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「社会契約論」とはどんな思想だろうか

『社会契約論』より

最初に、「社会契約論」とはどんな思想なのか、その特徴を説明しておこう。それはどんな問いを立て、どんな答えを与えようとしたのだろうか。

第一に、社会契約論は、社会の起源を問う思想だ。ここで「社会」とは、さしあたり人々が集まり、共同で生活する場、というくらいの理解でょい。私たちが暮らすこの社会は、どこから来て、どんなふうに生まれたのか。社会契約論は、それを解き明かそうとする思想だ。だが、たとえば実際にあった歴史上の起源を、古文書をたどって発掘するのではない。理屈として、原理として考えたなら、社会というのはこんなふうに生まれたはずだと説明する。

それを作り話と考えるなら、まあ一種の作り話だ。でも、理屈の上で考えたときに、誰でも少し頭を働かせればたどっていけるやり方で社会の起源を語るというのは、出まかせの作り話にはない効果がある。それは、現にある社会について、理屈として納得できるかどうかを考えるきっかけを与えてくれる。ある社会が実際にどういう経緯でできたかとは別次元で、社会の原理的な成り立ちについて考えることは、いまある社会がいまのままでいいのかを考える際、一つの基準になるのだ。

第二に、社会契約論は、社会が作られるために、そして維持されるために最低限必要なルールは何かを問う思想でもある。社会が社会であるためには、なにか秩序やルールのようなものが必要だ。ルールが全くなければ社会とは呼べず、人が集まっていたとしてもたまたま近くにいるだけだ。そして、そういう集まりにもし安定したルールが生まれなければ、喧嘩になり殺し合いになり、集まりそのものがすぐにも消え去る。

社会に不可欠な、こうした秩序やルールがどこから来るかを考えるにあたってば、大きく分けて二通りのやり方がある。一つは、秩序やルールは自然に、あるいは人間がわざわざ作らなくてもどこかからやってくるという考え方だ。

このなかには、人間同士が二緒にいれば、共通するルールが自ずと生まれるという考えも含まれる。目と目で通じ合うのか、あうんの呼吸か、何かそれに類するものを通じてルールが生まれるということだ。また、人は生まれたときから社会の中にいるのだから、誰だってそこで通用しているルールに従うのが自然だという考えもある。あるいは、古くからあるルールは伝統や慣習として通用しているのだから、それ以上起源を詮索しても無意味だとする考えもある。ここでは、歴史や時間そのものが伝統と慣習を強固にし、秩序の根拠となる。また、神様が人間世界に秩序を与えてくれたのだという考え方もある。こうした場合には、秩序やルールが正しいかどうかは、それ以上さかのぼれない究極の根拠(神や自然や伝統)によって判定される。

もう一つは、秩序やルールを「人工物」とみなす考えで、社会契約論はこちらの代表だ。ところが、ここに困った問題が出てくる。神様や自然や歴史が秩序を与えてくれるなら、ある秩序が正しいかどうかの最終判断に、生身の人間は直接責任を持たなくてょい。ところが社会契約論は、秩序は人工物だと言う。そうすると、秩序の正しさにも、人間が責任をとらなければいけなくなる。言い換えると、神も自然も歴史の重みも、あるいは他の何の助けも借りないで、人間たちだけで社会を作り、運営していく仕組みを考案しなければならないのだ。そして秩序の正しさについても、私たちの頭で理解し判定できる範囲で、何らかの基準を設けなければならない。

つまり社会契約論は、人間社会が維持されるための最低限のルールとは何かを考える思想だ。そしてまた、そのルールが正しいかどうかを判断する際、人間自身が持つべき基準や手続きはどうあるべきかを考える思想なのだ。

三番目に、社会契約論は、人工物としての社会を誰がどうやふて作り、その社会は何によって維持されるのかを問う思想だ。人間だけで秩序を作り、それなりに維持していくためには、社会はけ。こうきちんと作っておかないといけない。そうなると、誰が作ってもいいってわけではないし、作り方にもエ夫がいる。やわですぐ壊れてしまうような社会ではだめだ。そのうえ、生物が生きるのに何かのエネルギーが要るように、社会を維持していくにもエネルギーが要る。それがなければ生物は死に絶え、社会も凝集力を失ってばらばらになってしまう。これは社会体の死、秩序の終わりだ。

では、誰がどうやって作れば、それなりに頑丈ですぐに息絶えてしまわないような、持続性と凝集力がある社会ができるのか。社会契約論は、それを考える思想だ。

こうした問いに、社会契約論はどういう答えを与えるだろうか。それを短いフレーズで表すと、「約束だけが社会を作る」というものだ。まず、社会が作られる以前の状態、つまり「自然状態」が出発点になる。ここには、自由で独立した人たち、つまり、共通の社会を持たない人たちがたくさん出てくる。この人たちが互いに約束を交わす。そうすると彼らは、ばらばらの状態(自然状態)から抜け出て、他の人との持続的な絆の下に置かれるようになる。この約束が社会契約で、それを通じて秩序が生まれる。人が生きる場面は、孤立した自然状態から、他者との継続的な絆が結ばれる社会状態へと移行する。

社会契約論が社会秩序の本性について何を問い、それにどんな方向で答えょうとしたのかは、とてもざっくり言えば以上のとおりだ。
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「自分中心に生きる」レッスン

『「まわりは敵だらけ!?」と思ったら読む本』より

お互いを認め合うためには、自分の敷地と相手の敷地の境を明確に自覚する必要があります。この捉え方を日常生活に取り入れるとすれば、「私が自分の敷地内で、誰かに具体的に迷惑をかけることでなければ、何をしようと、どう行動しようと、何を考えようと自由」ということです。

同様に、相手に対しても、「相手が自分の敷地内で、誰にも具体的に迷惑をかけることでなければ、何をしようと、どう行動しようと、何を考えようと自由」ということになります。こんな発想ができると、常識だから、一般的だから、するのが当たり前だから、みんなそうするから、男だから、女だから、夫だから、妻だから、子どもだから、仕事だから、社員だから、部下だから、上司だから、社長だからといった、さまざまな「だから~しなければならない」という囚われからかなり自由になることができるでしょう。

この「自由」の中には、「私が人のことをどう考えようと自由」ということも含まれます。もちろんこれも同様に、「相手が、他の人のことや私のことをどう考えようと自由」ということになります。たとえば、「私が会社のある一人の同僚を〝大嫌い〟」だと思うのが自由であれば、『会社の誰かが、私のことを。大嫌い』であっても、それはその人の自由となるでしょう。自分を嫌いと感じている人に、「私を好きになりなさい」と強制することはできません。ましてや「争って、自分を好きにさせる」ことなどできるはずもありません。

得てして私たちは「他者の考え方や生き方が自分と異なる」と、それを否定したり批判したり、ときには自分の考えや生き方を押しつけようとしてしまいがちです。

そこから争いが始まって、相手に対して敵意が高じていけば、「あんな人、私の目の前から消えてしまってほしいわっ」「あんな奴、さっさとクビになってしまえばいいんだよ」などと口走ってしまうほど、相手のことが心と頭を占めるようになっていくでしょう。

お互いの自由を認められないと、こんなふうに否定的な関係のまま、相手との距離をどんどん縮めていって、怒り、憎しみ、恨みといった感情に、自分自身が苦しむことになってしまうのです。

「相手の自由だ」と考えると、「相手のすることを認めなければならないから、苦しくなってしまいます」という人がいます。もしこんな気持ちになると七たら、「認める」ということを、「相手が自分の意に染まないことをしても、それを認めなければならない」「相手の言うことを認めて、相手の言うことに従わなければならない」

あるいは、「相手が私を傷つけても、それを許さなければならない」こんなふうに捉えている可能性があります。

そんな人ほど、ためしに「戦っている相手、敵だと思っている相手」を思い浮かべながら、「相手がどんな生き方をしようが、どんな人生になっていこうが、それは相手の自由なんだ。私とは関係がない」この言葉をつぶやいてみてください。

どんな気持ちになりますか。こうっぶやくと、「私」から、相手が遠くなっていく〝感覚〟を体感できるでしょうか。声を出して何度も言ってみると、より〝実感〟できるでしょう。

すぐこの後で「そんなことして、何になるんだ」などと、頭で打ち消す思考をしてしまいそうになる人ほど、繰り返し、〝実感できる〟まで声を出して言ってみてください。なぜなら、そういった人こそ、相手が自分から離れて遠くなる感覚、相手への囚われから解放されて〝心が楽になる感覚〟を是非とも体感してほしいからです。

他者や社会に対して〝敵〟だという意識を抱いている人や怯えている人にとっては、まったく「体験したことのない感覚」かもしれません。

この〝感覚〟を実感した後で、「今まで、私は何をしていたんだろう。どうしてあんなにイヤな人とくっついていたのだろう」と答えた人がいました。「目の前の霧が晴れたようです」

相手が怒りながら生きようが、戦いながら生きようが、要領のいい生き方をしようが、ずるい生き方をしようが、その人の勝手です。関係がないことです。

その人が職場で怒った表情をしていようと、感情的な言い方や責める言い方をしようと、怠けようと、それも自由です。こんな言葉を、声に出してみると、どんな気持ちになるでしょうか。

この言葉を実感する間もなく、「そんなあ、相手の自由だなんてっ。じゃあ、その人が、私に迷惑をかけたらどうするんですかあ。それも自由というのですかっ」といった言葉で打ち消したくなるとしたら、もう、敵意識のスイッチが入っています。そんな敵意識から解放されるために、「相手が遠くなる感覚」の体感が必須なのです。

実は、この感じ方の違いが「他者中心」と「自分中心」の違いなのです。

「相手が自分から離れて遠くなった」自分中心の感覚を体感できると、心に変化が起こります。

 ・まず、相手に一般常識や自分の良識を押しつけたり、相手に変わることを期待して要求することが減っていきます。そんな思いから解放されるだけでも、随分と心が軽くなるでしょう

 ・相手に無用に干渉しなくなるために、これだけで無数の争いが起こらなくなっていくでしょう

 ・さらに重要なのですが、相手に向かっていた意識を自分に引き戻すと、目の前で起こっている出来事に対して、「私は、私のために、この問題やトラブルを、どう解決しようか」という捉え方ができるようになってきます

 ・そして、「私のために、私自身が行動しよう」となっていくのです

「相手がどう生きようと自由なんだから、それを否定することはできない。できるのは、〝私〟・に何らかの不都合なことや被害が具体的に生じたとき、私が、私のために行動することだけだ」というシンプルな意識に立ち戻ることができるのです。
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宗教を存在の力に活かす

今後の宗教と存在の力

 やはり、宗教の力を借りないと存在の力になりえない。ということで、「神」の分析をした。

 今後の宗教に対して、三大要素は個人化、批判精神、グローバル化です。これを存在の力で解釈します。

 集団に縛られていた個人が解放され、人々は批判精神を存分に発揮する。さらに、グローバル化により、膨大な情報が手に入りことによって、必要に応じて、掘り出すことができる。

 これから、宗教的意識のコペルニクス的転回が始まっている。

 宗教を個人に伝達し、義務付けていた集団は、その役割を終えた。個人が自らの個性を開花させるために、宗教を自由に選択する時代に入った。ヨーロッパにおける、集団的宗教が瓦解し始めた。

 原理主義者によって、宗教崩壊が始まったわけではないけど、彼らの行動は人目についたのは確かです。個人の自由を強く求めることが変えるもとになる。アラブの春もそこから来ているという見解です。

 宗教が取り込むべきことは、生きる意味の探求であり、カタチにするのは存在の力です。組織から解放された後でも、個人は変わることなく、存在の謎について考え、本質的な疑問を抱き続けるはずです。

 人生の成功とは何か、苦しみや死に直面した時にどうすべきか、どういう価値観で生きるべきか、どうすれば幸福になれるのか、自己とも他者とも和合し、心安らかに生きるにはどうすべきかという、終わりなき問い。

 個人と集団、個人の利益と公共の利益との相互連関について、グローバル化した世界を視野に入れて、考え直す。

イヴとアダムの物語

 ユダヤに伝わるこの話は知っていますか。神が最初に創造したのはイヴであり、アダムではなかったという話です。でもイヴは、楽園で暮らすうちに退屈してしまい、仲間を創ってほしいと神に頼みます。そこで神は動物たちを創りますが、イヴはそれでも満足できず、今度は自分に似ていて、共犯者になれそうな仲間が欲しいと神にねだります。神はこうしてアダムを創ることになりましたが、その時イヴに一つの条件を課します。彼女が男性より先に創造されたことは、男性の傷つきやすい自尊心を損ねないために、彼には決して打ち明けてはならない、という条件です。そして最後に神は、「これは永久に私たち二人の……女性同士の秘密ですよ!」と締めくくったそうです。

宗教における女性蔑視の傾向

 大部分の宗教に、女性蔑視の傾向が見られますね。前に述べたように、人類の定住化はほとんどの場合、家父長制という男性優位の制度のもとで起こりました。家族を支配する男性たちは、村や町を、次いで都市を支配・統制するようになり、同じように宗教においても支配権を手にします。それによって、女性は副次的な役割に追いやられ、さらにはその役割を取り上げられました。こうして女性は、家庭の中でのみ役割を与えられ、男性の保護下に、つまり監督下に置かれることになったのです。この男性支配の構造は、後に神学的裏づけを与えられ、社会に定着していきます。

 女性差別を正当化している聖典の多くが、女性は何よりもまず男性を誘惑する存在であり、その誘惑から男性を守ること--女性を人目に触れさせないよう覆い隠し、万が一間違いを犯したら女性を罰すること--が肝要であると説いています。そして、女性が祭祀を執り行えない理由として、諸宗教は月経中の女性の機れを前面に押し出しています。「女性に血の流出があり、その血が女性の身体から流出するとき、その女性は七日間、月経で穢れた者とされるだろう。また、その女性に触れる者も、夕方まで不浄とされるだろう。穢れた状態にある女性が横たわる寝床は、すべて不浄とされるだろう。誰であれ、彼女の寝台に触れる者は、自分の衣服を洗い、その身を水で清めなければならない。その人は、夕方まで不浄とされるだろう」と言っているのは、『モーセ五書』の一つである『レビ記』(15章19‐22)です。そういう女性がどうして祈祷など行なえるだろう、ということですね。
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