このたび、「親鸞聖人七百五十回大遠忌、浄福寺本堂修復慶讃、浄福寺第二十一世住職継職」の法要が行われた。2度と出合えない法要と思い門徒として参拝した。そこで、寺の由来を知った。岩国検定実行委員会へ入っていなかったら「そうか」で済ませた史実、そう思いながら読んだ。
<典拠は安政六年(1859年)「浄福寺開基談」より>
浄福寺の開基は、周防国守護大名大内義隆の次男、大内隆長と伝えられています。父義隆は家臣陶晴賢の謀反により、天文20年(1551年)8月末に自害しました。浪人となった次男隆長は天文弘治(1555年頃)の頃岩国に潜伏し、仇敵陶晴賢を討たんとしましたが、大軍に護衛されていた為に果たせず、後に晴賢が毛利氏に減ぼされた事を聞き、父の仇を果たせぬ無念より自害せんとします。
しかし、岩国横山の永興寺(臨済宗)和尚に説得され、永興寺和尚の弟子として出家、法名を瑞雲としました。こうして仏門に入った大内隆長改め瑞雲でしたが、残してきた家族を忘れられず、その悩みを知った永興寺和尚より「浄土真宗の門に入れば煩悩を去らるべし」と真宗への入門を勧められ、和尚の紹介により安芸国の浄土真宗大寺、龍原山仏護寺(現広島別院)の僧徒となりました。
後年、永興寺和尚重病の知らせを受けた瑞雲は許しを得て岩国に戻り、ここに草庵を建て、恩師を看病する労ら浄土真宗の教化活動を行いました。時に1565年と伝えられ、この年を浄福寺創設の年としています。
その後数十年経つた折り、岩国領主。吉川廣家公が、居住地下見の為岩国を訪れましたが、途中激しい雨にあい雨宿りに偶然近くにあった瑞雲の庵を訪れました。瑞雲は突然訪れた一行に驚きつつ、深く礼を尽くし接待した所、吉川公はこれを快く思い、瑞雲の身の上を訊ねました。瑞雲は恥じ入りながら出自を語ったところ、吉川公は大内家の出身でありながら流浪の身となった瑞雲に同情し、自分が岩国領主である事を告げ、後日住居が定まったら召し出す事もあるだろうと言い残し瑞雲の庵を後にしました。
その後吉川公は岩国横山の地に居を構え、約束通り瑞雲を召し出し仕官を勧めましたが、瑞雲は一度仏門に入った身なればと、仕官を鄭重に断りました。そこで吉川公は、ならば何が望みかと訊ねたところ、瑞雲はこの地に寺院を建立し浄土真宗の教えを弘めたいと答えました。それに対し、家訓により仏教を信仰していた吉川公は、瑞雲の寺院建立を快く許可し、材木を寄付しました。こうして錦見の地に本堂が建立され、当時は柳が茂る土地でしたので、山号を「柳原山」と定めました。
なお、大内義隆の嫡子には義長が知られ、隆長の名は家系図には現れませんが、故あって実母は妊娠中に山口を離れ、里である出雲国にて誕生。成長した為であるとも伝えられています。
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