日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

柿木は脆い

2012年10月21日 | 回想
           

 柿木はあるのに実がなっていない。昨年、枝が折れないかと心配した近所の木に全く実がついていない。散歩であちこと歩くが生っていても数はほんのわずか。今年は「裏年」としたブログもいくつか拝見した。

 「裏年」とは果実などの出来がよくない年、を表す言葉。こうした現象を隔年結実という。柿などの果樹が或る年はものすごくなってよく果実を結ぶと、その翌年は果実を結ばない。それは樹が弱ってしまうので起きる、生年とふなり年を繰り返すことをいう。

 子どもころ、庭にあった柿の実を富士山に似ていることから「富士山柿」と祖母が教えてくれた。正式な名称は今も知らないが、この方が夢があっていい。収穫すると深手のもろぶた収め、もみ殻で覆い年明けまでおいて熟成させていた。半透明な飴色に熟し、とろっと口に入っていた。その美味さ、上手く思い出せないが「最高のおやつ」だった。
 
 その柿が裏通りの塀の上に1個生っている。少し色づいていてまもなくもげそうだ。野鳥から守ってやろうとネットがかけられ保護されている。そうしないと主は味わうことが出来なくなる。見上げながら主の気持ちが伝わる。

 柿の木は「さくい、ので枝が折れやすい。だから絶対に登って取ってはいけない」と教えられていた。さくい、とは脆いという意味。だから上を向いて長い竿を操ってもぎとる。そのとき小枝だが、簡単にちぎれることで脆さの想像がつく。

 今年の我が投稿は裏年、でも、あせることなく続けよう。裏年と間違いそうな言葉に裏作がある。裏作の技はどこにある、人まねは脆い枝と同じ、こつこつ積み上げ備えるしかない。例会資料を繰りながらもう一編、挑戦してみよう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成し遂げて

2012年10月20日 | エッセイサロン
            

 2006年1月、岩国エッセイサロンの発足から今日まで「会の母のような存在」だった方が会を去られた。そう決められたのは「いろいろ熟慮してと」と話される。エッセイの投稿暦は40年あまりと伺っている。その足元には遠く及ばない短い経験しかないが、先人の拓かれた道を歩んで行くこと、それがお世話になったことへのお返しかと思う。

 その方は83歳。作風は、常に一歩下がった控えめな様子とは異なり、妻として母としての豊富な人生経験から醸しだされた文章は自信に富み、人としての芯の強さを終始感じていた。作風だけでなく、合唱団を結成され、長きに渡ってそのリーダーを全うされたことからもその強さは伺える。その一端を知ることが出来る「瞑想」という月例会の作品がある。

 「畑違いの商家に嫁ぎ家業に家事、子育てと忙殺されいろいろと苦しい時期もあった。それは持ち前の意地で切り抜けた。忙しいという字は心が亡びると書く。そこに憩いを見出し潤いのある生活に切り替えた。苦しかった過去があるから今がある」、思い出の中から心豊かな今の日々が書かれている。
 
 最後の例会、代表手作りの感謝状と記念品を感極まって受けらた。その時の写真をお持ちした。「会を去るについては悩み、考え、答えをだした」と改めて話される。数人で発足した会であったが、大きく育ったことに感激ですと、話は続く。秋日和の空も聞いているかのように思える爽やかさだった。 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行き先

2012年10月19日 | 自然 季節
           
 
 陸橋の階段を上ったとき、そばの桜の木から風に吹かれて2枚の葉が舞い始めた。どこへ舞い落ちるかと見ていた。1枚はこともあろうに下に見える狭い樋に入った。あんな狭い場所でなくてもと同情したが、そこにはすでに無数の先着の仲間が樋一杯に長い列をなしている。もう一枚は軒下へうまく舞い降りていった。

 これから本格的な落葉の季節。落葉といえば、風にふかれカサカサと乾いた音を残し舞って行く。飛ばされて行き止まり、逆の風に押し戻され、回る風に向きを変えられ、あてのない旅、さすらいの姿をイメージする。

 樋に入った落葉は湿っているそこで風に舞わされる事はもうないだろう。ふと思い出したのは、家でゴロゴロする定年退職した後の夫を「濡れ落葉」と表現したが、列をなしている樋の落葉もそうなの、と問うてみたが、答えは聞こえなかった。

 落葉を掃いて集める、集めた落葉を運ぶ、運んだ落葉を焚く、子どものころに経験したこうした一連の流を近くでも見かけなくなった。桜並木で落葉を集めている人に出会った。その量たるや生半可ではない。聞くと堆肥にすると教えられた。枯葉は大きな袋の中できっと喜んでいるだろう。   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高額にしては

2012年10月18日 | 地域
           

 道幅の狭い裏通りなどでは、側溝に頑丈な覆いを施すと拡幅されたと同じようになり、通行の便はよくなった所は幾つもある。近所のそんな拡幅部分に、雨水などを排水する孔が設けられている。その孔へビールの空き缶がはまっている。

 はまる、といえば空き缶が勝手に落ち込んだように聞こえるがそうではない。空き缶を孔に挿し込み、踏んづけてつぶされた状態で入り込んでいる。どうみても犬や猫の仕業でなく人が故意にしたとしか思えない。排水孔の用をなさないので抜き出して持ち帰った。

 小学校の裏側にあたる外壁に何枚もある「お願い」の張り紙。それは「学校では子どもたちに『ゴミの持ち帰り』を指導しています。ゴミの落ちていない学校をめざしています。どうかゴミを捨てないでください。ご協力をお願いします」という文面。

 小学校の外壁はブロックだが、最近、その上部へ塀の取り付け工事がは始まった。もしや、校内へ投げ込まれたゴミがあり、その防止策かもしれない、そんな気がする。工事が終わると校舎は外から見えなくなる。心無い行為がどれだけ地域へ迷惑をかけるか知って欲しい。

 張り紙のある外壁沿いの道は、児童らの休憩時間の元気な声や朗読の声、時には楽器演奏や歌声などを聞きながらよく通る。そこでよく見かけるゴミはコンビのポリ袋、アルミ缶にペットボトル、飲料用の紙パックも多い。どのゴミもいけないが、ひどいのは生ゴミを見たこともある。近所の方が手を掛けられるのだろいつの間にか綺麗に除かれている。もし、こうした善意がなかったら、どんなことになるのだろう。

 その裏通りは小学生の通学路でもある。お願いの張り紙が1日も早く剥がされることを願うが、具体的には大人のモラルに頼るしかないもどかしさを感じる。投げ捨てられているような容器製品は高額にし、容器を返却すればその分返金、余金が出れば自治体の清掃費に充当なんてどうだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天水と雨水

2012年10月17日 | 生活・ニュース
           

 明け方6時頃からの降りだした雨、市内では夕方までに50ミリほどの雨量を記録したが、ダムの水位が上がり節水の緩和を図れるほどではないという。それでも「久しぶりの雨、耕地が喜んでいます!!」と知人からのメールに恵みの雨ということがよく分かる。

 生活や耕作に欠かせない水、それを雨水「あまみず」だけに頼っていた人が、雨水といわず「天水、てんすい」と呼んでいたと話された。天水の意味は「天から降った水、雨水」と広辞苑に載っている。私はこの天水という言葉を知らなかった。

 話を聞いて、雨水というより天水ととらえたほうがより重宝で大切なものに思えた。そこに水への深い感謝の思いがこめられている、そんなにも感じた。話をされた人は深い深い井戸を掘って水を得たときの喜びも語っておられたが、水への感謝と節水の姿勢を常に保っておられることに感動した。

 天水、辞書では関連語として天水桶に天水田の意味が載っている。それらは水源を持たない桶や溜池や泉などが、天からの水に頼ることから付けられたことが分かる。特に天水桶は防火用として天水をためる桶で、屋根上や軒先に町角などに置いてあるのを昔の図画で見ている。

 ダムの水位が下がると大騒ぎする都市生活、水源となる奥深い森林地帯の現状を思いながら、その再生への働きが必要だろう。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一輪挿し

2012年10月16日 | 陶芸
           

 今月になって市内の雨量は観測されていない。似たことは各地で発生し節水が始まっている。周南地区では工業用水は40%カットという。菜園もカラカラでお手上げになりそういうという仲間の声は危機感の一歩手前。秋を満喫する行楽に雨はいらないが、深刻にならないうちに一雨欲しい、明日の予報は雨、期待しよう。

 「秋」の前後にいろいろ言葉をつけそれを満喫するのはいつからのことだろうか。今日は陶芸教室で「創作の秋」を楽しむ。課題は「一輪挿し」。指導員は制作のステップごとに実技を交えて説明する。それは手を動かし口で説明しながら見本を作り上げていく、いつもその出来栄えを感心しながら見ている。

 指導にあわせ忠実に実行しているつもりでもメンバー個々形状が異なり面白い。この教室へ誘われたとき「世界でひとつだけの作品を作ろう」という迷言はこんなことを差していたのだろう。

 幅広いところで十数センチほどの小品だが、それがずらり並ぶとどれもいい作品に思えるのは芸術の秋の仕業かもしれない。素焼き色づけ釉薬とステップがある。さて、晩秋の頃にはどんな秋を活けることが出来るだろう。

 海抜500メートルの教室周辺、長引いた残暑で遅れていた樹木の紅葉が始まり、秋らしい装いになりつつある。棚田のなかに残っているまだ収穫されていない稲、午後の陽射しに映える黄金色が印象に残った。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉川廣家の寄付を受けて

2012年10月15日 | しっちょる岩国
           

 このたび、「親鸞聖人七百五十回大遠忌、浄福寺本堂修復慶讃、浄福寺第二十一世住職継職」の法要が行われた。2度と出合えない法要と思い門徒として参拝した。そこで、寺の由来を知った。岩国検定実行委員会へ入っていなかったら「そうか」で済ませた史実、そう思いながら読んだ。

<典拠は安政六年(1859年)「浄福寺開基談」より>

 浄福寺の開基は、周防国守護大名大内義隆の次男、大内隆長と伝えられています。父義隆は家臣陶晴賢の謀反により、天文20年(1551年)8月末に自害しました。浪人となった次男隆長は天文弘治(1555年頃)の頃岩国に潜伏し、仇敵陶晴賢を討たんとしましたが、大軍に護衛されていた為に果たせず、後に晴賢が毛利氏に減ぼされた事を聞き、父の仇を果たせぬ無念より自害せんとします。

 しかし、岩国横山の永興寺(臨済宗)和尚に説得され、永興寺和尚の弟子として出家、法名を瑞雲としました。こうして仏門に入った大内隆長改め瑞雲でしたが、残してきた家族を忘れられず、その悩みを知った永興寺和尚より「浄土真宗の門に入れば煩悩を去らるべし」と真宗への入門を勧められ、和尚の紹介により安芸国の浄土真宗大寺、龍原山仏護寺(現広島別院)の僧徒となりました。

 後年、永興寺和尚重病の知らせを受けた瑞雲は許しを得て岩国に戻り、ここに草庵を建て、恩師を看病する労ら浄土真宗の教化活動を行いました。時に1565年と伝えられ、この年を浄福寺創設の年としています。

 その後数十年経つた折り、岩国領主。吉川廣家公が、居住地下見の為岩国を訪れましたが、途中激しい雨にあい雨宿りに偶然近くにあった瑞雲の庵を訪れました。瑞雲は突然訪れた一行に驚きつつ、深く礼を尽くし接待した所、吉川公はこれを快く思い、瑞雲の身の上を訊ねました。瑞雲は恥じ入りながら出自を語ったところ、吉川公は大内家の出身でありながら流浪の身となった瑞雲に同情し、自分が岩国領主である事を告げ、後日住居が定まったら召し出す事もあるだろうと言い残し瑞雲の庵を後にしました。

 その後吉川公は岩国横山の地に居を構え、約束通り瑞雲を召し出し仕官を勧めましたが、瑞雲は一度仏門に入った身なればと、仕官を鄭重に断りました。そこで吉川公は、ならば何が望みかと訊ねたところ、瑞雲はこの地に寺院を建立し浄土真宗の教えを弘めたいと答えました。それに対し、家訓により仏教を信仰していた吉川公は、瑞雲の寺院建立を快く許可し、材木を寄付しました。こうして錦見の地に本堂が建立され、当時は柳が茂る土地でしたので、山号を「柳原山」と定めました。

 なお、大内義隆の嫡子には義長が知られ、隆長の名は家系図には現れませんが、故あって実母は妊娠中に山口を離れ、里である出雲国にて誕生。成長した為であるとも伝えられています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

枯れる

2012年10月14日 | 回想
           

 現役の頃のある宴席。私より年配の方が所要で少し遅く来られた。その方は温厚で分別の備わった方なので「こういう人になれたら」と思う一人だった。「遅くなりまして申し訳ない」と空いている席へ座られた。すると急ピッチで飲んでいた一人が「枯れ木も山の賑わいですから」とグラスを持ち上げた。

 そう発したのは私より若いが酒の大好きなひとり。酔い目とはいえ年配者に向かって誠に失礼なひと言、一瞬、座がしらけそうになった。そのとき遅くなられた方が「それをいい忘れていました。ありがとう」と軽くいなされた。発した本人は感謝されたと勘違いしたようで機嫌よかった。後に座長から厳しい注意を受けた。

 そんな彼から「定年になりました。一緒に飲んでいた頃を懐かしく思い出します」そんなメールが届いた。アドレスを残してくれていたことに驚いたが、確かに、こういうことには抜け目のない彼だった、と思い出す。終わりに「枯れた人になりたいです」と結んでいた。

 枯れ木も山の賑わい、これは自分を謙遜して使うことわざ。今度の「枯れた人」ニュアンスは分かるが、彼が本意とするのはどんな姿だろう。そう考えながら、酔うと、誰にでも本人だけが格調高いと考えている世間話を吹っかけていた酔眼を思い出す。

 このメールもきっとほろ酔い、いや、それ以上のいい気持ちでくれたのだろう。そう空想しながら「お互い元気で」と返信をした。自慢の故郷へ帰るのか、問い忘れた。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉川経家の讃歌

2012年10月13日 | しっちょる岩国
           

 錦帯橋を横山側へ渡り、とんとんと短い坂を下りて右側の小路へ入る。すぐ左に大きな礎石の上に建つ「吉川経家弔魂碑」が見られる。経家(つねいえ)ってどんな人か、そばに説明がある。長いが引用する。

 「天下統一を目指す織田信長は、天正8(1580)年6月、羽柴秀吉を遣わして鳥取城攻めを開始した。鳥取城主山名豊国は、城内の多数の意見を無視して秀吉に降伏し、城外に脱出した。豊国の家臣達は吉川元春に城将の派遣を要請し、元春は石見国温泉津福光城主吉川経家に命じて城督とした。天正9年3月、経家が入城し城内を調査したところ、貯蔵された食料はわずか三カ月分位しかなく、食料の補給を図ったが、城内に搬入しようとする輸送船は、すべて秀吉軍に捕獲された。

 期日が経過するに従って餓死する者が続出し、その惨状は言語に絶した。開城の条件として、城兵全員の救助を誓約し12月25日『天下を争う織田、毛利両家の二つの御弓矢の場で切腹する自分を名誉に思う』という遺書をしたため、城内広間において三十五才の命を断った。その子孫は岩国藩に仕え、藩政に貢献した。

 この英魂を弔うため、昭和十四年弔碑が建立され、礎石に鳥取城の石十二個が使用されている。なおこの場所は、江戸時代にその吉川氏の屋敷のあったところである」。

 現在、岩国市と鳥取市は姉妹都市として交流がある。その発端は、鳥取市民がこの忠魂碑に出合ったことで交流が始まったとされ、平成7年に姉妹都市提携がされた。経家公も思わぬ縁のつながりを喜んでおられよう。

 この経家公の徳と雄をたたえる讃歌を「岩国の昔話と歌謡」(昭和47年11月発行)で知った。記憶のため次に記しておく。

 天地もとよむときの声 羽柴の大軍襲い来て 城は二十重に囲まれぬ 天地のけんそに人の和を 合わせて守る経家が 必死の覚悟勇ましや
 天正九年秋なかば 百日に余る籠城に 刀は折れて糧つきぬ ますら武夫の真心を 峰の紅葉に染めいでて 雄々しき最後とげにけり
 鬼神も泣かんこの義烈 高風偉総久松の松の緑ととこしへに その名も高き吉川の流を汲みて国のため 防州男児奮い起て
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どけいや

2012年10月12日 | 地域
           

 橋の歩道を歩いていた。突然「どけいや」と後ろから大声で怒鳴られた。欄干に身を寄せ振り返ると自転車に乗った中年の男性がすぐ後ろにいた。幅1メートルほどの歩道だし、路面とは段差があり歩道の上での追い越しは容易ではない。自転車なので音が聞こえず、後ろから来ている事に気づかなかった。だから避けようとしない、避けなかったことにいらだっての怒鳴り声になったのだろう、と思う。

 この歩道で、後ろから自転車に追い付かれた経験は何度もある。これまではベルで合図されるか「すみません」と声をかけらる。お互い何かが起きてはいけないので合図しあって避け合う、それが普通だと思う。怒鳴られたの初めてだ。

 どけいや、は方言。「どけ」の命令調といえる。丁寧に言えば「よけて」、これを強く言えば「よけんかいや」となる。

 橋の名前は臥龍橋。岩国側から渡った所は川西といい宇野千代生家のある町。生家に行くには途中から昔の街道を進む。吉川藩の家臣も住んでいた地区。この地区には特有の言い回しがあった。言葉のあとに「ねや」とつけて話す。そうかい・ねや、違うい・ねや、うまかった・ねや、外の人には分かりづらい。

 「川西の、ねやねや 小僧が ねやねや いうて遊ぶ ねや、おー ねや、ねやねや いうことをやめよう ねや、 おー ねや、 また ねや がついた ねや」。子どものころを思い出した。 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする