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ソーシャルデザインのエッセンス essence 3 量と質

『ソーシャルデザイン実践ガイド』

あらゆる可能性を探り、プロジェクトのすべての行程にこだわっていくと、作業量は必然的に多くなっていきます。表に出るアウトプットの制作は、ソーシャルデザインという活動のピラミッドの、一番上のほんの一部分に過ぎません。ソーシャルデザインは、まさにピラミッドのように土台から積み上げていく行為です。

「森を知る」と「声を聞く」で集めた情報は、ピラミッドの一番下の土台にあたります。土台から崩れないように、上の層をしっかり積み上げるために、なるべく多くの情報を隙間なく抜かりなく並べていって、堅牢につくらなければなりません。その上に積み上げていく各層も、一番下からしっかり積む必要があります。イシューマップを何度も描きなおす。チームがピンとくるものが出てくるまで辛抱強くアイデアを出し続ける。ピラミッドを一層、また一層と積み上げていくように、ソーシャルデザインの過程はアウトプットを形づくるために大量の基礎作業を行わなければなりません。そのほとんどが根気のいる地道な作業です。

「データの数を集めよう」「多くの声を聞こう」「アイデアは質より量」。パートーに出てきたこれらの言葉はすべて、ピラミッドの基礎づくりを指しています。「数」や「量」が、なぜ必要なのでしょうか? おそらく、ソーシャルデザインの経験を積んだ後でも、この原則は変わらないでしょう。なぜなら、調べ足りないことはないか、ヒアリングがこれで十分か、というのは、常に自分自身に対する問いかけだからです。よりよくデザインすることを自分に課したとき、よりよくするための可能性を自ら放棄しないための問いであり、辛抱強い調査・検証・アイデア出し・試作の積み重ねが必要とされます。

そして、その辛抱強い作業の経験値が「質」の直観的判断を導きます。あるテレビ番組で、米とご飯の完璧なまでのデータ分析からつくられた炊飯ジャーと、名人と呼ばれる料理人による昔ながらの薪を使ったかまど炊きの対決がありました。使われた米は魚沼産のコシヒカリ。炊きあがったご飯の判定は魚沼の米作農家の人たち。おかずはなし、ただご飯のみを覆面の状態で試食して判定します。炊飯ジャーのデータ分析は緻密で、ここまでするのかというほどの徹底ぶり。かまど炊きのご飯はたとえようもなくおいしいというイメージがあるものの、これほど完璧なデータに基づいた炊飯ジャーとの比較では、優劣が出ないのではと思われました。

ところが、結果はかまど炊きご飯の圧勝、約3倍の得票差が付きました。農家の人たちのコメントでは「ほんの少しなんだよ。少しなんだけど違うんだね」。その差が何だったのか……推測はできますが、正確にはわかりません。しかし言えることは、そこに数値データとはまったく質の異なる「経験値」という料理人の中に蓄積されたデータペースがあり、その経験値を「生かす」技術があり、その日の状況や環境に応じた一瞬の直観的判断があったはずだということ。そしてそれは、炊飯ジャーが持たないものだということです。

ソーシャルデザインは、人を起点として人に作用していくものです。できる限り多くの人が「おいしい!」と思う解決策をつくり、それに対する共感を、笑顔をつくらなければなりません。そのとき、「これだ!」と自信をもって解決策を送り出すために、質を導くための量をこなす作業を怠ることはできないのです。
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民衆と軍のクーデター

『変わるエジプト、変わらないエジプト』より 民衆と軍のクーデター-- あとがきにかえて

二〇一三年六月三十日。一〇〇〇万(一説には二〇〇〇万)を越えるエジプト人が、ムルスィー大統領の退陣と繰り上げ選挙を求めて全国で大規模デモを展開、「国民が十人集まって辞めろヽ‐こ言ったら辞める」と言っていたはすのムルスィーは頑として辞任を拒否し、四日目に軍が介入して大統領を解任、拘束した。「選挙で選ばれた大統領が軍のクーデターで解任された」と世界中で報道され、多くのエジプト人は「クーデターではない!」と強く反撥した。もともと軍が介入しなければ成功しない抗議行動だと知ったうえで蜂起し、軍の出動に歓喜して花火まで上げたエジプト人は、事情を熟知していない人の目には愚かに映ったかもしれない。それは仕方ないとしても、メディアの断面的な報道からはしばしば大事なものが抜け落ちていて、複雑な全体像は見えてこない。「今エジプトで何が起こっているのか、さっぱりわからない」という声は、日頃からアラブ世界をウォッチしている識者からも聞かれた。

ムルスィー解任が軍の介入で行なわれたことを「反革命」と見なす声もあったが、それは長年非合法組織だったムスリム同胞団がとうとう政権を握ったことを、革命の成果または革命そのものと見なしていたからだろう。しかし同胞団政権の誕生は革命後に様々な要因が重なった「結果」であって、革命の「成果」ではない。むしろ多くのエジプト人にとっては大きな打撃だった。当初同胞団に投票した人々さえもが、一部は六月三十日のデモに参加した。彼らにとってこれは反革命どころか、革命を取り戻すためのデモだった。同胞団がクーデターの犠牲者として英語で海外に発信するメッセージと、国内における扇動的なアラビア語のメッセージでは大きな隔たりがあることも、海外での誤解につながった。

またエジプト人と外国人では、軍隊に対して抱くイメージにズレがある。民衆蜂起の直前に発表されたアラブーアメリカンーインスティテュートの世論調査によると、ムスリム同胞団の支持率は二十八八Iセント、軍の支持率は九十四パーセントだった。たとえば二月、ポートサイードをはじめとするスエズ運河沿いの町で暴動が発生したとき、ムルスィーは夜間外出禁止令を出した。激しく反撥した市民は、禁止令の時間になると大挙して外出し、「外出禁止令のひとときぱ何物にも代えられない」を合い言葉に、ゲームやサッカーに興じて大統領に反抗した。このときの驚くべき気持ちの余裕は、町の治安維持に当たったのが警察ではなく軍だったことに寄るところが大きかった。兵士と記念撮影をする人もいれば、サッカーに参加する兵士もいた。エジプト人は、治安警察は嫌いだが、軍の戦車と迷彩服を見ると安心するのだ。

政治学者のムウタッズ・アブドルファッターハによると、エジプト人にとって国家の基盤をなす四本柱とは、ピラミッド、軍、裁判所と官僚機構、アズハル(キリスト教徒なら教会)だという。思えば同胞団は、これらエジプト国家の四大要素すべてと対立した。ピラミッドとさえである。

経済危機で観光復興が急務だったにも関わらす、古代遺跡で有名な観光地ルクソールの知事として、ムルスィーは「イスラーム団」メンバーを任命した。九七年に当地で観光客を無差別殺傷した元テロ集団(後に暴力を放棄)である。地元民の大反撥を招いたこの人選は、経済復興よりもエジプトのアイデンティティ転換を優先する同胞団の本音を露呈した。一方、イスラーム世界最高学府であるアズハルの総長も、同胞団政権に同調せす、中傷の対象になった。

では軍はどうか。ムバーラク政権崩壊後、暫定軍政が約束より長引くと、革命を起こした若者は体を張って抵抗し、軍は何度か過剰に武力を行使してデモを鎮圧した。この間、来たる選挙に標準を合わせた同胞団は軍と協調した。同胞団政権になった後も、ムバーラク時代から軍が握ってきた巨大な利権は無傷のまま残り、新憲法で固定された。ムルスィー就任直後、国民の印象が悪かった軍最高司令官タンターウィーなどが解任され、大統領が軍を支配下に置いたょうな印象を与えたが、実は今後を見据えた軍の自主的な若返り政策だった。ムルスィーにしばし華を持たせた巧みさは見事だ。新司令官スィースィーは信仰心が篤く、イスラミスト大統領に信頼されたと言われている。しかし軍の方が同胞団に心を開くわけがなかった。
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コミュニティという単位

パートナーの存在の力

 パートナーから感じるのは、存在の力です。なぜ、そこに居るのか、を常に考えています。相手にも、パートナーは存在の力を、求めます。今、居る狭い社会で、それに応えられる人間は少ないのは確かです。

 昨日のようなつながりが一番楽しいです。来て!と言われて、行ったという感じです。

資本主義ではダメ

 資本主義はモノを作る手段であって、今後の高度サービス化にするためには、また、ボランティアな行為には向いていない。

 国民国家も同じです。集中して、あまり分で外に向けていくのか、戦争していくのか、そのための手段に過ぎない。だから、この最近、国民国家の次の世界が気になっているのです。

コミュニティという単位

 コミュニティが重要なのは、そこで尊敬を受ける範囲です。国家からの尊敬というのも、家族からの尊敬もありえない。コミュニティからの尊敬は在りうる。それが幸福につながる。

 組織では、価値観が強制的であり、画一だから、個人の良さが生きてこない。戦術的に動く連中を持ち上げるやり方は、北朝鮮と同様の手段になっている。

 自然エネルギーと地域の社会。地域は意思決定への参加と主体的な判断を委ねる。地域住民のよる、所有を促す方式をコミュニティパワーという。デンマークはそれで成り立っている。ポイントは地域での主体的な意思決定です。

 そのためには、地域にコミュニティが必要です。コミュニティなしに市役所などの行政が決めたものは、全然、意見が反映できません。自ら地域起こしに立ち上がるような自主自立の精神を持った、創造性豊かな人々は急速に失われている。

 これらの元になるのは、存在の力そのものです。それをどうやって、作り出していくのか。学校教育も生涯学習でもダメです。危機感と価値観が出発点になります。

地域社会・小規模分散型・ネットワーク型

 産業構造もこれまでの「産業主義・中央集中型・トップダウン型」から「地域社会・小規模分散型・ネットワーク型」に変わってくる

 そう考えると、次期のシステムはこれから外れています。むしろ、逆行です。崩壊するに決まっています。考えるのは、販売店およびお客様・市民が自分の力に従って、考えてやっていることです。それにグローバルであるメーカーはできるのは支援することだけです。

 組織の分化と統合のバランスがシフトしています。今までの作ることなら、統合が必要だけど、使うのであれば、分化が主になります。
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