高知城再訪

2013-07-25 00:00:55 | The 城
以前から、当ブログを読まれている方はご存知かと思っているのだけど、わずか数百年前には日本中にあった天守閣も、いまや江戸時代以前のものは12しか残っていない。

東(北)の方から、弘前、松本、高岡、犬山、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、宇和島、松山、高知。

すでに総てには足を運んでいるが、行けば行くだけ知識は重層的になり、この12の中でも再訪したいと思う城もあるわけだ。

もちろん、全部に再訪したいわけでもなく、いわゆる再建城の中にも和歌山城のように再訪したい場所もあるし、すでに城跡しかなくても行きたい場所もあるのだが、中世以降の城でも400。平安時代後期からなら1000を超える城址の全部に行こうと思っているわけじゃない。

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それで高知城だが、高知に行ったことはこれで3回目。今回はまったくの観光トリップ。前2回のうち登城したのは1回。この城のよさは、天守閣+本丸御殿付きということ。残存12城のうち、本丸が完全形で残っているのは、ここだけか。

ただし、そう立派なものではない。

そもそも、高知は誰のものだったかといえば、長曾我部一門のものと考えるべきだろう。江戸を通じての大名は山内家。そう、山内一豊が妻の持参金を拝み倒して借用し、馬の購入資金に充てたわけだ。現代でいえば競走馬を買って一山当てたようなもの。

それで静岡県の掛川の城主として関ヶ原の戦いでは東軍として出場。結果として、滅亡した長曾我部の遺産をそっくり我が物にし、出世街道を過ごした掛川城および掛川市民には、軽くサヨナラし、喜び勇んで高知に乗り込んだものの、数年後にあっけなく寿命に従うことになる。

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高知県民の感情も、「山内よりも長曾我部」という人もいるらしいし、「故郷を見捨てて脱藩した卑怯者の坂本龍馬」と考える人もいるらしい。いろいろだ。

で、話は専門方面に走るが、高知城は1603年に山内一豊が築いたあと、1727年に城下の大火事で焼失している。しかし、1749年に以前とほとんど同一様式で再建がなっている。

で、明治になって、廃城令が出たりして天守閣には厳しい時代があったものの昭和に入り復古主義の時代に、予算が出ることになり、何度も修復工事が行われている。

そして、問題は、高知城天守の写真をよく観察すると、石垣の上部(つまり天守閣に近い部分)とその下の部分で石の色が異なることに気付く。下の方は一面に黒く、石垣の上部は白っぽいわけだ。

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そこに何らかの人為的は行為が見えるわけだ。

しかし、天守閣が上にあるにもかかわらず、石垣の分解掃除をするわけにはいかないだろうし、合理的に考えると、石垣下部が黒いのは1727年の大火の時の炎の跡であり、その時に天守が燃え落ちるとともに石垣上部も崩れ、その後、現代に至ったのではないだろうか。1730年代に石垣の修復が行われたものと推測できる。さらに、石垣上部の積石の白い部分を危険を冒して調査したのだが、石の裏側が焼け焦げているところも多いように思えた。やはり、再建に当たっては廃材から順に使っていたのだろうか。

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