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政治とは 承認と再分配

『批評キーワード辞典』より 政治

ナンシー・フレイザーは一九九七年の『中断された正義』において、左翼運動というのは、アイデンティティの平等と差別の撤廃を求める「承認」の運動と、市場原理に対する抵抗と貧富の差の撤廃を求める「再分配」の運動という二つの軸を持っているはずだし、持っていなければならないが、九〇年代以降の左翼運動は、承認を重視するあまり再分配を忘れてしまっていると警告した。フレイザーの議論各論については問題も多いが、九〇年代に批評言説において忘れられた貧富の差と再分配の問いの復活こそがオキュパイ運動の発火点だと考えるとき、T几九七年の彼女の予言に、その慧眼を見ることはできるだろう。

より広く言えば、フレドリック・ジェイムソンは一九九〇年の『ポストモダニズム、あるいは、後期資本主義の文化論理』の結論において、アイデンティティの政治学を求める個々人の欲望は正当なものではあるが、と認めた上で以下のように主張している。

 ① 現代のアイデンティティの承認の要求は、系譜的に言って、それ以前に存在する労働運動の置換--労働運動が左翼的にすでに無効な運動であるという認識と、だからこそ、労働運動の代わりにアイデンティティの運動が必要だという論理--から生まれている。

 ② アイデンティティの承認の要求は、それが達成されても、(差別のない)より平等な自由主義の社会、それはつまり、極論すれば、より平等で、だからある意味より苛烈な、競争社会しか意味しないのに対し、資本主義のシステムの内的矛盾を批判する労働運動だけが、資本主義後の社会、資本主義社会の外部でありオルタナティヴであるものを想像できる。

オキュパイ運動の唯一のスローガンとなったものが、一パーセントの富裕層を批判する「私たちは九九パーセントだ」という宣言であることを考えると、それが、富の再分配を求める運動であるのは疑いないだろう。だが同時に、この運動の最大の特徴は、それが既存の政治の回路をショートカットして、マルチチュードの表現としてのデモという形態をとったことにある。富の再分配が、既存の労働運動という枠組み、そして、組織化された社会的な運動という枠組みを通過せずに可能なのかというのが、オキュパイが現在直面するもっとも大きな問題なのだ。

言い換えると、それはこのような問いである。『グローバル・リッチ・リスト』という(あなたの年収を入れると、それは世界の上位何パーセントに入るのかを教えてくれる)ウェブサイトによると、年収四七五〇〇ドル(一ドル=一〇〇円計算で四七五万円)以上の人間は、実のところ、グローバルな人口の年収の上位一パーセントに入っている。おそらくオキュパイに参加したアメリカ人の少なからずが、そこに入っているだろう。オキュパイは、グローバルな平等を求めているのだろうか? あるいは、それは、個人として参加した各々がみずからの窮状から救われることだけを求めているのだろうか?
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コミュニティとは 新自由主義とコミュニティ

『批評キーワード辞典』より コミュニティ

ここまで来ると、私たちは大塚久雄が述べた共同体の区分から遠く離れたところに到達している。個人が自分の意思で参加する、人工的コミュニティがよいものだと考えられているとして、そのような価値観はどこから生じたのか? ここでも焦点が当たるのは、新自由主義である。

新自由主義において、コミュニティはよくも悪くも重要なものになっている。国家と市場と個人という三つの項目の関係を考えてみよう。福祉国家体制においては、市場と個人との間には、国家が介在した。それに対し、新自由主義は、中間にあって市場の競争から個人を守っていた国家を、退場させようとする。しかし、個人としての私たちは、純粋な市場の競争にさらされつづけることには耐えられない(その痛みに耐えろ、というのが新自由主義の命令だが)。そこで市場と個人の間に入る、「中間的なもの」が、あらたに要請される。

そうした「中間的なもの」とは、たとえば「国民」であるかもしれない。一九九〇年代以降に極端なナショナリズムが見られるようになった一因が、ここにある。その一方で、「コミュニティ」がその中間的なものとして脚光をあびることになる。日本では、コミュニティ再興という課題が、一方では行政区画の変更(「平成の大合併」、道州制)と、もう一方では「ボランティア」の推奨(学校課程へのボランティア活動の導入)やNGO・NPOによる中間的なものの補充というかたちをとっている。事実、総務省主催の研究会による報告書にはこうある。……本研究会が行った調査によれば、……特定のテーマを持って活動する地域コミュ三アィ組織やNPO、商店街、マンション管理組合など、伝統的な地縁による団体以外の様々な主体が、その自主性に基づき、地域の様々なニーズに対応した多様なサービスを提供する主体として重要な役割を果たしている事例が見られたところである。(「新しいコミュニティのあり方に関する研究会報告書」、二〇〇九年、傍点は引用者)コミュニティがNPOのような中間的なものになりうるためには、それは人工的なものとならねばならない。それは「伝統的な地縁による団体」であってはならない。というのも、それが、土地に根づいた生産を行うための、フレキシビリティの少ない組織だと、流動性を原理とする現在の市場から個人を守ることができない(「様々なニーズに対応した多様なサービスを提供」できない)ためだ。そこから、先に述べた共同体の「生産」と「消費」の側面についても、ある帰結が訪れる。すなわち、「コミュニティ」は生産とは無関係なものとなるのである。生産は、「自然」とほぼ同一視される市場の領域の問題である。むしろコミュニティは消費と深く関係のある領域になる。というよりむしろ、コミュニティそのものが消費の対象となっているとまで言えるかもしれない。「個人の自由意思で参加したりしなかったりするコミュニティ」というヴィジョンは、まさに消費の風景に似ていないだろうか。そして、個人の選択を金科玉条に掲げる新自由主義と、そのようなコミュニティのあり方の間には、何らかの関係がありそうだ。

また、コミュニティは自律性をもたねばならない。中央が放棄した「中間的なもの」の役割がコミュニティに期待されるのだから、コミュニティはもちろん、それに「参加」する市民も、自律的な市民意識をもつことが重要になってくる。この動きは、本書の「コミュニケーション」の項で(双方向的)コミュニケーションについて述べたことに合致している。つまり、ポストフォーディズムで労働者に要求されたのと同じ「自律性」が、コミュニティに求められるということだ。平たく言えば、国家が放棄した「中間的なもの」の役割を、コミュニティの自助努力に求めるということである。

共同体に対するコミュニティが「よいもの」とされるときの「コミュニティ」には少なくとも以上のような含意がありそうだ。このような事態に対して、私たちはどう反応すべきだろうか。国家に対して、放棄した役割をとりもどすよう、訴えるべきか。(つまり、福祉国家をもう一度、と叫ぶべきか。)それは単に現実性がなさそうである。福祉国家の基礎となる雇用が回復することを前提に未来を想像するのは、その現実性を考えればそれほど健全なことではない。なおかつ、単にコミュニティから離脱しようとすることは(それはそれなりのかたちで私たちを「守って」いるのだから)自殺行為である。

重要なのは、ここまで述べたような「よい」コミュ三アィの観念が、あくまで理想でしかないと理解することだろう。結局のところ、自由と安全‥‥安心とは、純粋なかたちでは両立しないものなのだから(バウマン『コミュニティ』)。新自由主義はそれらを両立させようとする。だがそれは現在、実現していない。現存のコミュニティではない。それは将来、実現されるべき理想である。その意味で、コミュニティはつねに未完のものなのだ。別な言いかたをすると、現在の私たちが、コミュニティに参加し市民になる(もしくはそうできずに排除される)プロセスそのものは、いまだ完了してはいない。それは係争中であり未解決のものであり、交渉の余地があるものだ。そうであるからこそ、コミュニティはキーワードなのであり、そこに加えられてきた限定を、今一度ときほぐす必要がある言葉なのである。それは、よくも悪くも必要=必然として私たちにつきつけられた課題だ。
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社会とは 競争の仕組みとしての社会。協力の仕組みとしての社会

『批評キーワード辞典』より 社会

感情というと、なにやらすぐに消えさってしまうもののようにも思える。しかし、さきほど「足場」という言葉を使ったが、そう簡単には消滅しない感情もある。タウンゼンド的な社会、つまり、生き残るために競いあう社会、競争的関係としての社会、という感情は、その足場をしっかりともっている。最初に確認したように、いまの私たちは、「社会の厳しさ」というフレーズを日常的に用いる。このフレーズをリアルなものと感じさせているのは(正確には、そのひとつは)、一八世紀後半に形成されはじめたタウンゼンド的な感情の構造なのである。

とはいえ、競争の仕組みとしての社会だけが、リアルに感じられる社会というわけではない。「社会をよくしよう」という言い回しは、うさんくさい響きをもってしまうことが多い。けれど、このフレーズが日常的なものではないとはいまでも断言できない。一九世紀初頭の時点でも、「相互協力としてのsocietyという考え方」が存在していたのは確かなことであり、「個人間の競争としてのsocietyの経験」とは明確に区分されていたのだった。この傾向は一九世紀後半になると、一層はっきりしてくるようだ。OEDにも、「社会的共感」や「社会的な福利/福祉といったフレーズを見つけることができる。

とすると、一八世紀における「社会」という言葉は、競争の仕組みだけを指すものではなかった、ということになる。「社会」とは、協力の仕組みでもあったのだ。

こうなってくると、社会という言葉の用法をめぐって、ひとつの争いが生じてきた、ということになるかもしれない。ただし、注意が必要な点がある。この争いにおいて、社会という言葉が直接使われないことが多いのだ。

次に引用する、政治学者の杉田敦による発言がその典型である。それにしても、今日、社会というものはどうも影が薄い。他方、市場というものは、厳然としてあると考えられている。杉田は、市場と社会を対比させる。前者は存在感が強く、後者は希薄である、と述べている。つまり、私たちを競争に駆りたてる市場の仕組みは、確実に存在している。ただし、その一方で、お互いに協力しあう仕組みとしての社会は、「どうも影が薄い」、縁遠い存在だということになるだろうか。

この対比には注意が必要である。タウンゼンドの議論を思い出そう。人間と人間がその生存を賭けて競争しあう仕組みは、「社会の平穏とよき秩序」をもたらすものだ、とタウンゼンドは考えていた。競争的な市場の仕組みが、いや、この仕組みだけが社会をよくする、というのが、いわゆる市場派の立場なのである。

とすると、市場と社会を対比させ対立させるのは、やや問題があることがわかるだろう。そうではなく、社会という言葉をめぐって対立がある、と考えたほうがよい。

市場派は、社会を、競争の仕組みと考える。いわゆる福祉国家派は、社会を、協力の仕組みと考える。この両者による争いが一九世紀以降活発なものとなり、二一世紀初頭の現在、前者の全面的勝利をむかえつつある、ということなのである。

こういう言い方もできるだろう。社会という言葉の用法は、このふたつ(競争か協力か)しかない、といまや考えられている。前者の用法であれば、社会という言葉を使う必要はあまりない。なにしろ、競争が自然に激化していけば、そのぶん、社会はよいものになるのだから。社会をどうこうしよう、と発言する必要すらない。そして、後者の用法は瀕死の状態にある。協力関係を念頭においてしまうと、社会という言葉はどうにも「影が薄い」ものになってしまう。

とはいえ、社会という言葉をめぐるこの対立には大きな共通点がある。

この共通点について、私たちはすでにそのヒントをもっている。競争的な社会も、協力的な社会も、どちらも一八世紀後半に勃興した感情の構造を、拡大したり変容させたりしたものである。つまり、どちらの社会も「発見」されるものである。競争の仕組みが発見されるものであることはすでにみた。

では協力の仕組みのほうはどうか? 福祉国家的な協力関係の具体例を考えてみよう。その代表格である年金制度はどうだろう。これは世代と世代のあいだの協力の仕組みである。健康保険制度はどうか。これは、病めるものと健やかなるもののあいだの協力の仕組みである。ただし、誰でも病気になりうるわけだから、皆が相互に協力しあっている仕組みである。これらの仕組みを、専門家である官僚や研究者が考えるもの、と私たちは感じてはいないだろうか。あるいは、年金制度や健康保険制度のもっとも良い仕組みを、そうした専門家こそが見つけられるもの、と私たちは感じてはいないか。

とすると、競争的だろうが、協力的だろうが、どちらの仕組みも、「発見」されるべき関係であり、社会であることに、何の変わりもないことになる。
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依存とは 依存せよ、そして依存するな

『批評キーワード辞典』より 依存

人間は生まれたとき、かならずケアをしてくれる人に「依存」する。ケア労働は依存を必要とする弱い人々--乳幼児・子ども・障碍者・病人・老人など--にとって必須である。そのようなケア労働に携わるものは、ケアに時間も労力も費やさなければならないので、必然的に経済的に困窮することになり、「自律的な個人」(経済的主体)になることは難しい。人間にとって依存が必須であるにもかかわらず、依存者をケアする労働に従事する人が困窮してしまっているとしたら、何かがおかしい。そこで、依存者とケア労働者の「関係」に着目し、依存者やケア労働者「個人」ではなく、彼らの「関係」を基盤として社会のあり方を考え直すべきだ、と主張するのは哲学者エヴァ・フェダー・キテイである。キテイは依存とケア労働をめぐる〈正義〉論を展開しつつ、つぎのように述べる。

自律的な個人というのは、そもそも常に、依存者の問題を他者に押し付けることのできる特権を持った男性の架空の創造物である。

「自己責任」論を振りかざす人は、依存を必要とする依存者の問題を、依存者をケアするもの(他者)へと押し付ける。その上、彼らを自分の視界から放逐し、「依存者のケアという問題を考えないですませる」という特権を堅守しつつ、「自律的/自立的な個人」という立場に立つ。そのとき、自身が何か(家族や組織や社会)に「関係している」という事実はすっかり忘れ去られている。

しかし、「ケアしされることが誰にとっても必要であること、つまり誰も人と切り離された『個人』として生きていくことはできないことを深く認識するならば」、個人を基点として「依存」を語ることなどできないはずだ。ケア労働を人に押し付けて「自立」したつもりでいる男性は、「自立」するために実はケア労働に「依存」するという逆説を生きている。依存を「個人のあり方」ではなく、「関係すること」と考えれば、ケア労働をする女性と、それを押し付けて忘却する男性の間には、互恵的な依存関係が存在することが見えてくるはずだ。個人を基盤に依存を論じている限り、それは一方的な依存としてしか見えてこない。

資本主義システムの根本的な矛盾は、自己コントロールの効いた労働者を生み出す一方で、消費者の抑制をとっぱらう(それによって植えつけたはずの人々の自制心を切り崩す)ところにある。

哲学者のジル・ドゥルーズは、「規律社会」から「管理社会」への移行という点で後期資本主義社会を分析した(『記事と事件』)。それは、「自己」がもはやハードな規律によってではなく、絶えざるソフトな「管理」(コントロール/マネジメント)を強いられているという分析であった。さて、依存に関連して「依存症」という言葉がある。「症」というだけあって、それは病気として治療対象になるものである。薬物、喫煙、アルコール、ギャンブル、ショッピングなどが依存症の代表例として挙げられる。最近はゲーム、インターネット、携帯電話も依存症と関連づけられ非難されることがある。依存症は、単なる嗜好品としての気晴らしを超えた過度の使用によって、生産的な労働に支障をきたしている状態を指しているようだ。つまり、「自己管理できていない」ことが悪とされているのである。ホストクラブを遊び歩いていた件の母親は、ホストクラブに依存していた。そして労働に支障をきたした。つまり、「自己管理できていない」ことが糾弾されていたのである。

しかし、先に引用したアクストによれば、資本主義システムにおいては、消費の側面から見ると、自己管理は邪魔なだけである。自制心を失ってガンガン消費することが資本主義の要請でもあるのだ。つまり、人は、二重の命令を受けているのである。「自己管理せよ」そして「自己管理するな」と。

これを言い換えれば、現在の私たちは「依存するな」と「依存せよ」という正反対の命令を同時に受けているのである。だが、多くの人にとって、このような複雑な命令を上手く処理することは難しい。つい過剰に摂取・利用・消費してしまう。同時に、なんとかしてそれらの過剰な使用を「自力で」管理しようと試みて失敗し、その結果、自己管理能力に対する無力感を抱き、その無力感を打ち消さんがために、再び自力で管理しようとし、また失敗する。この回路を繰り返すうちに、さらなる依存へと進んでしまう。「自己管理せよ」と常に命令される「管理社会」は、結果的に、「コントロールすることそのものを自己目的化する傾向性をもつ「嗜癖する社会」」へと導かれるのである。ホストクラブにある意味「依存」していた件の母親の自己管理の失敗は、必然だったと言わざるをえない。彼女のホストクラブ通いは、はたして純粋な「歓び」であったのだろうか。誰かに「止めて欲しい」と願うことは少しもなかったのであろうか。筆者にはわからないのである。ただ確実にひとつ言えることは、「依存するな」と「依存せよ」という二つの命令の板挟みになった彼女の生は、現代を生きる私たちの生でもある、ということだ。
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中項目名の変更 生活

7. 生活

 7.1 私は考えることしかない

  7.1.1 心にロマンを秘め、ひとりぼっち

  7.1.2 好奇心を旺盛にして考え抜く

  7.1.3 考えるツールを工夫してきた

  7.1.4 単純に考える時間が与えられた

 7.2 日常・会社とも考える生活

  7.2.1 家族関係・身体とも困難な状況

  7.2.2 内なる世界を追求していく

  7.2.3 数学・社会・歴史・未来の役割

  7.2.4 行動せずにミッションで生きる

 7.3 孤立した存在ながら、社会に向かう

  7.3.1 孤立した存在で、依存を超える

  7.3.2 夢を持ち、存在自体を楽しむ

  7.3.3 様々な情報で社会を見ている

  7.3.4 知識と偶然でシナリオを描く

 7.4 存在と無から考え、まとめる

  7.4.1 分化させるが、行動はしない

  7.4.2 μと一緒に考え、発信する

  7.4.3 存在の力を信じ、考え続ける

  7.4.4 全てを知り、問われれば応える

 7.5 与えられた自由な時間の過ごし方

  7.5.1 仕事と生活を未唯空間に集約

  7.5.2 未唯空間を活かすライフスタイル

  7.5.3 自由な行動を最後まで続ける

  7.5.4 最後まで考えられる拠点つくり

 7.6 残りの時間を自分のためにつかう

  7.6.1 未来学者としての研究テーマ

  7.6.2 未唯空間をエッセイとして発行

  7.6.3 未唯空間を社会ライブラリとする

  7.6.4 一人の生活をそれなりにする

 7.7 未唯空間をまとめるサファイア生活

  7.7.1 存在の力で全てを知るために

  7.7.2 考えた全てを表わすことの意味

  7.7.3 未唯空間に全ての思いを入れ込む

  7.7.4 未唯空間を活かすための手法

 7.8 サファイア革命に挑戦する

  7.8.1 新しい数学で未唯空間の正当性

  7.8.2 会社を変え、日本を変える

  7.8.3 未来学者として、歴史を変える

  7.8.4 存在の無で、無為に生きる
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中項目名の変更 仕事、本・図書館

5.仕事

 5.1 システムで皆の夢をかなえる

  5.1.1 事務・技術・販売部門を経験

  5.1.2 皆の夢をかなえるのを仕事にした

  5.1.3 システム作りを楽しんできた

  5.1.4 作ることより使える仕組み

 5.2 サファイア循環で仕事を見ていく

  5.2.1 ローカルで考えることから始める

  5.2.2 知恵でローカルを活性化する

  5.2.3 ローカルのためにグローバル企画

  5.2.4 グローバルのモノつくりで効率化

 5.3 販売店環境を店舗から見ていく

  5.3.1 販売店環境の先を見て、考える

  5.3.2 店舗をコミュニティと位置づけ

  5.3.3 販売店ネットでサファイア構成

  5.3.4 店舗コミュニティから発想

 5.4 お客様・社会まで支援を拡大

  5.4.1 メーカーと一緒にお客様を支援

  5.4.2 ソーシャルでお客様とつながる

  5.4.3 クルマを通じて、社会とつながる

  5.4.4 店舗を通じて、社会変革に寄与

 5.5 サファイア機能でスタッフの分化

  5.5.1 ポータルで情報共有環境整備

  5.5.2 スタッフがコラボで意見を発信

  5.5.3 同一環境の販売店ネットで横展開

  5.5.4 販売店ネットにライブラリ配置

 5.6 販売店の本当の要望を確認

  5.6.1 販売店ヒアリングで本当の要望

  5.6.2 店舗コミュニティの情報共有

  5.6.3 経営者はお客様とのつながり要望

  5.6.4 各社で使えるシステムで要望実現

 5.7 サファイア循環を社会に拡大

  5.7.1 スタッフが存在の力を使える環境

  5.7.2 自律した店舗から地域へ拡大

  5.7.3 クルマを使うシェア社会を支援

  5.7.4 地域コミュニティといい社会構築

 5.8 内なる仕事は社会変革に向かう

  5.8.1 店舗の意識変革から社会を変える

  5.8.2 地域の情報共有をスタッフが支援

  5.8.3 コミュニティで企業の変革を図る

  5.8.4 共有の概念で新しい車社会を構築

6. 本・図書館

 6.1 分化する多読を図書館は支える

  6.1.1 豊田市中央図書館で本との関わり

  6.1.2 多読により、個人の分化を実現

  6.1.3 図書館は市民社会に欠かせない

  6.1.4 図書館を観察し、支援を決意

 6.2 図書館を使うことで市民の活性化

  6.2.1 新刊書は広範囲の興味を満たす

  6.2.2 本を読める環境を町に作り出す

  6.2.3 図書館活用で町の活性化を図る

  6.2.4 図書館は市民の多様なニーズ対応

 6.3 本・図書館から公共の世界が広がる

  6.3.1 影響を受け、世界観を引き継いだ

  6.3.2 著者の本に対する思いをつなげる

  6.3.3 生涯学習と電子書籍で可能性拡大

  6.3.4 公共の概念を地域に展開する

 6.4 図書館をコミュニティの拠点にする

  6.4.1 本と出会い、個人の分化を実現

  6.4.2 本でつながり、知恵で発信する

  6.4.3 知識と意識のバックボーン構築

  6.4.4 知の入口はコミュニティを支援

 6.5 知の入口としての情報センター

  6.5.1 本を体系化、検索し、情報を渡す

  6.5.2 状況を理解し、的確な学習を支援

  6.5.3 情報を提供するコンシェルジュ

  6.5.4 アゴラとサードプレイス

 6.6 ライブラリ環境を市民に拡げる

  6.6.1 I love Libraryをカタチにする

  6.6.2 読書環境の有機的なつながり

  6.6.3 コミュニティの知識と意識を支援

  6.6.4 ソーシャルでの知の集約と拡大

 6.7 図書館コミュニティでつながる

  6.7.1 本の威力で考えられる読書支援

  6.7.2 図書館コミュニティでの学習支援

  6.7.3 どこでも図書館で地域活性化

  6.7.4 ポータルと電子図書で個人の分化

 6.8 内なる図書館から社会を変える

  6.8.1 本は今を表現し、未来を志向する

  6.8.2 市民の関心事で社会ライブラリ

  6.8.3 未来を語るための歴史ライブラリ

  6.8.4 情報を整理し、社会変革に向かう
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依存は意思の力

未唯へ

 結局、今まで掛かってしまった。まだ終わっていません。五日分を入れていました。日によって違います。もっと、集中しないといけない。

 エレベーターコントロールを変えています。

貯めておく機能

 人間には貯めておく機能は、多分ないみたいです。あと、見られるのは、あと一カ月です。貯めておきたいけど、貯めておいても一緒でしょう。たまらないですよ。

依存は意思の力

 現代はあらゆる依存は避けることが可能であり、非難に値するものと考えるようになった。ここでの依存は、全ての成人が労働者であることが求められ、経済的に自立することが期待される。

 賃金労働に従事していない人間は全て、依存者という新自由主義的な自己責任論が強化された。この依存も上からの労働というものがお金を生み出すという、意思の力によるものです。

 その人の存在する理由に関係なく、働けということです。働くということはどういうことなのか、社会にどのように関係するのかとは別に、単に賃金でやろうとするカタチです。

 3.11の時も、1年後にも関わらず、国の援助に甘えているということになります。国の援助は意思の力です。それに対して、何もしないことが悪いという風潮にしています。そこでは存在は関係なくなっています。

 それならば、最初から独立させることを考えていかないといけないし、独立させたモノをどういうネットワークでつなげていくのか。ハッキリ言って、依存しないというカタチです。労働にも依存しない。全てに依存せずに、自分の判断基準に寄っていけば、お金がちゃんと回っていく世界を作っていかないといけない。

 自立的な個人というのは、依存者の問題を他人に押し付けることができる、特権を持った、男性の架空なものと言える。自己責任論を振りかざす人は、依存を必要とする問題を、依存者をケアするものに押し付ける。

 依存するな!と依存せよ!という、二つの命令に挟まれている。命令というのは何か。命令するから生きているのか。そんなものは誰も命令していない。自分が本当の中心ならば。

社会を競争する場から協力する場にしていく

 社会とは何かも、定義されている。

 社会という言葉を用いるときは、第一に社会とは経済社会のことである。これは簡単そうだけど、かなり難しい。どうも、人を超えて働くことは会社に関係するみたいです。

 第二に、仕事の社会というのは、荒波にもまれる場所であり、生存競争の場所でもある。社会とは競争する場所というけど、何ゆえに競争しないといけないのか。何を命じられているのか。

 競争の仕組みとしての社会と協力な仕組みとしての社会。これは意思の力と存在の仕組みと対を為す。現在は競争の仕組みの方が勝っている。共有の概念とベーシック・インカムは共にあり、協力になる。社会保障を地域毎で特色のあるものにすることで、社会を変える

共有の概念を入れ込む

 社会だけでなく、社会のあり方も定義をしないといけないでしょう。だけど、底辺のところが一番重要かもしれない。資本主義をどう見ていくのか、それが変わっていく様。そのベースは哲学の部分です。

 社会は人との関わりにした時に、依存する場合と依存しない場合でベースのところがかなり違ってきます。

 これはやはり、歴史から見ていくしかない。今までやってきて、その次をどうするのか、との時の次という考え方です。共有の概念の共産主義とは異なります。共産ではなく、共有です。
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