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「自分中心に生きる」レッスン

『「まわりは敵だらけ!?」と思ったら読む本』より

お互いを認め合うためには、自分の敷地と相手の敷地の境を明確に自覚する必要があります。この捉え方を日常生活に取り入れるとすれば、「私が自分の敷地内で、誰かに具体的に迷惑をかけることでなければ、何をしようと、どう行動しようと、何を考えようと自由」ということです。

同様に、相手に対しても、「相手が自分の敷地内で、誰にも具体的に迷惑をかけることでなければ、何をしようと、どう行動しようと、何を考えようと自由」ということになります。こんな発想ができると、常識だから、一般的だから、するのが当たり前だから、みんなそうするから、男だから、女だから、夫だから、妻だから、子どもだから、仕事だから、社員だから、部下だから、上司だから、社長だからといった、さまざまな「だから~しなければならない」という囚われからかなり自由になることができるでしょう。

この「自由」の中には、「私が人のことをどう考えようと自由」ということも含まれます。もちろんこれも同様に、「相手が、他の人のことや私のことをどう考えようと自由」ということになります。たとえば、「私が会社のある一人の同僚を〝大嫌い〟」だと思うのが自由であれば、『会社の誰かが、私のことを。大嫌い』であっても、それはその人の自由となるでしょう。自分を嫌いと感じている人に、「私を好きになりなさい」と強制することはできません。ましてや「争って、自分を好きにさせる」ことなどできるはずもありません。

得てして私たちは「他者の考え方や生き方が自分と異なる」と、それを否定したり批判したり、ときには自分の考えや生き方を押しつけようとしてしまいがちです。

そこから争いが始まって、相手に対して敵意が高じていけば、「あんな人、私の目の前から消えてしまってほしいわっ」「あんな奴、さっさとクビになってしまえばいいんだよ」などと口走ってしまうほど、相手のことが心と頭を占めるようになっていくでしょう。

お互いの自由を認められないと、こんなふうに否定的な関係のまま、相手との距離をどんどん縮めていって、怒り、憎しみ、恨みといった感情に、自分自身が苦しむことになってしまうのです。

「相手の自由だ」と考えると、「相手のすることを認めなければならないから、苦しくなってしまいます」という人がいます。もしこんな気持ちになると七たら、「認める」ということを、「相手が自分の意に染まないことをしても、それを認めなければならない」「相手の言うことを認めて、相手の言うことに従わなければならない」

あるいは、「相手が私を傷つけても、それを許さなければならない」こんなふうに捉えている可能性があります。

そんな人ほど、ためしに「戦っている相手、敵だと思っている相手」を思い浮かべながら、「相手がどんな生き方をしようが、どんな人生になっていこうが、それは相手の自由なんだ。私とは関係がない」この言葉をつぶやいてみてください。

どんな気持ちになりますか。こうっぶやくと、「私」から、相手が遠くなっていく〝感覚〟を体感できるでしょうか。声を出して何度も言ってみると、より〝実感〟できるでしょう。

すぐこの後で「そんなことして、何になるんだ」などと、頭で打ち消す思考をしてしまいそうになる人ほど、繰り返し、〝実感できる〟まで声を出して言ってみてください。なぜなら、そういった人こそ、相手が自分から離れて遠くなる感覚、相手への囚われから解放されて〝心が楽になる感覚〟を是非とも体感してほしいからです。

他者や社会に対して〝敵〟だという意識を抱いている人や怯えている人にとっては、まったく「体験したことのない感覚」かもしれません。

この〝感覚〟を実感した後で、「今まで、私は何をしていたんだろう。どうしてあんなにイヤな人とくっついていたのだろう」と答えた人がいました。「目の前の霧が晴れたようです」

相手が怒りながら生きようが、戦いながら生きようが、要領のいい生き方をしようが、ずるい生き方をしようが、その人の勝手です。関係がないことです。

その人が職場で怒った表情をしていようと、感情的な言い方や責める言い方をしようと、怠けようと、それも自由です。こんな言葉を、声に出してみると、どんな気持ちになるでしょうか。

この言葉を実感する間もなく、「そんなあ、相手の自由だなんてっ。じゃあ、その人が、私に迷惑をかけたらどうするんですかあ。それも自由というのですかっ」といった言葉で打ち消したくなるとしたら、もう、敵意識のスイッチが入っています。そんな敵意識から解放されるために、「相手が遠くなる感覚」の体感が必須なのです。

実は、この感じ方の違いが「他者中心」と「自分中心」の違いなのです。

「相手が自分から離れて遠くなった」自分中心の感覚を体感できると、心に変化が起こります。

 ・まず、相手に一般常識や自分の良識を押しつけたり、相手に変わることを期待して要求することが減っていきます。そんな思いから解放されるだけでも、随分と心が軽くなるでしょう

 ・相手に無用に干渉しなくなるために、これだけで無数の争いが起こらなくなっていくでしょう

 ・さらに重要なのですが、相手に向かっていた意識を自分に引き戻すと、目の前で起こっている出来事に対して、「私は、私のために、この問題やトラブルを、どう解決しようか」という捉え方ができるようになってきます

 ・そして、「私のために、私自身が行動しよう」となっていくのです

「相手がどう生きようと自由なんだから、それを否定することはできない。できるのは、〝私〟・に何らかの不都合なことや被害が具体的に生じたとき、私が、私のために行動することだけだ」というシンプルな意識に立ち戻ることができるのです。
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