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真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝」(2006/製作統括:倉田保昭/配給:日活株式会社/監督・動作設計:谷垣健治/脚本:谷垣健治・青木万央/特技監督:小田一生/音楽:特撮・吉川晃司/出演:倉田保昭木下あゆ美・芳賀優里亜・椿隆之・永田杏奈・小松彩夏、アドゴニー・ロロ、平中功治・松村雄基・杉原勇武・中村浩二・竹財輝之助・岡田秀樹・長谷部瞳・秋山莉奈、他/特別出演:J.J Sonny Chiba《千葉真一》)。
 古来平安の昔より桔梗院にて封印され続ける、黄泉の国にも通じた魔人・小野篁(松村)。十二年に一度の鬼封じの秘儀に、桔梗院住職・三徳和尚(倉田)の一番弟子・イサム(杉原)が数百の僧兵を率ゐて向かふも、小野篁配下の悪鬼(中村)の前に、無惨全滅の憂き目に遭ふ。
 三徳和尚の遠縁に当たり、桔梗院に身を寄せる少女・アユミ(木下)は、鬼封じを成し遂げる為に、かつて小野篁を封じた“青龍の七人衆”の縁者を探し集めることを決意する。
 日本が世界に誇るアクション二大巨頭・倉田保昭と千葉真一との歴史的初激突!それと、イマドキの特撮ジャリタレアイドル大集合♪といふ、水と油だとか、両立させるに難いなどとは必ずしもいはないが、何れにせよ、その二本の柱を並立せしめんとした感覚には正直首を傾げざるを得ない、のつけから基本コンセプトの混濁した作品ではある。果せるかな、倉田保昭と千葉真一との歴史的初激突!シーンを純粋にそれのみを掻い摘めば兎も角、アイドル映画としては全く木端微塵。結果的に、所々を通り越して穴だらけの脚本も相俟て、結局何をしたかつたのかまるで判らない、どういふ観客を想定して撮つたつもりなのだかサッパリ窺へぬ、惨憺たる残念作となつてしまつた。
 いいところがひとつも無いので何処から手を着けるべきなのか却つて途方に暮れもするが、矢張りいの一番に。そもそもがアイドル映画ともいふと、実力の伴はないジャリタレ相手に、どうにかかうにか映画を形作つて行かなければならない。さういふただでさへ海千山千の頑丈な演出力が要求されもするところに、何で又監督が、ここに来て専門はあくまでアクションでしかない谷垣健治なのか。出来損なひのステレオタイプのキャラクター造型と、最大限に評価したとして類型的で工夫に欠けるシークエンスとが羅列されるばかりで、全く以て、パーフェクトに見所に欠ける。アクション野郎としての本領を発揮して、小娘小僧に血反吐を吐かせたエクストリームのひとつでもモノにしてすらゐる訳でもない。何の為に谷垣健治を連れて来たのか。“日本アクション映画活性化計画 始動!!”だなどとフライヤーには謳はれてゐるが、一体何の冗談だ。笑へもしない。
 倉田保昭と千葉真一との歴史的初激突!に関しては。確かにそれなりに見応へがありはしたが、ハッキリ書いてしまふが、少々実力差があり過ぎた。それは互ひの全盛期から、ガチのアクションの実力に関してはさうであつたのかも知れないが、倉田保昭の方が断然強い。ネームバリューと総合的な役者としての色気、といつた面に於いては千葉ちやんの方が勿論優位に立つてゐるのかも知れないが、少なくとも現時点、パワー・スピード・テクニック、全ての面に於いて、倉田保昭は千葉真一を完全に凌駕してゐる。それぞれ何かしらの得物を手にしたバトルに終始、個人的にはステゴロを観たかつたと物足りなさを感じもしたのだが、そもそも、ステゴロ(素手喧嘩)では均衡が取れずシークエンスが成立し得なかつた、といふことなのかも知れない。因みにソニーは、三徳以外では、“青龍の七人衆”唯一の生き残り・源流和尚。
 といふか更に根源的にそもそも、今作は、ビデオ撮りである。だ、か、ら、

 フィルムで撮れ。

 何をやつとるかバカ者。倉田保昭と千葉真一との歴史的初激突!だといふのに、嘗めとんのか。伝説への敬意が足りぬ。
 最早正直一々億劫でもあるが、穴だらけの脚本に関しても一応叩いて、もとい触れておく。ガリ勉、ヤンキー、コスプレイヤー、そしてキモオタ。一体それが鬼封じに何の役に立つといふのかも勿論、仕方がないのでひとまづはさて措くとして、一応は(表面的に)個性的な“青龍の七人衆”第二世代の面々に比して、アユミは自らの無個性を悩む。そんなアユミに対して、レディース暴走族・アンナ(永田)は、アユミの気配を巧みに察知する能力を指摘する。この気配を巧みに察知する能力だか何だかが、後々で活きて来ることは一切ない。桔梗院を奇襲し、三徳和尚を拉致する小野篁。去り際にアユミを見、「あの娘は使へる」。この台詞も、後々にはまるで絡んで来ない。掠りもしない。一度張つた伏線は、どのやうな形であれ一応は回収する。観客に身銭を切らせ小屋にまで足を運ばせようといふのであれば、商業映画として最低限の良心は見せて欲しい。
 音楽の特撮(本篇クレジットでは、NARASAKI《from特撮》)と吉川晃司といふのは、要は在りモノのオケ(主にイントロ)を、その所々のシークエンスに合はせて適当に使用する(だけ)といふ代物で、ファンながらに流石にもう少しヤル気を見せて呉れよ、と情けなくもなつて来てしまふ。ただ地底に潜つて行く(といふか落ちて行く)シーンで使用したのが「オム・ライズ」といふのと、クライマックスでの「ケテルビー」の使ひ方は上手く行つてゐたやうに見受けられた。
 イマドキの特撮ジャリタレアイドル大集合♪ぶりについても一応纏めておくと。主演の木下あゆ美が「特捜戦隊デカレンジャー」から、はいふまでもないとして。“青龍の七人衆”第二世代の一人・ガリ勉メガネつ子のミカ(芳賀)が、「仮面ライダー555」から。同じくナンパ師・トオル(椿)と、青年期の三徳(竹財)が「仮面ライダー剣」から。アンナ役の永田杏奈は「仮面ライダーカブト」。“青龍の七人衆”第二世代の一人・コスプレ美少女カオリ(小松)は、実写版「セーラームーン」のセーラーヴィーナス。更に、青年期の源流(岡田)が「超星神グランセイザー」から。三徳の妻で、源流からは異父兄弟に当たる美央、と全ての因縁の源たる、小野篁が道ならぬ恋に落ちる妹で尼僧の二役(長谷部)は、「ウルトラマンマックス」から。加へて殊更に隙間を突き、カオリがアルバイトするメイド喫茶の他のメイド・マミ(秋山)は「仮面ライダーアギト」から。無駄にくたびれた。

 最後に、今作のスタッフの中、意図的に省いておいたがスチールは加藤義一。この人のことであらうかとは思ふが、要はこの加藤義一と、こちらの御存知我らが加藤義一、との関係や果たして如何に?単なる、純然たる同姓同名に過ぎないのであらうか。
 ところで、アンナは結局悪鬼を倒したつけ?悪鬼にベア・ハッグで締め上げられたアユミがゲロを漏らすシーンに、谷垣健治の持つて来た香港映画のエッセンスが辛うじて垣間見える。


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 「ブラック・ダリア」(2006/米/監督:ブライアン・デ・パルマ/脚本:ジョシュ・フリードマン/原作:ジェイムズ・エルロイ/撮影:ヴィルモス・ジグモンド/出演:ジョシュ・ハートネット、スカーレット・ヨハンソン、アーロン・エッカート、ヒラリー・スワンク、他)。
 正直概ね退屈気味に観てゐながらも、ラスト・シーンには目を見開かされた。常にも増して穴が開きがちでもあつた心が、柄にもなく一発で元気になつてしまつた。予めお断りする。どうにもネタバレせずにはゐられない為、感想は概ね伏字にて処理する。

 “世界一有名な死体”を巡る謎解きや、社会の裏側、といふ半ば物理的なものを越えて人の心に巣くふ闇自身をも鮮やかに描き出したドラマ自体は、出来が良いのは判つたが、正直なところ少々退屈に観てもゐたのは私的な事実である。正味二時間の尺が、思ひのほか長く感じた。
 ただ、ラスト・シーンのフラッシュ・バックには本当に震へた。映画を観てゐて、思はず全身が熱くなつてしまふのを感じた。(ここから伏字)<深夜、ブロンド・ダリア(ヒラリー・スワンク)を始末してケイ(スカーレット・ヨハンソン)の下へと戻るバッキー(ジョシュ・ハートネット)。玄関の扉を開けバッキーを迎へ入れるケイ。そのケイのショットが、どうにも不相応に明るい。明る過ぎる。過剰に照明を当てられた年増女優のやうに、ヨハンソンの顔も室内も、真つ白になつてしまつてゐる。あれ、光量のバランスを間違へてねえか?なんて観てゐると、バッキーは庭の芝生に、腰から切断され口は耳まで切り裂かれたブラック・ダリアの死体が、カラスについばまれてゐる幻影を見る。幻影は一瞬で、心配さうに室内からバッキーを覗き込むケイの画は、通常の、妥当なレベルの光量に戻つてゐる。
 即ち、シーン冒頭の明らかに光量バランスを間違へてゐるかに見えたカットも、初めから計算済みであつたのだ。社会の闇の部分を潜り抜け、人の心の深淵に触れ、あまつさへ自らも手を汚し、からがら真夜中にケイの下へと戻つて来たバッキー。ケイの維持する生活の、温かい光に一瞬目が眩み、幻影を見る。さういふ物理的な生理現象をトレースしてゐるに留まらず、このラストは、一見ショッキングな、何程か後味の悪いバッド・エンドであるやうにも見えてしまへるのかも知れないが、実はハッピー・エンドである。ブラック・ダリアの幻影から覚めたバッキーの眼は、再び、正しい明るさでケイを捉へてゐる。そのことは即ち、バッキーが闇に堕ち、光を受け容れられなくなつてしまふのではなく、再び裏の世界から表の世界へ、光の下へと戻つて来れたことを意味する。
 物理的な生理現象のトレースに留まらず、と先に書いたが、それだけにせよ、並大抵の技法ではないのだ。加へて、あまりにも変格的なハッピー・エンドの、あまりにも変格的な独創性。光と闇の魔術。これぞデ・パルマ。これぞ映画。かういふ映画を劇場で観ることが出来たことを、私は心からの幸福と感じる。柄にもなく、興奮して前向きになつてしまつた。


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 「マイアミ・バイス」(2006/米/監督・脚本・製作:マイケル・マン/撮影:ディオン・ビーブ/出演:コリン・ファレル、ジェイミー・フォックス、コン・リー、ナオミ・ハリス、ジョン・オーティス、バリー・シャバカ・ヘンリー、ルイス・トサル、エリザベス・ロドリゲス、他)。
 南米の巨大麻薬コネクションへの危険極まりない潜入捜査に挑む、マイアミ警察特捜課(が、“マイアミ”の“バイス”)の二人の刑事を描く。80年代後半の伝説的TVシリーズは殆ど未見なので、今回は「マイアミ・バイス」の映画版リメイクといふことではなく、潔く新作アクション映画の一本として臨んだ。因みに、TV版「マイアミ・バイス」に於いてはマイケル・マンは製作だけで実は未監督。今作が、マンの「マイアミ・バイス」初監督作品である。
 TV版の「マイアミ・バイス」を一切考慮に入れずに観てみたところ、シリアス目の「バッド・ボーイズ」とでも思へば、まあ普通に観てゐられもするのではなからうか。ドラマは中盤、猛烈に中弛むが。ジェイミー・フォックスと危険な潜入捜査に挑むコリン・ファレルと、組織のトップの懐刀のコン・リーとの絡みは、丸々不要。ラストのドンパチ・シーンでのエモーションにも、恐らくはマイケル・マンが狙つてゐたであらう程には全く寄与してゐない。この部分を削ると、丸々二十分は切れる。
 「トラフィック」にでも向かうを張つたつもりなのか、それとも何某か大人の事情でもあるのかも知れないが、物語にリアリティーを与へるだとかの名目で、ウルグアイ、パラグアイ、ドミニカ、その他。矢鱈と中南米のあちこちでロケを張り過ぎ。プロダクションの無駄遣ひだ。ここも全部端折つて、浮かせた時間と予算とをドンパチに注ぎ込む。さうした方が、世間的な体裁や評論家連中のどうでもいい評価は兎も角、絶対に映画は面白くなる。コリン・ファレルが、コン・リーのあるかなきかの微妙な色香に何故か惑はされ、ミイラ取りがミイラになりかけるやうな物語は、どうしたところで大して高尚なものになる訳でもなからう。それならば、そこだけは本当に見応へがある、観てゐて恐怖すら覚えてしまふくらゐ迫力があるドンパチに特化した方が、潔い正解であるやうに思はれる。
 とはいへ、今作の最凶のウイーク・ポイントは、どうやらマイケル・マンは。殆ど全く映画をフィルムで撮る気が無いらしい。この期に改めていふやうなことでもないのかも知れないが。当人は観客に臨場感を与へられるつもりでゐるやうだが、HD(高解像度)ビデオ・カメラによる映像は、特に夜の実景が酷い。「コラテラル」(2004)の時にはそれ程気にはならなかつたから、技術的には後退してゐないか?今「コラテラル」を同じ劇場で再見してみた訳ではないので、ハッキリしたことは言へないが。コリン・ファレルが、コン・リーを乗せてパワーボートをマイアミからキューバにまで、昼間の海を走らせるシーンも木端微塵。ボートを上から撮ると、白いボートが太陽光を反射して、ピントを合はせようにもどうにも合はせられない。勿論、カメラマンがファインダーを覗いてゐる時点では合つてゐるのであらうが、出来上がつた映像からは、色が割れてピントが合つてゐないやうにしか見えない。
 雷にでも打たれない限り、マイケル・マンが考へを改めることもなからう。そろそろこの人の次の映画といふのは、パスする潮時なのかも知れない。

 後「マイアミ・バイス」。クールでスタイリッシュなアクション映画、としてプロモートするつもりのフライヤーの文面のダサさは、最早ギャグなのかと思へてしまふ程に必見である。


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 「グエムル 漢江の怪物」(2006/韓/監督・原案:ポン・ジュノ/脚本:ポン・ジュノ、ハ・ジョンウォン/グエムル開発:ニュージーランドとアメリカに外注/出演:ソン・ガンホ、ピョン・ヒボン、パク・ヘイル、ペ・ドゥナ、コ・アソン、他)。ポン・ジュノに関しては「ほえる犬は噛まない」(2000)も、「殺人の追憶」(2003)も共に未見。それならお前は、一体何の映画を観て来たのだと同時代の映画ファンからは難詰されてしまふかも知れないが、それならば、あなた方からさへも打ち棄てられた映画を観てゐる。とくらゐしか最早言ひやうもない。

 父・ヒボン(ピョン・ヒボン)と漢江の河川敷で売店を営むカンドゥ(ソン・ガンホ)。暇さへあれば居眠りしてばかりで、店番すらままならない。愛娘のヒョンソ(コ・アソン)は一家の希望の星で、皆から愛されてはゐたが、ヒョンソの母、即ちカンドゥの妻には、ヒョンソが生まれて間もなく逃げられてしまつてゐた。
 ヒョンソが帰宅。カンドゥの妹、ヒョンソからは叔母に当たるナムジュ(ペ・ドゥナ)のアーチェリーの試合を、テレビでカンドゥと固唾を呑みながら観戦する。カンドゥがヒボンから言ひ付けられて渋々客への配達に出たところ、それは現れた。
 魚のやうでもあり、獣のやうでもある異形。長大な尻尾の先まで含めると、体長は2~30mはあらうか。突如漢江に姿を現した怪物は、やがて陸に上がると猛然と駆け回り、人々を襲ひ始めた。長閑な行楽地が一転、阿鼻叫喚の地獄と化す。周囲の異変に気付いたヒョンソが、家から外へ出てしまつた。何も出来ないでゐるカンドゥの目前で、怪物にさらはれ、漢江に消えるヒョンソ。
 悲しみに暮れる遺族。合同慰霊祭の斎場に駆け付けた、反政府運動に参加した経歴が災ひしてか、大卒であるも未だ定職に就けずにゐるカンドゥの弟、ナミル(パク・ヘイル)は、(ヒョンソがさらはれたのは)お前の所為だと、カンドゥに怒りと悲しみとをぶつける。ところが彼等は纏めて、怪物からウイルスに感染した疑ひがある、と病院に収容され、とりわけ怪物の体液を浴びたカンドゥは、厳重に隔離されてしまふ。
 そんな中、カンドゥの携帯に電話が入る。ノイズさへも消え入りさうな中、微かに聞こえて来るのは、ヒョンソの声だ。「お父さん、助けて!」。誰からも信じては貰へないが、ヒョンソは生きてゐる。生きて、助けを求めてゐる。一家は病院を脱出し、ヒョンソ救出の為に悪魔の棲む河に向かふ。
 ある者は途中で命を落とし、又ある者は再び捕らはれる。ある者は愛する姪の居場所を掴みかけるも逃避行の最中力尽き、又ある者は怪物の反撃に遭ふ。それでも、命ある限り家族はヒョンソの生存を信じ、再び逃亡を図り、もう一度再起しては怪物の姿を追ふ。
 終に起動する、米軍の最終殲滅兵器。全てを死に至らしめる死の霧が世界に白く立ち込める中、遺された家族は、喪はれた命と新たに見出された命との為に、人の造りし悪魔と最後の聖戦を決すべく対峙する。

 四~五割水増しして纏めてみたが(上げ底かよ!)、個人的にはストレートに感動した。怪獣映画としては怪物の比重が物語の中でさほど大きくはないが、それはそもそも、私の早とちりでもあつたのであらう。奪還もの、より底が浅くなる分、判り易くもなるであらうか個人的用語としての、ゲット・バックものとしては普通によく出来てゐた。一言で切つて捨ててしまふと、“怪物”グエムルのデザインと設定とが「WXⅢ 機動警察パトレイバー」(2002)をパクつてゐようとゐまいと、そんな枝葉は殆どどうでもよい。
 ただ、ここでひとつ難しいのは、個人的にはストレートに、普通に感動したものではあるが、監督のポン・ジュノは、恐らくはストレートな映画としては撮つてゐないであらう点。展開の中に於いてしばしば、ポン・ジュノは意図的にリズムを遮断する。これが私の大嫌ひな(スティーブン・)ソダーバーグの映画であるならば、そのまま自ら流れを遮断してしまつたまま、映画は途絶されたまま終つてしまふ。にも拘らず、今作が最終的にはエモーションへの結実を果たすのは、ゲット・バックものの持つエモーションの普遍性とでもいふべきものが、ポン・ジュノの瑣末な作家性を凌駕した、とでもいふことなのであらうか。
 作中のあちらこちらに、現代(韓国)社会の持つ様々な問題点に向けられた、文明批評じみた描写も挟み込まれる。そのいづれもがよくいへば判り易いが、そのままいつてしまへば底が浅く、芸が無い。一体ポン・ジュノといふ人は、頭のいい人なのかさうでもない人なのか、初めてその映画を観る私には全く判らない。頭のいい人が撮つた頭のいい映画は、観てもお前には判らんぢやろ?さういはれてしまふならば、最早返す言葉は片言も持ち合はせないが。
 ともあれ最終的には。木戸銭さへ払つてしまへばこつちのものとでも言はんばかりに、ポン・ジュノがどういふつもりでこの映画を撮つてゐようとも、感じたままにストレートなエモーションに震へてゐるのもアリだ。と、知性と節度といふ単語を辞書に持たぬドロップアウトとしては開き直るものである。

 潔くアメリカに丸投げしたグエムルのCGは総じて見事な出来栄えではあるが、クライマックスの<グエムルが炎上する>シーンに於いて、若干力尽きる。


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 「ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT」(2006/米/監督:ジャスティン・リン/脚本:クリス・モーガン、カリオ・セイラム、アルフレッド・ボテーロ/撮影:スティーヴン・F・ウィンドン/出演:ルーカス・ブラック、ナタリー・ケリー、ブライアン・ティー、サン・カン、BOW WOW、JJサニー千葉、北川景子、他/カメオ出演:妻夫木聡、中川翔子、柴田理恵、KONISHIKI、土屋圭市、他)。一本目(2001年)も第二作:X2(2003年)も共に、劇場で観てゐる割に中身はサッパリ覚えてはゐないが(X2が第一作よりも更に中身が無く、詰まらなかつたことだけは覚えてゐる)、それでもアクション映画といふとどうしてもさて措けなくて、X3も性懲りも忘れたふりをして観に行つてしまつた。どうでもいいが、ピエール瀧なんて何処に出てた?出てゐるらしいが、それは全く判らんかつた。
 それと、かういふ映画を観てゐてよく思ふのは、何でこんな映画の脚本を三人がかりで書かにやならんのだらう?といふことである。ハリウッドがしばしばさういふシステムを採用する、といふことであるのかも知れないが。日本でかういふ脚本の共作システムを、多く採用するのが関根和美である。何でこんな映画に?といふ面に於いては、ニトロで加速してゐる。

 ショーン(ルーカス・ブラック)は車絡みの非行行動を数々起こした末終に母親に匙を投げられ、職業軍人の父親を頼り、東京に流れて来る。ショーンはそこで、これまで知らなかつた車とこれまで知らなかつたレースとに出会ひ、ドリフト・レースにのめり込んで行く。と同時に、危険な裏社会の揉め事に巻き込まれても行く。
 カスタム・カーがビュンビュン爆走し、ビッチな姉ちやんが尻をプリンプリンと振り、矢鱈と沸点の低いマッチョなDQNがボコスカ殴り合ふ。要はそれだけで、それだけであるが故に世界中で大ヒットしたシリーズの第三作である。今回の新機軸は、舞台が日本であることと、日本発祥の独自走法、ドリフト走行を主眼に置いたドリフト・レースが、カー・アクションの目玉になつてゐるところである。
 アメリカに居場所を無くしたショーンが、日本に流れ着くシーン。いきなり空港だか駅だかに、M.C.ハマーの馬鹿デカいパブが飾られてゐる。・・・・・これは何のギャグだ?日本人は未だにM.C.ハマーとか聴いてやがんだらう?とかいふ挑戦的な危険球なのか?そのシーンの破壊力が、個人的には今作に於いて極大であつた。ハリウッド映画でM.C.ハマーの姿を拝むのは、「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル」(2003)以来である、因みに。
 他に日本絡みの小ネタとしては、ショーンが高校の屋上でボコられてゐる友人を助けに行く、生身アクションとしての見所がある訳でもない以前に、後のストーリーにもさして重要な意味は全く持たない為、切らうと思へば丸々切れてしまふシーン。屋上へと至る扉に貼られた注意書きが、“間けたら閉めませう”(原文は勿論珍かな)。“間けたら”つて何だよ“間けたら”つて !?大きな金使つて作つてゐるんだから、そのくらゐのことちやんとしろよ。
 別の意味で最も感動したシーンは、信号待ちで停まつてゐる、ビッチ二人組が乗る車。そこに通りがかる助手席にショーンを乗せた、ショーンの日本での兄貴分・ハン(サン・カン)の運転するカスタム・カー。いきなりハンは車をビッチの車の周囲で猛然とドリフト!十数回女の車の周りをドリフトで回転した上に停車。さうすると女の方からメモを車越しに渡して呉れ、携帯の番号をゲット♪普段小川欽也や珠瑠美や新田栄や十本中八、九本の何時もの関根和美の映画や・・・(以下略)ばかり観てもゐる日常ではあるが、これ程頭の悪いシーンには、久方振りにお目にかかつた。
 ヤクザ親分役の我等が千葉ちやんは、まともに体を動かすアクション的な見せ場は全く皆無なものの、流石の貫禄を披露。見るからにゴッドファーザーな洋装で登場するも、ここはいつそのこと、判り易い着流しといふのも見てみたかつたやうな気もする。
 何処に出て来たのか本当に判らない中川翔子は兎も角、カメオ勢の中で最も健闘したのは、深夜の立体駐車場を占拠して繰り広げられるドリフト・レースの、スターター役として登場の妻夫木聡。煙草を咥へて悠然と登場すると、左右の「レディ」役と「セット♪」役のビッチをそれぞれ指先を回しながら示し、自身の台詞は「GO!」の完全なる一言のみ。予告でもさんざ使はれ倒したシーンである。出番は全くそのカットのみ。妻夫木聡の役者人生の中で、今後一切越えられないベスト・アクトであらう。少し声を荒げると途端に声の割れてしまふ、発声の全くちやんとしてゐない役者といふ奴を、個人的には全く評価しないものである。

 一作毎に車とレースの種類とを変へてみせる、といふシリーズ・コンセプトに三作目にして最大の特化をしてみせた点は非常に高く評価出来るが、逆に、もしも再び作るならば次回作はどうするのか、といふ点は非常に足りない頭を悩ませるところであるのかも知れない。F1に進化でもしてみるか?監督はレニー・ハーリンで。


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 関根和美の2001年の旧作「痴漢電車 ぐつしより下唇」(脚本:関根和美・小松公典/撮影:柳田友貴大先生)を観に行つた。既に感想も書いてある。感想を書いた際の時点で、故福岡オークラで数度観てゐる映画である。今回で、人生通算では四~五度目にならうかとは思ふ。いきなり実も蓋も無い結論を述べてしまふと、ハッキリいつて、さうさうといふかそもそも、何度と観る映画では全くない。一切ない。些かもない。一度途中で寝てしまはずに最後まで観通すことが出来たならば、それきりにしてしまつて完全に構はない映画である。寧ろ、寝落ちたままにしたとて、何程か喪ふものも、得損なふものがある訳でもない。既に述べてあるやうに、十本中八、九本の何時もの関根和美の中でも、底の方に位置する一本である。ルーチンワークの極みにある一本である。
 さうはいひつつも、そんな「ぐつしより下唇」をスルーしようとは、欠片も思はなかつた。のんべんだらりとしかしてゐない関根の旧作を、私は普通に観たくなつてゐた。いとほしくすら感じ、いとほしく観に行き、いとほしく観て来た。
 幾度繰り返し観ようと、新たに得るところのものなど無いことは、勿論とつくに初めから判つてゐる。“ラブキング”章吾(中村拓)の奸計に陥れられ、美咲(小泉未貴)と結ばれる筈が痴漢の汚名を着せられた植草教授、もとい聖二(山崎岳人)が、拡声器片手に章吾と美咲とがセックスするホテルの部屋に突入するクライマックス。そのシーンに、既に遥か彼方に通り過ぎられてしまつた昔のこととはいへ、未だ祭りの季節忘れじ、な関根和美の頑強な活動屋魂が発露、してゐよう筈もない。私はそこまでアクティブな映画の観方をしはしないし、又するべきでもないと思つてゐる。
 詰まるところ、初めから詰まらないと判つてゐるピンクをノコノコ観に行つて、勿論詰まらないままに、それでもいとほしく観て来たのである。それは福岡オークラを喪つてしまつたことによる、だらしのないセンチメンタリズムであるのかも知れないが、なほのことそれでも構はないと思ふ。ルーチンワークであらうと何時もの関根和美であらうと、ゴミ映画クズ映画Z級以下のカス映画であらうと、今は一本一本のピンクが、それでもいとほしくて仕方がない。といふか、逆からいへばそれでも荒木太郎は観る気がしないのか?
 詰まらない映画は詰まらない。出来の悪い映画は出来の悪い。ヤル気が全く感じられない映画には、矢張り全くヤル気が感じられない。全くヤル気が感じられないとまでいふのは、流石に今作に関しても言ひ過ぎか。少なくとも脚本には、起承転結を手際よく纏めた、娯楽映画の正統への誠実な志向が感じられる。それも些か褒め過ぎかも(爽)。全篇を通してボーン・トゥ・ビー・ルーズな演出と、全く蛇足としか思へない大オチとが一切を台無しにしてしまひはするが。とはいへ、加藤義一に撮らせてみたならば、もつと幾らでも面白くなつたやうな気もしないではない。
 話を戻すと、私は決して、もしくは私とて、今作に何程かの価値を見出さうとしてゐる訳ではない。今作を、ストレートな凡作といふ謗りから救ひ出さうとしてゐる訳でもないことだけは、ここに声を大にして言明しておく。私が感じたいとほしさは、所詮私の気の迷ひに過ぎないことは、最初から、そして最も判つてゐるつもりである。その上でなほ、それでもいいのではないか。それはそれで、それでもいいのではないか。
 久々に繰り返すが、当サイトが推奨するピンク映画の観方とは。つべこべいはず、番組が変る毎自動的に、兎に角黙つて百本観るべし。話はそれからだ、といふものである。映画会社や監督の名前で映画を掻い摘んで、それはそれとして巨大なピラミッドの一角のみを、それなりに広大な大海の上澄みだけを掠め取るやうな真似は詰まらん。ミニシアターで一般公開もされるやうな映画や、レイトショーで特集上映を組まれるやうな映画だけを観て、それがピンクか。何をかいはんや。冗談ではない。冗談ではない。冗談ではない。
 どうやら映画の撮り方を根本から忘れてしまつたらしい瀬々敬久の、全盛期の文字通りの圧倒の凄まじさに関しては、ここで出遅れるにも甚だしい私如きの論を俟つまでもなからう。それはひとつの頂点であり、絶対である。当サイト絶賛の、山邦紀の最強。観客の全てを翻弄して狂ひ咲く変幻怪奇と、実は的確にそれを統べる冷徹な論理。超絶のデビュー作から四年、未だVシネに下野したままの城定秀夫の必殺。当たり前を当たり前のやうに撮る。表面的には見えにくいけれども、実は最も確かな技術が要求されるフィールドにプロフェッショナルとしての良心を賭ける、古くは伊藤正治や中村和愛らの、忘れ去られるにはあまりに惜しいエクセスの沈黙する宝石達。最近では再び登場、オーピーの若きエース格・加藤義一。燦然と輝く巨星、超新星、キラ星達。それらは勿論素晴らしい。それはそれで勿論いい。その上でなほ。
 「ぐつしより下唇」。今作のやうな純然たるやつつけ仕事に対してさへ。時にいとほしくていとほしくて仕方のない時もある。仕方のない者もゐる。ハチャメチャな自己紹介をするが、私のハンドルは、(近代)ドロップアウトカウボーイズである。何故に単身一個人であるにも関らず、“ドロップアウトカウボーイ”ではなくして、あくまで複数形なのか。もしも仮に万が一、この世界、即ち近代の中で、ただ独り私のみが近代的個人になり損ねた不完全な存在であるならば、元より欠片の値打ちも無いこの命、何時でも強制終了させて呉れる。晴れ晴れと、些かも自慢にならない手柄として、この命と引き換へに不完全な世界を完成させて呉れる。が幸か不幸か、私はそれ程特別な人間ではない。残念ながら、私の不完全さは完全であり、何事か特殊なものですらない。平々凡々たる不完全さである。それ故の、あくまで複数形の“ドロップアウトカウボーイズ”なのである。
 かつて中原昌也は、ティム・バートンを評してかう言つた。「ティム・バートンは、心のさもしい人間のための映画を撮り続ける」。当該書籍が、引越しをしたきり(越したのは二年半前以上前であるが)何処に箱詰めしたのか判らなくなつてしまひ出て来ないので、正確には細部に差異があるやも知れぬ。ともあれ。くどいやうだが、今作のやうな、純然たるやつつけ仕事。あくまでひたすらに、それでも番線を支へ続けて来たこと以外にも、心の貧しい者の為の貧しい映画。さういふものも、時にあつてもよいのではないか。埒の明かぬいとほしさの果てに、戯れにさういふ一層埒の明かぬ結論に達してしまつた。心の貧しい者の為の貧しい映画。さういふ映画ばかりでも、困つてしまふが。


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 「ヨコハマメリー」(2005/企画・製作:人人フィルム/監督・構成:中村高寛/出演:永登元次郎・五大路子、他)。
 顔は白粉で文字通り真つ白に厚塗りし、身に纏ふのはヒラヒラの沢山付いたお人形さんのやうなドレス。年齢も本名も初めから定かではないが、腰の折れた老婆にしてなほ、現役の街娼として横浜の街に立つ伝説の娼婦“ハマのメリーさん”。戦後五十年、横浜の街に立ち続けた一人の女は、1995年冬、不意に姿を消す。
 もう一度、メリーさんの前で歌ひたい。末期癌に侵されつつ、執念にも似た特別な感情でメリーさんの姿を捜し求めるシャンソン歌手・永登元次郎(2004年逝去)。今作は永登を始めとする、メリーさんゆかりの人々へのインタビューによつて綴られたドキュメンタリーである。単に一人の街娼であることを超え、ひとつの喪はれた風景を、ひとつの通り過ぎられた歴史すらをも体現するに至つた女の物語である。
 世間が未知なる、そして無知なるAIDSウイルスに過剰に反応してゐた頃。既に老婆ではありながら、街娼であるメリーさんは勝手にAIDS患者のレッテルを貼られ、出入りするカフェーや美容院では、他の客からの排斥の対象となつてゐた。カフェーはメリーさん専用のコーヒーカップを用意することで対応したが、メリーさんが通つてゐた美容院は、終にメリーさんに来店を拒否した。
 メリーさんが常時も白粉を買つてゐた化粧品店の女主人は、メリーさんとのその頃の思ひ出を語つた。ある日デパートでメリーさんを見掛けたのでお茶にでも誘つてみたところ、シッシッとあつちに行けとでも言はんばかりに冷たくあしらはれた。帰宅後、店では普通に会話もするのに今日はどうしてあんなに邪険にされなくてはならないのだらう、と夫に愚痴をこぼしたところ、夫からはお前は世間を知らない、と怒られたといふ。他の人目もあるところで自分と仲良くしてゐては、女主人も街娼の仲間かと世間からは思はれてしまふ。だからこそその場では邪険にしたのだ、といふのである。ストレートに泣ける。はみ出し者の、やさぐれた心遣ひに胸が打たれる。この件を観るだけでも、今作は絶対に必見である、と言ひたいところではあつたのだが。

 フィルムで撮れ。

 キネコの安さが一目瞭然の、呆ける焦点。滲む色合。少し強い光は無様に白トビする。品の無い画面に、正確にいふと品の無い画質に、伝説の偽りのない美しさに素直に浸ることを最後まで妨げられた。
 伝説の娼婦とはいふものの、メリーさんは要は<年老いたホームレス>に過ぎないこと等も語られつつ、ヨコハマメリーの伝説は今作を以て完結する。といつてメリーさんの死が語られるといつた訳では決してないが、ヨコハマメリーの伝説は完全に終了する。かつて時空を超えて飛翔した伝説はロマンの翼を失ひ、現実の地べたの上に着地する。ただそれは、決して悲しいことではない。その着地は暖かく穏やかで、一人の人間の人生としてはこれで全く良かつたらう、と思はれるものであつたからである。

 ラストシーン。現実に着地してなほ、伝説は美しさを放つ、ところだつたのに。何が人人フィルムだ。人人テープに改名しろ。伝説への敬意が足りぬ。


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 「ウルトラヴァイオレット」(2006/米/監督・脚本:カート・ウィマー/出演:ミラ・ジョヴォヴィッチ、キャメロン・ブライト、ニック・チンランド、ウィリアム・フィクトナー、他)。
 21世紀末、軍の研究課程に於いて全く新種のウイルスが発見される。このウイルスに感染した人間は、知能、身体能力が共に驚異的に発達し、超人間“ファージ”と呼ばれた。ファージの高過ぎる能力に恐れを抱いた人間政府はファージの撲滅を開始、僅かに生き残つたファージは地下に潜り武装組織として先鋭化、両者の間で苛烈な戦闘が繰り広げられてゐた。
 ファージを根絶する最終兵器が開発されたとの報に、ファージは最強の戦士を送り込む。彼女の名前はヴァイオレット(ミラ)。感染者の夫と身篭つてゐた胎児とを人間政府に奪はれたヴァイオレットの人生には、最早復讐の二文字しか残されてゐなかつた。死闘の末、最終兵器の強奪に成功するヴァイオレット。秘密のベールに隠された兵器の正体は、九歳の少年・シックス(キャメロン・ブライト)であつた。人間への憎悪と、全てを復讐に捧げた今となつても矢張り残されてゐた母性との狭間で、ヴァイオレットは逡巡する。
 三ヶ月早く公開されたアメリカからも兎も角、後に詳しく触れるが兎に角芳しい評判を殆ど全く耳にしない映画である。カート・ウィマーの前作「リベリオン」(2002/主演:クリスチャン・ベール)に関しては、アメリカでは矢張りサッパリであつたが、少なくとも日本ではそれなりに好意的に迎へられてもゐたやうな記憶もあるのだが、今作は洋の東西を問はず、それこそケチョンケチョンの感がある。
 確かに私も、「ウルトラヴァイオレット」がよく出来た映画であると申すつもりは全くない。素晴らしい映画であるだなどと、口が裂けても言へない。だが然し。臆面も無く言ふが、私はこの映画が大好きである。大絶賛は断じてしないけれども、大満足である。「ウルトラヴァイオレット」には私に大好きであると言はしめるサムシングがある・・・のか、それとも彼我の映画の観方に何か本質的な差異があるいはあるのか、そのことを確かめに、二回観に行つたものである。果たして、答へは見付かつた。
 ケチョンケチョンの中身は、大体以下のとおりである。全部挙げて行けばそれこそキリが無いので、大まかなところで止める。曰く、最終兵器を強奪して逃走するヴァイオレットの、重力を自在に操作してビルの壁面を走行するバイクと攻撃ヘリとのチェイス・シーン(主に)のCGが、ゲーム画面以下にショボい。曰く、SF的世界観が殆ど全く蔑ろにされたまま、お話が安易な「グロリア」ものに収束してしまつてゐる。大体、凡そは吸血鬼のやうな存在である、らしいファージの基本設定は何処に行つたのだ(設定の中では、ファージは高ポテンシャルの代償に、血液中の赤血球がウイルスに侵食されてしまひ、定期的に血液を補給しなければならず、感染後十二年の生命、らしい>この辺りは本当に等閑にされてしまつてゐる)。曰く、ただでさへ安易な「グロリア」ものの中で、更に三十分鋏を入れられてゐるからかどうかは兎も角(公開尺は87分)、人間ドラマがハチャメチャ。序に下線部に関しては、他に四次元ポケットの要領で武器が無限に都合よく出て来る、次元圧縮テクノロジーなるトンデモ・ギミックも全篇を通して登場する。これは画面的にはカッコいいが。
 確かに、これらの指摘はどれも全くその通りである。全く異論を差し挟む余地は無い。ただその上で、私が思ふのは。私はこれまでも、往々にしてさういふ映画の観方をして来たやうな気も改めてみるとして来るが、今回初めて、意識的に明確に言葉にした形で認識するに至つた。必ずしも須くさういふ態度を取るべきである、だなどとは決して申すつもりはないが、かういふ映画は、あそこが駄目だここも駄目だ、といつた風ないはゆる減点法、を以てして観るべきではないのでなからうか。
 かういふ映画といふのは、「ウルトラヴァイオレット」はSF映画でもなければアクション映画でもない。勿論感動ドラマの類では更に一層ない。それでは何なのかといふと、「ウルトラヴァイオレット」は、ガン=カタ映画である
 一応改めて御説明するが、ガン=カタとは、「リベリオン」に於いてカート・ウィマーが考案した架空の戦闘術で、最も基本的には、二挺拳銃の操射法である。説明原理としては、第三次世界大戦までの銃撃戦の戦闘データを統計学的に分析。敵の撃つて来た銃弾の射線を回避し、(ガン=カタ)使用者の発射する銃弾を確実に命中させる為の動作体系である。拳銃の他に、刀剣や何でもいいから打撃物を用ゐる場合もある。西洋から生まれた銃の技術と、剣道、功夫といつた東洋武術とを融合させた無敵の「型」であるとされる。判り易く大雑把に、実際にガン=カタが使用されてゐる状況を説明すると、使用者が細かいカット割りで囲まれた多数の敵の中をクルクルと、あるいはヒラヒラと舞ひでも踊るかのやうに移動する。すると敵の攻撃は使用者には何故か(全く)当たらず、一方敵はバタバタと次々に倒されて行く。最後ガン=カタ使用者が締めのポーズを決めると、周囲は哀れ死体の山、といふ寸法である。「リベリオン」以降多くのジャンル、数々の作品に如実な影響を与へた、アクション映画に於ける決定的かつ画期的な新機軸である。
 今作に於いては、勿論ヴァイオレットがガン=カタを使用する。カート・ウィマーが、ガン=カタの出て来ない映画なんぞ撮る筈がない、と信じたい。尤も、ヴァイオレットだけではなく、卓越した身体能力を活かしてファージは皆ガン=カタを使用するやうでもあるが。最も明示的にガン=カタを使用し、なほかつ最強の使ひ手はヴァイオレットである。
 クリスチャン・ベールのガン=カタと、ミラ・ジョヴォヴィッチのガン=カタ。力強さの面で劣つてしまふのは当然である。アクション面では「ウルトラヴァイオレット」は「リベリオン」よりも後退してゐる、と論じる人もあるが、私は必ずしもさうは思はない。といふか、そもそもがさういふ立論は間違つてゐる。繰り返すが、「ウルトラヴァイオレット」はアクション映画ではない。ガン=カタ映画である。ならばガン=カタ面の上では「ウルトラヴァイオレット」はどうなのか。今ここで「リベリオン」を同じく銀幕で再見してみた場合に、果たして何れに優劣をつけるのかは自分の中でも全く見当がつかないが、「ウルトラヴァイオレット」のガン=カタは些かも見劣りはしない。確かに、表面的な力強さやあくまでフィクションの中での説得力、といつた面に注目するならば、クリスチャン・ベールのガン=カタの方が優れてもゐるのかも知れない。が元より、改めてわざわざ断るまでもなく、ガン=カタとは何程かの実効性が云々される類の代物では全くなく、決定的かつ画期的な、アクション・シークエンスに於ける新しい記号である。その上でミラのガン=カタは、美しい。兎に角美しい。文字通り、流れるやうな麗しさである。ミラのファイトシーンは全部で九シーンあるが、中でもクライマックスの、敵の本部の資料室でのガン=カタ・シーンが最も素晴らしい。蔵書室のやうな部屋で、カッコいい衣装とサブマシンガンの、弾倉に更に刀が付いた武器をキメたヴァイオレットが、数十人の重武装の兵の間を華麗に舞ひ、目にも留まらぬ電撃で鮮やかに撃ち倒して行く。
 公式サイトやインタビューでの、私はどれだけこの映画の撮影に際して訓練して来ました、といつた発言の類ほど当てにならぬものもないが、そこはそれ。「バイオハザード2」では、誰しもがCGだと思ひ込んでゐたビルの壁面を走り降りて来るシーンに於いて、実は実際にワイヤーに吊られて壁面を走つてゐたミラ姐さんである。余計な格好をつけずにしつかりスタントも使用しつつも、ミラも十分に動く。誰とは言はないがシャーリーズ・セロソのやうなナメた真似はせずに、少なくともガン=カタ映画として全く遜色が無い程度には十分に動いて呉れる。加へて、ヴァイオレットが次から次へとファッション・ショウの如き感覚で変へるカッコいい衣装が、どれも似合ふこと似合ふこと。トップモデル出身は伊達ではない。ミラ・ジョヴォヴィッチ最強のウェポンである。最早百点満点としか言ひやうがない。少なくとも個人的には。
 先に述べた、かういふ映画は減点法で観るべきではない、といふのはさういふ意味である。ガン=カタ映画として、とりあへずガン=カタは満点だ。それならばそれでいいではないか。さういふ態度も、時にアリではないかと考へる次第である。そこから先の瑣末がそれでも気になるのならば、そもそもがカート・ウィマーの映画なんぞ観に来る方が間違つてゐる。ただカート・ウィマー、一本の物語を全うに整合させることが出来ないといふ致命的な弱点を抱へつつも、それでも要所要所では、キチンとエモーションを描かうとする志向性と、真つ直ぐな感性とを有することだけは感じる。

 どうでもいいが、ウィキペディアのガン=カタの項で、映画のオマージュ作の中に「ウルトラヴァイオレット」が含まれてゐるのは如何なものか。考案者の撮つた、文字通りの本家だぞ。


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 「デス・トランス」(2005/監督:下村勇二/脚本:加藤淳也・藤田真一・千葉誠治・下村勇二/アクション監督:坂口拓/衣装・キャラクターデザイン・オリジナルコミック:武内香菜/出演:坂口拓・須賀貴臣・剣太郎セガール・竹内ゆう紀・藤田陽子、他)。
 ゴスな空気(あくまで本来のゴシック様式ではない)が流れる、銃と刀とが同居する何時かの時代の何処かの国。東の寺に数百の僧兵と呪術とによつて守られた、全ての願ひ事を叶へて呉れるといはれる伝説の棺。その棺を、たつた一人で強奪した男、“棺の男”グレイヴ(坂口)。グレイヴは棺を引き摺り、魔物が棲むといはれる西の禁断の森へと向かふ。同じく棺を狙ふ、基本ガンマン(刀も抜くが)のシド(剣セガ)、棺に隠された秘密を知る謎の女剣士・ユーリ(竹内)、ただ一人寺の外に出てゐた為生き残り、今際の間際の大僧正から“神壊刀”を譲り受け棺奪還の命を受けた僧、見習のリュウエン(須賀)らも交へ、伝説の棺を巡る死闘がスタートする。
 要は、世界の命運を握るアイテムを巡り何処かの森の中で人外な強者共がエンドレスな死闘を繰り広げる、といふプロットは下村、坂口共の出世作、「VERSUS」(2000/監督:北村龍一)と全く同一である。設定とキャラクターとの紹介を手短に済ませると、さつさと暴走アクション。済ませない内から過剰アクション。何はともあれ延々アクション。ところでそんな(いい意味で)底抜けアクション映画に、脚本で四人も名前を連ねてゐるのは何の冗談だ?関根和美が時にさういふマジックを仕掛けもするが。
 口が裂けても素晴らしい、だとか良く出来てゐる、だなどと申すつもりはないが、面白かつた。滅法面白かつた。箍の外れ切つた予告篇を観て「ウヒョー♪何だこれ !?絶対観たい!」、とバンザイした知能の発育の不自由な観客の期待に応へて更に火に油を注ぐ、正しくエクストリームな映画である。
 人並み外れた強さを誇る、“棺の男”クレイヴを演ずる坂口拓の強さは、譬へてみるならば不良マンガに出て来るケンカ番長。兎に角殴る。相手より一発でも多く殴る。相手が倒れるまで殴る。倒れても殴る。とりあへず殴る。兎に角走る。相手よりも速く走る。逃げる相手を追ふのに追ひ抜いてしまつては意味が無いのだが、それでも相手を追ひ抜いて走る。捕まへることよりも、どちらの足がより速いのか、そつちの方が最早重要だ。とりあへず走る。差した刀も抜かずに、鞘のままブルンブルン振り回す。金属バットか棍棒とでも勘違ひしてゐるかのやうに、鞘のままの刀でボコンボコン殴る。
 なにせ番長だから型は出鱈目だし、台詞を喋らせてみると坂口拓は何時まで経つてもちつとも上手くならないのだが、見得を切らせると一流。ここぞ、といふ場面でキッチリ映画全体の色を自在に操る辺りは、スターといふには少々心許ないが、ヒーローたるには十分な貫禄である。これまでは好きな俳優は誰かと問はれれば、日本人では小沢仁志の馬鹿の一点張りで通して来たが、これからは坂口拓の名前も挙げよう。ピンク勢だと、「淫行タクシー ひわいな女たち」の土門こと町田正則、宮あおいの「初恋」で一般映画にも殴り込む若手ナンバーワンの松浦祐也、御存知なかみつせいじ・・・キリが無くなるので止める。
 謎の女剣士・ユーリを演ずる竹内ゆう紀も、特技は殺陣(@公式サイトより)といふのは何処まで鵜呑みにしてよいものやら判らないが、十二分に健闘してゐた。気孔なのか何なのか、刀を合はせたところから体勢を一切変へずに相手だけを弾け飛ばす技は、飛ばされてゐる方が上手いのだ、といつてしまへばそれまでかも知れないが、ちやんとユーリが強く見えた。当たり前のことを言つてゐるやうに思はれるかも知れないが、アクション演出に於いて“強く見える”といふことは案外と難しい、実は重要なポイントである。
 ザコキャラ相手以外には、剣太郎セガールが殆ど使ひ物にならなかつたのは残念。須賀貴臣を一貫してヘタレとして描いたのは正解。
 トンファー型銃、何処からそんな大きな物出して来たんだ !?な組み立て式バズーカ砲、等々ツッコミ上等なカッチョ良いアクション用ギミックは満載を通り越して過積載。クレイヴがトンファー型銃を使用する二人の忍び(?)と戦ふシーンは、完全に相方に当たつてゐる以前にクレイヴも全く避けてゐるやうには見えないのだが(それは矢張りガン=カタ !?)、これでいいのだ!映画に於いて最も必要なもの、それはエモーション。それ以外はひとまづさて措く。細かいことをガタガタいふな、黙つて震へろ。作り手の鮮やかな潔さに、こちらも謹んで心を差し出す。
 西の禁断の森で数百のゾンビ(?)軍団に囲まれたクレイヴが、「キリが無え、抜くか・・・」、とそれまで鞘のまま殴る棒としてしか使はなかつた刀(?)を遂に抜くシーンはウルトラ必見。今年公開される全てのアクション映画の中で、最も重要なショット・・、かなあ?>知らねえよ>>いや、きつとさうだ。さうに違ひない。震へる。
 終に伝説の棺が開くラスト、それまではあくまで何処まで遠くに行かうとも「VERSUS」の延長線上にしかなかつた映画が、急に様相をガラリと変へる。更に加速した「阿修羅城の瞳」、あるいは極彩色の「デュエリスト」。ところでそれは褒めてゐるのか?まあ、さういふ細かいことは言ひない。予告を観て、「これは !?」、あるいは「これだ!」と思はれた諸兄は必見である。

 水曜日のレディース・デーに観に行つた、といふこともあるのかも知れないが、外連全開のアクションはつちやけ映画にも関はらず、私以外の十人前後の客は、何故だか全員女だつた。あれは何か、主題歌を担当したDir en greyの客の腐女子か?といふか野郎共は何をしてゐる。女に観せておく映画ではないぞ。


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初恋  


 「初恋」(2006/監督:塙幸成/脚本:塙幸成・市川はるみ・鴨川哲郎/原作:中原みすず/主題歌:元ちとせ『青のレクイエム』/出演:宮あおい・小出恵介・宮将・小嶺麗奈・柄本佑・青木崇高・松浦祐也・藤村俊二、他)。
 昭和43年12月10日、日本信託銀行(現:三菱UFJ信託銀行)国分寺支店から東京芝浦電気府中工場に工場従業員へのボーナスとして現金輸送車で輸送中の現金三億円が、白バイ警官に偽装した何者かによつて強奪された、いはゆる府中三億円強奪事件。昭和50年公訴時効が、昭和63年に民事時効すらもが既に成立したこの事件は、日本犯罪史上最大のミステリーと呼ばれてゐる。今作は府中三億円強奪事件の実行犯は、当時18歳の女子高生であつた、とする中原みすずの同名小説の映画化である。初めにお断りしておく。私は原作小説は全く素通りしてゐる。以下はその限りに於いて述べるものである。
 兎にも角にも予告篇がヤバい。正確にいふとヤバかつた。草むらの中に停めた黒塗りの現金輸送車を前に、背中を見せて立つ偽白バイ警官。予告篇の締め括り、ヘルメットを脱ぎ頭を左右に振ると、纏めてあつた豊かな黒髪が零れる。そこに被るモノローグ、“あなたとなら、時代を変へられると信じてゐた”。少女は、初恋の相手と時代を変へる為に、三億円を強奪したのだ。そんな物語に、心がときめかない訳がない。震へない筈がない。
 内向的で孤独な少女、みすず(宮あおい)。幼い頃、兄だけを連れて出て行つた母親に捨てられたみすずは、叔母夫婦の家に引き取られてゐた。とはいへ叔母家族とも打ち解けず、学校にもみすずの居場所は無かつた。
 ある日学校帰りのみすずの前に、幼い頃離れ離れになつて以来の兄・亮(宮将@宮あおいの実兄)が不意に現れる。俺は此処に居る、と渡されたマッチを頼りにジャズ喫茶・Bを訪れるみすず。初めて足を踏み入れる夜の街、退廃的な店内の雰囲気にみすずはすつかり呑まれてしまふ。亮の仲間の一人で、仲間の輪からは離れて独りランボーの詩集に目を落としてゐた東大生・岸(小出)が、冷たく言い放つ。「子供が何の用だ」。みすずはおどおどと、然し決然と言ひ返す、「大人になんか、なりたくない」。
 みすずはBに居付くやうになる。時代は荒れてゐた。ある日、仲間の一人・ヤス(松浦)がデモの最中機動隊員から暴行を受け、半身不随の重傷を負ふ。敗北感に打ちのめされる仲間達。そんな中岸は、かねてから温めてゐた計画にみすずを誘ふ。三億円を強奪する、当然当惑するみすず。岸は言ふ、「お前が必要なんだ」。その一言に、みすずは心を動かされる。“あなたとなら、時代を変へられると信じてゐた”。少女は信じたのだ。
 結論からいふ。場内は賑つてゐた。今時の観客にはこの程度でも十分満足出来るのかも知れないが、個人的には全く不満であつた。宮あおいは、今回も宮あおいが内包してゐる筈のエモーションに見合ふ演出力には巡り会へなかつた。「ギミーヘブン」の、何かの間違ひのやうなラスト五分(だけ)は除く。常時ものいひ方をすると、相変はらず1980年代以降のラインのこちら側で安穏と手をこまねいてゐる映画であつた。何で塙幸成はかくもエモーショナルなプロットを手にしてゐながら、ずつとギアをニュートラルに入れ放しで映画を撮るのか。塙幸成がニュートラルぶりを最も露呈するのは、正に三億円強奪の実行シーン。降り頻る雨に阻まれ、みすずは計画されてゐたスケジュールを超過する。間に合はない。みすずは天を仰ぐ。何だよ、結局変へられないのかよ・・・・・。次のシーン、カットが変ると唐突に再び偽装白バイを走らせてゐるみすず。何故そこで、一旦諦めかけてしまつたところから、世界なんて矢張り変へられないんだと絶望したところから、否、違ふ。と再び心を、世界を振り切るシーンを挟まない。
 現にこの二千年、キリストがユダに売られたところから半歩も変はりはしなかつたこの世界、即ち近代。何も変はらなかつたぢやないか。そんなことはクズにでも言へる。結局変へられないのかよ、そんなことは腰抜けにでも言へる。何も変へられやしないことなど、最早初(はな)から判つてゐる。変はらないからこそ変へるのである。変はらないと判つてゐるからこそ、なほのこと変へようとするのである。人間の自由意志とは、さういふことである。その自由意志こそが、たとへ儚い敗北にしか通じてゐないとしても、エモーションの要であらう。何だよ、結局変へられないのかよ・・・・・。そこから、否、違ふ!と、変へるつたら変へるのだ、と再び折れた心を奮ひ立たせるシーンは絶対に必要なのだ。
 挙句再び走り始めたみすずの前に、これ又都合良く遅れてて呉れた現金輸送車がプラッと姿を現す。「嘘・・・」、とみすず。何だそりや。一応にしか単車を走らせない一連の実行シーンに、スピード感も緊迫感もまるで皆無な様も甚だしい。
 事件の後、岸は姿を消す。そこからエンドロールまで、映画は岸を失つたみすずの喪失感のみをちんたらちんたらと描く。宮あおいがスクリーンに映し出されてゐるだけでうつかり首を縦に振つてしまひさうにもなるが、正気を戻して思ひ留まる。初恋の相手が何処かに行つてしまつた喪失感もそれはそれでひとつのエモーションではあらうが、ところで世界を変へられなかつた敗北は何処に行つた。何も私は、現実的な敗北をスクリーンの中に観たい、などと申してゐるのではない。寧ろ真逆である。たとへどんなに不可避であつたとしても、現実的な敗北などスクリーンの中には見出したくない。美しくないものなんて、今既にあるありのままのこの世界で十分だ。ならば何が言ひたいのかといふと、今作のやうな無様な体たらくを晒すくらゐなら、正に全てを変へんとしてゐた高揚感の内に主人公が死んで行くニューシネマのやうなラストの方が、たとへその死がしばしばどんなに呆気なくとも、映画としては決定的に美しかつたのではないか、といふことである。

 宮あおい以外の主要若手キャストが、ほぼ全員見るに堪へない無様な醜態を晒す中(柄本佑が後の中上健次とはどういふ冗談だ?)、ピンクから殴り込んだ我らが松浦祐也は唯一健闘。踏んで来た場数から段違ひに違ふ。ハイライトに見合ふ芝居をしてゐたのは松浦祐也だけであらう。小嶺麗奈は雰囲気だけなら悪くなかつたが、少し声を張らせると途端に演技が崩れる。佐倉萌の名前がクレジットの中にはあつたのだが、迂闊にも確認出来なかつた。もう一度確認しに観に行く予定は全く無い。
 最後に、決して駄目な曲といふ訳ではないのだが、主題歌も頂けない。三億円事件の犯人の映画だぜ?主題歌といへば当然、ジュリーの「時の過ぎゆくままに」でなくつちや。


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 「幻の湖」(昭和57/製作:橋本プロ/配給:東宝/原作・監督・脚本:橋本忍/撮影:中尾駿一郎・斎藤孝雄・岸本正広/照明:高島利雄/音楽:芥川也寸志/特技監督:中野昭慶/ランニング指導:宇佐美彩朗/出演:南條玲子、隆大介、光田昌弘、長谷川初範、かたせ梨乃、テビ・カムダ、室田日出男、北村和夫、大滝秀治、北大路欣也、関根恵子、星野知子、ランドウェイ・KT・ジョニー、他)。特集上映の機会に恵まれたものであり、主演者中ランドウェイ・KT・ジョニーは、人ではなく犬である。
 原作・監督・脚本は「羅生門」で脚本家デビュー、その後「七人の侍」の共同脚本、「私は貝になりたい」、「日本沈没」の脚本等々で(かつては)その名を日本映画界に轟かせた橋本忍。従来配給会社主導で行はれてゐた映画製作に風穴を開けるべく、昭和48年自らの映画製作プロダクション・橋本プロダクションを設立。「砂の器」(昭和49/監督:野村芳太郎)、当時の配給記録を更新した大ヒット作「八甲田山」(昭和51/監督:森谷司郎/主演:高倉健)に続く橋本プロ第三作となる今作は、東宝創立五十周年記念作品として製作された大作である。因みに尺もたつぷり164分。
 も、映画は公開一週間で打ち切り。その後2003年にDVD化されるまで、一切のソフト化、TV放映もされなかつた、文字通りの“幻の映画”である。名画座等で、時に上映されることはあつたらしい。要は今回もさういつた類の催しであることに変りはないが、2003年のDVD化以降は、比較的広く人の目にも触れるやうにもなり、実際のところ、この映画のレビューといふとネットの中には山とある。
 “ネオ・サスペンス”と当時は謳はれた(何をかいはんや)この映画のストーリーに関して、“難解である”といふ言葉で語られることもある。因みにウィキペディアの当該ページ等がさうである。が、時空をも遥か飛び越えてストーリー展開がハチャメチャ、等と生易しいものでは最早なく木端微塵であり、なほかつ主人公の迸らせる情念は作劇法としては自殺行為とすら思へるくらゐに激越ではあるものの、決して今作は“難解”といふやうな高尚な代物ではない。単に壊れ果ててゐるだけである、空前絶後なまでに。私は橋本忍は、この映画の脚本を本当に走りながら書いてゐたのではないかと思つてゐる。ジョギング程度などではなく、例へばウルトラマラソンとか。
 ここに、三時間弱の破廉恥なまでの錯綜、をも通り越したある意味観客にとつての地獄巡りを最も簡略に掻い摘むことを試みる。「幻の湖」とはどういふ映画なのかといふと、堅気の銀行員との結婚が決まつて幸せを掴み掛けたトルコ嬢が、因縁ある男を刺し殺してしまふ物語である。さういふと(乱暴な括りにも程があるが)ATG映画のやうな、全く救ひの無いまでもどうしてだか人の心を惹き付けて已まない物語のやうにも思へて来るが、勿論そのやうな甘美な映画ではなく、東洋的無常観ないしは不条理、がテーマなのだと作つてゐる側はさういふつもりなのかも(ひよつとすると)知れないが、私は哲学をさういふ方便に用ゐるのはよくないと思ふ。まあ一言で片付けてしまへば、壮大といへば壮大ではあるが、壮絶な失敗作である。橋本プロ(存続してゐるのか?)の第四作は、目下終に製作されてゐない。今作によつて完全にキャリアに水を注されてしまつた、といふか自ら止めすら刺してしまつた橋本忍は、以後数作の脚本を僅かに手掛けるばかりで(しかも不評を博す)、死んではゐないらしいが表舞台からは完全に姿を消す。
 先にも述べたが、「幻の湖」には展開を一から十まで逐一追つたレビューが既に多数存在する。重ねて私が申し上げることは、最早残されてはゐない。ただ何故にさういつた諸先達の仕事が、三時間弱の地獄巡りにも似た長尺を一々逐一追はなければならなかつたのかといふと。映画の定型文法を軽やかにではないが清々しいまでに全否定した、ストーリー展開といふ名のこの映画のバッドトリップからは、取捨選択しようと思へば個々のエピソードは幾らでも省いて行ける。が、此処は横道、あそこは過剰と本筋に関係しない部分、あるいは逸脱が過ぎる部分を取り除いて行つたならば、最終的には何も残らなくなつてしまふやうな気がする。兎にも角にも、素面の論理といふ奴が一切通用しないのだ。その為、一度手を付けようと思つてしまつたならば、無間地獄を完トレースする羽目に陥つてしまふのではなからうか、と見るところである。
 個人的には、昭慶先生の特撮は普通に目当てにしてゐたものであつたが、本当にオーラスにチョロッとしか出て来ない以前に、ショ、ショぼい・・・・・(泣かうかな)。スペースシャトルの耐熱タイルは一枚一枚再現した、といふがそんなの別に判らないしどうでもいいよ。矢張り昭慶先生は、物を大爆発大炎上させないと駄目なのか>さういふことでもあるまい
 後、南條玲子を脱がせるくらゐなら、どうして同じくトルコ嬢役のかたせ梨乃を脱がさない。かういつたところに、映画作家としての良心の有る無しが現れる>違ふことも歪んでることも判つてるから
 ただ、かたせ梨乃の最後の出演シーンは、類型的ではあるけれどもよく撮れてゐて、この映画の中で殆ど唯一普通に評価出来る、カッコいい名シーンである。トルコ嬢としての南條玲子の源氏名は“お市の方”、かたせ梨乃は“淀君”。お市の方が足を洗ふに当たつて、それまで反目し合つてゐたにも関はらず、淀君は餞別にとお市の方に、殺されてしまつた愛犬の代りの犬を客経由で紹介する。どうしてこんなことをして呉れるの?と尋ねられた淀君は、「私は淀君、あんたはお市の方。たまには親孝行でもしとかないとね」。そんなハクい台詞を決めると、わざわざそんなところにまで呼び出した草むらにお市の方を一人残し、淀君は待たせておいた黒塗りの車でカッコよく去つて行く、といふロング・ショットのシーンである。かたせ梨乃の元々持つ抽斗にも上手く合つてゐる。

 DVDの画質がどれ程のものであるのかは与り知らぬが、今回の上映プリントは、あまり以下に状態の良いものではなかつた。


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 中程度以上にくたびれ果ててゐたところ、寝耳に濃硫酸でもブッカケられたかの如き衝撃情報に慌てて、取る物もとりあへず緊急出撃したのも束の間、とつとと止めを刺されてしまつた。ピンクスとしての私のフランチャイズ、福岡オークラ劇場は来月の末をもつて閉館してしまふ、これはノー・エスケープな事実である。福岡オークラで観ることの出来るピンクも、残り十五本。話は反れ気味になるが、かうして吹かれなくても消し飛んでしまふやうな駄サイトを細々とシコシコ続けてゐると、偶に掲示板に見ず知らずの方からの書き込みが、殊にそれがピンクに関するものであつたりすると、柄にもなく嬉しくなつてもしまふものである。が、流石に今回ばかりはネタがネタだけにちつとも嬉しくなれない。
 正直なところ、「危ないな」といふ危機感ならば兎も角、「大丈夫か?」といつた心配に毛を生やした程度の、漠然とした不安ならば無い訳でもなかつた。とはいへ、唐突過ぎる、早過ぎる。今は、少なくとも今は未だ、俺にはピンクが必要だ。
 私がかうして、ピンクは観ただけ全部感想を書く、と小川欽也にも珠瑠美にも新田栄の映画にも一々感想を書いてゐるのは、何も放つておけば消え行き、あるいは逝きつつあるピンクを憂へてでも、このサイトを通してお一人でも多くの方々にピンクを観て貰ひたい、だなどといつた大それたことでもひとまづない。そもそもきつかけが何であつたのかは今となつては定かではないが、前世紀末頃から他に何もすることがない私がどういふ訳でだか首をドップリ突つ込んで、最早ほぼ抜けなくなつてしまつたピンク映画といふジャンルは、放つておかれなくても殆ど誰からも省みられずに、通り過ぎ忘れ去られて行つてしまふジャンルではあらう。現に、私が最も愛した映画「淫行タクシー ひわいな女たち」(2000/監督:関根和美/脚本:金泥駒/主演:佐々木基子・町田政則)は、その憂き目にドンピシャで遭つてゐる。ならば、金も力も、序に色男もありはしないのだが、暇だけは作れば何とかなるので、どうせならば国映勢だけ掻い摘むやうな洒落臭い真似などせずに、十本中八、九本の関根の凡作にもエクセスの単なるエロ映画にも最早苔すら生えないやうな旧作改題にも、かうして一々感想を書いてゐる次第である。己の人生の面倒も満足に見れないやうなドロップアウトの分際で、どの面下げて状況に関心を持てようか。小生はそこまでおこがましくも厚顔無恥、無知でもない。
 これで、六月からは奇跡が起つて新しい小屋でも出来ない限り、私が住む街に遺されるのはm@stervision大哥仰るところの“民生機に毛のはえた数十万円の液晶プロジェクター”上映の、加へて三本立ての内通常二本はVシネを掛ける小屋のみとなつてしまふ。まともに銀幕にフィルムで上映されるピンクは、残り十五本。が然し、いふぞ。これで何もかもが終つてしまつた訳ではないからな。“おはりのはじまり”?確かにさうかも知れないが、冗談ぢやないぜ。堂々と筆を滑らせると、時に名のある小屋の閉館がニュースとして伝へられることがある。さういふ際に姿を現すのが、「いやあ残念ですねえ、昔は通つたものなんですけどねえ」なんて寝言を、ちつとも残念さうには見えないしたり顔で吐きやがるクズ供である。いいか、再びいふぞ。潰れて惜しい小屋ならば、潰れぬ内に、潰れないやうに足繁く通へ。「昔は良かつた」、そんなことはバカにもクズにでもいへる。繰り返すが、幸か不幸か当方ドロップアウトは貧しい人生を送つてゐる人間なので、懐かし気に振り返る来し方なんぞ欠片も持ち合はせはしない。ピンクス・ノット・ラスト・ギグ。負け戦上等、後退戦ならばお手の物。柄にもなく、俄然ヤル気が出て来た。へこたれても、挫けはせんからな。


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  「THE MYTH 神話」(2005/香港・支那合作/原案・監督:スタンリー・トン/脚本:ワン・ホエリン/出演:ジャッキー・チェン、キム・ヒソン、チェ・ミンス、レオン・カーフェイ、マリカ・シェラワット、シャオ・ピン、スン・チョウ、ユン・タク、他)。ジャッキー・チェンの新作を観に行つた。それは映画者(えいがもん)としての、ではない。人として当然の行ひである。
 考古学者のジャック(ジャッキー)は、繰り返し繰り返し同じ夢を見る。舞台は2200年前、始皇帝の時代の秦。近衞将軍・蒙毅として、古朝鮮から始皇帝への貢物として嫁いで来る王女・玉漱(キム・ヒソン)を迎へ入れ、玉漱を奪還せんと襲撃して来るチェ将軍(チェ・ミンス)、と死闘を繰り広げる夢である。そんなジャックを、親友のウイリアム(レオン・カーフェイ)が訪ねて来る。反重力の研究をしてゐるウイリアムは、かつてジャックが論文を書いた、空中浮揚する聖者に関心を持つて訪ねて来たものだつた。
 2200年前の前世の記憶を軸に、宇宙より飛来した反重力物質(だからどういふ原理なんだよ)、不老不死の仙薬、挙句に地下の大空洞に展開する空中大霊廟(正直何のことだか全く伝はつてゐないことと思ふ)まで飛び出して来る、正直なところがスタンリー・トンはエルでも極めてゐたのか?とでも思つてしまはざるを得ないやうなトンデモ映画。ジャッキーのこれまでの偉大なキャリアの中でも、最も底の抜けた一本である。
 とはいへ、アクション映画としては常時も通りと、常時も通りではない部分まで含めて十二分に満足出来る、常時ものジャッキー映画である。100点満点。たとへどんなに物語の底が抜けてゐても。
 常時も通りの部分は、主にインドでの逃走アクション。ゴキブリホイホイ工場に逃げ込んでの、くつ付いたり動けなくなつたりのコミカル・アクション。ゴ、ゴキブリホイホイ !!!!!!!!改めて、声を大にして言ふ。ジャッキー最高 !!!!!!!!ゴキブリホイホイの上で、くつ付いたり動けなくなつたりしながら、それでも逃げたり助けたり戦つたり・・・・・(笑ひを堪へきれない)、ジャッキー最高 !!!!!!!!有難うジャッキー !!!!!!!!こんなドロップアウトではあるけれど、貴方の映画を観てゐる時だけは幸せです。もう一度言つとく。ジャッキー最高 !!!!!!!!
 常時も通りではない部分は、2200年前の前世の記憶パート。玉漱姫を守る為に、蒙毅は容赦なく追手の腕を落とし、首を刎ねる。(前世の記憶パートの)クライマックスでは、友の敵を槍で串刺しに貫き、一対数百の圧倒的多勢に無勢の絶望的な戦ひの中、自らの体から流れる血と返り血とで全身を真紅に染めながら、文字通りの死体の山を築く。普段滅多なことでは人を殺さないジャッキーが、“戦鬼”としてのジャッキーを見せて呉れる。
 スタンリー・トンはそんな蒙毅将軍の最期で、「子連れ狼 死に風に向ふ乳母車」(1972/監督:三隅研次/主演:富さん)の孫村官兵衛(加藤剛)の最期をパクつてゐる。
 インド古武術の老師の娘サマンサを演じる、“インド映画界のNo.1セクシー女優”ことマリカ・シェラワットはマジでヤバい(何が)。これを機に、各国の映画でもブレイクすることを望む。ただこの人、公式サイトを鵜呑みにすると、とても奇妙なことを言つてゐる。
>「インドの人口の半分は私に夢中よ。『THE MYTH/神話』が公開されたら中国の人口の半分はトリコにしてみせる。つまり地球の人口のおよそ50%は私のファンつてことね」。>どういふ世界観だよ

 最後に、同じく公式サイトのジャッキーのプロフィール中、“1954年4月7日、香港生まれ。”とまづ出自を紹介した、次に続く一文がエクストリームに素晴らしい。
 “説明不要、世界のアクション・スター”。大名文である。


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奇談  


 「奇談」(2005/原作:諸星大二郎《連作『妖怪ハンター』内、『生命の木』》/監督・脚本:小松隆志/プロデューサー:一瀬隆重/出演:藤澤恵麻・阿部寛・清水紘治・菅原大吉・柳ユーレイ・草村礼子・ちすん・土屋嘉男・白木みのる、他)。
 言ひ訳といふ訳でもないが、予めお断りしておく。当方ドロップアウトは、諸星大二郎は殆ど全く読んでゐない。色々と、常にも増して頓珍漢なことをいひ出すやも知れないが、全てのジャンルの原作つきに関して、原作からは全く別箇の物としての評価、といふのはあらうべきではない、などといふこともあるまい。といふ態度、もしくは姿勢から、開き直つて観て来た映画のみからの感想を、例によつて手前勝手に漫然と述べる。
 正直な所、諸星大二郎の特異な―マンガ―世界を実写映画化、あるいは予告篇の出来からいつて、期待してはゐなかつた。寧ろ、何ぞ仕出かして呉れるのではなからうかといつた、別の意味での期待すらしてゐた。それ故、二度観に行かうとして財布を忘れたり時間が合はなかつたりして観に行けなかつたことに、ひよつとしたところの何某かの大いなる意思の存在を感じもしたところである。が、結論からいふと、全くいい意味で裏切られた。実に面白かつた。

 民俗学を専攻する大学院生・里美(藤澤)は、七歳の時に神隠しに遭つた体験があつた。里美はその後発見されたが、その前後―二ヶ月だつたつけ?―の記憶は喪はれてゐた。加へて、一緒に神隠しに遭つた新吉少年は、未だ発見されてゐなかつた。里美は閉ざされた自らの過去を求めて、当時母親の出産を控へて親戚の下に預けられてゐた、東北の隠れキリシタンの里として知られる渡戸村を訪ねる。渡戸村には“はなれ”と呼ばれるがあつた。はなれの住人は、全員成人しても七歳児相当の遅れた知能しか有しなかつたが、不死を噂されてゐた。はなれは村の者からは忌み嫌はれ、村八分の状態にあつた。里美がはなれに興味を示すと、それまで友好的だつた村の者も、途端に態度を変へた。村役場の人間(菅原)に案内されてゐたところ、里美は村の教会に記憶の断片を見出し、中に入る。そこにはカトリックの神父(清水)と、地球上に人間以外の別途の進化を遂げた知的生命体の存在を主張し、学会を追放された異端の民俗学者・稗田礼二郎(阿部)とが居た。翌日、村とはなれとの間にある、かつて隠れキリシタンの大量処刑が行はれた山で、はなれの住人・善次の、まるでキリストのやうに十字架に磔にされた惨殺死体が発見される。

 禁じられた智恵の実を食べた罪により、楽園を追放されてしまふイブとアダムの他に、生命の実を食べてしまつた、もう一人の造物主が作り給ふた人間・ジュスヘル。ジュスヘルは智恵は持たないが、永遠の命を持つた。不死のジュスヘルの子孫によつて地上が一杯になつてしまふことを懼れた造物主は、彼等に“いんへるの”の呪ひをかける。“いんへるの”に於ける永劫の苦しみを負はされたジュスヘルの子孫達は、“くりんと”によつて“ぱらいそ”へと導かれることを待ち望むのであつた。そして、生命の実の生る生命の木とは、実は日本にあつたのではないか?劇中文献内より“世界開始の科の御伝へ”と称される諸星大二郎によつて再構築され新たに編み出された、全く新しい聖書異伝。もしくは新しい原罪。物語、あるいは謎解きは“世界開始の科の御伝へ”を軸に、時空を超えて七歳の姿のまま発見された新吉や復活を遂げた善次を交へ、目まぐるしく動き出し、やがてスクリーンに、地獄と天国―への召還―とが展開される。
 諸星大二郎の独特な画風を、実写映画化の中で再現することなど、初めから求めたりはしない。地獄、と天国とを描く為に用ゐられたCGも、バジェットの問題にのみ逃げ込むのも如何なものかも知れないが、映像表現としてはお世辞にも高いレベルにあるものではない。が、然し、そこには尻の穴の小さな原作ファンからの誹謗も、口さがない映画ファンからの嘲笑をもものともしない、何とはあつても諸星神話を映像化するんだ、といふ頑強な覚悟が窺へた。そこが何よりも素晴らしいと思ふ。天空に実写で堂々と屹立する巨大な十字の光芒に、私は開き直つたエモーションを感じた。

 ここからは些かならずネタバレである。微妙に焦点はボカしてあるので、敢へて字は伏せずに済ますところである、悪しからず。

 ジュスヘルの子孫達は、“いんへるの”に於いて地獄の業火に焼かれる。不死の彼等の苦しみは、未来永劫に続く。然しラストで彼等は伝説通り、復活を遂げた“くりんと”によつて“ぱらいそ”に導かれて行く。一緒に行かうとする新吉を、行つちや駄目だと里美は止める。だが新吉は、人間の世界への決別を告げ、ジュスヘルの子孫達と共に“ぱらいそ”に旅立つ。七つのガキにどうしてそのやうな心的契機が芽生えるのかは正直リアルタイムで観てゐた時点でも疑問だつたが、ともあれ。ここから、頭から判つてゐた上で、思ひ切りギアを間違つた方向に入れる。何はともあれ、何とはしても新吉は現し世を捨て、“ぱらいそ”に旅立つて行く。今既にある、ありのままのこの世界に於いて、どうにも居心地の悪さを抱へてしまつてゐるやうな連中、どうにもかうにも居場所を見付けられないでゐる者共、改めて申すまでもないが、小生ドロップアウトはその口のトップランナーでもある。だから周回遅れでいいんだよ、といふか、そのレースにはそもそも参加してなくてもいいんだよ。さて措き、さういつた者共にとつて、たとへそれが逃避でしかなくとも全く別の世界への脱出、もしくはこの世界の終末のイメージすらもが、如何様に甘美なエモーションを喚起するのか。といつた至極単純極まりない事実にすら思ひ至らぬ者は、たとへ原作からはかけ離れてゐたとて、映像表現としてよしんば稚拙であれ、映画が詰まらないだとか何だとかいふのは二千年早い。おとなしく皆と列を組んで、何かのドーム公演でも観に行かれてゐれば宜しい。

 等々といひ募つてゐると、全く見るべき所の無いストレートな駄作を、与太者ドロップアウトが殊更に偏狭な見方をして持ち上げてゐるかのやうに思はれるかも知れない。まあ多分にさうであることは、我ながら否定しはしないが。が、然し。この映画には、ひとつだけ極めて有効に機能してゐる飛び道具がある。それは反則バリバリの白木みのるのキャスティングではなく、稗田礼二郎役の阿部寛である。単なる色男としてデビューするも何時の間にやら、性格俳優を取り越して異能とすら称へ得るレベルにまで達した我等が阿部ちやんの過剰なハッタリ演技は、全般的に弾不足感の強烈に否めない映画の中で、スクリーンすらはみ出して拡げられた大風呂敷に、リアルではなくしてもリアリティー、説得力を与へる。次々と繰り広げられるこれまで信じて来たものとは全く別の聖書異伝に、戸惑ひ狼狽へるばかりの神父を演ずる、清水紘治の大仰な芝居振りも又然りである。舞台は昭和四十七年、本当にその頃の女の顔に見える藤澤恵麻の面立ちも捨て難い。裏を返せば、リアルタイムの感覚では必ずしも美人ではない、といふことにもなるのだが。

 稗田礼二郎といへば、その昔既にすつかり太つてしまつてゐたジュリーが演じてゐたのも・・・・・ま、いいか。その話は(;´Д`)


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 「家族ゲーム」(昭和58/製作:につかつ撮影所・NCP・ATG/配給:ATG/監督・脚本:森田芳光/原作:本間洋平/助監督:金子修介/出演:松田優作・伊丹十三・由紀さおり・宮川一朗太・辻田順一・戸川純・土井浩一郎・加藤善博・白川和子・佐々木志郎・阿木燿子・清水健太郎・・・なんて出てたんだ、他)。全くの別企画ではあるが、たまたま三ヶ月前に、「ブラックレイン」を観に行つたのと同じ小屋に観に行つた。

 「家族ゲーム」。今更この期にドロップアウト如きが、わざわざあれこれと言ふことなど最早残されてもゐないであらう。「阿修羅のごとく」(2003)は終に愛想を尽かして観に行かなかつた割には意外と評判が良かつたやうであるが、それ以前の数作では、<39>「刑法第三十九条」(1999)、「黒い家」(同)、「模倣犯」(2002)と単に詰まらないのを通り越して、観客を腹立たしくすらさせる(眠つてしまはなければ)映画ばかり撮つてゐた森田芳光の、言はずと知れた掛け値無しの最高傑作である。あれ、昨年の「海猫」(2004)は?>ええと、知りません
 兎にも角にも鑑賞。何も言ふことなど無い、などと言つてしまつては元も子も無いが、素晴らしい。間違ひ無く素晴らしい。文句無く面白い。国境はどうかは判らないが、時代は完全に超えてゐる。冒頭、優作が船にプカプカ揺られながら巨大な、そこで暮らす者の多さに反比例して呆れるくらゐに非人間的な団地にやつて来る辺りから、何だかもう訳も判らなくなつてしまふくらゐに、胸がワクワクしてワクワクして仕方がない。久し振りに、スクリーンがキラキラと輝いてゐるのが見えた。正直な所、フォーク・ボールのやうな急激な気温の低下に伴ひ、元々不安定極まりないドロップアウトの壊れ心は塞ぎがちであつたりもしたのだが、一発で復活した。ストレートに興奮した。その興奮は今でも全く冷めやらない。明日朝仕事に向かふまでは、このままこの幸福は持続するに違ひない。今デスるか?

 日本映画史上伝説の長回し、沼田家の最後の晩餐シーン。「おつとつと」、とでも言はんばかりにマヨネーズ・ドレッシングを食卓のあちらこちらに零し振り撒く優作。奇跡のやうな名シーンである。「ちよつとあんた、何やつてんだよ!」、父親、沼田孝助役の伊丹十三のツッコミ。今では二人共もうこの世には居ない哀しみなんて何処かに通り過ぎて、心から笑つた。優作は、父親は左の正拳下段突き、母親は首筋への右の手刀。兄貴には頭突き、そして教え子の弟・茂之(宮川)は張り手のブロックの応酬から、一発張らせた上で、今度は右の正拳下段突き。家族全員を仕留める。
 黙つて座つてゐるだけで、直線的な暴力も兎も角、それ以前にそれを超えて、何とも言はれぬ迫力を小屋の空気一杯に充満させる。正に松田優作といふ、稀代の映画俳優の本領が凄まじい勢ひで炸裂してゐる。お腹一杯になつた。軽く放心状態になる程満足した。優作の漂はせる暴力、乃至は迫力を心から堪能した。一言だけ故人に対して苦言を呈しておくと、優作すらの男にあつて、アクション映画を他より一段低く見る、何の根拠も無い怠惰な悪弊から逃れ得なかつたことは、重ね重ね残念なところではある。
 言つても全く詮ない上に、無茶苦茶なことを敢へて言ふと、もしも今でも優作が生きて活躍してゐたならば、たけし如きが観客を煙に巻くやうな映画ばかり撮つて悦に入ることなどなかつたであらう。哀川翔と竹内力とが日本一の男前を競ふやうなこともなかつたであらう。ドロップアウトが今一番惚れてゐるのは小沢仁志アニイであるが、かうして見ると申し訳ないが、矢張り優作とは文字通り役者が違ふ。

 とはいへ、毎年命日が近付くと銭ゲバ未亡人(長男と纏めてもうデスつて呉れんかいな)がムカつく蠢動をみせるのはひとまづさて措いて、優作が逝つてしまつてからもうオリンピックでいふと四回分にもなる。が、今は、少なくとも未だ興奮冷めやらぬ今だけは、不思議とそのことを哀しみ惜しむ気分にはない。優作が舞台俳優であつたならばまだしも、かうしてプリントは今でも残つてゐる。地方に住んでゐても辛抱強くチャンスを待つて、運が良ければかうして全盛期の輝きに今でも触れることが出来る。それはとても素晴らしいことである。前回「ブラックレイン」が掛かつたのは、パラマウント絡みのプロモーションの一環であつたが、今回の企画は、劇場自体を経営する会社の創立何十周年だとかである。今回このやうな機会に恵まれたことに、心からの感謝を表したい。

 ATG映画をスクリーンで観るのは初めてかとも思つたが、よくよく振り返つてみれば以前に神代辰巳の特集で、「青春の蹉跌」を観てゐた。「太陽を盗んだ男」は三回くらゐ観たことがあるので、何時か「青春の殺人者」も小屋で観たい。青春映画御法度のドロップアウトとしては(何となれば、人並の青春といふ奴を素通りして来てしまつてゐるからである)、青春をタイトルに冠する映画といへば、「青春の蹉跌」と「青春の殺人者」の二本しか認めない。裕也の実質的デビュー作(以前にドリフの映画にカメオ出演してゐるのは観た)「不連続殺人事件」も観たいが、まだちやんとプリントは残つてゐるのであらうか。


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