ICT工夫
全ての自由を奪えても、自由を求める自由だけは奪えない
  だからネットの使い方も 工夫 したい こうふ のブログ




今日12月8日、紀元二千六百一年、西暦1941年、昭和16年のこの日、いろいろな事が頭に浮かぶが、「トラ・トラ・トラ」ということで記事のカテゴリーをアート・文化にしておきます。自身精神的にも幼い頃で単に戦争映画のひとつとして見たものですが、こうしてインターネットで記事が読めると、もう一度この映画を見てみたいと思います。『トラトラトラは真珠湾攻撃成功を伝えた電信。意味はワレ奇襲ニ成功セリ。』と言うのもWikipediaでおぼろな記憶を確認できました。「ニイタカヤマノボレ」が攻撃開始命令の暗号だったことも再確認。

8月15日の天気が真夏のピーカンだったことはしばしば語られますが、12月8日はどんな天気だったのでしょう。今思うと冬のどんよりとした暗い日のように思えますが、当時は日本中がイケイケドンドンで盛り上がった好天だったのでしょうか、未確認です。

師走といえば時は「元禄十五年師走半ばの十四日」、1702年旧暦12月14日夜半から15日未明ということですが、降りしきる雪の中、本所松阪町吉良邱討ち入りの赤穂義士、忠臣蔵。47人しかいなかったと言うべきか47人もいたと考えるべきか。大石内蔵助が師事した山鹿素行(やまがそこう)の兵学については甲陽軍鑑の小幡景憲(おばたかげのり)から学んだものということで武田軍学ということから赤穂浪士と甲州との繋がりがあります。

赤穂浪士については子供のころから良く知っていました。四十七士の名前の大半とその銘々伝を友達に話すことができた忠臣蔵オタクだったことを思い出しますが、今は忘れています。長じて関心を抱いたのは武士道という視点からで、そこに荻生徂徠や柳澤吉保の名前も出てくる、柳澤も甲州に関係していた事で、漂着キタリモンの私が実は昔から縁があったことを感じます。その上、私のDNAには三河岡崎方面と越後春日山方面のDNAが混じってお江戸で誕生したのだから、人生とはまこと不思議、不可知なものです。

この二大イベントに関わる師走に開催の甲府市議会、誰がイケイケドンドンの太鼓を打ち、戦死覚悟で新高山に上るのはいかなる人々か。大石良雄は切腹する覚悟で討ち入ったから太鼓だけ叩いていた訳じゃないけど。柳澤が甲斐国を受領したのが1704年、大石切腹-元禄16(1703)年2月4日(旧暦)の1年後ということもこの機会に記憶に留めます。



コメント ( 0 ) | Trackback ( )


« 甲府駅北口に... 山梨県、企業... »