未唯への手紙
未唯への手紙
依存とは 依存せよ、そして依存するな
『批評キーワード辞典』より 依存
人間は生まれたとき、かならずケアをしてくれる人に「依存」する。ケア労働は依存を必要とする弱い人々--乳幼児・子ども・障碍者・病人・老人など--にとって必須である。そのようなケア労働に携わるものは、ケアに時間も労力も費やさなければならないので、必然的に経済的に困窮することになり、「自律的な個人」(経済的主体)になることは難しい。人間にとって依存が必須であるにもかかわらず、依存者をケアする労働に従事する人が困窮してしまっているとしたら、何かがおかしい。そこで、依存者とケア労働者の「関係」に着目し、依存者やケア労働者「個人」ではなく、彼らの「関係」を基盤として社会のあり方を考え直すべきだ、と主張するのは哲学者エヴァ・フェダー・キテイである。キテイは依存とケア労働をめぐる〈正義〉論を展開しつつ、つぎのように述べる。
自律的な個人というのは、そもそも常に、依存者の問題を他者に押し付けることのできる特権を持った男性の架空の創造物である。
「自己責任」論を振りかざす人は、依存を必要とする依存者の問題を、依存者をケアするもの(他者)へと押し付ける。その上、彼らを自分の視界から放逐し、「依存者のケアという問題を考えないですませる」という特権を堅守しつつ、「自律的/自立的な個人」という立場に立つ。そのとき、自身が何か(家族や組織や社会)に「関係している」という事実はすっかり忘れ去られている。
しかし、「ケアしされることが誰にとっても必要であること、つまり誰も人と切り離された『個人』として生きていくことはできないことを深く認識するならば」、個人を基点として「依存」を語ることなどできないはずだ。ケア労働を人に押し付けて「自立」したつもりでいる男性は、「自立」するために実はケア労働に「依存」するという逆説を生きている。依存を「個人のあり方」ではなく、「関係すること」と考えれば、ケア労働をする女性と、それを押し付けて忘却する男性の間には、互恵的な依存関係が存在することが見えてくるはずだ。個人を基盤に依存を論じている限り、それは一方的な依存としてしか見えてこない。
資本主義システムの根本的な矛盾は、自己コントロールの効いた労働者を生み出す一方で、消費者の抑制をとっぱらう(それによって植えつけたはずの人々の自制心を切り崩す)ところにある。
哲学者のジル・ドゥルーズは、「規律社会」から「管理社会」への移行という点で後期資本主義社会を分析した(『記事と事件』)。それは、「自己」がもはやハードな規律によってではなく、絶えざるソフトな「管理」(コントロール/マネジメント)を強いられているという分析であった。さて、依存に関連して「依存症」という言葉がある。「症」というだけあって、それは病気として治療対象になるものである。薬物、喫煙、アルコール、ギャンブル、ショッピングなどが依存症の代表例として挙げられる。最近はゲーム、インターネット、携帯電話も依存症と関連づけられ非難されることがある。依存症は、単なる嗜好品としての気晴らしを超えた過度の使用によって、生産的な労働に支障をきたしている状態を指しているようだ。つまり、「自己管理できていない」ことが悪とされているのである。ホストクラブを遊び歩いていた件の母親は、ホストクラブに依存していた。そして労働に支障をきたした。つまり、「自己管理できていない」ことが糾弾されていたのである。
しかし、先に引用したアクストによれば、資本主義システムにおいては、消費の側面から見ると、自己管理は邪魔なだけである。自制心を失ってガンガン消費することが資本主義の要請でもあるのだ。つまり、人は、二重の命令を受けているのである。「自己管理せよ」そして「自己管理するな」と。
これを言い換えれば、現在の私たちは「依存するな」と「依存せよ」という正反対の命令を同時に受けているのである。だが、多くの人にとって、このような複雑な命令を上手く処理することは難しい。つい過剰に摂取・利用・消費してしまう。同時に、なんとかしてそれらの過剰な使用を「自力で」管理しようと試みて失敗し、その結果、自己管理能力に対する無力感を抱き、その無力感を打ち消さんがために、再び自力で管理しようとし、また失敗する。この回路を繰り返すうちに、さらなる依存へと進んでしまう。「自己管理せよ」と常に命令される「管理社会」は、結果的に、「コントロールすることそのものを自己目的化する傾向性をもつ「嗜癖する社会」」へと導かれるのである。ホストクラブにある意味「依存」していた件の母親の自己管理の失敗は、必然だったと言わざるをえない。彼女のホストクラブ通いは、はたして純粋な「歓び」であったのだろうか。誰かに「止めて欲しい」と願うことは少しもなかったのであろうか。筆者にはわからないのである。ただ確実にひとつ言えることは、「依存するな」と「依存せよ」という二つの命令の板挟みになった彼女の生は、現代を生きる私たちの生でもある、ということだ。
人間は生まれたとき、かならずケアをしてくれる人に「依存」する。ケア労働は依存を必要とする弱い人々--乳幼児・子ども・障碍者・病人・老人など--にとって必須である。そのようなケア労働に携わるものは、ケアに時間も労力も費やさなければならないので、必然的に経済的に困窮することになり、「自律的な個人」(経済的主体)になることは難しい。人間にとって依存が必須であるにもかかわらず、依存者をケアする労働に従事する人が困窮してしまっているとしたら、何かがおかしい。そこで、依存者とケア労働者の「関係」に着目し、依存者やケア労働者「個人」ではなく、彼らの「関係」を基盤として社会のあり方を考え直すべきだ、と主張するのは哲学者エヴァ・フェダー・キテイである。キテイは依存とケア労働をめぐる〈正義〉論を展開しつつ、つぎのように述べる。
自律的な個人というのは、そもそも常に、依存者の問題を他者に押し付けることのできる特権を持った男性の架空の創造物である。
「自己責任」論を振りかざす人は、依存を必要とする依存者の問題を、依存者をケアするもの(他者)へと押し付ける。その上、彼らを自分の視界から放逐し、「依存者のケアという問題を考えないですませる」という特権を堅守しつつ、「自律的/自立的な個人」という立場に立つ。そのとき、自身が何か(家族や組織や社会)に「関係している」という事実はすっかり忘れ去られている。
しかし、「ケアしされることが誰にとっても必要であること、つまり誰も人と切り離された『個人』として生きていくことはできないことを深く認識するならば」、個人を基点として「依存」を語ることなどできないはずだ。ケア労働を人に押し付けて「自立」したつもりでいる男性は、「自立」するために実はケア労働に「依存」するという逆説を生きている。依存を「個人のあり方」ではなく、「関係すること」と考えれば、ケア労働をする女性と、それを押し付けて忘却する男性の間には、互恵的な依存関係が存在することが見えてくるはずだ。個人を基盤に依存を論じている限り、それは一方的な依存としてしか見えてこない。
資本主義システムの根本的な矛盾は、自己コントロールの効いた労働者を生み出す一方で、消費者の抑制をとっぱらう(それによって植えつけたはずの人々の自制心を切り崩す)ところにある。
哲学者のジル・ドゥルーズは、「規律社会」から「管理社会」への移行という点で後期資本主義社会を分析した(『記事と事件』)。それは、「自己」がもはやハードな規律によってではなく、絶えざるソフトな「管理」(コントロール/マネジメント)を強いられているという分析であった。さて、依存に関連して「依存症」という言葉がある。「症」というだけあって、それは病気として治療対象になるものである。薬物、喫煙、アルコール、ギャンブル、ショッピングなどが依存症の代表例として挙げられる。最近はゲーム、インターネット、携帯電話も依存症と関連づけられ非難されることがある。依存症は、単なる嗜好品としての気晴らしを超えた過度の使用によって、生産的な労働に支障をきたしている状態を指しているようだ。つまり、「自己管理できていない」ことが悪とされているのである。ホストクラブを遊び歩いていた件の母親は、ホストクラブに依存していた。そして労働に支障をきたした。つまり、「自己管理できていない」ことが糾弾されていたのである。
しかし、先に引用したアクストによれば、資本主義システムにおいては、消費の側面から見ると、自己管理は邪魔なだけである。自制心を失ってガンガン消費することが資本主義の要請でもあるのだ。つまり、人は、二重の命令を受けているのである。「自己管理せよ」そして「自己管理するな」と。
これを言い換えれば、現在の私たちは「依存するな」と「依存せよ」という正反対の命令を同時に受けているのである。だが、多くの人にとって、このような複雑な命令を上手く処理することは難しい。つい過剰に摂取・利用・消費してしまう。同時に、なんとかしてそれらの過剰な使用を「自力で」管理しようと試みて失敗し、その結果、自己管理能力に対する無力感を抱き、その無力感を打ち消さんがために、再び自力で管理しようとし、また失敗する。この回路を繰り返すうちに、さらなる依存へと進んでしまう。「自己管理せよ」と常に命令される「管理社会」は、結果的に、「コントロールすることそのものを自己目的化する傾向性をもつ「嗜癖する社会」」へと導かれるのである。ホストクラブにある意味「依存」していた件の母親の自己管理の失敗は、必然だったと言わざるをえない。彼女のホストクラブ通いは、はたして純粋な「歓び」であったのだろうか。誰かに「止めて欲しい」と願うことは少しもなかったのであろうか。筆者にはわからないのである。ただ確実にひとつ言えることは、「依存するな」と「依存せよ」という二つの命令の板挟みになった彼女の生は、現代を生きる私たちの生でもある、ということだ。
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