聖火リレーを始めたのはヒトラーだったことは、よく知られていることだ。わざわざギリシャのオリンピアから聖火を持ってくるために、人々がリレーしてつないでいく。正当な歴史の発祥を受け継いで、連綿と続いている人類の継承を、見事に視覚化して見せた素晴らしい演出方法である。越えてきた国は7各国にわたり、約3000キロを3075人のランナーでつないだ。このようにして人々の心を一つにし、協力して作り上げる未来への希望を表したものだろう。そうしてそのような権威そのものをナチスドイツこそが高らかに継承しているという事実も示しているのであろう。
今でこそ、その後のドイツを知っている我々のことだか、なんだかそのような演出自体にそら恐ろしさを覚えるかもしれない。何か狡猾なものを見出して、嫌悪する気持ちもあるかもしれない。
ところが事実として残っているのは、この聖火リレーという演出の伝統なのだ。近代オリンピックの伝統的な演出として、すっかり定着し、これなしに正当なオリンピックの開催地である証が得られないような雰囲気さえあるのではないか。
このような価値観を生み出したドイツを考えると、実はきわめて近代的な思考方法をもって物事を考えていたことが少しは分かるかもしれない。我々の何かを素晴らしいと思う価値観の中に、必ずナチス的な近代性が含まれているはずなのだ。そのことに自覚的であるという人が多い方が、いわゆる抑止力になるのではないかとも思うが、嫌悪する人が否定してしまうと、逆説的だが、ナチスが生き残るということになってしまうのではないだろうか。