ビワの木の下で子どもたちが「ミイラのようで気持ちわるい」と見上げながら話している。一緒に見上げる。得体の知れない形をした乾ききった袋のようなものがたくさん下がっている。
見ると、それは取り残されたビワの乾涸びた姿だ。淡いオレンジ色でふっくらとしたあの姿からは想像もつかないものばかりだ。くしゃくしゃに縮こまったものや袋が裂けて垂れ下がったようなもの、見る向によってはミイラの顔のように見えるものもある。同じ形のものはない。
甘いが種のでかいビワはつい先日まで店に並んでいた。桃栗3年柿8年というが、ビワは「9年でもなりかねる」という諺があって実がなりにくい果物という。このびわの木は苦労して実になりながら誰にも食されなかったのだろうか。
年々顔の張りも潤いも頭髪も薄くなっていくことは実感している。才能も同じように乾涸びているのだろうと認識しながら、いやまだ負けん、そんな自我の残っていることを思い出し、ビワには悪いがこんなになりたくはないと思った。
「ブチ気持ちが悪い」と子どもたちは遠ざかって行った。ブチは子どものころに接頭語のように使った。ブチ美味い、ブチ恐ろしい、ブチ悪い奴など「すごい」とか「物凄い」というような意味で使っていた。今の子どももブチを使っているのかと何か嬉しく「ブチいい爺さんになってやろう」と決めた。
(写真:ブチ気の毒な食されなかったビワ)