『立憲主義と日本国憲法』より 精神活動の自由 表現の自由の保障の範囲と程度
二段階で問題を考える場合、範囲の判断においては範囲を広くとり、とりあえず表現の自由の射程内に入れておいて、次の段階で、そこで問題となっている表現の価値の性質・程度を厳密に衡量するという発想になるのが通常である。そこで、範囲の画定についてはそれほど厳密さを強調する必要はなくなり、むしろ範囲を拡大する傾向にある。
(1)表現方法における拡大
明治憲法が「言論著作印行」の自由と規定していたように、表現の自由は、まず、口頭・手書き・活字の表現を対象にしていた。 しかし、今日では、映画、演劇、音楽、放送その他一切の態様の表現を保障の対象に取り込んでいる。
しかし、あらゆる「表現」が表現の自由にいう「表現」に入るわけではない。たとえば、髪型や服装なども「自己表現」の一形態といわれるが、特殊な状況を除けば、表現の自由の対象とは考えていないのである。限界線上で現れる問題に「象徴的言論」(symbolic speech)といわれるものがある。たとえば、かつてアメリカでベトナム戦争に反対する意思を表明するために公衆の面前で徴兵カードや星条旗を焼却する行為が行われた。このような行為は通常は言論とは認められず、「言論」とは区別された「行動」にすぎないとされるものであるが、一定の状況の下に意見表明のための言論として行われ、受け手もそのように理解している場合には、そのような行為を「象徴的言論」と呼び、表現の自由の範囲に取り込んでいる。
(2)表現内容における拡大
当初は政治的内容の表現が中心であったが、今日ではいかなる内容であれ一応表現の自由の保障の射程内にあると考えている。特に、かっては射程外と考えられていたわいせつ的表現、名誉毀損的表現、プライバシー侵害的表現、商業広告なども、今日では一応表現の自由の範囲に入るものと考えるようになっている。本書も、商業広告を除いて、そのような考え方に従っている。
(3)時間的拡大
さらに、時系列に沿った縦軸的な拡大も問題となる。表現のプロセスは、資料収集等の準備行為に始まり、表現内容を加工・編集して外部に表明し、受け手に受領されるという一連の過程である。このうち、加工・編集して外部に表明する行為が表現の自由の中核であるのはいうまでもないが、表現する自由は、さらに表現を受け取ってもらう自由まで含むものであった。もちろん、受け取ることを要求する権利まで含むわけではないが、受け手が受け取ろうとすれば受け取りうる状態に置くことを妨害されない権利までは含むのである。これを受け手の側から捉えれば、「表現を受け取る自由」ということになる。では、準備的行為、表現の素材の収集活動は、表現の自由により保障されるのか。これが特に問題となるのは、報道の自由の前提としての「取材の自由」をめぐってである。
報道の自由が表現の自由の保障を受けることについては、今日では異論がないが、取材の自由については学説が対立しており、判例も「報道のための取材の自由も、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値いするものといわなければならない」(博多駅事件・最大決昭和44年11月26日刑集23巻11号1490頁)と述べ、保障されるとは明言しないで曖昧な態度をとっている。しかし、「尊重する」というのであるから、一応表現の自由の射程内にはあると理解してよいであろう。問題は、将来の取材を困難にするような国家からの要求を報道機関がどこまで拒みうるかである。この問題の多くは「公正な裁判」との関連で現れる。たとえば、新聞記者は取材源についての証言を拒否しうるか(石井新聞記者事件・最大判昭和27年8月6日刑集6巻8号974頁)、テレビ局の取材フィルム等を裁判の証拠として用いるためにその提出を命令したり(前出博多駅事件)、押収したり(日本テレビ事件・最二決平成元年1月30日刑集43巻1号19頁、 TBS事件・最二決平成2年7月9日刑集44巻5号421頁)することは許されるかが争われた。証言要求や提出命令に応ずれば、公正な裁判に資するかもしれないが、今後の取材が困難になろう。取材の自由を重視すべきだという学説も有力だが、最高裁は、刑事手続と関連するときにはいずれの場合も取材の自由より裁判の公正(適正迅速な捜査処理の要請も含めて)という価値を重視する判断を行っている。しかし、民事手続の場合には、証言拒否を認めた判例がある。
事案は、あるアメリカ人がアメリカ合衆国を被告にアメリカの裁判所に提起した損害賠償請求事件に関して生じたものである(最三決平成18年10月3日民集60巻8号2647頁)。その主張によると、アメリカの税務官が日本の税務官に秘密(上記原告アメリカ人の徴税に関する情報)を漏洩し、それを日本のテレビ記者が日本の税務官から取材して報道し、それを受けてアメリカのメディアが報道したことが原因で損害を受けたというのである。そこでアメリカの裁判所から司法共助の取決めに基づいて日本の裁判所に当該記者に対する嘱託尋問が依頼されたが、記者は取材源についての証言を拒否し、これを日本の最高裁が民訴法197条1項3号の「職業の秘密」に該当するとして容認したというものである。証言拒否が認められる場合を規定している刑訴法149条と民訴法197条の規定の仕方の違いにも関連しており、刑事に関する上記石井新聞記者事件の大法廷判決を変更したわけではないが、博多駅事件判決で表明された取材の自由に対する理解が進展してきたことも影響していると思われる。
(4)表現受領補助行為への拡大
表現の自由の保障は表現を受領する自由の保障も含んでいた。表現を受け取ることを妨害するのは、この保障に反するのである。これに関連して、特定の方法で受領することが、受領の自由の保障に含まれるか、換言すれば、特定の受領方法を規制することが受領の自由の侵害になるかが問題となることがある。たとえば、法廷で傍聴人がメモをとることを禁止するのは、その一例である。最高裁判所は、メモ採取は「憲法21条1項の規定によって直接保障されている表現の自由そのものとは異なる」から厳格な審査は必要ないが、その自由を認めることは「憲法21条1項の規定の精神に合致するものということができる」と述べている(レペタ事件・最大判平成元年3月8日民集43巻2号89頁)。取材の自由に関する最高裁の判示と同旨と捉えることができる。
公開された情報の機械複写を制限・禁止する場合などにも、同種の問題が生ずるが、こうした問題は、公開の射程や取材の自由の問題として捉えることも可能であろう。
二段階で問題を考える場合、範囲の判断においては範囲を広くとり、とりあえず表現の自由の射程内に入れておいて、次の段階で、そこで問題となっている表現の価値の性質・程度を厳密に衡量するという発想になるのが通常である。そこで、範囲の画定についてはそれほど厳密さを強調する必要はなくなり、むしろ範囲を拡大する傾向にある。
(1)表現方法における拡大
明治憲法が「言論著作印行」の自由と規定していたように、表現の自由は、まず、口頭・手書き・活字の表現を対象にしていた。 しかし、今日では、映画、演劇、音楽、放送その他一切の態様の表現を保障の対象に取り込んでいる。
しかし、あらゆる「表現」が表現の自由にいう「表現」に入るわけではない。たとえば、髪型や服装なども「自己表現」の一形態といわれるが、特殊な状況を除けば、表現の自由の対象とは考えていないのである。限界線上で現れる問題に「象徴的言論」(symbolic speech)といわれるものがある。たとえば、かつてアメリカでベトナム戦争に反対する意思を表明するために公衆の面前で徴兵カードや星条旗を焼却する行為が行われた。このような行為は通常は言論とは認められず、「言論」とは区別された「行動」にすぎないとされるものであるが、一定の状況の下に意見表明のための言論として行われ、受け手もそのように理解している場合には、そのような行為を「象徴的言論」と呼び、表現の自由の範囲に取り込んでいる。
(2)表現内容における拡大
当初は政治的内容の表現が中心であったが、今日ではいかなる内容であれ一応表現の自由の保障の射程内にあると考えている。特に、かっては射程外と考えられていたわいせつ的表現、名誉毀損的表現、プライバシー侵害的表現、商業広告なども、今日では一応表現の自由の範囲に入るものと考えるようになっている。本書も、商業広告を除いて、そのような考え方に従っている。
(3)時間的拡大
さらに、時系列に沿った縦軸的な拡大も問題となる。表現のプロセスは、資料収集等の準備行為に始まり、表現内容を加工・編集して外部に表明し、受け手に受領されるという一連の過程である。このうち、加工・編集して外部に表明する行為が表現の自由の中核であるのはいうまでもないが、表現する自由は、さらに表現を受け取ってもらう自由まで含むものであった。もちろん、受け取ることを要求する権利まで含むわけではないが、受け手が受け取ろうとすれば受け取りうる状態に置くことを妨害されない権利までは含むのである。これを受け手の側から捉えれば、「表現を受け取る自由」ということになる。では、準備的行為、表現の素材の収集活動は、表現の自由により保障されるのか。これが特に問題となるのは、報道の自由の前提としての「取材の自由」をめぐってである。
報道の自由が表現の自由の保障を受けることについては、今日では異論がないが、取材の自由については学説が対立しており、判例も「報道のための取材の自由も、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値いするものといわなければならない」(博多駅事件・最大決昭和44年11月26日刑集23巻11号1490頁)と述べ、保障されるとは明言しないで曖昧な態度をとっている。しかし、「尊重する」というのであるから、一応表現の自由の射程内にはあると理解してよいであろう。問題は、将来の取材を困難にするような国家からの要求を報道機関がどこまで拒みうるかである。この問題の多くは「公正な裁判」との関連で現れる。たとえば、新聞記者は取材源についての証言を拒否しうるか(石井新聞記者事件・最大判昭和27年8月6日刑集6巻8号974頁)、テレビ局の取材フィルム等を裁判の証拠として用いるためにその提出を命令したり(前出博多駅事件)、押収したり(日本テレビ事件・最二決平成元年1月30日刑集43巻1号19頁、 TBS事件・最二決平成2年7月9日刑集44巻5号421頁)することは許されるかが争われた。証言要求や提出命令に応ずれば、公正な裁判に資するかもしれないが、今後の取材が困難になろう。取材の自由を重視すべきだという学説も有力だが、最高裁は、刑事手続と関連するときにはいずれの場合も取材の自由より裁判の公正(適正迅速な捜査処理の要請も含めて)という価値を重視する判断を行っている。しかし、民事手続の場合には、証言拒否を認めた判例がある。
事案は、あるアメリカ人がアメリカ合衆国を被告にアメリカの裁判所に提起した損害賠償請求事件に関して生じたものである(最三決平成18年10月3日民集60巻8号2647頁)。その主張によると、アメリカの税務官が日本の税務官に秘密(上記原告アメリカ人の徴税に関する情報)を漏洩し、それを日本のテレビ記者が日本の税務官から取材して報道し、それを受けてアメリカのメディアが報道したことが原因で損害を受けたというのである。そこでアメリカの裁判所から司法共助の取決めに基づいて日本の裁判所に当該記者に対する嘱託尋問が依頼されたが、記者は取材源についての証言を拒否し、これを日本の最高裁が民訴法197条1項3号の「職業の秘密」に該当するとして容認したというものである。証言拒否が認められる場合を規定している刑訴法149条と民訴法197条の規定の仕方の違いにも関連しており、刑事に関する上記石井新聞記者事件の大法廷判決を変更したわけではないが、博多駅事件判決で表明された取材の自由に対する理解が進展してきたことも影響していると思われる。
(4)表現受領補助行為への拡大
表現の自由の保障は表現を受領する自由の保障も含んでいた。表現を受け取ることを妨害するのは、この保障に反するのである。これに関連して、特定の方法で受領することが、受領の自由の保障に含まれるか、換言すれば、特定の受領方法を規制することが受領の自由の侵害になるかが問題となることがある。たとえば、法廷で傍聴人がメモをとることを禁止するのは、その一例である。最高裁判所は、メモ採取は「憲法21条1項の規定によって直接保障されている表現の自由そのものとは異なる」から厳格な審査は必要ないが、その自由を認めることは「憲法21条1項の規定の精神に合致するものということができる」と述べている(レペタ事件・最大判平成元年3月8日民集43巻2号89頁)。取材の自由に関する最高裁の判示と同旨と捉えることができる。
公開された情報の機械複写を制限・禁止する場合などにも、同種の問題が生ずるが、こうした問題は、公開の射程や取材の自由の問題として捉えることも可能であろう。