未唯への手紙
未唯への手紙
コミュニティとは 新自由主義とコミュニティ
『批評キーワード辞典』より コミュニティ
ここまで来ると、私たちは大塚久雄が述べた共同体の区分から遠く離れたところに到達している。個人が自分の意思で参加する、人工的コミュニティがよいものだと考えられているとして、そのような価値観はどこから生じたのか? ここでも焦点が当たるのは、新自由主義である。
新自由主義において、コミュニティはよくも悪くも重要なものになっている。国家と市場と個人という三つの項目の関係を考えてみよう。福祉国家体制においては、市場と個人との間には、国家が介在した。それに対し、新自由主義は、中間にあって市場の競争から個人を守っていた国家を、退場させようとする。しかし、個人としての私たちは、純粋な市場の競争にさらされつづけることには耐えられない(その痛みに耐えろ、というのが新自由主義の命令だが)。そこで市場と個人の間に入る、「中間的なもの」が、あらたに要請される。
そうした「中間的なもの」とは、たとえば「国民」であるかもしれない。一九九〇年代以降に極端なナショナリズムが見られるようになった一因が、ここにある。その一方で、「コミュニティ」がその中間的なものとして脚光をあびることになる。日本では、コミュニティ再興という課題が、一方では行政区画の変更(「平成の大合併」、道州制)と、もう一方では「ボランティア」の推奨(学校課程へのボランティア活動の導入)やNGO・NPOによる中間的なものの補充というかたちをとっている。事実、総務省主催の研究会による報告書にはこうある。……本研究会が行った調査によれば、……特定のテーマを持って活動する地域コミュ三アィ組織やNPO、商店街、マンション管理組合など、伝統的な地縁による団体以外の様々な主体が、その自主性に基づき、地域の様々なニーズに対応した多様なサービスを提供する主体として重要な役割を果たしている事例が見られたところである。(「新しいコミュニティのあり方に関する研究会報告書」、二〇〇九年、傍点は引用者)コミュニティがNPOのような中間的なものになりうるためには、それは人工的なものとならねばならない。それは「伝統的な地縁による団体」であってはならない。というのも、それが、土地に根づいた生産を行うための、フレキシビリティの少ない組織だと、流動性を原理とする現在の市場から個人を守ることができない(「様々なニーズに対応した多様なサービスを提供」できない)ためだ。そこから、先に述べた共同体の「生産」と「消費」の側面についても、ある帰結が訪れる。すなわち、「コミュニティ」は生産とは無関係なものとなるのである。生産は、「自然」とほぼ同一視される市場の領域の問題である。むしろコミュニティは消費と深く関係のある領域になる。というよりむしろ、コミュニティそのものが消費の対象となっているとまで言えるかもしれない。「個人の自由意思で参加したりしなかったりするコミュニティ」というヴィジョンは、まさに消費の風景に似ていないだろうか。そして、個人の選択を金科玉条に掲げる新自由主義と、そのようなコミュニティのあり方の間には、何らかの関係がありそうだ。
また、コミュニティは自律性をもたねばならない。中央が放棄した「中間的なもの」の役割がコミュニティに期待されるのだから、コミュニティはもちろん、それに「参加」する市民も、自律的な市民意識をもつことが重要になってくる。この動きは、本書の「コミュニケーション」の項で(双方向的)コミュニケーションについて述べたことに合致している。つまり、ポストフォーディズムで労働者に要求されたのと同じ「自律性」が、コミュニティに求められるということだ。平たく言えば、国家が放棄した「中間的なもの」の役割を、コミュニティの自助努力に求めるということである。
共同体に対するコミュニティが「よいもの」とされるときの「コミュニティ」には少なくとも以上のような含意がありそうだ。このような事態に対して、私たちはどう反応すべきだろうか。国家に対して、放棄した役割をとりもどすよう、訴えるべきか。(つまり、福祉国家をもう一度、と叫ぶべきか。)それは単に現実性がなさそうである。福祉国家の基礎となる雇用が回復することを前提に未来を想像するのは、その現実性を考えればそれほど健全なことではない。なおかつ、単にコミュニティから離脱しようとすることは(それはそれなりのかたちで私たちを「守って」いるのだから)自殺行為である。
重要なのは、ここまで述べたような「よい」コミュ三アィの観念が、あくまで理想でしかないと理解することだろう。結局のところ、自由と安全‥‥安心とは、純粋なかたちでは両立しないものなのだから(バウマン『コミュニティ』)。新自由主義はそれらを両立させようとする。だがそれは現在、実現していない。現存のコミュニティではない。それは将来、実現されるべき理想である。その意味で、コミュニティはつねに未完のものなのだ。別な言いかたをすると、現在の私たちが、コミュニティに参加し市民になる(もしくはそうできずに排除される)プロセスそのものは、いまだ完了してはいない。それは係争中であり未解決のものであり、交渉の余地があるものだ。そうであるからこそ、コミュニティはキーワードなのであり、そこに加えられてきた限定を、今一度ときほぐす必要がある言葉なのである。それは、よくも悪くも必要=必然として私たちにつきつけられた課題だ。
ここまで来ると、私たちは大塚久雄が述べた共同体の区分から遠く離れたところに到達している。個人が自分の意思で参加する、人工的コミュニティがよいものだと考えられているとして、そのような価値観はどこから生じたのか? ここでも焦点が当たるのは、新自由主義である。
新自由主義において、コミュニティはよくも悪くも重要なものになっている。国家と市場と個人という三つの項目の関係を考えてみよう。福祉国家体制においては、市場と個人との間には、国家が介在した。それに対し、新自由主義は、中間にあって市場の競争から個人を守っていた国家を、退場させようとする。しかし、個人としての私たちは、純粋な市場の競争にさらされつづけることには耐えられない(その痛みに耐えろ、というのが新自由主義の命令だが)。そこで市場と個人の間に入る、「中間的なもの」が、あらたに要請される。
そうした「中間的なもの」とは、たとえば「国民」であるかもしれない。一九九〇年代以降に極端なナショナリズムが見られるようになった一因が、ここにある。その一方で、「コミュニティ」がその中間的なものとして脚光をあびることになる。日本では、コミュニティ再興という課題が、一方では行政区画の変更(「平成の大合併」、道州制)と、もう一方では「ボランティア」の推奨(学校課程へのボランティア活動の導入)やNGO・NPOによる中間的なものの補充というかたちをとっている。事実、総務省主催の研究会による報告書にはこうある。……本研究会が行った調査によれば、……特定のテーマを持って活動する地域コミュ三アィ組織やNPO、商店街、マンション管理組合など、伝統的な地縁による団体以外の様々な主体が、その自主性に基づき、地域の様々なニーズに対応した多様なサービスを提供する主体として重要な役割を果たしている事例が見られたところである。(「新しいコミュニティのあり方に関する研究会報告書」、二〇〇九年、傍点は引用者)コミュニティがNPOのような中間的なものになりうるためには、それは人工的なものとならねばならない。それは「伝統的な地縁による団体」であってはならない。というのも、それが、土地に根づいた生産を行うための、フレキシビリティの少ない組織だと、流動性を原理とする現在の市場から個人を守ることができない(「様々なニーズに対応した多様なサービスを提供」できない)ためだ。そこから、先に述べた共同体の「生産」と「消費」の側面についても、ある帰結が訪れる。すなわち、「コミュニティ」は生産とは無関係なものとなるのである。生産は、「自然」とほぼ同一視される市場の領域の問題である。むしろコミュニティは消費と深く関係のある領域になる。というよりむしろ、コミュニティそのものが消費の対象となっているとまで言えるかもしれない。「個人の自由意思で参加したりしなかったりするコミュニティ」というヴィジョンは、まさに消費の風景に似ていないだろうか。そして、個人の選択を金科玉条に掲げる新自由主義と、そのようなコミュニティのあり方の間には、何らかの関係がありそうだ。
また、コミュニティは自律性をもたねばならない。中央が放棄した「中間的なもの」の役割がコミュニティに期待されるのだから、コミュニティはもちろん、それに「参加」する市民も、自律的な市民意識をもつことが重要になってくる。この動きは、本書の「コミュニケーション」の項で(双方向的)コミュニケーションについて述べたことに合致している。つまり、ポストフォーディズムで労働者に要求されたのと同じ「自律性」が、コミュニティに求められるということだ。平たく言えば、国家が放棄した「中間的なもの」の役割を、コミュニティの自助努力に求めるということである。
共同体に対するコミュニティが「よいもの」とされるときの「コミュニティ」には少なくとも以上のような含意がありそうだ。このような事態に対して、私たちはどう反応すべきだろうか。国家に対して、放棄した役割をとりもどすよう、訴えるべきか。(つまり、福祉国家をもう一度、と叫ぶべきか。)それは単に現実性がなさそうである。福祉国家の基礎となる雇用が回復することを前提に未来を想像するのは、その現実性を考えればそれほど健全なことではない。なおかつ、単にコミュニティから離脱しようとすることは(それはそれなりのかたちで私たちを「守って」いるのだから)自殺行為である。
重要なのは、ここまで述べたような「よい」コミュ三アィの観念が、あくまで理想でしかないと理解することだろう。結局のところ、自由と安全‥‥安心とは、純粋なかたちでは両立しないものなのだから(バウマン『コミュニティ』)。新自由主義はそれらを両立させようとする。だがそれは現在、実現していない。現存のコミュニティではない。それは将来、実現されるべき理想である。その意味で、コミュニティはつねに未完のものなのだ。別な言いかたをすると、現在の私たちが、コミュニティに参加し市民になる(もしくはそうできずに排除される)プロセスそのものは、いまだ完了してはいない。それは係争中であり未解決のものであり、交渉の余地があるものだ。そうであるからこそ、コミュニティはキーワードなのであり、そこに加えられてきた限定を、今一度ときほぐす必要がある言葉なのである。それは、よくも悪くも必要=必然として私たちにつきつけられた課題だ。
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