goo

中項目名の変更 仕事、本・図書館

5.仕事

 5.1 システムで皆の夢をかなえる

  5.1.1 事務・技術・販売部門を経験

  5.1.2 皆の夢をかなえるのを仕事にした

  5.1.3 システム作りを楽しんできた

  5.1.4 作ることより使える仕組み

 5.2 サファイア循環で仕事を見ていく

  5.2.1 ローカルで考えることから始める

  5.2.2 知恵でローカルを活性化する

  5.2.3 ローカルのためにグローバル企画

  5.2.4 グローバルのモノつくりで効率化

 5.3 販売店環境を店舗から見ていく

  5.3.1 販売店環境の先を見て、考える

  5.3.2 店舗をコミュニティと位置づけ

  5.3.3 販売店ネットでサファイア構成

  5.3.4 店舗コミュニティから発想

 5.4 お客様・社会まで支援を拡大

  5.4.1 メーカーと一緒にお客様を支援

  5.4.2 ソーシャルでお客様とつながる

  5.4.3 クルマを通じて、社会とつながる

  5.4.4 店舗を通じて、社会変革に寄与

 5.5 サファイア機能でスタッフの分化

  5.5.1 ポータルで情報共有環境整備

  5.5.2 スタッフがコラボで意見を発信

  5.5.3 同一環境の販売店ネットで横展開

  5.5.4 販売店ネットにライブラリ配置

 5.6 販売店の本当の要望を確認

  5.6.1 販売店ヒアリングで本当の要望

  5.6.2 店舗コミュニティの情報共有

  5.6.3 経営者はお客様とのつながり要望

  5.6.4 各社で使えるシステムで要望実現

 5.7 サファイア循環を社会に拡大

  5.7.1 スタッフが存在の力を使える環境

  5.7.2 自律した店舗から地域へ拡大

  5.7.3 クルマを使うシェア社会を支援

  5.7.4 地域コミュニティといい社会構築

 5.8 内なる仕事は社会変革に向かう

  5.8.1 店舗の意識変革から社会を変える

  5.8.2 地域の情報共有をスタッフが支援

  5.8.3 コミュニティで企業の変革を図る

  5.8.4 共有の概念で新しい車社会を構築

6. 本・図書館

 6.1 分化する多読を図書館は支える

  6.1.1 豊田市中央図書館で本との関わり

  6.1.2 多読により、個人の分化を実現

  6.1.3 図書館は市民社会に欠かせない

  6.1.4 図書館を観察し、支援を決意

 6.2 図書館を使うことで市民の活性化

  6.2.1 新刊書は広範囲の興味を満たす

  6.2.2 本を読める環境を町に作り出す

  6.2.3 図書館活用で町の活性化を図る

  6.2.4 図書館は市民の多様なニーズ対応

 6.3 本・図書館から公共の世界が広がる

  6.3.1 影響を受け、世界観を引き継いだ

  6.3.2 著者の本に対する思いをつなげる

  6.3.3 生涯学習と電子書籍で可能性拡大

  6.3.4 公共の概念を地域に展開する

 6.4 図書館をコミュニティの拠点にする

  6.4.1 本と出会い、個人の分化を実現

  6.4.2 本でつながり、知恵で発信する

  6.4.3 知識と意識のバックボーン構築

  6.4.4 知の入口はコミュニティを支援

 6.5 知の入口としての情報センター

  6.5.1 本を体系化、検索し、情報を渡す

  6.5.2 状況を理解し、的確な学習を支援

  6.5.3 情報を提供するコンシェルジュ

  6.5.4 アゴラとサードプレイス

 6.6 ライブラリ環境を市民に拡げる

  6.6.1 I love Libraryをカタチにする

  6.6.2 読書環境の有機的なつながり

  6.6.3 コミュニティの知識と意識を支援

  6.6.4 ソーシャルでの知の集約と拡大

 6.7 図書館コミュニティでつながる

  6.7.1 本の威力で考えられる読書支援

  6.7.2 図書館コミュニティでの学習支援

  6.7.3 どこでも図書館で地域活性化

  6.7.4 ポータルと電子図書で個人の分化

 6.8 内なる図書館から社会を変える

  6.8.1 本は今を表現し、未来を志向する

  6.8.2 市民の関心事で社会ライブラリ

  6.8.3 未来を語るための歴史ライブラリ

  6.8.4 情報を整理し、社会変革に向かう
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

依存は意思の力

未唯へ

 結局、今まで掛かってしまった。まだ終わっていません。五日分を入れていました。日によって違います。もっと、集中しないといけない。

 エレベーターコントロールを変えています。

貯めておく機能

 人間には貯めておく機能は、多分ないみたいです。あと、見られるのは、あと一カ月です。貯めておきたいけど、貯めておいても一緒でしょう。たまらないですよ。

依存は意思の力

 現代はあらゆる依存は避けることが可能であり、非難に値するものと考えるようになった。ここでの依存は、全ての成人が労働者であることが求められ、経済的に自立することが期待される。

 賃金労働に従事していない人間は全て、依存者という新自由主義的な自己責任論が強化された。この依存も上からの労働というものがお金を生み出すという、意思の力によるものです。

 その人の存在する理由に関係なく、働けということです。働くということはどういうことなのか、社会にどのように関係するのかとは別に、単に賃金でやろうとするカタチです。

 3.11の時も、1年後にも関わらず、国の援助に甘えているということになります。国の援助は意思の力です。それに対して、何もしないことが悪いという風潮にしています。そこでは存在は関係なくなっています。

 それならば、最初から独立させることを考えていかないといけないし、独立させたモノをどういうネットワークでつなげていくのか。ハッキリ言って、依存しないというカタチです。労働にも依存しない。全てに依存せずに、自分の判断基準に寄っていけば、お金がちゃんと回っていく世界を作っていかないといけない。

 自立的な個人というのは、依存者の問題を他人に押し付けることができる、特権を持った、男性の架空なものと言える。自己責任論を振りかざす人は、依存を必要とする問題を、依存者をケアするものに押し付ける。

 依存するな!と依存せよ!という、二つの命令に挟まれている。命令というのは何か。命令するから生きているのか。そんなものは誰も命令していない。自分が本当の中心ならば。

社会を競争する場から協力する場にしていく

 社会とは何かも、定義されている。

 社会という言葉を用いるときは、第一に社会とは経済社会のことである。これは簡単そうだけど、かなり難しい。どうも、人を超えて働くことは会社に関係するみたいです。

 第二に、仕事の社会というのは、荒波にもまれる場所であり、生存競争の場所でもある。社会とは競争する場所というけど、何ゆえに競争しないといけないのか。何を命じられているのか。

 競争の仕組みとしての社会と協力な仕組みとしての社会。これは意思の力と存在の仕組みと対を為す。現在は競争の仕組みの方が勝っている。共有の概念とベーシック・インカムは共にあり、協力になる。社会保障を地域毎で特色のあるものにすることで、社会を変える

共有の概念を入れ込む

 社会だけでなく、社会のあり方も定義をしないといけないでしょう。だけど、底辺のところが一番重要かもしれない。資本主義をどう見ていくのか、それが変わっていく様。そのベースは哲学の部分です。

 社会は人との関わりにした時に、依存する場合と依存しない場合でベースのところがかなり違ってきます。

 これはやはり、歴史から見ていくしかない。今までやってきて、その次をどうするのか、との時の次という考え方です。共有の概念の共産主義とは異なります。共産ではなく、共有です。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

夢の中で、期限が設定された

先を急ぎましょう

 夢の中で、期限を設定された。さあ!先を急ぎましょう。

 パートナーの魅力は存在の力です。決して、意思の力ではない。それを皆に。分かるようにしましょう。

歴史をどう捉えるか

 歴史をどう捉えたらいいのか。過去、生きてきたのは確かかもしれないけど、人間が生まれる前と生まれた後、社会が生まれる前と後。国が生まれた後の歴史からすると、個人と国との関係です。

 それ以前の歴史というのは、ほとんど、「自然」現象です。大隕石が来たとか、地中海がせき止められたとか、氷河時代とかです。

 戦争の歴史は国の歴史です。国民国家になってからは、国民の歴史になった。国民国家からグローバル化して、そして、コミュニティと超国家の二元化です。人との関係ですから、人が増えることで、境界線ができ、国ができた。そして、国同士が争った。

 歴史教科書は国の単位です。独・仏連合というものがあるけど、日本・中国・韓国の共同歴史教科書はありません。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ギリシャ人 困難を生き抜くための知恵

『ギリシャ人の真実』より

ギリシャ人たちが話をしていて「賢い」という時、その「賢い」の中には「うまくやる」という意味が含まれている。時にそれは「ずるい」ことでもある。とにかく状況をうまく切り抜けることができるのは「賢い」ということになる。皮肉ではなく尊敬に値する。これが日本ならペテン師と言われかねないが、ちょっと考えてみたい。

島国で元々は農耕や漁業にいそしむ村社会を築いてきたところに住む日本人は、集団に守られ、集団で行動したり協調して生きることが得意だ。一方、バルカン半島の南端に位置するところに住み、数千年にわたって北方からの多種多様な民族、あるいは東側にあるアジアからの脅威と対峙し、西ヨーロッパからの攻撃を受けてきた人々は、目まぐるしく変化する不安定な環境の中で常に敵と味方を見分ける判断力と、生き残るための術を身につけてきた。

自分自身で考え、自分で生きることが得意だ。いや、得意というより、そうして切り抜けていかなければ生き残ってこられなかっただろう。ギリシャ語を話す人々であるギリシャ人が3000年前から今日まで、細々とでも途切れることなく存在し続けるためには、その時々の支配者や勢力のある者とうまく折り合いをつけながら、一方では相手に悟られないように密かに、また頑固なまでに自らの生き方や生活を守ってきたことで、今日のギリシャ人があるのだろう。

せいぜい十年とか数十年という時の長さの中で判断して、やれギリシャはダメだとか何をしているんだとか非難するのは簡単だが、百年とか数百年、千年の尺度で見て民族が生き残っていくのに必要なものは、経済だけではない気がする。紀元前の古代から今日に至るまで多くの民族が現れては滅びていったが、歴史に翻弄され、おそらくさまざまな民族の血と混じり合いながらも、ギリシャ人として残ることができた理由を考えるのは意義がありそうだ。時流に合う、合わないといった現在の価値観とは違うものが必要だったはずだ。

彼らは一見、自己主張がとても強くて、何か問題があると黙ってはいないし必ず抵抗するが、意外に耐え忍ぶことを知っている。また、小さくて弱い国だからこそ相手に対して強さを示したり威嚇することも生き残るための手段だ。それでも自分を守りきれなければ、あとはひたすら我慢して耐える。どうしても耐え切れなくなったら爆発するしかないのだが、今の状況では爆発しても希望の光はどこにも見えてこない。

今、小さな国ギリシャとそこに住む人々は経済危機に翻弄されているけれど、どんな賢さをこれから発揮していくのだろうか。

ギリシャ人はタフな人たちだ。たとえば、一日の仕事をして残業もこなして夜T―I時に家に帰ったとする。くたくたで、日本人だったら翌日の仕事に備えて、お風呂に入ってちょっと酒を飲みながら食事をして早めに寝るという感じだろうか。それがギリシャ人の場合だったらどうなるか。夜遅く仕事が終わって帰宅したら、シャワーを浴びて一日の汗を流して、ちょっとおしゃれな服に着替えて外へ遊びに出る。これからが本番というわけだ。

頑張って仕事をしたのだから、これから楽しむのだ。人生は楽しむためにある。大変だけれど、頑張って仕事をする。子どもたちを育てることも人生の楽しみだから、子どもたちのためにできるだけのことをする。必要な時はもちろん一生懸命仕事をするが、それは「仕事だから」でも「会社のため」でもない。「価値があること」だからするのだと考える。

働くこと自体が美徳とされ、全体に気を配り、組織を大切にする日本人には少し理解しにくいかもしれない。しかし、「人生を楽しむこと」がギリシャ人の基本。ちょっと我がままに見えるかもしれないが、私は、このほうが自分らしく幸せに暮らせると思う。少なくともストレスがたまらなそうだ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

民主主義 政治の必要性

『政治の起源』より

本来、もっとも望ましい政治制度であるはずの民主主義が苦境に陥っている。問題は民主主義の「理念」ではなく、民主主義を実行する「制度」にある。鍵を握るのは3つの要素、すなわち「国家」「法の支配」「説明責任を持った統治機構」の均衡にある。

1970年から2010年までの40年にわたる期間、世界各地で民主国家の数は飛躍的に増えた。1973年には、世界151カ国のうちフリーダムハウスによって「自由」として数え上げられた国は44カ国にすぎなかった。フリーダムハウスは世界中の国々の市民権や政治的権利について数字で計測して発表している非政府組織である。1973年にはまだ、スペイン、ポルトガル、ギリシャが独裁体制だった。ソ連と東欧の衛星諸国は強力に団結した社会を形成しているかに見えた。中国は毛沢東による文化大革命の最中だった。アフリカでは一群の腐敗した「終身大統領」による支配が固められつつあった。中南米はほとんどが軍事独裁に陥ってしまった。

だが、それから一世代で目を見張るような政治変革が起き、民主政と市場経済はアラブ中東圏を除き、ほぼ世界中に広まった。1990年代末には、世界の約120カ国、独立国家の6割以上が、選挙制による民主国家となった。この変容が、サミュエル・ハンティントンのいう「民主化の第三の波」である。21世紀初頭には、自由な民主主義こそが、政体の既定値としての形態であることが、政治風土の中で当然のことと受け止められるようになった。

こうした政治制度の変化の背景では、並行して大きな社会変容が起きていた。民主政への移行は、以前は受け身だった世界各地の人々が組織化して自らの社会の政治活動に参加した結果であった。

一群の要因が、この社会的動員を引き起こした。①教育の機会が飛躍的に拡大し、教育を受けた人々は自身とそれを取り囲む政治社会について自覚を促された、②情報技術(IT)が思想と知識の急速な伝播を促した、③人の移動と情報伝達が安くできるようになり、気に入らない政府に対し反対票を投じに投票所に出向くのがたやすくなった、④豊かになった人々は、自らの権利をさらに確実に守りたいと考えるようになった--などの要因である。

「第三の波」は1990年代末に頂点に達し、21世紀に入ってからの10年間には、今度は「民主化後退」が起きた。「第三の波」に乗った国の2割方が強権政治に逆戻りするか、民主主義制度のかなりの衰退を見回。フリーダムハウスによれば、2009年には、4年続きで世界中で自由が後退した。これは、1973年にフリーダムハウスが「自由」の計測を開始して以来はじめてのことである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

雇用機会としての農業

『農業と人間』より 開かれた議論のために

成熟社会への移行のプロセスにあると言いながら、大きな声で成熟社会と叫ぶ気持ちにはなれない。経済成長が諸悪の根源で、成熟社会が理想の社会だと言いつのるつもりもない。こんな気分は私自身の属している世代のポジションにも関係しているように思う。一九五一年生まれだから、いわゆる団塊の世代のすぐあとを追ってきた。けれども、戦争を体験することなく育ち、高度成長と安定成長の恩恵を存分に享受した世代としては、ひとくくりにできるであろう。安定成長のあとに訪れた経済の不振と政策対応が、非正規雇用の拡大に象徴されるように、若い世代の暮らしを脅かしている。そんな若者と入れ替わるかのように退職の日を迎える世代。その世代が経済成長に別れを告げて、成熟社会をエンジョイなどというのは、いささか虫が良すぎる。

ある程度の成長は必要である。成長という表現に手垢が付きすぎているとすれば、日本の社会として、ある程度の余剰の捻出が必要だと言い換えてもよい。ただし、成長にせよ、余剰にせよ、これを自己目的とするわけではない。高齢化する日本の社会保障の資源を確保しなければならないし、子供や若者にも社会的なケアを必要とする層が拡大している。そこに投入される資源は国の経済力から生み出される。ここは所得の再分配政策の役割だが、そもそも再分配が可能な所得がある程度存在することが前提となる。そのためには、ある程度の成長ないしは余剰が必要だと述べたわけである。成長はあくまでも手段である。やみくもな成長路線からの脱却が、成熟社会への移行のひとつの要素だと言ってよい。

成熟社会に移行するための必要条件は社会の安定である。それでは社会の安定という観点で、農業にできることはないだろうか。さまざまな貢献が考えられる。まず、ミニマムの食料の確保という点では、農業は人々の冷静な判断と安定した行動を支えることであろう。これはおもに第3章で論じたとおりである。あるいは、第5章で吟味した中山同地域の農業は、奥行きのある二次的自然との触れあいの場として、その存在自体が人々の気持ちを和らげることを通じて社会の安寧に結びつく。けれども、ここではもうひとつの視点として、雇用機会としての農業の重要性を強調しておきたい。

これも第5章で論じたことだが、水田農業の活路のひとつは経営の厚みを増す点にあった。集約的な作物の組み合わせや食品産業の要素を取り込むことの重要性を強調した。その結果、農業経営の規模は垂直方向にも拡大するわけである。これは見方を変えるならば雇用力の増強にほかならない。働く側からみれば、就業機会の拡大である。ここでさらに強調しておきたいのは、農業はむろんのこと、食品産業のうち食品製造業も地方に密度高く立地する産業だという点である。農業プラス食品加工の組み合わせは、地方の雇用機会の拡大に貢献することができる。

農業も食品製造業も大儲けできる産業ではない。ものづくりの地味な産業だと言ってよい。けれども、相対的に安定した産業であることも間違いない。人々の消費生活のうえで食品はもっとも優先度の高い品目であり、したがって食品製造業は経済環境の変化に対して比較的耐久力のあるビジネスなのである。もうひとつ、農業や農業から素材を調達する食品製造業が地域に密着した産業である点も見逃せない。これも雇用機会としての安定度に結びつく。

農業はものづくりの地味な産業だと述べた。けれども、現代の日本社会では希少性を増したタイプの活動の場を提供する点で、農業には若者を惹きつけるパワーもある。魅力の源泉は、ほかならぬ生き物が相手の営みという点にある。思いのままにはならない生きた植物や動物、みずから育ちゆく植物や動物を、その生育環境を整えることで育てあげる。製造業のように対象物に物理的・化学的な加工を施すわけではない。多くは無言の対話の積み重ねによって、人間にとって好ましい成果を手にする。ここに農業の本質がある。思いどおりにならない生き物が対象という点に面白さがあり、難しさがあり、したがって深い達成感もある。

第2章や第3章で振り返ったように、経済発展のプロセスでは、農業はマンパワーを第二次産業や第三次産業に供給するかたちで日本の社会に貢献してきた。しかしながら、第二次産業や第三次産業に過去と同じレペルの雇用吸収力は期待できない。成長の経済は幕を閉じた。これからの農業には、マンパワーを受け入れる点で、逆の方向への貢献があってよい。国全体の経済のサイズからすれば、量としては小さな貢献かも知れない。けれども、地方に安定的で持続的な雇用機会をもたらすことの意味はけっして小さくはない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

マーシャル諸島の財政状況

『マーシャル諸島の政治史』より 国内経済開発政策と国民の労働観 国内経済の特徴と政府による経済政策

マーシャル諸島の歳入は、おおまかに言えば、各種税収や入漁料収入等からなる一般財源、保険基金や輸送料の徴収などからなる特別財源、自由連合協定に基づく経済支援としてのコンパクト資金援助、米国連邦政府の担当機関との交渉で毎年支給額が設定される米国連邦プログラム資金、及び台湾やADBによるその他の援助金で構成されている。

2002年度以降の2年間は、2001年9月末に終了した第一次協定の改訂交渉猶予期間に入っていた。政府は米国との交渉において財政の健全化姿勢を示すべく予算の合理化を進めていたため、2003年度予算は前年度より減少している。しかし2004年10月より改訂協定に基づく経済援助(コンパクト資金)が開始され、以後20年間にわたりコンパクト資金がマーシャル諸島政府に支給されることになった。その結果、米国連邦プログラムによる資金援助等と合わせて、財源の60%以上を米国支援に頼る構図が維持されるようになった。一方で、税収等からなる一般財源部分は、この間コンパクト資金支出部分を除くと2001年度以降金額は増加し続けているものの、歳入全体における割合は常に30%前後を推移している。

政府の税収入のうち約半分が所得税であり、民間企業等より徴収される法人税は20%前後に過ぎない。また法人税は2001年より3年間減収が続いていた。この間にはRREのマジュロ2号店や他の国内民間企業資本によるスーパーの閉鎖が続き、これが直接影響している。一方、2003年まではおおよそ増加傾向を示してきた所得税や輸入税も2004年に減少に転じている。これは6月以降のPMOP工場閉鎖問題が大きく影響したと思われる。その結果、税収入全体も2004年は前年より減少している。

こうした税収入の伸び悩みについて、多くの雇用を生む民間企業の行き詰まりが原因と指摘され、その経済的影響が統計の数字にも表れている。

一つは雇用者数の減少である。表6-3が示すように、2002年以降ビジネスの中心である首都マジュロ市内の民間企業の数は増加を示しているが、この間、民間企業雇用者数は減少を続けている。これは中国人が経営する小規模商店が増えているのに対して、大きな雇用を生む企業の閉鎖・撤退が続いたからと考えられる。本件調査は毎年5~6月に行われたため、この数字にはPMOP工場の閉鎖による従業員の失業は反映されていない。ゆえに、2005年のデータではその数字はさらに低い値を示すことが予想される。


さらに政府部門と民間企業との所得格差の拡大が続いている。政府の給与は1997年度より2004年度にかけておよそ9000米ドルから1万3000米ドルに上昇した。一方、民間企業は6000米ドルから4800米ドルに減額していることが示されている。これは自由連合協定のもとで政府部門へは安定的に給与の支給が確保されているのに対して、民間企業の方は、新たな外国資本の進出はなく、既存企業の規模縮小などが賃金の伸張にも影響していることを示している。

政府による経済政策:米国をはじめとしたドナー国からの支援に支えられた経済に依存しているマーシャル諸島では、米国などのドナー国から支援を受けるために相手ドナー側が納得するような綿密な国家戦略を作り上げる必要があった。こうした国家戦略の作成を担ったのが、新興エリートたちを中心に構成された官僚組織である。本項では、マーシャル諸島が建国以来策定してきた国家計画について、主に産業の育成の面から指摘していく。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

時間を止めることの意味

存在の力という第三の道

 会社に残るか、辞めるかという、第三の道。これは存在の力です。労働基準法の根幹です。意思の力が、社会に合わなくなっていることを、シナリオとして出してきている。ドラマから得るものは多い。

 組織が嫌なら、辞めればいい。昔は辞められなかったけど、そうではない。自分の存在をどう見ていくかの根本が違っている。自分でしか見えないのであれば、戦えばいい。経営者を含めて、皆、存在の力を出していくしかないでしょう。

 最大の組織は国です。それを組み替えるのが、LL=GGの世界です。

デトロイト化を避けるには

 豊田市をピッツバーグに! これを合言葉にすれば、図書館にも、新しい意味付けができます。このままでは、デトロイトになってしまう。

時間を止めることの意味

 時間を止めるためには、亡くなればいいんです。単純でした。時間を止めて、何をするかと聞かれた時に、パートナーの髪をなでるぐらいしか思いつかなかった。時間が止まっている時には、髪の毛も凶器になるでしょう。

 そして、周りのすべてがなくなる。それは死と一緒です。だから、時間を止めることは私の死と一緒です。それで十分、答になります。

 ミカロスを無駄に過ごしている。それよりも、先を急ぎましょう。

本当のコンパクト・カー

 この会社がμボックスを作った時には、いかにコンテンツを入れ込めるかです。それとマルチ・ユースという概念です。

 1か月前に来た新車(ポルテ)には未だに乗っていない。

朝のガストは雰囲気が悪い

 やっと、ガストへ来たけど、何か、雰囲気が良くない。年寄りばかりです。それも態度が悪い連中ばかりです。接客もそれに合わせている。隣は、中年のおじさんと外国の娘の組み合わせです。

 やはり、私にとっては、スタバぐらいがちょうどいい。本が読めます。

 ガストに違法駐車禁止と書いてあるけど、意味は、お客以外は入るなと言うことです。こんな法律はあるのか。本当に法律があるのであれば、入られないための手段を講じないとダメだし、許可制とか罰金とか、裁判対策をしないといけない。

存在の力の根本

 皆、この世界に放り込まれた経験を持っていることでは一致します。放り込まれた理由を知りたいというのは、全ての人の内にかかわる事柄です。存在の力の根源です。

 意思の力では、そう簡単ではない。なぜ、彼がリーダーなのか、私がリーダーなのか、なぜ、従うのか。なぜが多く、発生します。その結果としては、思考停止な連中だけになります。何故を放棄してはいけない。それしかないのだから。

Iさん待ち

 「Iさん待ち」はスタバでも特殊みたいです。今週は少ないけど、出てきたら、それにしましょう。

岡崎図書館の10冊

 391.6『英国二重スパイ・システム』ノルマンディー上陸を支えた欺瞞作戦

 493.7『脳の病気のすべて』頭痛、mrまい、しびれから脳卒中まで

 361.8『「機会不均等」論』人は格差を背負って生まれてくる?

 302.3『イタリアを知るための62章』

 302.4『エジプト動乱』--1.25革命の背景--

 161『神』

 163.1『日本人はなぜ富士山を求めるのか』富士講と山岳信仰の原点

 227.9『鉄の壁 下巻』

 104『パラレルな知性』

 302.5『繁栄からこぼれ落ちたもうひとつのアメリカ』果てしない貧困と闘う「ふつう」の人たちの30年の記録
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

東北地方の自動車産業基地としての強み・弱み

『東北地方と自動車産業』より 東北自動車産業の発展への課題

(1)強みとなりうる要素

 第一に技能労働者の豊富な供給余力。これは、トヨタ自動車(以下、トヨタ)が東北地方を第三の拠点として位置づける上で、まさに最も強力な誘因となってきたのだが、東日本大震災後、復興関連事業の本格化に伴う人材需要の高まりによって、早くも黄信号が灯っている。実際、被災地でもある宮城・岩手両県の有効求人倍率は、最近、軒並み全国平均を大きく上回っている。

 第二に、技能労働者の定着率が相対的に高いこと。東北地方の人々の純朴さがこれを支えているといわれる。いうまでもなく、これは生産現場でのものづくり能力の蓄積・向上に大きく寄与する。

 第三に、高度成長期以来、電機・電子産業で培ったものづくり能力。小物部品の生産を長年行ってきたことや、金型専門メーカーが地域に存在しないために、第3章で登場したA社やC社にみられるように、自社で金型を内製することを通じてその製作ノウハウを身につけたこと、多品種少量生産に対応できることなどがあげられる。

 第四に、東北大学などが持っている先端技術シーズ。理工学系では、電気通信など世界的な水準に達している分野を数多く抱えており、この中には次世代自動車向けに活かせる可能性が高いものも少なくない。実際、東北大学はトヨタといくつかの分野で共同研究を行っている。山形大学など他の東北地方の大学工学部でもこうしたシーズはあり、その活用が期待される。

 第五に、岩手大学など産学連携に積極的な大学の存在。例えば、岩手大学は卜ヨタ東日本岩手工場に近い岩手県北上市に金型研究センターを設けている。

 第六に、工業用地の確保が容易かつ低コストである点。

 第七に、既存の工場から一定の距離がある東北地方に生産拠点を持つことは、リスク分散につながる点。直線距離で500キロ以上離れている愛知県豊田市周辺と宮城県仙台市周辺とが同時に大地震に見舞われる可能性は低いだろう。なお、「トヨタの第二の拠点」である福岡県は、直線距離で豊田市と800キロ程度離れており、これまた同時に大地震の被害に見舞われる可能性は低いだろう。

(2)弱みとなり得る要素

 その一方で、弱みとなり得る要素も数多い。

 第一に、自動車関連産業の集積が圧倒的に不足している。

 第二に、地場メーカーが、これまで拠ってきた電機産業に合わせた事業システム・ビジネスマインドに固執する傾向があること。

 第三に、地場企業経営者の自動車産業についての経験・理解不足。とりわけ、承認図方式やモデルチェンジサイクルの長さについて。

 第四に、自動車メーカーおよび1次サプライヤーの開発および実質的な調達機能が東北地方にはない点。トヨタ東日本は、調達部門の出先組織を宮城県大衡村の本社内、すなわち東北地方に設けてはいるか、調達先の最終的な決定権限は、最終製品の納入先であるトヨタ本社(愛知県豊田市)の調達部門が依然握っているとみられる。さらに、トヨタ東日本の開発機能の主力は、トヨタ本体の東富士研究所に隣接する同社東富士工場内にある。各種報道では、トヨタが、トヨタ東日本が生産している車種について、調達先の決定権限をトヨタ東日本に委譲する方向ともいわれているが、多分に希望的観測に基づいているとみられ、実際のところどうなるかは、現時点では決して楽観することはできない。

 第五に、現場管理・開発設計レベルのものづくり人材が圧倒的に不足している。高度成長期以来、電機・電子産業が東北地方に進出して一定の工業集積を形成してきたのであるが、大半の進出企業はその「頭」の部分、すなわち研究・開発機能はそれぞれの創業の地であり、かつ本拠でもある太平洋ベルト地帯に残したことも、この背景にある。工学系の教育・研究機関は少ないながらも確かに存在し、優秀な人材を輩出してきたのだが、こうして受け皿となる企業が地域に存在してこなかったためにその大半が東北地方を後にしてきたのである。したがって、自動車部品についての提案・設計能力が不足している。

 第六に、過疎化や少子高齢化の進展、大学進学率の上昇などから、技能労働者の層が意外と薄い点。この点についても詳しくは後述する。

 第七に今後、供給先の市場に大きな成長が見込めない点。これは日本国内の自動車組立生産拠点に共通することだが、自動車メーカー各社ともに今後は原則として消費地において完成車組立生産を行う方針である。頼みの日本国内市場も、すでに人口減少局面に入っていることや高齢化の進展、そもそも市場自体が成熟しきっていることなどから、今後拡大は見込めないばかりではなく、縮小していくことが予想される。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

歴史の終わり? そんなことはない!

『多文化世界』より 文化の進化

タイムマシンの旅から明らかになったことは、人類がまだ原始的な社会動物であった太古の日々と、文明のなかで生活してきたこの何世紀かの間には、神秘的な断絶などないということであった。しかも、進化は止まってしまったと信じる理由もない。むしろ、人類の進化は加速しつつあるとさえいってもよいかもしれない。だからこのあたりで進化論の思考になじんでおこう。進化の観点から人類の歴史を理解すれば、将来を改善するためにいま何をすべきかについて、よりよい情報に基づいた推察が可能になるだろう。文化の進化は随所にある。歴史は、終わるどころか加速している。われわれが目の当たりにしたのは、ここ数百世代にわたる社会規模の急激な拡大である。この過程はまだ終わってはいない。今から約七〇〇世代前の紀元前一万五〇〇〇年頃には、六〇万にも上る数の政治形態がこの地上に存在し、それぞれには何十人規模か何百人規模の人々が含まれていた。今日ではそれが二〇〇となり、それぞれは一〇〇万人単位の人口を持つ。われわれは急速に自然を征服しつつあるが、その結果として、人的環境の相対的重要性が高まっている。機会はもちろん脅威も、ほかの人々からもたらされることがますます増えてきた。それに対応するために、われわれはモラル・サークルを合併し大規模に拡張するようになってきた。このプロセスは、おそらくここ数百世代の歴史のなかで、もっとも目立った進化の傾向である。同時に、何百万年もの間、われわれの祖先が鍛え上げた小集団内の生活への適応の様式もいまだに保たれている。それでも、膨大な数になった人々が豊かな社会生活を築き上げたために、われわれをとりまく環境は目まぐるしい変化のなかにあって、そこでさらに新しいものが生まれてきている。

逆説めいた話になるが、社会が安定的に機能するという条件があってこそ、慣行と技術の急速な変化が可能である。ある集団がその環境に適応するためには、集合的行為が求められる。また集合的行為が可能になるためには、その社会が暗黙の価値観のレペルで文化的に同質であることが必要とされる。文化的同質性があれば、価値観の急速な変化は生じない。というのも、価値観はその大部分が幼少期に獲得され、その後の人生でも維持されるからである。価値システムが変化するためには、何世代もの時間が必要である。そのため、共通の文化的価値観を持つ集団が、集団として環境にうまく反応できる。ただし、たとえ環境の変化が生じて、価値観の変化が生存のために有利だとしても、共有する価値システムを変化させる速度は鈍いであろう。もっとも、価値システムの変化が遅いといっても、文化のない状況に比べれば、その速度は大変速い。文化のない状況とは、変化のメカニズムが遺伝子の変化だけによる状況のことを指す。

人々は歴史の只中にいる。そこでは、凝集性の高い集団が互いに競争し、協力しながら活動しており、諸活動は複雑に織り合わさり、ゲームのようである。ある社会のエリート集団が、モラル・サークルを拡張して、生きとし生けるものすべてをその一員とし、世界中の人類やほかの生き物が、平和に生きていけるすばらしい新世界を作り出そうと望んでもよいだろう。それは目標とすべき立派な理想であるが、今のところ現実味に乏しく、地上の楽園という聖書の空想と同程度の絵空事である。とはいえ、このようにモラル・サークルを拡げていこうという特性があったからこそ、今日のわれわれがあるのであり、それはこの先もさらに続くであろう。われ在り、ゆえに、われ進化す。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »