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政治とは 承認と再分配

『批評キーワード辞典』より 政治

ナンシー・フレイザーは一九九七年の『中断された正義』において、左翼運動というのは、アイデンティティの平等と差別の撤廃を求める「承認」の運動と、市場原理に対する抵抗と貧富の差の撤廃を求める「再分配」の運動という二つの軸を持っているはずだし、持っていなければならないが、九〇年代以降の左翼運動は、承認を重視するあまり再分配を忘れてしまっていると警告した。フレイザーの議論各論については問題も多いが、九〇年代に批評言説において忘れられた貧富の差と再分配の問いの復活こそがオキュパイ運動の発火点だと考えるとき、T几九七年の彼女の予言に、その慧眼を見ることはできるだろう。

より広く言えば、フレドリック・ジェイムソンは一九九〇年の『ポストモダニズム、あるいは、後期資本主義の文化論理』の結論において、アイデンティティの政治学を求める個々人の欲望は正当なものではあるが、と認めた上で以下のように主張している。

 ① 現代のアイデンティティの承認の要求は、系譜的に言って、それ以前に存在する労働運動の置換--労働運動が左翼的にすでに無効な運動であるという認識と、だからこそ、労働運動の代わりにアイデンティティの運動が必要だという論理--から生まれている。

 ② アイデンティティの承認の要求は、それが達成されても、(差別のない)より平等な自由主義の社会、それはつまり、極論すれば、より平等で、だからある意味より苛烈な、競争社会しか意味しないのに対し、資本主義のシステムの内的矛盾を批判する労働運動だけが、資本主義後の社会、資本主義社会の外部でありオルタナティヴであるものを想像できる。

オキュパイ運動の唯一のスローガンとなったものが、一パーセントの富裕層を批判する「私たちは九九パーセントだ」という宣言であることを考えると、それが、富の再分配を求める運動であるのは疑いないだろう。だが同時に、この運動の最大の特徴は、それが既存の政治の回路をショートカットして、マルチチュードの表現としてのデモという形態をとったことにある。富の再分配が、既存の労働運動という枠組み、そして、組織化された社会的な運動という枠組みを通過せずに可能なのかというのが、オキュパイが現在直面するもっとも大きな問題なのだ。

言い換えると、それはこのような問いである。『グローバル・リッチ・リスト』という(あなたの年収を入れると、それは世界の上位何パーセントに入るのかを教えてくれる)ウェブサイトによると、年収四七五〇〇ドル(一ドル=一〇〇円計算で四七五万円)以上の人間は、実のところ、グローバルな人口の年収の上位一パーセントに入っている。おそらくオキュパイに参加したアメリカ人の少なからずが、そこに入っているだろう。オキュパイは、グローバルな平等を求めているのだろうか? あるいは、それは、個人として参加した各々がみずからの窮状から救われることだけを求めているのだろうか?
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