
帰省する孫の迎えで駅前のロータリーで停車していた。緑地帯へ無造作に置かれた小さな岩を見るともなしに見ていた。しばらくして見ているつもりの岩から「逆に見られている」そんな気がした。
思い直してよく見るとその理由が分かった。昔「人面」を枕詞にした魚・犬・岩などで観光の目玉にしたころがあった。その人面岩に似ているから、見つめられても不思議はない、と納得する。
ならば観察してみよう。あそこが目で耳で口でと見ていくうちに幾つもの顔が読み取れることに気づいた。それは人の顔の様でもあり動物のそれの様でもある。正面向きだったり横向きだったりといろいろ。
この歳になってと思いながら指をおってみる。10個くらいまで見分けられた。楽しい錯覚もあるもだと思ううちにこだまの到着時間になった。自然石か人造石かという野暮なことはしなかった。
「確かにそう見えたのに」「思い違いだったのか」「順調と思ったのに」などなど思いや予測と結果が違ったとき「あれは錯覚でした」と責任逃れをするがたわい無い事なら笑って済まされる。が、それが大きな損失や罪になるときはそうはいかない。
2週間先は総選挙、錯覚だったと残念がることのない確かな1票を投票したい。
(写真:この奇岩からどんな顔が見えますか)