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追記--「アラブの春」から一年

『アラブ500年史』より

チュニジア、エジプト、リビア、イエメン、バーレーン、シリアの六カ国の部分的もしくは全面的な革命は、「アラブの目覚め」と地域の政治地図をがらりと書き換えるというもっとも顕著な業績を象徴している。二〇〇九年に本書を書き終わったとき、「もしアラブ諸国の人々が人権の尊重、納得のいく政府、安全保障、経済成長を享受したいならば、彼らは自分たち自身でイニシアティブをとらなくてはならないであろう」と私は書いた。彼らは今、それを実行している。彼らは自分たちの政府に人権や政治的自由を認めるよう立ち向かう勇気を通して、アラブ世界全土の人々は、国民としてのアラブ人、あるいはもっと一般的に、ムスリムは民主主義的価値観とはどうも折り合いが悪いという神話ともきっぱりと縁を切った。チュニジアとエジプトの国民は、自分たちの革命の成果を堅固なものにするために、二〇一一年末に行なわれた新たな国会議員選挙には前例のないほど大勢の人たちが投票に出かけた。

本書の「はじめに」で、「今日のアラブ世界で自由かつ公正な選挙が行なわれれば、イスラーム主義者がきっと楽勝すると思う」と私は断言した。そして、二〇一一年末にチュニジア人とエジプト人は選挙に出かけ、イスラーム主義者政党に圧倒的な支持を与えた。チュニジアの「アンナハダ(再生)党」は、四一パーセントの多数票を獲得し、エジプトの「ムスリム同胞団」は、第三ラウンドまである国会議員選挙の最初の二つのラウンドでは、約四〇パーセントの票を獲得し(最終ラウンドは二〇一二年一月)、もっと保守的なサラフィー主義イスラーム政党の「メール(光)党」が二五パーセントの得票で第二党になった。こうした結果は、二〇一一年の革命をリードした人たちによって形成された新しいリベラルな世俗主義政党の多くをがっかりさせ、アラブ世界の民主主義運動はイランをモデルにしたイスラーム共和国へと進むのではないかと恐れる欧米諸政権の懸念を現実のものにした。

欧米の不安には根拠がないように思われる。投票でのイスラーム主義者の勝利は、宗教的な熱意というより、政治的な現実を反映していた。この地域におけるイスラーム主義政党は、どんな政党であれ、成功に必要な資金集めなどの組織化がよくできている。彼らは、社会福祉、食料援助、教育その他、一般の人たちが必要とする恩恵を供与することによって庶民の支持を確保してきた。彼らはまた、価値観や道徳的・人格的信頼性の高さ、近年チュニジアやエジプトで打倒された、腐敗した独裁的政権に断固反対する勇気を示したことで高く評価されている。チュニジア人やエジプト人のなかには、自分たちがイスラーム主義政党に投票したのは、宗教的信念からというよりも正直で腐敗していない政権を選びたかったからだと主張する人が多い。

二〇一一年は現代アラブ史の大きな転換期であることを証明した。それは、一九五〇年代のアラブ革命以来、中東の顕著な特徴であった六〇年にわたる独裁制の終わりの始まりを表している。国によって変化の速度は異なるが、二〇一一年以降、政治改革と責任ある政府を求めるプレッシャーを受けずにいるアラブ国家はないであろう。

独裁制を倒そうとする彼らの勇気と決意のために、チュニジア、エジプト、リビア、イエメン、バーレーン、シリアその他のアラブの国民はたいへん大きな代償を払った。概算では過去一年間に三万三〇〇〇人以上が自由を求める闘争で死亡し、もっと多くの人たちが負傷したり、家を失ったり、失業したりした。だが、アラブ人は二〇一一年に国際社会からこれまでになく高い尊敬を勝ち取った。十月には三十二歳のイエメン人の人権活動家タワックルーカルマンが、「アラブの春」と前後して、「イエメンにおける女性の権利と民主主義と平和を求める闘争に指導的役割を果たした」として、三人の女性ノーベル平和賞受賞者の一人に選ばれた。EUは十二月、アラブ全土から五人の活動家を選んで、サハロフ賞を送った。受賞したのは、焼身自殺が革命の年のきっかけをつくったチュニジアの街頭の物売りモハメド・ブアジジ、シリアの法律家ラザンーゼイトウネフ、漫画家アリ・ファルザート、エジプトのストの組織者アスマア・マフフーズ、リビアの反体制活動家アフメド・サヌーシーである。年末の『タイム』誌は、その年の諸事件にもっとも大きな影響を与えた個人を顕彰して、「今年の時の人」を「抗議する人」とした。

「抗議する人」は二〇一一年の世界規模の現象だったが、その源は「アラブの春」にある。ジブチ、ルワンダ、ブルキナファン、スワジランドのデモ参加者たちはみなアラブ世界の出来事と関連があった。スペインの抗議する人たちはマドリードの中央広場を占拠し、そこを「プラッツァータハリールハタハリール広場)」と呼んだ。イスラエル、インド、チリも、アラブ市民の行動力に触発されたデモに直面した国々の長いリストに加わった。ロンドンのセントーポール寺院近くの市有地の占拠と同様、アメリカの「ウォール・ストリート占拠運動」は、アラブの運動に直接影響を受けたものである。「ウォール・ストリート占拠運動」の組織者の一人が断言しているように、「この戦術のきっかけをつくったのは〝アラブの春〟だった」。五〇〇年にわたって他国の支配による近代国家を取り入れてきたアラブ人は二〇一一年、サミル・カッシルが二〇〇四年に指摘していたような、「世界規模のチェス盤の上のつまらない歩兵にすぎない」という無力感を振り払い始めた。アラブ人たちが革命元年を乗り越えていくにつれて、国内では新たな自由を、国外では大きな誇りを切望するようになり、それが二十一世紀の急速に変わりつつある世界をかたも作っていくことになるであろう。
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全面戦争

『国際政治(中)』より

われわれは、現代の戦争がそれぞれ異なる四つの点で全面的になった、ということをすでに指摘した。すなわち、(1)その感情と信念においてみずからを自国の戦争と完全に同一化してしまう人口の割合、(2)戦争に参加する人口の割合、(3)戦争から影響を受ける人口の割合、(4)戦争によって追求される目的、の四点に関して戦争は全面的なものになったのである。一八世紀初頭にあたって、フェヌロンが著述したときには、戦争はこれらすべての点において限定されており、近代国際システムがはじまって以来ずっとそうであったのである。

この限定戦争という類型の極端な例として、一四、一五世紀のイタリアの諸戦争を挙げることにしよう。これらの戦争は、主として傭兵によって戦われたのであり、しかもこの傭兵は、自分たちの関心事がおもに金銭的なものであったので、戦闘で死んだり敵を多く殺すことで危険を招くといったことはしたがらなかった。さらに、傭兵隊長--戦闘中の軍隊の指揮者--は、兵士というものが運転資本であったわけだから、その兵士を犠牲にしたいとは思わなかった。傭兵隊長たちは、彼らの軍隊に投資しているので、採算がとれるよう望んだ。また傭兵隊長は、敵の兵士を多く殺そうとは思わなかった。なぜならこの隊長は、敵の兵士を捕虜にして、それを売って身代金をとることができたし、自分たちの軍隊へ兵士として雇うこともできたが、殺してしまっては、金銭的利益にはならなかったからである。だから傭兵隊長は、決戦や殲滅戦に関心を示さなかった。それは、戦争がなくなり敵もいなくなれば、仕事もまたなくなったからである。そのために、これらイタリアの戦争は、敵が死傷者としてよりはむしろ捕虜として兵士を失い、陣地を放棄し退却するように仕向ける、巧妙な策略や戦術上の術策からおおかた成り立っていた。したがってマキアヴェリは、ひとりも殺されないかあるいはたったひとりだけが敵の行動によってではなくて落馬によって戦死するような一五世紀の多くの戦闘--そのなかには歴史的に非常に重要なものもある--を報告することができたのである。

マキアヴェリのこの説明は、あるいは誇張されているかもしれない。しかし、これらの戦争は、第一次世界大戦に至るまでの近代史をつうじて、宗教戦争とナポレオン戦争という数少ない重要な例外はあるとしても、一般に行なわれていた限定戦争のひとつの類型のあらわれであったことは疑いない。一八世紀の偉大な軍事指導者のひとりであったサクス元帥は、一四、一五世紀の傭兵隊長を導いた戦争の原則と全く同じ原則を宣言して次のように述べた。「私は、とくに戦争の端緒における会戦には全く反対である。私は、有能な将軍とは、一生涯会戦を余儀なくされることなく戦争をしつづけることのできる人である、とさえ信じている」。その世紀の終わりに、ダニエル・デフォーは次のような意見を述べた。「窮地に陥った兵士五万の軍隊同士が、互いの視界内にありながら全戦闘期間をつうじてただ身をかわしつづける、つまり、もっと粋な表現をすれば、相互に観察し合うばかりで、最後には結局越冬のための宿舎に引きあげてしまうということが、いまやしばしば起こっているのである」。一七五七年一月一二日に、チェスタフィールド伯は、自分の息子に宛てた手紙のなかで、当時の戦争を次のような言葉で描いてみせた。

 「………戦争でさえ、この退廃の時代には、おずおずと戦われている。助命が許され、町は占領されても人民が危険を受けることはない。奇襲がかけられても、女性は強姦の恩恵を期待することすらかなわない」

他方、限定戦争の時代が終焉に近づいたとき、フォッシュ元帥は、一九一七年にフランスの国防大学における講義で、往時の戦争と新時代の全面戦争の、それぞれの類型を要約した。

「真に新しい時代、すなわち国家の全資源が闘争に吸収されるようになる国民戦争の時代がはじまった。それは、王朝の利益とか、州の征服や領有ではなく、まず第一に哲学的理念の防衛や伝播を目的としたものであり、その後、独立とか統一とかいう、さまざまな種類の非物質的な利点に関する原則を防衛したり拡張したりすることを目ざすものだった。国民戦争は、力の要素としてはそれまで認められていなかった感情とか情熱とかいったものを利用して、兵十二人ひとりから戦意と全能力とを引きだすことになっているのだ。………享刀では激しい感情で燃え立っている大衆を徹底的に利用するのである。すなわち、あらゆる社会活動を吸収すること、そして、要塞化、兵糧弾薬の補給、陣地の利用、軍備、設営等に至るまで体制の物質的部分のすべてを、戦争の必要とするところに従わせるのである。
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ポータル詳細設計へのコメント

ポータル・ファイル管理

 ポータル・グループというのは、作ることよりも、どう使わせるかです。どの単位をポータルの議論対象にするのか。コミュニティの検証にしても、個人と組織の間に柔軟なグループが必要なのは確かです。メンバーの差し替えをどうするのか。組織で決める部分、グループで決める部分、個人の意思で決める部分。実際、そのグループでどういうカタチでやっていくかは、やってみないと分からないことが一杯あります。

 グループ名とユーザー名、点が集合であり、集合が点であることが可能かどうか。それを使うスタッフと店長が使いこなせるかどうか。チャッターのグループとポータルのグループをどういう関係にしておくのか。

ポータル・集計表

 ダッシュボードを使えば、今まで、固定的にリストで出していたものを画面にリアルに出すことができます。どう見せるか、どう見るかです。店舗の人にもダッシュボードを使わせるかどうか、使えるかどうか。それよりも、点が集合になり、集合が点になるというロジックの進化の方が興味が深いです。

 ポータルと従来のデータとを結合させるためにダッシュボードが使えるかどうか。徳島のレポートから、データとして、どこまで見えるようにするかを確認しましょう。

 今までは、メッセージが中心だったけど、アピール・アンケートの結果も含めて、いかにダッシュボードを見せるか。まあ、3年もすれば、そこまで意識も技術も追いつくでしょう。

 主体的に、自分のお客様データを出すようなカタチのための余韻を残しておきます。

 やはり、最終ターゲットは、スタッフ毎のお客様の状況把握です。その中には車の情報などはメーカーから、お客様のフロー情報はお客様ポータルから集約されます。

 そのためにも、ダッシュボードの使い方と具体例が欲しい。

ポータルのファシリテーション

 以前、ポータル開発の時に、茨城で作ったような具体例をどう作っていくのか。今回は富山辺りをターゲットにしたいけど、遠すぎます。延べ時間からすると、名古屋-東京、上野-水戸とは変わらないけど。

ポータル・ケータイ環境

 スタッフの武器にするためには、ケータイで見えないとダメです。それも自分の分だけに絞り込んだデータの上に、自分のノウハウを入れ込めることです。

 つまり、個人用です。ケータイである限りは、店舗用ではなく、個人用です。そして、グループです。ライブラリでチャッターをどう支援するのか。

 スマホなどで、自分の並び順などに変えてしまいます。徳島でのリストを表示しているかが分かれば、一定のレベルが可能です。ただし、実現できるのは3年後です。パートナーには頑張ってもらいましょう。

「時間がありますか」

 5時過ぎに「時間ありますか?」が来たので、「はい。」と応えました。研修で感じていることを聞きました。モチベーションは少し上がっている。その分、存在を確認できなくなっています。

 聴くことに徹したいけど、どうしても、意見を言ってしまいます。私の意見というよりも、自分の意思をまとめるために、使ってもらえばいいです。

 まずは、本当に自分がやりたいことをハッキリさせることを進めました。以前に比べると、苦手なSともやり取りしてました。その時に,Gの態度に対しての不満が拡がります。何を考えているのかよく分からないのは確かです。情報系システムについて、考えている人に対する対応になっていない。

アーヘンは首都だった

 ドイツで最初に行った、アーヘンはドイツの首都だったんですね。気づけば、よかった。ボンと同じようにちんけな駅舎だったけど。そこで、DB(ドイツ鉄道)と言い争った。
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