みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

身に負って

2016年02月12日 | 民数記

民数記 19章

 久しぶりの午後の晴れ間。いつもの公園に春を見つけに行きました。空気はまだまだヒンヤリとしていますが、春を思わせる一枚…。

 主はここで、「汚れをきよめる水」を作り、それによって死体や死体に触れて汚れた人がきよめられるということについての細やかな規定を明らかにしておられます。きょうの箇所をメモにしてみますと、いくつかのことを考えることができました。

 「永遠のおきてとなる」という10節のことばに目がとまりました。今、私たちがここに記されているような場面に居合わせたからといって、この規定通りに物事を進めはしません。身近に「汚れをきよめる水」を作るための灰が用意されているわけでもありません。けれどもそれは、もう人は神の前に汚れるとか、罪を犯すということがなくなったということではありません。ここに明らかにされている規定は、無効になったのではなくて、イエス・キリストによって完全に成就したということを覚えます。

 ここでは、汚れをきよめる者が汚れるということが繰り返されています。ここから思ったのは、イエス・キリストが私たちの罪の汚れを身に負われたということです。

 主イエスは取税人レビを弟子としてお呼びになった後、レビの家で食事をなさいました。その場には取税人や罪人たちも大勢いました。それを見たパリサイ派の律法学者たちは、なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのかと弟子たちに問います。それに対して主は、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た…」とお答えになりました。⇒マルコの福音書2章17節 

 主は取税人や罪人が好きだからとか興味があるので食卓に着いたのではなくて、彼らを招くためだとおっしゃっています。それは、彼らの汚れ、罪をご自分の身に負うということだった…そのようなことを考えます。

 


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