだけ、求めているかどうか。そのなってくると、ライブラリの自動抽出が必要になってきます。メッセージに対して、関係する言葉で、ライブラリを自動的に持ってくることです。その意味では、スタッフの外部ナレッジです。そして、日報を単なる管理資料にしないということです。コラボレーションのテーマにすることです。

点を集合に、集合を点にする

 運用からすると、営業本部長とか経営者を巻き込むようにするためには、アイデアの抽出です。つまり、点が点のままではなく、集合を点にすることです。

 点を集合化して、そのテーマでコラボレーションして、新しい点を作り出します。点を集合化することで、ゴミを除去することをコラボレーションで行います。その際はチャッターにステージを変えないといけない。

将来の爆弾を仕掛けています

 どこでどのように爆発するか分からない、爆弾を仕掛けている感じです。その時の起爆装置は、存在の力です。存在の力での爆発は、核反応をもちます。それをいかにゆったりとさせるかが重要です。

 そうなると、原発の制御方法を使うことになります。つまり、制御棒のコントロールです。様子を見ながら、徐々に行うことです。ファシリテーターとしてのパートナーがいないと難しいですね。販売店で2年掛かるか、その時点で出来るかの違いです。爆弾をコントロールするために、制御棒としてのパートナーが必要です。

スマホの使い方

 ポータルでのスマホの使い方はハッキリしています。それはDBです。ドイチェバーン(ドイツ国鉄)です。基幹系の情報と自分の情報を、走っている電車の中で、的確に表示できるものです。ドイツのローカル線に乗りながら、特急に乗りながら、相手の電車とか駅の情報を共有していた。ものすごく、コンパクトに作っていた。

 スタッフも動きながら、基幹系のストック情報とチャッターのようなフロー情報を合わせて、状況を見えるようにすることです。それで初めて、行動ができます。情報系のシステムには、ストックの情報しかない。フローしながら、お客様に関する情報を入れながら、コラボレーションして、その総合力で、お客様を支援することです。

 作る方から考えると、この発想はないから、使う方から考えるしかない。どの経路で自分が動いているのか、そこでの情報をライフログとして残すこともできます。店舗に帰ってから、報告というカタチでは、タイミングを逸します。店長はスマホを通じて、同じように、行動しないといけない。

 これは市民コミュニティの場合も同じです。市民は離散している人を状況を把握した上で、つないでいくものです。一番近い人が行動するということでは、タクシーみたいなものです。

 指令センター、高いアンテナが立っているところがコミュニティです。そこからの指令でグループで動いたり、自分で動いたりし、結果はライブラリに記します。存在の力を禅手にすると、有機的な動きが可能です。
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存在の力での第三の道

未唯へ

 TMは五日まで休みです。寒いヨーロッパではなく、暖かいところに行ったみたいです。

存在の力での第三の道

 文句を言わずに働け!文句があれば辞めればいい。それ以外の第三の道が存在の力です。組織を変えることです。

 組織が国だったら、よく分かると思います。変わるわけにはいかないので、社会を変えることが残された道です。企業なら分かるけど、リーガル・ハイではないけど、裁判所は多数決ではない。和解というのは、全員一致です。

 それぞれがどのように生きていくかを決めよ!ということです。決めた結果として、どうしていくかです。存在の力を発揮するには、色々なことを知らないといけない。好奇心が一番かもしれない。そうして、相手の身になって考える。

コミュニティの間のコラボレーション

 コミュニティの間のコラボレーションをもう少し、具体化しましょう。図書館コミュニティと学校図書館をターゲットにしましょうか。

 同じ図書館でどういうカタチにすればいいのか。学校図書館は司書の専任化によって、多くの人が考えられる。また、日本全国に多くのケースが発生する。色々なやり方を試すことができる。その際に、島根の隠岐のケースでは地理的条件を特化できます。

 コンテンツをいかに利用するかという意味では、電子書籍は役に立ちます。そこで、自分たちの知識と意識をどう拡大させていくのか、どう受け入れていくのか。情報共有は、そこではポータルに限ります。クラウド的な発想です。生涯学習も同様についていかないといけない。何しろ、カリスマをなくして、自分でそれぞれが考えていくということです。

 やはり、コミュニティ間の連携は情報共有の概念でやるしかない。そこではポータルとライブラリが意味を持ちます。それぞれが、内的にコミュニティ化する部分と、外的に情報共有する部分からなり、それぞれの手段は異なります。

女性から男性は作られた!

 ムスリムの女性たちは依存している振りをしている。男性を立てているだけです。男性は幼稚だから。このユダヤの考え方は重要です。女性の神様と結託して、女性としての身の振り方を決めている。

 依存していると見せながら、存在の力を使う。この隠してあるパワーが一気に展開される可能性があります。結局、フランス革命にしても、ロシア革命にしても、トリガーは女性でした。

相対的な価値観

 図書館協議会の時に、自らの意思で来ている人間と役割で来ている人間では、全然、発言が違います。

 身分が安定しているとかではなく、誰の価値観であるかで異なります。それを認める人にとっては大きいけど、そうでない人にとっては、その人がどれだけ本を読んでいるかに依ります。リンゴとお金との価値観によく似ています。絶対的な価値観はないけど、相対的に見た時に、皆が認めているから認めているというのは、依存です。

 会社の組織もそうです。彼が何のためにそこに居るのかではなく、自分の身分を守るために、そうしていることは否定します。mmはそういうものに頼ろうとします。自分が不安定だから、人に説明する時に楽だから。それでは依存です。依存すればするほど虚しくなる。

 自分の思いをもっと信じるべきだし、そのために、分化すると同時に、知ることを知らないといけない。ムスリムの戒律はユダヤの戒律から生まれたのでしょう。ユダヤはかなりの戒律です。だから、離散しても生きていけます。だから、どうしても、絶対的な存在が必要です。皆にとって、それが一神教です。
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「社会契約論」とはどんな思想だろうか

『社会契約論』より

最初に、「社会契約論」とはどんな思想なのか、その特徴を説明しておこう。それはどんな問いを立て、どんな答えを与えようとしたのだろうか。

第一に、社会契約論は、社会の起源を問う思想だ。ここで「社会」とは、さしあたり人々が集まり、共同で生活する場、というくらいの理解でょい。私たちが暮らすこの社会は、どこから来て、どんなふうに生まれたのか。社会契約論は、それを解き明かそうとする思想だ。だが、たとえば実際にあった歴史上の起源を、古文書をたどって発掘するのではない。理屈として、原理として考えたなら、社会というのはこんなふうに生まれたはずだと説明する。

それを作り話と考えるなら、まあ一種の作り話だ。でも、理屈の上で考えたときに、誰でも少し頭を働かせればたどっていけるやり方で社会の起源を語るというのは、出まかせの作り話にはない効果がある。それは、現にある社会について、理屈として納得できるかどうかを考えるきっかけを与えてくれる。ある社会が実際にどういう経緯でできたかとは別次元で、社会の原理的な成り立ちについて考えることは、いまある社会がいまのままでいいのかを考える際、一つの基準になるのだ。

第二に、社会契約論は、社会が作られるために、そして維持されるために最低限必要なルールは何かを問う思想でもある。社会が社会であるためには、なにか秩序やルールのようなものが必要だ。ルールが全くなければ社会とは呼べず、人が集まっていたとしてもたまたま近くにいるだけだ。そして、そういう集まりにもし安定したルールが生まれなければ、喧嘩になり殺し合いになり、集まりそのものがすぐにも消え去る。

社会に不可欠な、こうした秩序やルールがどこから来るかを考えるにあたってば、大きく分けて二通りのやり方がある。一つは、秩序やルールは自然に、あるいは人間がわざわざ作らなくてもどこかからやってくるという考え方だ。

このなかには、人間同士が二緒にいれば、共通するルールが自ずと生まれるという考えも含まれる。目と目で通じ合うのか、あうんの呼吸か、何かそれに類するものを通じてルールが生まれるということだ。また、人は生まれたときから社会の中にいるのだから、誰だってそこで通用しているルールに従うのが自然だという考えもある。あるいは、古くからあるルールは伝統や慣習として通用しているのだから、それ以上起源を詮索しても無意味だとする考えもある。ここでは、歴史や時間そのものが伝統と慣習を強固にし、秩序の根拠となる。また、神様が人間世界に秩序を与えてくれたのだという考え方もある。こうした場合には、秩序やルールが正しいかどうかは、それ以上さかのぼれない究極の根拠(神や自然や伝統)によって判定される。

もう一つは、秩序やルールを「人工物」とみなす考えで、社会契約論はこちらの代表だ。ところが、ここに困った問題が出てくる。神様や自然や歴史が秩序を与えてくれるなら、ある秩序が正しいかどうかの最終判断に、生身の人間は直接責任を持たなくてょい。ところが社会契約論は、秩序は人工物だと言う。そうすると、秩序の正しさにも、人間が責任をとらなければいけなくなる。言い換えると、神も自然も歴史の重みも、あるいは他の何の助けも借りないで、人間たちだけで社会を作り、運営していく仕組みを考案しなければならないのだ。そして秩序の正しさについても、私たちの頭で理解し判定できる範囲で、何らかの基準を設けなければならない。

つまり社会契約論は、人間社会が維持されるための最低限のルールとは何かを考える思想だ。そしてまた、そのルールが正しいかどうかを判断する際、人間自身が持つべき基準や手続きはどうあるべきかを考える思想なのだ。

三番目に、社会契約論は、人工物としての社会を誰がどうやふて作り、その社会は何によって維持されるのかを問う思想だ。人間だけで秩序を作り、それなりに維持していくためには、社会はけ。こうきちんと作っておかないといけない。そうなると、誰が作ってもいいってわけではないし、作り方にもエ夫がいる。やわですぐ壊れてしまうような社会ではだめだ。そのうえ、生物が生きるのに何かのエネルギーが要るように、社会を維持していくにもエネルギーが要る。それがなければ生物は死に絶え、社会も凝集力を失ってばらばらになってしまう。これは社会体の死、秩序の終わりだ。

では、誰がどうやって作れば、それなりに頑丈ですぐに息絶えてしまわないような、持続性と凝集力がある社会ができるのか。社会契約論は、それを考える思想だ。

こうした問いに、社会契約論はどういう答えを与えるだろうか。それを短いフレーズで表すと、「約束だけが社会を作る」というものだ。まず、社会が作られる以前の状態、つまり「自然状態」が出発点になる。ここには、自由で独立した人たち、つまり、共通の社会を持たない人たちがたくさん出てくる。この人たちが互いに約束を交わす。そうすると彼らは、ばらばらの状態(自然状態)から抜け出て、他の人との持続的な絆の下に置かれるようになる。この約束が社会契約で、それを通じて秩序が生まれる。人が生きる場面は、孤立した自然状態から、他者との継続的な絆が結ばれる社会状態へと移行する。

社会契約論が社会秩序の本性について何を問い、それにどんな方向で答えょうとしたのかは、とてもざっくり言えば以上のとおりだ。
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「自分中心に生きる」レッスン

『「まわりは敵だらけ!?」と思ったら読む本』より

お互いを認め合うためには、自分の敷地と相手の敷地の境を明確に自覚する必要があります。この捉え方を日常生活に取り入れるとすれば、「私が自分の敷地内で、誰かに具体的に迷惑をかけることでなければ、何をしようと、どう行動しようと、何を考えようと自由」ということです。

同様に、相手に対しても、「相手が自分の敷地内で、誰にも具体的に迷惑をかけることでなければ、何をしようと、どう行動しようと、何を考えようと自由」ということになります。こんな発想ができると、常識だから、一般的だから、するのが当たり前だから、みんなそうするから、男だから、女だから、夫だから、妻だから、子どもだから、仕事だから、社員だから、部下だから、上司だから、社長だからといった、さまざまな「だから~しなければならない」という囚われからかなり自由になることができるでしょう。

この「自由」の中には、「私が人のことをどう考えようと自由」ということも含まれます。もちろんこれも同様に、「相手が、他の人のことや私のことをどう考えようと自由」ということになります。たとえば、「私が会社のある一人の同僚を〝大嫌い〟」だと思うのが自由であれば、『会社の誰かが、私のことを。大嫌い』であっても、それはその人の自由となるでしょう。自分を嫌いと感じている人に、「私を好きになりなさい」と強制することはできません。ましてや「争って、自分を好きにさせる」ことなどできるはずもありません。

得てして私たちは「他者の考え方や生き方が自分と異なる」と、それを否定したり批判したり、ときには自分の考えや生き方を押しつけようとしてしまいがちです。

そこから争いが始まって、相手に対して敵意が高じていけば、「あんな人、私の目の前から消えてしまってほしいわっ」「あんな奴、さっさとクビになってしまえばいいんだよ」などと口走ってしまうほど、相手のことが心と頭を占めるようになっていくでしょう。

お互いの自由を認められないと、こんなふうに否定的な関係のまま、相手との距離をどんどん縮めていって、怒り、憎しみ、恨みといった感情に、自分自身が苦しむことになってしまうのです。

「相手の自由だ」と考えると、「相手のすることを認めなければならないから、苦しくなってしまいます」という人がいます。もしこんな気持ちになると七たら、「認める」ということを、「相手が自分の意に染まないことをしても、それを認めなければならない」「相手の言うことを認めて、相手の言うことに従わなければならない」

あるいは、「相手が私を傷つけても、それを許さなければならない」こんなふうに捉えている可能性があります。

そんな人ほど、ためしに「戦っている相手、敵だと思っている相手」を思い浮かべながら、「相手がどんな生き方をしようが、どんな人生になっていこうが、それは相手の自由なんだ。私とは関係がない」この言葉をつぶやいてみてください。

どんな気持ちになりますか。こうっぶやくと、「私」から、相手が遠くなっていく〝感覚〟を体感できるでしょうか。声を出して何度も言ってみると、より〝実感〟できるでしょう。

すぐこの後で「そんなことして、何になるんだ」などと、頭で打ち消す思考をしてしまいそうになる人ほど、繰り返し、〝実感できる〟まで声を出して言ってみてください。なぜなら、そういった人こそ、相手が自分から離れて遠くなる感覚、相手への囚われから解放されて〝心が楽になる感覚〟を是非とも体感してほしいからです。

他者や社会に対して〝敵〟だという意識を抱いている人や怯えている人にとっては、まったく「体験したことのない感覚」かもしれません。

この〝感覚〟を実感した後で、「今まで、私は何をしていたんだろう。どうしてあんなにイヤな人とくっついていたのだろう」と答えた人がいました。「目の前の霧が晴れたようです」

相手が怒りながら生きようが、戦いながら生きようが、要領のいい生き方をしようが、ずるい生き方をしようが、その人の勝手です。関係がないことです。

その人が職場で怒った表情をしていようと、感情的な言い方や責める言い方をしようと、怠けようと、それも自由です。こんな言葉を、声に出してみると、どんな気持ちになるでしょうか。

この言葉を実感する間もなく、「そんなあ、相手の自由だなんてっ。じゃあ、その人が、私に迷惑をかけたらどうするんですかあ。それも自由というのですかっ」といった言葉で打ち消したくなるとしたら、もう、敵意識のスイッチが入っています。そんな敵意識から解放されるために、「相手が遠くなる感覚」の体感が必須なのです。

実は、この感じ方の違いが「他者中心」と「自分中心」の違いなのです。

「相手が自分から離れて遠くなった」自分中心の感覚を体感できると、心に変化が起こります。

 ・まず、相手に一般常識や自分の良識を押しつけたり、相手に変わることを期待して要求することが減っていきます。そんな思いから解放されるだけでも、随分と心が軽くなるでしょう

 ・相手に無用に干渉しなくなるために、これだけで無数の争いが起こらなくなっていくでしょう

 ・さらに重要なのですが、相手に向かっていた意識を自分に引き戻すと、目の前で起こっている出来事に対して、「私は、私のために、この問題やトラブルを、どう解決しようか」という捉え方ができるようになってきます

 ・そして、「私のために、私自身が行動しよう」となっていくのです

「相手がどう生きようと自由なんだから、それを否定することはできない。できるのは、〝私〟・に何らかの不都合なことや被害が具体的に生じたとき、私が、私のために行動することだけだ」というシンプルな意識に立ち戻ることができるのです。
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宗教を存在の力に活かす

今後の宗教と存在の力

 やはり、宗教の力を借りないと存在の力になりえない。ということで、「神」の分析をした。

 今後の宗教に対して、三大要素は個人化、批判精神、グローバル化です。これを存在の力で解釈します。

 集団に縛られていた個人が解放され、人々は批判精神を存分に発揮する。さらに、グローバル化により、膨大な情報が手に入りことによって、必要に応じて、掘り出すことができる。

 これから、宗教的意識のコペルニクス的転回が始まっている。

 宗教を個人に伝達し、義務付けていた集団は、その役割を終えた。個人が自らの個性を開花させるために、宗教を自由に選択する時代に入った。ヨーロッパにおける、集団的宗教が瓦解し始めた。

 原理主義者によって、宗教崩壊が始まったわけではないけど、彼らの行動は人目についたのは確かです。個人の自由を強く求めることが変えるもとになる。アラブの春もそこから来ているという見解です。

 宗教が取り込むべきことは、生きる意味の探求であり、カタチにするのは存在の力です。組織から解放された後でも、個人は変わることなく、存在の謎について考え、本質的な疑問を抱き続けるはずです。

 人生の成功とは何か、苦しみや死に直面した時にどうすべきか、どういう価値観で生きるべきか、どうすれば幸福になれるのか、自己とも他者とも和合し、心安らかに生きるにはどうすべきかという、終わりなき問い。

 個人と集団、個人の利益と公共の利益との相互連関について、グローバル化した世界を視野に入れて、考え直す。

イヴとアダムの物語

 ユダヤに伝わるこの話は知っていますか。神が最初に創造したのはイヴであり、アダムではなかったという話です。でもイヴは、楽園で暮らすうちに退屈してしまい、仲間を創ってほしいと神に頼みます。そこで神は動物たちを創りますが、イヴはそれでも満足できず、今度は自分に似ていて、共犯者になれそうな仲間が欲しいと神にねだります。神はこうしてアダムを創ることになりましたが、その時イヴに一つの条件を課します。彼女が男性より先に創造されたことは、男性の傷つきやすい自尊心を損ねないために、彼には決して打ち明けてはならない、という条件です。そして最後に神は、「これは永久に私たち二人の……女性同士の秘密ですよ!」と締めくくったそうです。

宗教における女性蔑視の傾向

 大部分の宗教に、女性蔑視の傾向が見られますね。前に述べたように、人類の定住化はほとんどの場合、家父長制という男性優位の制度のもとで起こりました。家族を支配する男性たちは、村や町を、次いで都市を支配・統制するようになり、同じように宗教においても支配権を手にします。それによって、女性は副次的な役割に追いやられ、さらにはその役割を取り上げられました。こうして女性は、家庭の中でのみ役割を与えられ、男性の保護下に、つまり監督下に置かれることになったのです。この男性支配の構造は、後に神学的裏づけを与えられ、社会に定着していきます。

 女性差別を正当化している聖典の多くが、女性は何よりもまず男性を誘惑する存在であり、その誘惑から男性を守ること--女性を人目に触れさせないよう覆い隠し、万が一間違いを犯したら女性を罰すること--が肝要であると説いています。そして、女性が祭祀を執り行えない理由として、諸宗教は月経中の女性の機れを前面に押し出しています。「女性に血の流出があり、その血が女性の身体から流出するとき、その女性は七日間、月経で穢れた者とされるだろう。また、その女性に触れる者も、夕方まで不浄とされるだろう。穢れた状態にある女性が横たわる寝床は、すべて不浄とされるだろう。誰であれ、彼女の寝台に触れる者は、自分の衣服を洗い、その身を水で清めなければならない。その人は、夕方まで不浄とされるだろう」と言っているのは、『モーセ五書』の一つである『レビ記』(15章19‐22)です。そういう女性がどうして祈祷など行なえるだろう、ということですね。
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政治とは 承認と再分配

『批評キーワード辞典』より 政治

ナンシー・フレイザーは一九九七年の『中断された正義』において、左翼運動というのは、アイデンティティの平等と差別の撤廃を求める「承認」の運動と、市場原理に対する抵抗と貧富の差の撤廃を求める「再分配」の運動という二つの軸を持っているはずだし、持っていなければならないが、九〇年代以降の左翼運動は、承認を重視するあまり再分配を忘れてしまっていると警告した。フレイザーの議論各論については問題も多いが、九〇年代に批評言説において忘れられた貧富の差と再分配の問いの復活こそがオキュパイ運動の発火点だと考えるとき、T几九七年の彼女の予言に、その慧眼を見ることはできるだろう。

より広く言えば、フレドリック・ジェイムソンは一九九〇年の『ポストモダニズム、あるいは、後期資本主義の文化論理』の結論において、アイデンティティの政治学を求める個々人の欲望は正当なものではあるが、と認めた上で以下のように主張している。

 ① 現代のアイデンティティの承認の要求は、系譜的に言って、それ以前に存在する労働運動の置換--労働運動が左翼的にすでに無効な運動であるという認識と、だからこそ、労働運動の代わりにアイデンティティの運動が必要だという論理--から生まれている。

 ② アイデンティティの承認の要求は、それが達成されても、(差別のない)より平等な自由主義の社会、それはつまり、極論すれば、より平等で、だからある意味より苛烈な、競争社会しか意味しないのに対し、資本主義のシステムの内的矛盾を批判する労働運動だけが、資本主義後の社会、資本主義社会の外部でありオルタナティヴであるものを想像できる。

オキュパイ運動の唯一のスローガンとなったものが、一パーセントの富裕層を批判する「私たちは九九パーセントだ」という宣言であることを考えると、それが、富の再分配を求める運動であるのは疑いないだろう。だが同時に、この運動の最大の特徴は、それが既存の政治の回路をショートカットして、マルチチュードの表現としてのデモという形態をとったことにある。富の再分配が、既存の労働運動という枠組み、そして、組織化された社会的な運動という枠組みを通過せずに可能なのかというのが、オキュパイが現在直面するもっとも大きな問題なのだ。

言い換えると、それはこのような問いである。『グローバル・リッチ・リスト』という(あなたの年収を入れると、それは世界の上位何パーセントに入るのかを教えてくれる)ウェブサイトによると、年収四七五〇〇ドル(一ドル=一〇〇円計算で四七五万円)以上の人間は、実のところ、グローバルな人口の年収の上位一パーセントに入っている。おそらくオキュパイに参加したアメリカ人の少なからずが、そこに入っているだろう。オキュパイは、グローバルな平等を求めているのだろうか? あるいは、それは、個人として参加した各々がみずからの窮状から救われることだけを求めているのだろうか?
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コミュニティとは 新自由主義とコミュニティ

『批評キーワード辞典』より コミュニティ

ここまで来ると、私たちは大塚久雄が述べた共同体の区分から遠く離れたところに到達している。個人が自分の意思で参加する、人工的コミュニティがよいものだと考えられているとして、そのような価値観はどこから生じたのか? ここでも焦点が当たるのは、新自由主義である。

新自由主義において、コミュニティはよくも悪くも重要なものになっている。国家と市場と個人という三つの項目の関係を考えてみよう。福祉国家体制においては、市場と個人との間には、国家が介在した。それに対し、新自由主義は、中間にあって市場の競争から個人を守っていた国家を、退場させようとする。しかし、個人としての私たちは、純粋な市場の競争にさらされつづけることには耐えられない(その痛みに耐えろ、というのが新自由主義の命令だが)。そこで市場と個人の間に入る、「中間的なもの」が、あらたに要請される。

そうした「中間的なもの」とは、たとえば「国民」であるかもしれない。一九九〇年代以降に極端なナショナリズムが見られるようになった一因が、ここにある。その一方で、「コミュニティ」がその中間的なものとして脚光をあびることになる。日本では、コミュニティ再興という課題が、一方では行政区画の変更(「平成の大合併」、道州制)と、もう一方では「ボランティア」の推奨(学校課程へのボランティア活動の導入)やNGO・NPOによる中間的なものの補充というかたちをとっている。事実、総務省主催の研究会による報告書にはこうある。……本研究会が行った調査によれば、……特定のテーマを持って活動する地域コミュ三アィ組織やNPO、商店街、マンション管理組合など、伝統的な地縁による団体以外の様々な主体が、その自主性に基づき、地域の様々なニーズに対応した多様なサービスを提供する主体として重要な役割を果たしている事例が見られたところである。(「新しいコミュニティのあり方に関する研究会報告書」、二〇〇九年、傍点は引用者)コミュニティがNPOのような中間的なものになりうるためには、それは人工的なものとならねばならない。それは「伝統的な地縁による団体」であってはならない。というのも、それが、土地に根づいた生産を行うための、フレキシビリティの少ない組織だと、流動性を原理とする現在の市場から個人を守ることができない(「様々なニーズに対応した多様なサービスを提供」できない)ためだ。そこから、先に述べた共同体の「生産」と「消費」の側面についても、ある帰結が訪れる。すなわち、「コミュニティ」は生産とは無関係なものとなるのである。生産は、「自然」とほぼ同一視される市場の領域の問題である。むしろコミュニティは消費と深く関係のある領域になる。というよりむしろ、コミュニティそのものが消費の対象となっているとまで言えるかもしれない。「個人の自由意思で参加したりしなかったりするコミュニティ」というヴィジョンは、まさに消費の風景に似ていないだろうか。そして、個人の選択を金科玉条に掲げる新自由主義と、そのようなコミュニティのあり方の間には、何らかの関係がありそうだ。

また、コミュニティは自律性をもたねばならない。中央が放棄した「中間的なもの」の役割がコミュニティに期待されるのだから、コミュニティはもちろん、それに「参加」する市民も、自律的な市民意識をもつことが重要になってくる。この動きは、本書の「コミュニケーション」の項で(双方向的)コミュニケーションについて述べたことに合致している。つまり、ポストフォーディズムで労働者に要求されたのと同じ「自律性」が、コミュニティに求められるということだ。平たく言えば、国家が放棄した「中間的なもの」の役割を、コミュニティの自助努力に求めるということである。

共同体に対するコミュニティが「よいもの」とされるときの「コミュニティ」には少なくとも以上のような含意がありそうだ。このような事態に対して、私たちはどう反応すべきだろうか。国家に対して、放棄した役割をとりもどすよう、訴えるべきか。(つまり、福祉国家をもう一度、と叫ぶべきか。)それは単に現実性がなさそうである。福祉国家の基礎となる雇用が回復することを前提に未来を想像するのは、その現実性を考えればそれほど健全なことではない。なおかつ、単にコミュニティから離脱しようとすることは(それはそれなりのかたちで私たちを「守って」いるのだから)自殺行為である。

重要なのは、ここまで述べたような「よい」コミュ三アィの観念が、あくまで理想でしかないと理解することだろう。結局のところ、自由と安全‥‥安心とは、純粋なかたちでは両立しないものなのだから(バウマン『コミュニティ』)。新自由主義はそれらを両立させようとする。だがそれは現在、実現していない。現存のコミュニティではない。それは将来、実現されるべき理想である。その意味で、コミュニティはつねに未完のものなのだ。別な言いかたをすると、現在の私たちが、コミュニティに参加し市民になる(もしくはそうできずに排除される)プロセスそのものは、いまだ完了してはいない。それは係争中であり未解決のものであり、交渉の余地があるものだ。そうであるからこそ、コミュニティはキーワードなのであり、そこに加えられてきた限定を、今一度ときほぐす必要がある言葉なのである。それは、よくも悪くも必要=必然として私たちにつきつけられた課題だ。
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社会とは 競争の仕組みとしての社会。協力の仕組みとしての社会

『批評キーワード辞典』より 社会

感情というと、なにやらすぐに消えさってしまうもののようにも思える。しかし、さきほど「足場」という言葉を使ったが、そう簡単には消滅しない感情もある。タウンゼンド的な社会、つまり、生き残るために競いあう社会、競争的関係としての社会、という感情は、その足場をしっかりともっている。最初に確認したように、いまの私たちは、「社会の厳しさ」というフレーズを日常的に用いる。このフレーズをリアルなものと感じさせているのは(正確には、そのひとつは)、一八世紀後半に形成されはじめたタウンゼンド的な感情の構造なのである。

とはいえ、競争の仕組みとしての社会だけが、リアルに感じられる社会というわけではない。「社会をよくしよう」という言い回しは、うさんくさい響きをもってしまうことが多い。けれど、このフレーズが日常的なものではないとはいまでも断言できない。一九世紀初頭の時点でも、「相互協力としてのsocietyという考え方」が存在していたのは確かなことであり、「個人間の競争としてのsocietyの経験」とは明確に区分されていたのだった。この傾向は一九世紀後半になると、一層はっきりしてくるようだ。OEDにも、「社会的共感」や「社会的な福利/福祉といったフレーズを見つけることができる。

とすると、一八世紀における「社会」という言葉は、競争の仕組みだけを指すものではなかった、ということになる。「社会」とは、協力の仕組みでもあったのだ。

こうなってくると、社会という言葉の用法をめぐって、ひとつの争いが生じてきた、ということになるかもしれない。ただし、注意が必要な点がある。この争いにおいて、社会という言葉が直接使われないことが多いのだ。

次に引用する、政治学者の杉田敦による発言がその典型である。それにしても、今日、社会というものはどうも影が薄い。他方、市場というものは、厳然としてあると考えられている。杉田は、市場と社会を対比させる。前者は存在感が強く、後者は希薄である、と述べている。つまり、私たちを競争に駆りたてる市場の仕組みは、確実に存在している。ただし、その一方で、お互いに協力しあう仕組みとしての社会は、「どうも影が薄い」、縁遠い存在だということになるだろうか。

この対比には注意が必要である。タウンゼンドの議論を思い出そう。人間と人間がその生存を賭けて競争しあう仕組みは、「社会の平穏とよき秩序」をもたらすものだ、とタウンゼンドは考えていた。競争的な市場の仕組みが、いや、この仕組みだけが社会をよくする、というのが、いわゆる市場派の立場なのである。

とすると、市場と社会を対比させ対立させるのは、やや問題があることがわかるだろう。そうではなく、社会という言葉をめぐって対立がある、と考えたほうがよい。

市場派は、社会を、競争の仕組みと考える。いわゆる福祉国家派は、社会を、協力の仕組みと考える。この両者による争いが一九世紀以降活発なものとなり、二一世紀初頭の現在、前者の全面的勝利をむかえつつある、ということなのである。

こういう言い方もできるだろう。社会という言葉の用法は、このふたつ(競争か協力か)しかない、といまや考えられている。前者の用法であれば、社会という言葉を使う必要はあまりない。なにしろ、競争が自然に激化していけば、そのぶん、社会はよいものになるのだから。社会をどうこうしよう、と発言する必要すらない。そして、後者の用法は瀕死の状態にある。協力関係を念頭においてしまうと、社会という言葉はどうにも「影が薄い」ものになってしまう。

とはいえ、社会という言葉をめぐるこの対立には大きな共通点がある。

この共通点について、私たちはすでにそのヒントをもっている。競争的な社会も、協力的な社会も、どちらも一八世紀後半に勃興した感情の構造を、拡大したり変容させたりしたものである。つまり、どちらの社会も「発見」されるものである。競争の仕組みが発見されるものであることはすでにみた。

では協力の仕組みのほうはどうか? 福祉国家的な協力関係の具体例を考えてみよう。その代表格である年金制度はどうだろう。これは世代と世代のあいだの協力の仕組みである。健康保険制度はどうか。これは、病めるものと健やかなるもののあいだの協力の仕組みである。ただし、誰でも病気になりうるわけだから、皆が相互に協力しあっている仕組みである。これらの仕組みを、専門家である官僚や研究者が考えるもの、と私たちは感じてはいないだろうか。あるいは、年金制度や健康保険制度のもっとも良い仕組みを、そうした専門家こそが見つけられるもの、と私たちは感じてはいないか。

とすると、競争的だろうが、協力的だろうが、どちらの仕組みも、「発見」されるべき関係であり、社会であることに、何の変わりもないことになる。
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依存とは 依存せよ、そして依存するな

『批評キーワード辞典』より 依存

人間は生まれたとき、かならずケアをしてくれる人に「依存」する。ケア労働は依存を必要とする弱い人々--乳幼児・子ども・障碍者・病人・老人など--にとって必須である。そのようなケア労働に携わるものは、ケアに時間も労力も費やさなければならないので、必然的に経済的に困窮することになり、「自律的な個人」(経済的主体)になることは難しい。人間にとって依存が必須であるにもかかわらず、依存者をケアする労働に従事する人が困窮してしまっているとしたら、何かがおかしい。そこで、依存者とケア労働者の「関係」に着目し、依存者やケア労働者「個人」ではなく、彼らの「関係」を基盤として社会のあり方を考え直すべきだ、と主張するのは哲学者エヴァ・フェダー・キテイである。キテイは依存とケア労働をめぐる〈正義〉論を展開しつつ、つぎのように述べる。

自律的な個人というのは、そもそも常に、依存者の問題を他者に押し付けることのできる特権を持った男性の架空の創造物である。

「自己責任」論を振りかざす人は、依存を必要とする依存者の問題を、依存者をケアするもの(他者)へと押し付ける。その上、彼らを自分の視界から放逐し、「依存者のケアという問題を考えないですませる」という特権を堅守しつつ、「自律的/自立的な個人」という立場に立つ。そのとき、自身が何か(家族や組織や社会)に「関係している」という事実はすっかり忘れ去られている。

しかし、「ケアしされることが誰にとっても必要であること、つまり誰も人と切り離された『個人』として生きていくことはできないことを深く認識するならば」、個人を基点として「依存」を語ることなどできないはずだ。ケア労働を人に押し付けて「自立」したつもりでいる男性は、「自立」するために実はケア労働に「依存」するという逆説を生きている。依存を「個人のあり方」ではなく、「関係すること」と考えれば、ケア労働をする女性と、それを押し付けて忘却する男性の間には、互恵的な依存関係が存在することが見えてくるはずだ。個人を基盤に依存を論じている限り、それは一方的な依存としてしか見えてこない。

資本主義システムの根本的な矛盾は、自己コントロールの効いた労働者を生み出す一方で、消費者の抑制をとっぱらう(それによって植えつけたはずの人々の自制心を切り崩す)ところにある。

哲学者のジル・ドゥルーズは、「規律社会」から「管理社会」への移行という点で後期資本主義社会を分析した(『記事と事件』)。それは、「自己」がもはやハードな規律によってではなく、絶えざるソフトな「管理」(コントロール/マネジメント)を強いられているという分析であった。さて、依存に関連して「依存症」という言葉がある。「症」というだけあって、それは病気として治療対象になるものである。薬物、喫煙、アルコール、ギャンブル、ショッピングなどが依存症の代表例として挙げられる。最近はゲーム、インターネット、携帯電話も依存症と関連づけられ非難されることがある。依存症は、単なる嗜好品としての気晴らしを超えた過度の使用によって、生産的な労働に支障をきたしている状態を指しているようだ。つまり、「自己管理できていない」ことが悪とされているのである。ホストクラブを遊び歩いていた件の母親は、ホストクラブに依存していた。そして労働に支障をきたした。つまり、「自己管理できていない」ことが糾弾されていたのである。

しかし、先に引用したアクストによれば、資本主義システムにおいては、消費の側面から見ると、自己管理は邪魔なだけである。自制心を失ってガンガン消費することが資本主義の要請でもあるのだ。つまり、人は、二重の命令を受けているのである。「自己管理せよ」そして「自己管理するな」と。

これを言い換えれば、現在の私たちは「依存するな」と「依存せよ」という正反対の命令を同時に受けているのである。だが、多くの人にとって、このような複雑な命令を上手く処理することは難しい。つい過剰に摂取・利用・消費してしまう。同時に、なんとかしてそれらの過剰な使用を「自力で」管理しようと試みて失敗し、その結果、自己管理能力に対する無力感を抱き、その無力感を打ち消さんがために、再び自力で管理しようとし、また失敗する。この回路を繰り返すうちに、さらなる依存へと進んでしまう。「自己管理せよ」と常に命令される「管理社会」は、結果的に、「コントロールすることそのものを自己目的化する傾向性をもつ「嗜癖する社会」」へと導かれるのである。ホストクラブにある意味「依存」していた件の母親の自己管理の失敗は、必然だったと言わざるをえない。彼女のホストクラブ通いは、はたして純粋な「歓び」であったのだろうか。誰かに「止めて欲しい」と願うことは少しもなかったのであろうか。筆者にはわからないのである。ただ確実にひとつ言えることは、「依存するな」と「依存せよ」という二つの命令の板挟みになった彼女の生は、現代を生きる私たちの生でもある、ということだ。
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7. 生活

 7.1 私は考えることしかない

  7.1.1 心にロマンを秘め、ひとりぼっち

  7.1.2 好奇心を旺盛にして考え抜く

  7.1.3 考えるツールを工夫してきた

  7.1.4 単純に考える時間が与えられた

 7.2 日常・会社とも考える生活

  7.2.1 家族関係・身体とも困難な状況

  7.2.2 内なる世界を追求していく

  7.2.3 数学・社会・歴史・未来の役割

  7.2.4 行動せずにミッションで生きる

 7.3 孤立した存在ながら、社会に向かう

  7.3.1 孤立した存在で、依存を超える

  7.3.2 夢を持ち、存在自体を楽しむ

  7.3.3 様々な情報で社会を見ている

  7.3.4 知識と偶然でシナリオを描く

 7.4 存在と無から考え、まとめる

  7.4.1 分化させるが、行動はしない

  7.4.2 μと一緒に考え、発信する

  7.4.3 存在の力を信じ、考え続ける

  7.4.4 全てを知り、問われれば応える

 7.5 与えられた自由な時間の過ごし方

  7.5.1 仕事と生活を未唯空間に集約

  7.5.2 未唯空間を活かすライフスタイル

  7.5.3 自由な行動を最後まで続ける

  7.5.4 最後まで考えられる拠点つくり

 7.6 残りの時間を自分のためにつかう

  7.6.1 未来学者としての研究テーマ

  7.6.2 未唯空間をエッセイとして発行

  7.6.3 未唯空間を社会ライブラリとする

  7.6.4 一人の生活をそれなりにする

 7.7 未唯空間をまとめるサファイア生活

  7.7.1 存在の力で全てを知るために

  7.7.2 考えた全てを表わすことの意味

  7.7.3 未唯空間に全ての思いを入れ込む

  7.7.4 未唯空間を活かすための手法

 7.8 サファイア革命に挑戦する

  7.8.1 新しい数学で未唯空間の正当性

  7.8.2 会社を変え、日本を変える

  7.8.3 未来学者として、歴史を変える

  7.8.4 存在の無で、無為に生きる
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