『逆説の日本史 幕末時代史編Ⅳ』より
四境戦争(第二次長州征伐)は、当初は長州から見て他国との五つの国境(五境)から攻められる予定であった。
芸州口(安芸国からの攻め口)、石州口(石見国からの攻め口)、周防大島口(周防国沖の大島からの攻め口)、小倉口(対岸の九州小倉からの攻め口)そして萩口(本城の萩を海上から攻める)である。陸路が二つ(芸州、石州)で残りの三つが海路(周防大島、小倉、萩)ということになる。
だが、萩口は薩摩が担当ずる予定であったので薩摩が不参加を表明したところで攻め口自体が消滅してしまったのである。
幕府の突きつけた最後通牒への回答期限は、慶応二年(1866)五月二十九日だったが、幕府をナメきっている長州藩はこれを無視し何の回答もしなかった。
こうなれば開戦しかない。
すでに回答期限の前日二十八日に征伐軍先鋒副総督の老中本荘宗秀が広島入りしていた。国泰寺に総司令部を置いたのだ。そして翌六月の五日には先鋒総督の紀州藩主徳川茂承が広島入りした。
ところが、ここで大誤算が生じた。この期に及んで広島を本拠とする芸州藩が「この戦いは大義名分が立たないので戦闘には参加しない」と表明し、正式に戦線から離脱したのだ。
芸州藩は薩長ほどではないが軍備は近代化されており、この点幕府側には大きな痛手だった。
この結果、芸州口の戦闘は出兵を拒否した芸州藩に代わって彦根藩井伊家と高田藩榊原家が先鋒となった。
ところがこの二藩、共に「徳川四天王」の家柄だが軍備は時代遅れもいいところであった。とくに井伊家は戦国以来の「赤備」つまり赤一色のヨロイカブトに身を固めた騎馬武者がその主力であった。
前にも述べたように、私はこの戦いでは萩口に軍艦を回航させ洋上から萩城下を攻撃するのが一番効果のある作戦だったと考えている。その方面を担当するはずだった薩摩が不参加の方針を決定したため、結局萩口は攻められなかったわけだが、薩摩が下りても幕府海軍をそちらに回すという手はあった。
にもかかわらず、幕府がそうしなかったのは、この芸州藩の不参加によりこちらの方面の兵力が手薄になったからだろう。長州海軍も瀬戸内側に展開しているという事情もあった。
もう一つ幕府が瀬戸内側に拘った理由は、長州が周防大島口め防衛を放棄していたからだ。
兵力で言えば幕府側が圧倒的に有利だ。長州は少ない兵力を有効に使わねばならない。それゆえ、大島口の防衛はあきらめていたのだ。逆に幕府軍から見れば大島の占領は容易で、緒戦の勝利を内外にアピールできることになる。
六月七日、幕府海軍の富士山丸など二隻が久賀へ艦砲射撃を加えた。本格的なものでは無く、陸上に砲台があり反撃してくるかどうか確認するためだったと思われる。予想どおり反撃は無かったので八日から上陸作戦が敢行された。まず幕府軍の一角である伊予松山藩主松平勝成を総大将とした軍勢が四国側に近い油宇に上陸、北へ向かって進撃した。
一方、安芸国宮島(厳島)に集結していた幕府軍本隊は富士山丸など海軍軍艦に分乗して十一日に久賀に上陸した。これに対し少数だけ派遣されていた長州藩兵は当初の予定どおり抵抗せず兵力を温存し撤退した。
ここまでは上出来だった。大島口の戦闘は幕府軍の目論見どおり、大島の完全占領という成果を上げたのである。
ところが、友軍のはずの松山兵の存在がネックとなった。戦国時代以来の本格的な戦闘に兵士の野獣のような本能が目覚めてしまったのか、彼らは占領地の農民(非戦闘員)に対し暴行・略奪を繰り返したのである。
具体的な略奪行為の内容は記録が無いが、それが相当にひどいものだったことは間違い無い。なぜなら、それまで黙って「占領軍」に従っていた農民たちが、あちこちで「一揆」を起こしたからである。竹槍を手に女子までが幕府軍に立ち向かったという。
こうなると長州藩も黙っていない。
精鋭の第二奇兵隊など干数百人を大島に派遣した。
特筆すべきは補給など特別な任務担当の兵士を除いて、長州兵はすべて銃を持った兵士だったことである。幕府軍には戦国以来の騎馬武者や槍隊および弓隊もいたが、長州兵はすべて西洋銃を持っている。
しかも、すべてではないが、そのうち数千人は最新鋭のミニエー銃を持っていた。
長州兵はいわば一人一人が狙撃兵であった。
まず大将クラスの者から狙い撃ちにした。長州兵は下関戦争など実戦で鍛えられているが幕府軍はそうでは無い。慣れない戦いで指揮官クラスから討ち取られていくと、態勢をどう立て直していいか見当もつかない。とどのつまりは敗走することになる。そこへ「農兵」と化した人々が一斉に襲いかかったのである。
幕府軍は総崩れになった。
せっかく占領した大島も放棄サざるを得なかった。どの口の戦闘でもそうだが、兵力は幕府軍のほうが圧倒的に多い。にもかかわらず長州が勝ったのは、鉄砲装備率百パーセントという数字と、敵には撤退する場所があるが味方には無い。つまり「背水の陣」のもたらす旺盛な士気のたまものであった。
もちろん、これは大島口だけのことでは無い。むしろ海を渡った芸州口において、長州の利点は大いに発揮された。
すでに述べたように、芸州口では芸州藩浅野家が征伐に不参加を表明したため、戦国時代と大して変わらない装備の彦根藩井伊家が先鋒となって国境を接する長州藩領の周防国へ侵入しようとした。
ところがそこで長州藩の遊撃隊を始めとする「ミニエー銃隊」に待ち伏せされ、大損害を受けて敗走したのである。
そして、この時から日本の戦争は一変した。いや、長州が変えた。
その主役はミニエー銃だった。
幕府はゲベール銃しかなく、性能の差は歴然としていた。では具体的にどう変わったのか?
ゲベール銃とミニエー銃の最大の違いは、ミニエー銃の銃身はライフリングが刻まれていることだ。前にも説明したように、本来の「ライフル」とはこのライフリングを指す。そして、これがあると無いとでは大違いで、ライフリングの施されている銃(施条銃)は、それの無いゲベール銃のような滑腔銃とは射程も破壊力もまるで違う。ライフリングが弾丸をジャイロ回転させるため、遠くまで飛び弾道もブレなくなる。すなわち命中精度も向上する。
弾丸もゲベール銃は火縄銃と同じ球型だが、ミニエー銃は現代と同じ先の尖った円筒型(椎の実弾)である。この画期的な銃器と弾丸を開発したのが、フランス陸軍のクロード・ミニエー大尉であった。
では、ミニエー銃は具体的には日本の戦争の何を変えたのか?
ある意味で「銃の黒船」であったかもしれない。幕府兵のゲベール銃は長州兵に届かないのに、長州兵のミニエー銃は楽々届いてしまう。結局、幕府軍は敵に打撃を与える前に大損害をこうむるという図式である。
一説によればゲベール銃の射程はせいぜい百メートルなのに、ミニエー銃は三百メートルもあったという。
しかも、それだけ飛ぶのに破壊力もミニエー銃のほうが上なのである。そして、ミニエー銃の弾丸(ミニエー弾)は当たると、戦国時代以来のヨロイを貫通した。ということは、じつは昔風の具足・龍手などの類いは身につけないほうがいいということなのである。
なぜか?
刀や槍で傷ついた者は一人もいない。ことごとく銃創である。貫通銃創もあり、盲管銃創もあって、時には腹の皮と肉の間に弾丸が残り、自分で掘り出して抜くといった恐ろしい負傷もある。常識で考えるととても助かりそうもないが、弾丸さえ抜ければ意外に治癒も早いというのだ。具足は着けない方がよい。急所でなくても足を射たれると、脛当の鎖が肉の中にめりこんでひどい傷になる。いくら掘り出しても全部は摘出できず、いつまでも治らないで大変な苦しみをもたらす。 『長州戦争 幕府瓦解への岐路』(野口武彦著、中央公論新社刊)「常識が変わる」というのは、こういうことを言うのだろう。
また銃撃戦では、敵に自分の位置を確定されないよう素早く動き回る必要がある。
ということは和装も良くない。槍や袖が引っかかるから、西洋式の軍服がいいということになった。
後に勝海舟の回想にある「(我々は)官軍がカミクズヒロイのような格好をして来たのでやられた」との言葉は、まさにこれを指している。
つまり、この四境戦争以後、古風なヨロイカブトに身を固めている人間は「時代遅れの非常識人」だということになる。
もっとも今と違ってマスコミ、たとえばテレビニュースなどで戦況が報じられるわけでは無いから、この新常識が広まるには少し時間がかかった。
たとえば新撰組副長の土方歳三は、この後に行なわれた一大決戦の鳥羽・伏見の戦いには他の隊士と同じく和装で軽い具足をつけて出陣したようだ。しかし、薩長の手並を知った後は、あの有名な写真のように西洋式の軍服に変えている。
本来、ヨロイカブトと言えばプロテクターである。銃撃戦が盛んになればなるほど、すべての兵士がプロテクターを愛用するようにならなければおかしい。ところが実際には、すべての兵士がこれを捨てる方向に進んだ。ミニエー銃というのがいかに恐るべき新兵器であるか、日本の軍備がいかに時代遅れのものになってしまったか、この芸州口の戦闘は天下にそれを示したのである。
それにしても、ミニエー銃の引立役となったのが、戦国最強とうたわれた武田家の軍装を継いだ「赤備」というヨロイカブトであったことは、何とも皮肉なことであった。
芸州口では、敗走する井伊勢に引きずられるように榊原勢まで総崩れとなったため、「あれが天下の徳川四天王か、落ちたものだ」と物笑いの種になった。
大島口に続いて、芸州口の戦闘も幕府軍の敗北に終わったわけだ。
残る二か口のうち、石州口は緒戦から長州の圧勝だった。
石州口の長州軍司令官は大村益次郎だ。そもそも長州軍の「ミニエー化」を成し遂げたのが大村なのである。しかも、大村は軍政家としてだけでなく軍略家としても優秀だった。
大村は当初から長州藩領を出て敵地の浜田藩領まで進出し、この方面に派遣された幕府軍の紀州藩、鳥取藩、松江藩の軍勢を撃破した。もし大村が戦国に生まれていれば天才軍師の名を残しただろう。
問題は小倉口であった。
関門海峡を挟んでの戦いだから、最初は海戦になる。ところが海軍力は幕府のほうが圧倒的に優勢だ。それをどう打開するか。
この方面の指揮官は高杉晋作であった。
四境戦争(第二次長州征伐)は、当初は長州から見て他国との五つの国境(五境)から攻められる予定であった。
芸州口(安芸国からの攻め口)、石州口(石見国からの攻め口)、周防大島口(周防国沖の大島からの攻め口)、小倉口(対岸の九州小倉からの攻め口)そして萩口(本城の萩を海上から攻める)である。陸路が二つ(芸州、石州)で残りの三つが海路(周防大島、小倉、萩)ということになる。
だが、萩口は薩摩が担当ずる予定であったので薩摩が不参加を表明したところで攻め口自体が消滅してしまったのである。
幕府の突きつけた最後通牒への回答期限は、慶応二年(1866)五月二十九日だったが、幕府をナメきっている長州藩はこれを無視し何の回答もしなかった。
こうなれば開戦しかない。
すでに回答期限の前日二十八日に征伐軍先鋒副総督の老中本荘宗秀が広島入りしていた。国泰寺に総司令部を置いたのだ。そして翌六月の五日には先鋒総督の紀州藩主徳川茂承が広島入りした。
ところが、ここで大誤算が生じた。この期に及んで広島を本拠とする芸州藩が「この戦いは大義名分が立たないので戦闘には参加しない」と表明し、正式に戦線から離脱したのだ。
芸州藩は薩長ほどではないが軍備は近代化されており、この点幕府側には大きな痛手だった。
この結果、芸州口の戦闘は出兵を拒否した芸州藩に代わって彦根藩井伊家と高田藩榊原家が先鋒となった。
ところがこの二藩、共に「徳川四天王」の家柄だが軍備は時代遅れもいいところであった。とくに井伊家は戦国以来の「赤備」つまり赤一色のヨロイカブトに身を固めた騎馬武者がその主力であった。
前にも述べたように、私はこの戦いでは萩口に軍艦を回航させ洋上から萩城下を攻撃するのが一番効果のある作戦だったと考えている。その方面を担当するはずだった薩摩が不参加の方針を決定したため、結局萩口は攻められなかったわけだが、薩摩が下りても幕府海軍をそちらに回すという手はあった。
にもかかわらず、幕府がそうしなかったのは、この芸州藩の不参加によりこちらの方面の兵力が手薄になったからだろう。長州海軍も瀬戸内側に展開しているという事情もあった。
もう一つ幕府が瀬戸内側に拘った理由は、長州が周防大島口め防衛を放棄していたからだ。
兵力で言えば幕府側が圧倒的に有利だ。長州は少ない兵力を有効に使わねばならない。それゆえ、大島口の防衛はあきらめていたのだ。逆に幕府軍から見れば大島の占領は容易で、緒戦の勝利を内外にアピールできることになる。
六月七日、幕府海軍の富士山丸など二隻が久賀へ艦砲射撃を加えた。本格的なものでは無く、陸上に砲台があり反撃してくるかどうか確認するためだったと思われる。予想どおり反撃は無かったので八日から上陸作戦が敢行された。まず幕府軍の一角である伊予松山藩主松平勝成を総大将とした軍勢が四国側に近い油宇に上陸、北へ向かって進撃した。
一方、安芸国宮島(厳島)に集結していた幕府軍本隊は富士山丸など海軍軍艦に分乗して十一日に久賀に上陸した。これに対し少数だけ派遣されていた長州藩兵は当初の予定どおり抵抗せず兵力を温存し撤退した。
ここまでは上出来だった。大島口の戦闘は幕府軍の目論見どおり、大島の完全占領という成果を上げたのである。
ところが、友軍のはずの松山兵の存在がネックとなった。戦国時代以来の本格的な戦闘に兵士の野獣のような本能が目覚めてしまったのか、彼らは占領地の農民(非戦闘員)に対し暴行・略奪を繰り返したのである。
具体的な略奪行為の内容は記録が無いが、それが相当にひどいものだったことは間違い無い。なぜなら、それまで黙って「占領軍」に従っていた農民たちが、あちこちで「一揆」を起こしたからである。竹槍を手に女子までが幕府軍に立ち向かったという。
こうなると長州藩も黙っていない。
精鋭の第二奇兵隊など干数百人を大島に派遣した。
特筆すべきは補給など特別な任務担当の兵士を除いて、長州兵はすべて銃を持った兵士だったことである。幕府軍には戦国以来の騎馬武者や槍隊および弓隊もいたが、長州兵はすべて西洋銃を持っている。
しかも、すべてではないが、そのうち数千人は最新鋭のミニエー銃を持っていた。
長州兵はいわば一人一人が狙撃兵であった。
まず大将クラスの者から狙い撃ちにした。長州兵は下関戦争など実戦で鍛えられているが幕府軍はそうでは無い。慣れない戦いで指揮官クラスから討ち取られていくと、態勢をどう立て直していいか見当もつかない。とどのつまりは敗走することになる。そこへ「農兵」と化した人々が一斉に襲いかかったのである。
幕府軍は総崩れになった。
せっかく占領した大島も放棄サざるを得なかった。どの口の戦闘でもそうだが、兵力は幕府軍のほうが圧倒的に多い。にもかかわらず長州が勝ったのは、鉄砲装備率百パーセントという数字と、敵には撤退する場所があるが味方には無い。つまり「背水の陣」のもたらす旺盛な士気のたまものであった。
もちろん、これは大島口だけのことでは無い。むしろ海を渡った芸州口において、長州の利点は大いに発揮された。
すでに述べたように、芸州口では芸州藩浅野家が征伐に不参加を表明したため、戦国時代と大して変わらない装備の彦根藩井伊家が先鋒となって国境を接する長州藩領の周防国へ侵入しようとした。
ところがそこで長州藩の遊撃隊を始めとする「ミニエー銃隊」に待ち伏せされ、大損害を受けて敗走したのである。
そして、この時から日本の戦争は一変した。いや、長州が変えた。
その主役はミニエー銃だった。
幕府はゲベール銃しかなく、性能の差は歴然としていた。では具体的にどう変わったのか?
ゲベール銃とミニエー銃の最大の違いは、ミニエー銃の銃身はライフリングが刻まれていることだ。前にも説明したように、本来の「ライフル」とはこのライフリングを指す。そして、これがあると無いとでは大違いで、ライフリングの施されている銃(施条銃)は、それの無いゲベール銃のような滑腔銃とは射程も破壊力もまるで違う。ライフリングが弾丸をジャイロ回転させるため、遠くまで飛び弾道もブレなくなる。すなわち命中精度も向上する。
弾丸もゲベール銃は火縄銃と同じ球型だが、ミニエー銃は現代と同じ先の尖った円筒型(椎の実弾)である。この画期的な銃器と弾丸を開発したのが、フランス陸軍のクロード・ミニエー大尉であった。
では、ミニエー銃は具体的には日本の戦争の何を変えたのか?
ある意味で「銃の黒船」であったかもしれない。幕府兵のゲベール銃は長州兵に届かないのに、長州兵のミニエー銃は楽々届いてしまう。結局、幕府軍は敵に打撃を与える前に大損害をこうむるという図式である。
一説によればゲベール銃の射程はせいぜい百メートルなのに、ミニエー銃は三百メートルもあったという。
しかも、それだけ飛ぶのに破壊力もミニエー銃のほうが上なのである。そして、ミニエー銃の弾丸(ミニエー弾)は当たると、戦国時代以来のヨロイを貫通した。ということは、じつは昔風の具足・龍手などの類いは身につけないほうがいいということなのである。
なぜか?
刀や槍で傷ついた者は一人もいない。ことごとく銃創である。貫通銃創もあり、盲管銃創もあって、時には腹の皮と肉の間に弾丸が残り、自分で掘り出して抜くといった恐ろしい負傷もある。常識で考えるととても助かりそうもないが、弾丸さえ抜ければ意外に治癒も早いというのだ。具足は着けない方がよい。急所でなくても足を射たれると、脛当の鎖が肉の中にめりこんでひどい傷になる。いくら掘り出しても全部は摘出できず、いつまでも治らないで大変な苦しみをもたらす。 『長州戦争 幕府瓦解への岐路』(野口武彦著、中央公論新社刊)「常識が変わる」というのは、こういうことを言うのだろう。
また銃撃戦では、敵に自分の位置を確定されないよう素早く動き回る必要がある。
ということは和装も良くない。槍や袖が引っかかるから、西洋式の軍服がいいということになった。
後に勝海舟の回想にある「(我々は)官軍がカミクズヒロイのような格好をして来たのでやられた」との言葉は、まさにこれを指している。
つまり、この四境戦争以後、古風なヨロイカブトに身を固めている人間は「時代遅れの非常識人」だということになる。
もっとも今と違ってマスコミ、たとえばテレビニュースなどで戦況が報じられるわけでは無いから、この新常識が広まるには少し時間がかかった。
たとえば新撰組副長の土方歳三は、この後に行なわれた一大決戦の鳥羽・伏見の戦いには他の隊士と同じく和装で軽い具足をつけて出陣したようだ。しかし、薩長の手並を知った後は、あの有名な写真のように西洋式の軍服に変えている。
本来、ヨロイカブトと言えばプロテクターである。銃撃戦が盛んになればなるほど、すべての兵士がプロテクターを愛用するようにならなければおかしい。ところが実際には、すべての兵士がこれを捨てる方向に進んだ。ミニエー銃というのがいかに恐るべき新兵器であるか、日本の軍備がいかに時代遅れのものになってしまったか、この芸州口の戦闘は天下にそれを示したのである。
それにしても、ミニエー銃の引立役となったのが、戦国最強とうたわれた武田家の軍装を継いだ「赤備」というヨロイカブトであったことは、何とも皮肉なことであった。
芸州口では、敗走する井伊勢に引きずられるように榊原勢まで総崩れとなったため、「あれが天下の徳川四天王か、落ちたものだ」と物笑いの種になった。
大島口に続いて、芸州口の戦闘も幕府軍の敗北に終わったわけだ。
残る二か口のうち、石州口は緒戦から長州の圧勝だった。
石州口の長州軍司令官は大村益次郎だ。そもそも長州軍の「ミニエー化」を成し遂げたのが大村なのである。しかも、大村は軍政家としてだけでなく軍略家としても優秀だった。
大村は当初から長州藩領を出て敵地の浜田藩領まで進出し、この方面に派遣された幕府軍の紀州藩、鳥取藩、松江藩の軍勢を撃破した。もし大村が戦国に生まれていれば天才軍師の名を残しただろう。
問題は小倉口であった。
関門海峡を挟んでの戦いだから、最初は海戦になる。ところが海軍力は幕府のほうが圧倒的に優勢だ。それをどう打開するか。
この方面の指揮官は高杉晋作であった。