みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主の前に出した

2016年02月23日 | 民数記

民数記 27章

 風の強い月曜日でしたが、寒さは和らいだ感があります。数日前からスーパーの店先には苺が並びはじめました。ウォーキングの途中、いくつかの春の景色を見つけました。

 荒野の旅を終えようとしている今、モーセの役目も終わりが近づいてきました。きょうの箇所のアバリム山というのは、申命記34章1節でネボ山と特定されています。主はネボ山の頂から主がイスラエルにお与えになった地を見ることが許されたのです。モーセがこの時、ヨルダン川の向こうに拡がる地をどのような思いで見たのだろうかと、読むたびに想像します。「みことばの光」には、「厳しくも優しい主の配慮である」とありますが、主のご配慮に感無量だったのかもしれません。

 きょうの箇所では、モーセは二つの難題を「主の前に出した」、また「主に申し上げた」ということばに心が留まりました。彼は、あれこれと指示を出して問題を解決するのではなくて、主の前に持って行きました。

 誰かから相談されると、頼りにされているのだという気持ちになることがあります。そして、自分でなんとかしてあげたいなどという考えが頭をもたげます。けれども、ここでは経験豊かということばでは語り尽くせないほどの人生経験を踏んだモーセが、「任せておきなさい!」と胸を張らずに、頭を垂れて主に祈っています。こうでありたい、と願います。


ひとりも残っていなかった

2016年02月22日 | 民数記

民数記 26章35−65節

 日曜日はどのように過ごしましたか。子どものためのお話の絵を描いているのですが、きのうは自分で描いた絵がおかしくて、描いていながら笑い出してしまいました。下手なので、ということでもありますが…。

 この箇所は、神がモーセとアロンの子エルアザルにお命じになった人口調査の結果についての後半です。この人口調査は、イスラエルの民がカナンに入るのを目前にして、「軍務につくことのできる者」を数えるため、つまり、約束の地に入ってからの戦いに備えるということと、相続地を割り当てるための資料として、という意味がありました。

 終わりの2節に、シナイの荒野に歩み出そうとした時に神がお命じになった第一回目の人口調査との比較があります。第一回目の人口調査で数えた60万人以上の人々は、第二回目の人口調査の折にはほとんどいなかったと書いてあります。40年近くの間にほぼ一世代が入れ替わったということもありますが、不信仰に対する神の答えなのだと説明がなされます。ここに、神の厳しさといつくしみの深さを見ます。神の厳しさとは、この40年近くの間の彼らの不信仰、罪に対して神が公正なさばきをなさったということに表れ、いつくしみとは、それでも彼らは一つの部族も欠けることなく約束の地に入ることができるということではないかと考えるのです。

 人口調査が記されているこの章の、無味乾燥に思える記述を読みながら、「十字架のもとぞ、いとやすけき、神の義と愛の会えるところ」という讃美歌262を口ずさんでいました。私たちもまた神がご覧になったら、「ひとりも残っていなかった」と言われるような者なのです。けれども、主イエスの十字架が死ぬべき自分を生きるようにと動かしたのです。感謝! 

 


巧妙なたくらみで

2016年02月20日 | 民数記

民数記 25章

 きのうはドイツ語のレッスン日。小雪混じりの中を出かけました。だんだんと難しいというか、覚えることが多くなってきました。「さてこのあとはどうなるか」などと、他人事のようなことを言っていますが…。

 民数記25章の初めに登場するシティムという場所は、ヨルダン川を挟んでエリコの反対にあるアベル・シティムだと考えられています。だとしたら、イスラエルの民は約束の地の一歩手前まで進んで来たということになります。しかし、ここで彼らは誘惑に負けてしまいます。

 神はモーセに、バアル・ペオルの事件もイスラエル人がミデヤンの族長コズビの娘を連れて来たことも、ミデヤン人が仕組んだ巧妙なたくらみだと言っておられます。これらのたくらみにはどうやら、山の上からイスラエルを三度祝福したバラムが絡んでいると考えられているのです。

 裏を返せば、それほどまでイスラエルは正攻法ではやっつけられないほどだったということになります。であればこそ、なおさらのこと民の心は緩みやすかったのだと思います。約束の地はもうすぐですし、周りの国々はイスラエルに恐れをなしています。向かうところ敵無し、もうだいじょうぶという時、彼らは誘惑にころりと負けてしまったのです。

 自分がうまくやっている時にこそ危険だとよく言われます。それはキリスト者の歩み、また教会の歩みにおいても当てはまるのではないでしょうか。「これでだいじょうぶ!」と心で思うときこそ、「敵」は巧妙なたくらみで迫ってきます。


顔を荒野に向けて

2016年02月19日 | 民数記

民数記 24章

 昨日は教会の「ウェブページ委員会」を持ちました。と言っても、委員は私も含めて二人。けれども、1時間という限られた中で良い話し合いの時を持つことができました。

 この章は、まじないに頼ってきたバラムが転機を迎えたことを示しています。バラムはすでに二度もイスラエルを祝福してしまうのですが、ここに至ってイスラエルを祝福することが主の御心にかなうのだということを知るのです。

 「その顔を荒野に向けた」ということばを心に留めました。彼の視線の先には荒野を旅するイスラエルが見えます。その時に神の霊がバラムに臨み、三度目の祝福をするのです。ことばはもちろん神の霊によって導かれてのものですが、クリアになったバラムの心からほとばしり出ているという印象があります。ここで、バラムは何度も「目のひらけた」「目のおおいを除かれた」と言っています。そして、彼は神がお語りになったことばをそのまま告げているのです。彼の姿にすがすがしさを覚えるのは、みことばをそのまま告げるからなのではないか、と思うのです。

 それでは、これを機にバラムは神を真に恐れる人物になったのでしょうか。きょうの「みことばの光」の「考えよう」に出ている聖書のことばで確めてみましょう。

 


神は祝福される

2016年02月18日 | 民数記

民数記 23章

 水曜日午前は祈祷会の日。きのうは祈祷会の後でお昼をいただきました。ちらし寿司とデザートは手作りのチーズケーキです。食べ物が美味しくいただけるというのはしあわせですね。祈祷会では、「みことばの光」のその日の聖書箇所を読み、「聖書を毎日読むための聖書同盟の方法」を用い、「みことばの光」を読んで分かち合っています。自分で気づかなかったことを発見する時でもあります。

 イスラエルをのろってもらうために招かれたバラム。しかし、ふたを開けてみたら…、というのがきょうの箇所です。何とバラムは、モアブのバラム王の期待に反して、二度もイスラエルを祝福してしまったのです。二度目の祝福のことばを聞いた後のバラク王が「彼らをのろうことも、祝福することもしないでください」というのはいかにバラクが混乱していたかということを表わしているのでしょうか。

 改めて考えてみますと、モアブの地の高い山の上でバラク王とバラムとの間にこのようなやりとりがなされているのを、イスラエルの民は何も知りません。けれども、まもなく約束の地に入ろうとしている民は、バラムによって神の祝福を受けているのです。「神は祝福される。わたしはそれをくつがえすことはできない」という20節のことばに目を留めました。

 誰かに手紙やメールを書くときに、しばしば「神の祝福が豊かであるように」ということばを添えます。昨晩中学時代以来の友人(クリスチャン)からいただいたメールの中にも、「…より多くの日本人に神さまからの恵みと祝福が伝わることができますように」という祈りのことばがありました。神の祝福があるようにとの祈りが互いのために捧げられていることの意義を、「神は祝福される」という一言から覚えるのです。


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