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地域の人と専門職の〈共有の場〉をつくる

『社会福祉調査入門』より 地域の人と専門職の〈共有の場〉をつくる

事例3.1 悩みを「問い」へ 地域の人との「協働」をどうすれば進められるか……

事例3.2「問い」にどうアプローチするか 自分たちの事例を掘り下げ、新しいプログラムをつくろう

事例3.3 実際にやってみる 事例検討の結果を踏まえたモデルプログラム開発

事例3.4 やってみて振り返る モデルプログラムを検証する

事例3.5 実践にフィードバックする 「公開事例研究会」による組織や職員意識など環境への働きかけ

事例3.6 調査で達成できたこと 考察と結論

 3.6.1 共有の場の効果と個別支援から地域支援に展開する運営上のポイント

  はじめに、第一の目的について考察する。

  まず、事例研究会での3つの実践事例の分析から、共有の場の効果として、①専門職と地域住民の顔の見える関係づくり、②問題の早期発見、③個別事例の課題解決に地域支援を活用するという視点を持てるようになること、④住民に対しての学習の機会となることを明らかにした。

  しかし、こうした場は地域と専門職が「一緒に考えること」から一歩踏み出し、個別の課題を地域の課題として新しい仕組みづくりにつなげていく場とはなっていなかった。個別支援から地域支援への展開が十分に図れていない原因としては、社協と地域包括支援センターの機能や職員に必要なスキルが不明確であることが再確認された。言いかえれば、共有の場は、個別事例を「地域と一緒に考える」場としては機能しているが、「新たな福祉サービス開発」につながる場として機能させるまでには至っていないということである。

  そこで、本研究では、事例研究会における検証作業のみではなく、「実践」を通じてモデルプログラムを実施・検証し、個別支援から地域支援へと展開していくための共有の場の「運営上のポイント」を検討した。その結果、1)専門職間の合意形成、2)テーマ設定、3)社協が担うべき役割、4)個別事例を用いることの効果という点を新たに明らかにすることができた。すなわち、共有の場を個別支援から地域支援へとつないでいく場として運営していくためには、1)社協各部門の専門職が地域支援の意識や必要性を理解すること(専門職間での合意形成)を前提に、2)地域アセスメントを活用し、地域住民、各専門職の課題に合ったテーマを設定することが重要であり(テーマ設定)、さらに3)個別の課題を「地域の課題」としていくためには、場を運営するコミュニティワーカーが地域に課題提起していく意識やスキルが求められる(社協が担うべき役割)ということである。このように、共有の場を地域と専門職が連携して個別課題を解決していく場としてだけでなく、地域支援につなげていく場としていくためには、I)専門職同士の合意形成→2)地域課題を踏まえたテーマ設定→3)地域に課題を提起するために支援過程における社協及びコミュニティワーカーの役割を意識した運営が必要だと考えられる。

  以上のように、本研究では、共有の場の効果、課題を事例研究によって明らかにし、実践プログラムを実施・検証することによって、共有の場を運営していくためのポイントを個別支援から地域支援の展開という視点から提示することができた。

 3.6.2 変化への働きかけの効果

  次に、第二の目的について考察する。本研究は、社協事業や組織の政策を変化させるという目的を持って研究に取り組んだが、単に研究報告書を提出するという組織への働きかけのみでは容易に実践に結びつかないと判断し、組織やより多くの職員を巻き込んだ実践として公開事例研究会という方法を試みた。結果として、公開事例研究会は、職員の意識の醸成を図り、組織の政策に影響を与えるために効果的な実践であったと考えられる。

  このような効果をもたらした要因・工夫として、第一に、FGIが参加者に対して働きかける手法として有効であったこと、第二に、FGIに先立って研究の枠組みや課題意識などを丁寧に説明したことが、参加者の気づきにつながったと考えられること、第三に、単に参加者としてではなく主体的なかかわりが持てるよう、アンケートによるフィードバックを実施することで、FGIに共に参加している雰囲気を作り出したこと、などが考えられる。こうした要因・工夫により、公開事例研究会自体が、社協内の多様な職員が課題を共有する場となったことは大きな成果であったといえる。

  本研究では、単に実践上の課題を調査によって明らかにするだけでなく、それを実践できるような環境を創造していくことも目指して取り組んだ。あくまで試行的ではあるが、本研究で示した公開事例研究会という方法は、研究成果の共有化及び新たな気づきを促す手法として、一定の有効性をもったと考えられる。一方、調査結果を実践できる環境を創造していく働きかけの手法や取り組みは、実践者が調査を行う際に最も関心がある事柄であり、今後様々な方法を開発し、試行していくことが必要であると思われる。
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政治思想の現在

『西洋政治思想史』より 20世紀の政治思想

それでは、現在の政治思想において問われているのは何であろうか。論点は多岐にわたるが、あえて権力論、正義論、帝国論という三つの論点に絞りたい。

権力論という場合、ここまでも検討してきたように、伝統的には国家の専制的な権力からいかに個人の自由を守るかが論じられてきた。19世紀以降はこれに加え、社会の多数派による少数派の抑圧にも注目が集まっている。

現代では、国家や狭い意味での社会にとどまらず、これまでであれば、必ずしも権力が作用しているとはみなされていなかった領域において、権力の働きが認められるようになっている。たとえばルイ・アルチュセール(1918-90年)は、家族、学校、マスメディアなど、社会の至るところに「国家のイデオロギー装置」を見出した。

ミッシェル・フーコー(1926-84年)もまた、「監獄の誕生」(1975年)において、近代における新たな権力のあり方を論じた。フーコーによれば、学校や工場など、社会の至るところで人々は不断に監視され訓練されている。結果として、外から強制されなくても、人々はいつの間にか自発的に権力の指示に従って行動するようになる。自覚がないままに人々を服従させる新たな権力の働きに対して、はたして自由は可能か。このことが現代権力論の最大の焦点となっている。


現代的な権力論が、社会に微細にはりめぐらされたミクロな権力のネットワークに注目しているとすれば、多様な諸個人から成る現代社会の基本的な枠組みについて、マクロに構想するのが現代正義論である。

ジョン・ロールズ(1921-2002年)の『正義論』(1971年)は、それまで英米圏の政治哲学において支配的であった功利主義に挑戦することで、現代政治哲学復興の礎となった著作である。

「最大多数の最大幸福」を社会の実現すべき善と定義し、この善の実現を基準にあらゆる個人の行為や政策を評価しようとする功利主義に対し、ロールズはあえて正義を強調し「正義の善に対する優位」を説いた。その理由としてロールズは、社会全体の幸福の増大のために個人の権利を犠牲にしてはならないこと、また社会の基本的ルールを特定の善の構想に依拠させてはならないことを指摘している。

それでは、社会においてさまざまな境遇にあり、多様な善の構想を抱く諸個人が等しく合意できる社会の基本的原理とは何であろうか。ロールズは二つの原理を提示する。基本的な自由に対する諸個人の平等な権利が第一原理、そして公正な機会均等の下(公正な機会均等の原⑨、社会において最も恵まれない人々の境遇を改善する限りでのみ(格差原理)、経済的・社会的不平等は認められるというのが第二原理である。

このようなロールズによる正義の定式化をきっかけに多様な論争が起きることになる。ロールズが社会的弱者に対する政府による再配分を肯定しているのに対し、ロバート・ノージック(1938-2002年)は『アナーキニ・国家・ユートピア』(1974年)を執筆し、ロックの所有権理論に遡って、社会に対する国家の介入を最小限化することを訴えた。

また、チャールズ・テイラー(1931~年)やマイケル・サンデル(1953一年)らは、ロールズが正義の原理を抽出する際の方法論を批判し、個人が置かれた具体的な社会的境遇を考慮に入れることなしに、いかなる社会の基本的ルールも論じることはできないと論じた。サンデルはロールズの抽象的な個人観を「負荷なき自我」と批判したが、このような彼らの立場は、コミュニタリアニズム(共同体主義)と呼ばれることになる。

最後に、マイケル・ハート(1960~年)と共に「帝国」(2000年)を執筆して話題になったアントニオ・ネグリ(1933一年)についてもふれておきたい。フーコーらの現代権力論を受けて、ネグリらは冷戦終焉後の世界において、新たなネットワーク状の権力が拡がっていると説く。主権国家の権力と異なる脱領域的な権力の作用を、ネグリらは「帝国」と呼んだ。

興味深いのは、帝国主義と区別して帝国を論じようとするネグリらの議論に、本書でも検討した帝国論が流れ込んでいる点である。近代主権国家が終わりを迎えつつあるかに見える現在、一つの文明の下に世界を統合しようとする古典的な帝国が復活する可能性はあるのだろうか。ネグリらがしばしば現代における混合政体論(g第1章3、第2章7)に言及している点と合わせ、西洋政治思想の伝統が現在もなお、眼前に展開する状況を読み解く上で、意義をもっていることがわかる。
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存在の無で、社会との関係を絶つ

年賀状は止め

 何も思い浮かばない。希望とか期待を掛けてはいけない。反作用が大きすぎる。

 今年一年で、接触があったのは、パートナーだけです。それもミカロスの日で消えます。だから、年賀状は止めます。その意味では、存在の無へ向かいます。

かなり、落ち込んでいるみたい

 シェスターコービッチNo.5が突然、浮かんできた。

 Iさんを見ても、何も感じない自分にはビックリします。かなりのレベルまで落ち込んでいます。

歴史は誰が変えるのか

 歴史は国からできているのか、人からできているのか、人の心からできているのか。

 歴史を国別を分けるのはおかしい気がします。それだけ、近傍だということです。もっと、小さな単位で起こっている歴史と大きな単位で歴史は起こっているのでしょう。アレキサンダーというのは国ではない。マケドニアから出てきたけど。ジンギスカンも同様に、意思の力です。

 宗教は、やはり、存在の力でしょう。

 今までは、意思の力で変えてきたけど、存在の力が歴史を変えていく。

 未唯空間で、そのシナリオを描きます。私にできるのはそれぐらいです。
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