作 東井義雄
私は学生の頃、寄宿舎の火事で丸焼けになり、教員になって2年目、宿直の晩、全国を荒らし廻っ放火魔に学校を焼かれ、火事には異常な恐怖心を持っています。
ところが、最後に校長を勤めた町では学校が無人化され、宿直も警備員も廃止されていました。それで、私は毎晩夜半に学校を見廻ってから床につくようにしていました。
ところが、どうにか学校だけでは焼かずに退任させてもらえそうだと考えていた退任間際のある朝、若いお母さん方7、8人が「校長先生申しわけありません」と、あわただしく校長室にはいってこれれるのです。
聞いてみると1年生の子7~8人が、体育館の床下の換気口の網を外して中にはいり、暗がりの中で何回もローソクに火をともして遊んでいたらしと言われるのです。
それが分かったのは、ひとりの子が「お母さん、体育館の床下の暗がりの中でローソクに火をともしたらきれーいやったぜ」と、その美しさの感動をうったえたことから、「校長先生は火事を心配して見廻りまでされているというのに・・・」と、その仲間の子のお母さん方に伝え、びっくりしてやってきてきてくださったのでした。
はずかしいのは私で、体育館の換気口の網が簡単に外れることさえ気付いていなかったのです。それに、暗闇の中のローソクに光の美しさに感動できる子をかわいいなと思いました。いかにも1年生らしいなと思いました。
しかし、お母さんたちはびっくりしてくださたように、このかわいらしさは確かに恐ろしい危険と隣りあっています。美しい話をきかせたり、美しい絵をみ見せたり、美しいメロディにふれさせたり、芸事をならわせたりして、子どもの心情・情操を美しく育てることは大いに必要なことです。
しかし、子どもを育てる道には、偏りがあってはなりません。恐ろしい事件を惹き起こした過激派の若者たちには、知的偏りの中であのように育てられたと聞いています。
自転車の車輪を直接ささえている道はばは、せいぜい3センチくらいのもでしょう。では、はば3センチしかない道を自転車で無理に走れば、必ずわが身を破滅させることでしょう。
美しい心情を育てるにしても、すぐれた賢さを育てるにしても、ほんとうのものを育てるためには、狭い3センチの道にとらわれていないで、それをささえるはば広い生活の耕しを忘れてはなりません。
実際の生活の中で、計画させたり、結果を予測させたり、失敗した時の原因を考えさせたり、生き方そのものを確かな偏りのないものに育てるなかで、尊いものを仰いだり、美しいものに感動したりすることのできる、豊かな心情を育てることを念じようではありませんか。