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豊田市図書館の27冊

336.17『CIO伝説を作った男たち』いかにして「経営とシステムの一体化」は成し遂げられたか

311.23『西洋政治思想史』古代ギリシャにおけるデモクラシーの誕生から20世紀までの政治思想の流れを平易に説明したテキスト。

302.23『ミャンマーを知るための60章』

493.94『哲学する〈父〉たちの語らい ダウン症・自閉症の〈娘〉との暮らし』

332.15『名古屋経済圏のグローバル化対応』産業と雇用における問題性

290.93『ケアンズとグレートバリアリーフ』大珊瑚礁が創ったもうひとつの世界

364『社会保障の経済学』

369.42『しあわせな放課後の時間』デンマークとフィンランドの学童保育に学ぶ

104『人類哲学へ』

709.37『イタリアの世界文化遺産を歩く』

914.6『小説を読む、ことばを書く』

317.24『財務省の逆襲』誰のための消費税増税だったのか

336.55『ロジカル・ライティング』

913.6『八八艦隊海戦譜 攻防篇2』

289.3『イザベラ・バード』

069.02『東京23区 区立博物館 〝辛口〟批評』

019.9『数学者が読んでいる本ってどんな本』

537.09『ものづくりを超えて』

A596『ラーメンWalker東海2014』

C34.2『「はとバス」ヒットの法則23』

589.2『ただしい着こなし86』

674『小さな会社の広報・PRの仕事ができる本』◎メディアに取り上げてもらうには? ◎ニュースネタはキーワードで探す ◎プレスリリースの書き方の基本 ◎ウェブ・ITの活用の仕方 ◎小さな会社の成功事例

709.3『最新 ヨーロッパの人気世界文化遺産めぐり』

209『世界の歴史を変えた日1001』

601.1『わが街再生』

596.3『今日はどれにする? 86のおいしい雑炊』

509.6『モノ造りマネジメントの「全容」と「基本」』顧客価値を高め、QDC競争力を付ける 何事も極めようとすれば対象について「全容」と「基本」をりかいすることである。モノ造りは、改善活動ではなく、“生産戦略策定~仕組みづくり~運用~改善活動”を組織的に行うという“マネジメント(管理活動)”である
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ドイツ史 《第三帝国》

『ドイツ史』より

疲弊し壊滅してしまったように見えたドイツのなかにあって、生き永らえて巻き返しの準備をしている活動的な要素の幾つかのうち最も強力なのが軍隊と重工業であった。なかでも工業人たちは強大な経済力を保持していた。彼らは伝統的政党に結びつこうとしたが、肝心の旧政党は政策もドクトリンもばらばらで多数票を獲得することができないでいた。これに対し、新興の国家社会主義党(ナチス)はあらゆる係累に縛られず、しかも第一党となったことにより、大製鋼所などから多額の献金がその懐に流れ込んだ。工業人たちのほうは、カネの力でヒトラーを操ることができると踏んでいたが、これは見当違いであった。この薄情な男は、手にした権限を最大限に活用して、一方で恐怖を撒き散らし、もう一方で、自分の考える国家再生を押し進めていった。パーペンもフーゲンペルク(経済相・農業食糧相・国民党党首)も、教養も経験もないこの男なら簡単に飼い慣らせると考えていたが、彼らのほうが数か月足らずでヒトラーに打ち負かされてしまった。

一九三三年夏には、すべての政党、政治的・非政治的を問わずあらゆる組織が禁止され、公共生活を牛耳るのはヒトラーの党の独壇場となる。情報相ヨーゼフ・ゲッペルスの煽動的なプロパガンダにより、ゲーリングとヒムラーの親衛隊と突撃隊、そして警察の暴虐によって、ナチ党に抵抗する者はすべて沈黙させられた。有名な国会議事堂の放火事件は、ファン・デル・ルッベという男の犯行とされたが、おそらくゲーリングが仕組んだもので、共産党が黒幕であるとして弾圧が行われた。

ナチスはその後の選挙でも過半数を取ることができなかったが「国民の圧倒的多数の支持を得た」として強権を発動した。このなかで、不幸にもユダヤ人、スラヅ人、ジプシー征亜目巳〔訳注・ロマ人〕などは「非アーリア人種」として財産を没収され、強制収容所に収監されて、ひどい扱いを受けた。〔訳注・本書では詳しく言及されていないが、とくにユダヤ人については、絶滅を視野に入れた大量虐殺まで行われたことは、あまりにも有名である。〕ドイツの最も偉大な学者や作家の何人かは亡命を余儀なくされ、その多くが移り住んだアメリカには、この結果、計り知れないほど大きな文化的貢献をもたらした。

この間、ドイツでは、政党だけでなく、組合や領邦も壊滅させられた。尊敬に値する抵抗を繰り広げた教会も少なくなかった。万人同胞主義を本来の教義とするキリスト教と人種的優劣を振りかざしゲルマン人を《支配民族》とするナチズムとが協調できるはずもなく、ローマで結ばれた政教協定にもかかわらず、カトリック教会もプロテスタント教会も、おしなべて迫害を受けた。一九三七年三月十四日、教皇ピウス十一世は反ナチズムの回勅(燃えるような憂慮をもって)をドイツの司教たちに宛てて発した。ナチス政府はこれを禁じたが、いたるところで回し読みされた。

ナチズム自体がアドルフ・ヒトラーを《フューラー(指導者、案内者)》と仰ぐ古代ゲルマンの神秘的信仰に蕎づく一つの異教であり、従わない者を摘発するために、監視と密告のシステムがいたるところに張り巡らされた。その一方では、再軍備計画と大型事業のおかけで失業者は減り、若者たちは、ナチ党の忠実な道具に仕立てるための精神教育を施す仕組みのなかに入れられた。

党の理念に合わせようとしない人々に対する《パージ》(粛清)は、ヒトラーの旗揚げ当初からの仲間にも容赦なく及んだ。一九三四年六月三十日の《長いナイフの夜》では、突撃隊長のレームとそのコ派が排除されている。なお、前首相のシュライヒャーやパーベンの秘書などヴァイマール共和政時代の旧敵八十余人もこのとき殺されており、この事件の残虐さは、まだ幾分か精神的自由を保持していた人々のなかに恐怖を引き起こした。

そればかりでなく、一九三五年の「ニュルンべルク諸法」によってユダヤ人は公民権を剥奪され、ゲットーに入れられて古代社会の奴隷よりも劣悪な状況に置かれた。

ヒムラーが率いた秘密警察、ゲシュタポは、人類史上最も残忍な加虐趣味的迫害を実行し、あらゆる恐怖を撒き散らした。

ヒトラーは、一九三四年のヒンデンブルクの死で共和国大統領に就任するとともに、「総統兼首相」を名乗った。総統はナチスの党首であると同時に国家元首であり、ドイツ民族の意志を体現する神秘的存在として、軍隊は総統の人格への絶対的忠誠を誓わなければならなかった。したがって、閣議が開かれることもなくなり、必要に応じて専門家に諮問は行われるものの、最終的には彼が一人でベルヒテスガーデンの秘密の隠れ家で決断した。とくに怒りに囚われたときは精神病の兆候が現れたが、彼がその気になったときは、人を惹きっける魅力を発揮した。とくに外国からの訪問者には虜になる人も少なくなかった。

この狂った時代にあって、正気を保っているドイツ人もいないわけではなかったが、そうした彼らも、常に警察が監視している全体主義体制に逆らうことはできなかった。
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民主主義のつくり方 「社会を変える」仕事とは?

『民主主義のつくり方』より プラグマティズムと経験

二〇〇〇年代の社会変革志向?

 最近になって、「社会を変える」という言葉をよく耳にするようになった。二○一二年に、小熊英二『社会を変えるには』が話題になったのは記憶に新しい。これからとりあげる駒崎弘樹『「社会を変える」を仕事にする』の原著が刊行されたのも、それに先立つ二〇〇七年である。学生運動がさかんであった時代ならいざ知らず、なぜ現代の日本で「社会を変える」が話題になっているのだろうか。

 反原発デモに象徴されるように、直接民主主義的な異議申し立て行動が活発化していることが一因となっているのは間違いない。さらにその背景に、一九九〇年代以来の政治改革に対する失望、さらに選挙を中心とする代議制民主主義に対する不信を指摘することも不可能ではない。

 かつて一九世紀に社会主義が誕生した際にも、やはり法や政治制度を通じての社会変革に対する失望が存在した。たしかにフランス革命は王政を倒し、近代的な所有権を制度化した。にもかかわらず、革命が約束した真の平等の実現にはほど遠く、むしろ革命後に進行した産業革命の結果、都市におけるスラムの発生や貧富の差の拡大などの社会問題が深刻化した。

 そうだとすれば、問題があるのは個々の法や政治制度ではなく、「社会」そのものではないか。このような思いから、「社会を変える」ことを目指す人々が現れた。後世、「初期社会主義」と呼ばれたのは、そのような人々であった(マルクスやエングルスらに「空想的社会主義者」と呼ばれることになったが)。

 しかしながら、二〇〇〇年代の日本に現れた社会変革志向は、「社会」そのものの根底的な変革への期待を含みっつも、やはりかつての社会主義的な思考法とは根本的に異質な要素を含んでいるように思われる。

 かつての社会主義には、目指すべき社会の像が--それがどれだけユートピア的であれ--明確に存在した。このような社会に変えるのだ、という強い情熱こそが、運動に参加する人々を突き動かした原動力であった。

 これに対し、二〇〇〇年代の社会変革志向には、必ずしも目指すべき社会像があるわけではない。「社会を変えたい」「社会の役に立ちたい」「社会的に意味のあることをしたい」という思いは共有されていても、具体的にどのような社会のあり方が理想であるかといえば、人によってかなり多様である。

 もちろん、「社会的な排除のない社会」「環境的に持続可能な社会」「個人の自由や自発性が最大限尊重される社会」といった理想はあるだろう。とはいえ、一九世紀の社会主義者たちが思い描いた、良きにつけ悪しきにつけかなり具体的な社会像と比べると、どうしても抽象的で漠然としているという印象が否めない。

 しかしながら、現代における社会変革志向は、その分、「どのように社会を変えるか」についてはかなり自覚的である。一九世紀の社会主義者たちが、それではどのようにしてその理想社会を実現するのかと問われると、とたんにあいまいになったのと比べると、現代の変革者たちは、きわめて具体的な方法論や戦略をもっている。

 このことを、現代のソーシャル・ビジネスを代表する一人の人物に即して検討してみたい。

ソーシャル・ビジネスとは何か

 その人物とは、駒崎弘樹氏である。現在、病児保育の問題に取り組むNPO法人フローレンスの代表理事をつとめる駒崎氏は、二〇〇七年に『ニューズウィーク』誌日本版で「世界を変える社会起業家100人」の一人に選ばれている。とはいえ、彼は最初からソーシャル・ビジネスの道を目指していたわけではない。

 学生時代の駒崎氏は、ITのベンチャー企業を立ち上げているように、関心はむしろビジネスの世界へと向けられていた。ところが彼は、やがて真に自分が目指すべきものについて自問するようになる。彼にとって、金銭そのものが目指すべき目標ではなかった。彼にとって重要だったのは、あくまで「日本社会の役に立つ」ことであった。

 そうだとすれば、なすべきことは何か。駒崎氏が出した結論は、自分なりに社会的課題を発見し、その解決を社会運動ではなく、ビジネスの手法を用いて達成することであった。すなわち、彼が目指しだのは、収益そのものを目的とせず(その意味で一般のビジネスと異なる)、かといって、収益を上げることも否定しない(その意味で無償のボランティアとも違う)、新たなカテゴリーであった。やがて駒崎氏は、そのような新たなカテゴリーがソーシャル・ビジネスと呼ばれていることを知る。

 駒崎氏の念頭にあったのは、アメリカであった。日本においては、社会的課題の解決といえば、ただちに社会運動やボランティア活動が思い浮かぶ。これに対しアメリカでは、このような領域においても、ビジネスの発想が大きな役割をはたす。

 実際、アメリカのNPOは、ビジネス・セクターから人材やノウハウを引き出しており、CEO(最高経営責任者)がいることも珍しくない。マーケティング・ディレクターの下、大規模な予算を獲得し、収益を確保することで経営の自立化をはかっている。

 このような組織は「社会的企業」と呼ばれ、法人格はNPO法人、株式会社、社会福祉法人等を問わない。イギリスには社会的企業の専門法人であるCIC(Community Interest Company)も存在する(「コミュニティの利益のための会社」)。このような組織を経営する人々が「ソーシャル・アントレプレナー(社会起業家)」である。

 それでは、駒崎氏が解決を目指しだのは、いかなる社会的課題であったのか。ここで肝心なのは、ソーシャル・ビジネスを立ち上げること自体が目的ではなかったということである。ソーシャル・ビジネスは手段であって、目的ではない。解決されるべき社会的課題があり、それを既存の政府や企業がうまく解決できないからこそ、ソーシャル・ビジネスが登場する余地が生まれるのである。

 駒崎氏が眼をつけたのが、病児介護である。きっかけはベビーシッターをしている、彼の母親の一言であった。彼女がベビーシッター・をしていた子どもの母親が、あるとき会社を辞めさせられたという。理由は、子どもの病気ゆえに、会社を休みがちになったことであった。保育園は、病気になった子どもの面倒をみてくれない。現行の仕組みの下では、親が子どもを引きとるしか選択肢がなく、とくにシングルマザーの場合、問題は深刻であった。

 とはいえ、壁も大きかった。病児保育を行う施設の多くは補助金を受けて組織運営を行っているが、結果として、利用料を含め、自由に決められないことが多い。ある意味で事業者を支援するための制度が、事業者の手足をしぼり、赤字にしている側面があることに駒崎氏は気づいた。

 また病児保育を行うための施設の確保や、一年のうち時期によって利用者数が異なること(当然、風邪やインフルエンザの流行する冬の利用者が多い)も難題であった。駒崎氏は、医師との連携をはかりつつ、「非施設型」の運営を導入するとともに、定額掛け捨ての「保険共済型」の着想を得ることで、新たな道を切り拓いたのであった。
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サンデルの政治哲学 分配についての多元的正義論

『サンデルの政治哲学』より 哲学的発展--「リベラル・コミュニタリアン論争の展開」

分配についての多元的正義論

 ウォルツァーは『正義の諸領域』(邦訳名は『正義の領分』、一九八三年)という主著で、正義は、特定のコミュニティの人たちに共有された理解に基づいて決められ、福祉や教育などのいろいろな領域ごとに正義の原理は違い、社会的財についての分配的正義の規範は異なっている、とする。一つの統一的な正義の原理ですべてを判断すべきではないし、市場を支配する金銭の力で他の領域の分配を決めるべきではない。例えば、福祉や教育、貨幣、公職、仕事、自由時間、親族関係、政治権力などのさまざまな領域では、それぞれ別の基準で自律的に分配の正義を考えるべきである、というのである。このような考えに基づく平等観を彼は「複合的平等」と呼ぶ。これは、「分配についての多元的正義論(多元的分配正義論)」と言うべきだろう。

 ウォルツァーは、コミュニティの人々が共有する文化や伝統や理解に基づいた正義を考えることを主張し、独立した哲学的論理に基づいて外から批判することに反対している。例えば「教育をどうしていくか」という問題は、アメリカならアメリカというコミュニティの人々に共有された理解によって考えるべきだ、とするのである。ウォルツァーの議論は、「コミュニタリアン的な論理を用いながら社会民主主義的な主張をする」という点で進歩的だが、分配の根拠を、コミュニティの構成員の共通の理解に求めるので、相対主義的という批判もある。そのため、「ウォルツァーのいうことは、コミュニティの多数派の意見をそのまま認めるということではないか」と批判されることがある。彼自身、意見が多数存在する民主主義の方が、哲学に対して優位であると語っているので、この批判が的外れとは言えない。

 サンデルは、ウォルツァーの多元的正義論を簡潔に説明する。市場の原理が他の領域を支配するべきではないと主張する点で、サンデルの「市場の道徳的限界」という考え方と共通しているから、サンデルもこの点ではウォルツァーの考えに近いと言えるだろう。

 そして、サンデルは、〝権利が先にあるのではなく、コミュニティの構成員であるということが先にあり、私たちが権利を持つのはコミュニティの構成員であることに基づく〟というウォルツァーの考え方を紹介する。つまり、「正義」は構成員であることから始まるのである。異なったコミュニティは異なった財に異なった意味・や価値を与えており、それは構成員についての異なった理解にも結びついている。このような考え方が「構成員としての正義」という文章の題名の意味するところである。

 ただ、サソデルは、ウォルツァーの相対主義的な議論には必ずしも賛成はしておらず、〝ウォルツァーの多元主義は道徳的相対主義を必然的に要請するわけではない〟とする。そして、〝ウォルツァーの相対主義は、彼の肯定的な考え方と緊張関係にあり、肯定的な考え方としては、私たちが構成員として共有している生活を培っているコミュニティについてウォルツァーには特定のビジョンが存在する〃という。

 例えば、ウォルツァーは、ホリデイとバケーションを分けて考えており、ホリデイは宗教的ないし公民的な意味をもつ公共的な責務に満ちた日であり、通常の生活から離れて共に祝う日である。これに対して、バケーションは、「空虚な日」という語源が意味するように、宗教的な祝祭や公共的なゲームがない日である。ウォルツァーは、「人々の公共的な支持によりどちらが選ばれるかが決まる」というような相対主義的な考え方を示しているが、実際には「バケーションよりもホリデイが価値が高い」と考えるコミュニティの方が、より豊かな共通生活を可能にし、帰属意識を培うことができる、と示唆しているというのである。

ウォルツァーの相対主義や正義論の問題性

 しかし、ウォルツァーの正義の考え方は、コミュニティの多数派の考えに基づくことになるので、サソデルはこの点ではウォルツァーの考え方とは距離を置いている。「白熱教室」の第11回では、ウォルツァーの名前をあげて、そのようなコミュニタリアニズムに対する批判的な言及をしているのである。〝特定の時点における特定のコミュニティの多数派がいうことを正義だとすると、南北戦争前の南部の奴隷制擁護論も正義になってしまう〟と指摘して、そのような考え方の問題を指摘している。この点では、サンダルはウォルツァーとの違いも、明確にしていると言うことかできるだろう。

 『正義の諸領域』のはじめの方で、ウォルツァーはインドのカースト制に言及しているが、普遍主義的な観点から不正義と断定してはいない。そうすると、中国やイスラームの人権無視に対してはどのように考えるのだろうか。さらに、過去の時代に人々の多数派が擁護していた奴隷制は正義なのかどうか。ウォルツァー自身がそれらを正義と明確に述べているわけではないが、そのような批判を招くだろう。

 ウォルツァーが代表的な正戦論者であるにもかかわらず、アフガュスタン戦争を支持したという状況も、この批判的言及と関連しているように思われる。これは、オバマ政権が発足してから刊行された『正義』には該当箇所がなく、ブッシュ政権下で収録された「白熱教室」のみで見ることができる。アメリカ人の多数派が「正義の戦争」と考える戦争下にあっただけに、この批判は極めて重要な意味を持っている。

 この論点は非常に大事なので、私も論文を書いてウォルツァーを批判した。正戦論自体が間違っているというわけではなく、ウォルツァーのコミュニタリアニズムにおける相対主義的論理に問題があると批判して、彼の正戦論に代わる新しい地球的ないしグローカルな正戦論を提起したのである。
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