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内なる世界でのロジックは存在の力

内なる世界でのロジックは存在の力

 では、全てを知ることに意味があるのか。気休めにはなるけど。人類に残すことを考えなくて済むのであれば、囚われるものは何もない。自分の発想で、自分の存在で、自分の無でやっていく。誰もいない世界でのロジックに賭けましょう。

 自分の中でロジックが成り立てば十分です。それで死んでいきます。存在と無からすると、ローカルとグローバル両方から挟み込むカタチです。これg成り立つのだから。

 存在の力は内なる世界の力だから、相手は必要ないです。意思の力は違います。相手が必要です。そして、相手を従わせないといけない。相手を従わせるには、組織が必要です。国とか分配とかは組織です。その中で何かをするにしても、内なる世界を使えないので、外へ向かうしかない。

 全てをなくしたところから、答を確実に作る。存在するということは、影響を受けることです。直進する光が曲がることで、存在が見えてきます。

サルトルの「存在と無」

 なぜ、サルトルは「存在と無」という、私と同じテーマにしたのか。

 サルトルにはボーヴォワールという仲間がいた。それとの会話で、色々な思考過程が分かるようになっていた。世界を知っていると思っている、そうありたいと思ってきたけど、ヒットラーには覆された。

 存在と無とは、あることとないことが一緒だということだけで、あまりにも当たり前です。あるからなしになることの恐怖は計り知れない。なしならば、あるに変わらない。この世界に放り出された時だけです。だから、最後は存在の無になります。あるからなしになります。

 あまりにも当たり前の世界です。なぜ、これを世界の中心に置かないのかが分からない。

 サルトルの「存在と無」はドイツ観念論のフランス版だそうです。

歴史に記すべき日

 歴史に記すべき日、サルトルの場合は9月1日、5月10日、そして、捕虜になった日にち。それらは全てスポイルされる。私にとっては、アレキサンドリアでヒュパティアが殺された日です。これはロマンです。自分なりの世界が変わった日を追加しましょうか。

 ドイツにとっては、11月9日が3つあります。第一次世界大戦敗戦の日、水晶の日、そして、ベルリンの壁崩壊です。

知った上での想像力

 結局、今日は1時半ぐらいから、起きていました。存在と無が頭に引っ掛かっていた。教科書は、サルトルの戦中日記です。

 全てを知っていると思っていたサルトルにとって、ヒットラーの行動は予想外でした。あれだけ、ナチが大々的にやっているのに、読めないというのは、サルトルの想像力の問題です。

 私にとって、具体的に先が読めているのは、「エジプト第二革命」ぐらいです。それと、2015年の社会保障クライシス、2030年のコミュニティ林立と2050年のLL=GGの結果での歴史の変節点です。

存在の力と意思の力

 やはり、存在の力がどう、動くかです。これは核反応と同じようなものです。個人に根付けば、自分の存在を確かめるために動きます。それが他を動かします。

 重要なのは、意思の力のような求心力がないので、バラバラになる可能性があります。地域としてはいいけど、全体としての統合がどう働くかです。トポロジーからすると、標準関数を作り出して、それぞれの近傍を投影させるかということです。
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未唯空間は配置から作り上げた

未唯空間は配置から作り上げた

 元々、未唯空間は言葉の連鎖で作り上げました。最初は、P-D-C-Aではないけど、Think Globally, Act Locallyで出来ました。

 それで、TG→AG→TL→ALを作り出しました。その間をまた、埋めました。その時に一番、難しいのはAL→TGに戻すところです。それが成り立つかどうかです。循環になるかどうかです。インタープリターとして、位置づけました。これらをサファイア循環として、販売店システムに適用しました。

言葉での関係づけ

 関係付けの言葉では、飛躍できないので、4つの項目の中に埋めてしまいました。言葉というのは、関係付けが非常に難しい。特に、違う次元に跳んでしまうところをどうするかです。

 曼荼羅のようなものは、言葉の連鎖です。説明する時も、連鎖で行わないといけな。その中のベースとして、関数があります。最近の哲学は言葉です。昔のように概念でごまかすのではなく、言葉です。そこにあるものです。日本のように言葉が曖昧な文化でどういうカタチになるのか。それもあまり、キッチリさせると、言葉の連鎖ができずに、解釈だけになります。日本の文化と数学の概念で作り上げます。

 この間に、キャッチフレーズ空間での連鎖をイメージしている。空間に穴を開けるやり方です。穴を開けた空間でもって、別の位相を作ってしまうという考え方があります。多元次元でのトーラスです。LL=GGもこの部類に入ります。

 今回は、第5章と第8章でもって、その関係付けをします。それぞれが何を意味しているのか、どことどこがトンネルでつながっているのか。その意味では、第5章前半→第5章後半→第8章前半→第8章後半という、大きな空間ができます。それが一つの循環になるかは、第8章の最終が第5章のはじまりにつながるかどうか。

 集合が点になり、点が集合になるというのは、言うのは簡単だけど、言葉として、それが成り立つかどうか。

死の感覚が戻ってきている

 他とは違う自分、その感覚が戻ってきています。これは恐いです。自分というものがなくなること。全てがなくなる。中学生の頃の恐怖。

 そのなくなる前では、未唯空間もパートナーも意味を持たない。自分さえも意味を持たない。では、何が意味を持つのか。一番、意味を持たないのは、人でしょう。その人もほとんど見えなくなっています。

ここは捕虜収容所

 サルトルではないけど、ここは囚われの身かもしれない。行動の自由が奪われている。考えることと表現することはできる。

 ナチの監視のもとに従順なフランス人、それに抵抗しているパートナーの存在。それを心理的にしか支援できない私。ここは、捕虜収容所です。そして、今、自由のために、ハンガーストライキに突入した。

 今、この囚われの世界だからでしょう。外の世界は、多分、存在と無で埋まっているはずです。

 なぜ、こんな捕虜収容所に紛れ込んでしまったのか。自由を勝ち取るためには、外からやらないといけない。だけど、中の連中の弱点を知るのも、一つの私の役割です。

 そして、組織の弱点は見事に分かりました。多様性に対して、何もできずに、収容所に閉じ込めるしかできない。それでは、先に向けて、世の中の変化するものに対しては対うできない。放り込まれたという概念を使うならば、この捕虜収容所のことを指します。

 全うで、正しい概念を持たない潰されます、巻き込まれます。そのためには、こんな環境でも、知ることです。だから、全てを超越したμが前面に立ちます。
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第8章を空間配置で見る

未唯へ

 11月22日の50年前にケネディ暗殺。キャサリンが日本に来ている。どういう関係なのか。

 やはり、通勤はポセット一つにします。面倒くさいから。ポセットの紐を短くして、前に置きます。

第8章を空間配置で見る

 空間配置でロジックを作ること。そのためのひな型です。

 前半の1~4と後半の5~8は目標は違うけど、アプローチが違うカタチです。このやり方がいいかどうか分からないけど、本来はグローバル側とローカル側からやって、見つけることです。新しい手法として、提案することです。

 GGの社会に対して、販売店システムはGに当ります。Gから始めて、GGへ遡ります。同様に、LLはスタッフだけど、Lの店舗をまずは、対象とします。店舗の武器になるのは、メーカー提供のポータルで具体化します。人から始める部分と方法から始める部分の二段ロジックにしました。

 空間配置からすると、前半の方は、スタッフから始めて、販売店、ネットワーク、そして、お客様との関係に拡大させます。後半は、具体的なポータルから情報共有、情報共有のインフラ、そして、社会変革となり、ロジックが跳びます。コミュニティと情報共有で、知識と意識に持って行くけど、それを前半にするか後半にするのか。

 それを言葉で追いかけるのに、8文字に圧縮するのはムリなので、その桁数を増やします。これは時間稼ぎです。それをしながら、何をどう変えるのかを考えていきます。機械作業とダブらせます。

独我論での設計ポイント

 それと独我論での設計をどうしていくのか。人というものをどう捉えるか。あくまでも、空間配置で考えましょう。むしろ、存在の力をどこのファクターに入れるか、これらに関係ない、私の存在そのものも位置づけます。

 この構造は、聞く人だけに分かればいい。他の人に分かる必要はない。この部分が多分、独我論です。全ての人に分かってもらおうと思っていないし、全ての人がいると思っていない。その意味で、自分の中のロジックです。内なる世界のロジックを明確にするために、いくらでも次元を使います。

ミカロスの日までに

 これらの見直しをミカロスの日までできるのか。あと20日間です。存在を掛けるしかないでしょう。休日を含めて、ロジックを展開しないといけない。そうなると、寝ている暇がない。

 ツールとしては、キンドルのプレゼンです。あわせて、新しいキンドルをどう使っていくのかを来年も含めて決めましょう。

 なぜ、歯の治療もせずに、目を眼底検査をしないのか。この間のトラウマです。そんなことを言って、治療を始めると、また、術中にはまる。あの独我論で生きると決めたことの結論です。ミカロスには、最適です。

 ミカロスの最終段階に入っています。気を抜かないようにします。併せて、歯も視力も同様です。多分、一緒に起こるのでしょう。

第5章の空間配置

 第8章はそれでいいけど、第5章は異なります。空間配置を使うとなると、点から始めて、チェーンをつなげて、空間を作り出すやり方です。内容としては、サファイア空間の経緯そのものです。見つけた経過もハッキリさせましょう。

 空間配置する次元はいくらでもあります。無限次元空間を使います。内容としては、多元数理に近いものです。問題は空間の関係付けとアナロジーです。アナロジーには新しい次元を入れ込みます。集合と点の関係付けで次元の圧縮と拡張を行っていきます。
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「グローカル」概念の成熟と「経路依存性」

『名古屋経済圏のグローバル化対応』より

「グローカル」概念の成熟

 ロシア文学者の亀山郁夫は、現代社会のメガトレンドについて、「グローバル化と呼ばれる現代は、反グローバル化の時代でもある」として、それを「グローカル化」の時代と呼んでいる.F世界を一元化(グローバル化)していこうとする動きと、世界を個別化(ローカル化)に向かう動きが、がっぷり四つ組むかたちで、いまや、新しい地球社会が形づくられようとしている」との認識を述べている。これは文化論の立場からの大局観であるが、経済社会もまさにこの方向に進んでいるといわざるを得ない。

 トヨタのグローバル化は、「現地現物」という世界戦略のもとに世界を5っ分け、それぞれの地域特性を踏まえて研究開発から最終組立てまでを自立して行う5つの「小さなトヨタ」でグローバル対応しようとしている。名古屋圏の航空宇宙産業クラスターの伝統的なスキルは、対岸の北米の民間航空機産業のなかで生き場を見つけており、両者は頻繁な空運で結ぱれたグローバルネットワークを形成している。日本のほかに市場のない伝統製品を作る地場産業の産地は、同じスキルをもつ海外の産地と結んで伝統を維持できるようになった。国際間で地場産業同志の共生、補完が見られるようになった。斜陽の地場産業が海外市場を開拓することによって地域を再生することさえある。海外市場開拓型のいわゆる「攻めの農業」は、日本の高品質農産物を海外の消費者にも認知されるようにしてきた。これらを総括する概念は「グローバル」と「ローカル」を結合した「グローカル」概念に他ならない。日本の特殊性・地域性は、世界でこそいよいよ輝きを増して生きていくのである。日本に固有の歴史遺産・自然遺産も観光産業をとおして世界により一層歓迎されていくだろう。

「経路依存性」

 確かに、グローバリゼーションの潮流のなかで「ローカル」が新しい意義をもつようになってきている/経済社会では「ローカル」とはほぼ(経路依存性(path dependence)」のことである。「経路依存性」とは、社会的存在には必ずそれに先行するものがあり、ゼロからスタートするものはない、ということであろう。すべての社会的存在は、それに先行するものとの厳しい連続性のもとで成立しているのである。すべてのものは歴史的諸条件から自由でない。科学的発見や発明、イノベーションや革命でも厳しい連続性のうえでの出来事なのである。

 この「経路依存性」の視座からこの地域を見れば、名古屋圏の産業社会は。平安時代末期にはじまる4つの源流から成立しているといえるだろう.

 「土」の技術は、平安時代末期の六古窯(備前・丹波・信楽・越前・瀬戸・常滑)のうち瀬戸・常滑の2つが名古屋圏にあり、ここから明治以降、1904年の輸出用西洋陶器、1917年の都市化に対応したトイレ陶器、1919年の電化に対応した碍子、1936年のモータリゼーションに対応したスパークプラグ、へ展開する企業群「森村グループ」が形成され、今日、名古屋圏はファインセラミックス産業の一大中心地となっている.

 「木」の技術は、江戸時代の木曾・飛騨地方の木材の集散地を起点として、仏壇・仏具・箪笥・家具などの伝統を生み、ここから明治以降、柱時計・置時計に展開し、明治末には東京とともに二大産地になった。1896年には鉄道用車画がはじまり、大阪、神戸とともに三大会社の一つになった。また1900年には楽器(バイオリン)が世界規模での量産化に成功している.

 「綿」の技術は、江戸中期の綿の一大産地「三河木綿」「知多木綿」にはじまり、明治以降の西洋式綿業へ発展、これに明治末にはじまる羊毛の「尾州織物」や毛糸が加わり、大正期から「繊維王国愛知」と呼ばれるようになった.

 「機械」の技術は、この「綿」の技術から生まれた。1873年に信濃人・臥雲辰致が発明したガラ紡機が三河に定着、豊田佐吉が国産初の動力織機を実用化、その延長上で1937年に豊田自動車工業株式会社が登場した。これより先の1920年に三菱内燃機製造株式会社が航空機に着手、これと前後して愛知時計電機株式会社も加わり、戦前、当地はひとまず「航空都市名古屋」「日本の兵器廠」と呼ばれたのである。この周辺に、東京・大阪とともに三大産地となった自転車、さらに紡績機械、工作機械、特殊鋼、ベニヤ板などが形成され、豊かな水力発電がこれを支えたのである。自動車産業はその画竜点晴なのである。

 このように名古屋圏の現在は、過去との連鎖の中で成立している。このことは、われわれが名古屋圏の将来像を構想する時にも避けては通れないのである。その意味でわれわれの将来は決して自由ではないのである。名古屋圏の伝統を掘り下げ、進化させることによってのみ名古屋圏を発展させることができ、名古屋圏をグローバリゼーションのなかに定置できるのではないだろうか。
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社会保障の経済学 なぜ政府が必要なのか

『社会保障の経済学』より

最低限度の生活保障

 次に、社会保障になぜ政府の関与が必要になるかという問題を考えてみよう。この問題については、2つの説明が可能である。第1に、社会保障が目指すべき、最低限度の生活を保障するという目標は、民間の経済主体によって達成される保証がない以上、政府が介入せざるをえないと考えられる。社会に発生するさまざまなリスクを分散する仕組みそのものは、民間の経済主体が構築し、運営することもできる。極端なケースでは、知り合いの2人の間で「困ったときは助け合おう」と合意し、そのとおり実行することもできよう。

 しかし、せっかく助け合いを約束しても、その約束を破る者が出てきてもおかしくない。もちろん、ゲーム論的にいえば、いわゆる「繰り返しゲーム」を想定し、約束違反に対する罰則を私的に設定して、約束を破ることを防止するルールを個人間で作り出すこともできよう。しかし、そうした個人間の関係そのものを打ち切ってしまった者にとっては、そのルールの拘束力はなくなってしまう。さらに、仮に人々の間でリスク分散の仕組みが維持されたとしても、そこで保障される生活が最低限度のものである保証はどこにもない。

 このように考えると、最低限度の生活を保障するということを社会的に目指す以上、政府がそのための財源調達やサービス供給に関与することが必要になってくる。

民間保険の限界

 政府が必要とされる第2の理由は、リスク分散を民間保険に委ねることの問題点である。生命保険や損害保険の例からもわかるように、保険は民間の保険会社によっても提供することができる。にもかかわらず政府が社会保険という強制加入の仕組みを整備する必要があるとする根拠として、「逆選択」(adverse selection)の問題が指摘されることが多い。

 逆選択とは、次のような状況を意味する。たとえば、医療保険が民間で行われ、その加入が任意の場合、病気になる確率が高い人ほどその保険に加入するだろう。そのため、保険会社は収益の維持を目指して保険料を引き上げざるをえない。そうなると、保険の加入者は病気になる確率がさらに高い人に限定され、保険会社はさらに保険料を引き上げるという悪循環が生まれる。このように、民間保険の場合は、リスクの高い人だけが保険に加入し、保険そのものが成立しない危険性を回避できなくなる。したがって、強制加入の社会保険が必要になるということになる。

 こうした逆選択の説明は、「疾病リスクは保険者より加入者(個人)のほうがよく知っている」という形の情報の非対称性を前提としている。しかし、私たちは、自分の疾病リスクを本当に他人よりよく知っているだろうか。また、民間の保険会社は営利を追求するから、疾病リスクの高い人は保険からできるだけ排除したいと考えるはずである。そのために、保険会社は加入を申請した人の健康状態を審査し、リスクの高そうな人は加入を拒否するだろう。この審の段階で、疾病リスクをめぐる情報の非対称性はかなり軽減される。

 このように、民間に医療保険を任せると、逆選択の説明とはまったく反対に、疾病リスクの高い人が排除される危険性がある。こうした状況を「リスク選択」 (risk selection)が働いているという。前述の逆選択より、このリスク選択のほうが現実味を帯びているかもしれない。しかし、説明の仕方はまったく逆であるものの、社会保険の強制加入が是認されるという点では、逆選択とリスク選択の帰結は同じである。

 ただし、保険への強制的な加入が正当化されたとしても、保険制度を政府が独占的に運営すべきであるという根拠は実は明らかでない。保険への加入自体は強制するものの、保険の運営は民間主体に委ねるという形の制度設計もありうる。さらに、そのような強制加入の仕組みを整備しても、社会保険が保険制度であるかぎり、次のような「モラル・ハザード」(moral hazard)という問題を完全に回避できないという点には注意が必要である。

 たとえば、最低限度の所得が社会保険によって保障されているとすれば、所減少のリスクに備える必要がそのぶん低下するから、人々は労働や貯蓄を怠るかもしれない。そうなると、社会全体で見て最低所得水準が達成できないリスクが高まり、保険料を引き上げざるをえなくなるという問題が生じてしまう。所得減少のリスクをカバーしようと保険に入る人にとっては、これは不本点な状況である。このようなモラル・ハザードの発生を回避する仕組みをどう設定するかは、社会保険制度において非常に重要な課題となっている。

公共財としての社会保障サービス

 社会保障のもとでは、社会的なリスクが発生したときに、あるいはリスクを軽減するために、政府がさまざまなサービスを提供することになる。したがって、社会保障は一種の公共財を供給する社会的な仕組みとしての側面を持っている。そのようにとらえると、社会保障サービスもほかの公共財の場合と同じように、その供給を民間にすべて委ねるのではなく、政府が社会保険料や税といった形で人々から財源を強制的に拠出させて供給することが必要となる。

 この点は、医療保険や公衆衛生の場合を考えれば明らかだろう。たとえば、病気やケガの治療、衛生的な生活環境の整備は、個人の便益を高めるだけでなく、社会全体にとっても望ましいという点で、外部経済効果(外部性)を持つ。ところが、人々はそうした経済外部効果を十分考慮して社会保障サービスを需要しようとはしないので、民間で供給される供給量は社会的に最適な水準を必ず下回る。そのため、社会保障サービスの供給に対する政府の関与が必要になる。もっとも、こうした理由で政府の関与が十分に正当化されるためには、政府が社会保障サービスの外部経済効果について、個人より豊富な情報を持っていることが前提となっている点に注意が必要である。
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