真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



  少し調べ物をしてゐたところ、知らぬ間に講談社文芸文庫から、福田恆存の文芸論集が出てゐることが判つた。軽目の自己紹介をさせて頂くと、昨今は小屋で映画を観てばかりで、書店に足を運ぶことも滅多になくなつた身ではあるが、山﨑邦紀のピンクを一本極め撃ちで観て来た帰り、久々に求めに行つた。
 二軒目の店にて発見。「あつたあつた♪」とパラリと開いて見たところ・・・軽い戦慄を伴ふ違和感が。か、仮名遣ひが珍かなに改悪されてある。一発で激昂し、本気で買はずに帰つてしまはうかとも思つたが、初出誌以来初の活字化となる数稿も含め、未読の論考が多数掲載されてあつた。文庫であるのでジャケットのポケットに入れ手軽に―値段は手頃ではないが、何で文庫本が千四百円もするんだ?―持ち運べるのもあり、さんざ迷つた挙句、脳内補正―映画の字幕もさう処理してゐる―しながら読むとして、泣く泣く買つて戻つた。
 最短距離で呪詛を吐くが、潰れてしまへ講談社。担当部署の人間は消えてなくなれ。更に余計な返す刀を思ひ出すと、ちくま文庫の『私の幸福論』(『幸福の手帳』改題)も同様の惨状であつた。恆存が存命であつたならば、絶対に此のやうな暴挙、愚行はなし得まい。全員有罪、デス刑。

 とかいふ次第で、『福田恆存文芸論集』(編:坪内祐三)を読んでゐる。繰り返しになるが、恆存が鬼籍に入つてゐるのをいいことに、仮名遣ひが珍かなに、正確には新かな、「現代かなづかひ」もしくは「表音的仮名遣」に改悪されてある世紀の悪書である。断るまでもなく、悪いのは徹頭徹尾講談社である。脳内で変換しながら読んでゐて、悲しい文章でもないのに、時に泣きたいやうな気持ちになつて来た。
 別にそれが業績の全てでもなければ筆頭に来る、といふ訳でも決してないにせよ、恆存は正字、正仮名の採用を、一貫して訴へてゐた。とても福田恆存のやうな大人物の人間像を、泡沫ピンクス如きが一言二言で手短に掻い摘むことなど出来ないが、その全仕事を通じて流れる一貫した真の意味での批評精神が、略字と珍かなの持つ虚偽、欺瞞、迷妄、そして喪失とに対して激しく反応し、その結果争ひ事に目のない巷間に好んで採り上げられもしたのであらう。元々は正字、正仮名であつたのだから、正確には略字、新かなといふ時流に対し徹底して抗つてゐた、といつた方が妥当なのかも知れない。ここで、先に謝つておく。私は甚だ申し訳ないが、正字に関しては妥協してゐる。いい大人になつてから、漢字を覚え直すのは流石に厳しい。指で書くのも兎も角、文字を打つにも非常に骨が折れる。死後は謹んで地獄に堕ちるので、福田先生にはお許しを乞ひたい。
 正字、正仮名に関しては、全てが恆存の二番煎じになつてしまふゆゑここでは採り上げない。といふか当サイト如きが出る段ではない。必殺の名著、『私の國語教室』を須くお読み頂きたい。私は中公文庫版、更にはそれ以前に刊行されてゐた新潮版を所有してゐるので、現在刊行されてゐる文春版は手に取つたこともない。まさか改悪されてはをるまいな、コーランを開いたらアーメンと書いてあるやうなものである。が、正直、今の世の中といふ奴は全く信用出来ない。
 最後に一言だけいつておく。言葉も生き物である、時代と共に姿を変へるのも当然である、さういふ利いた風を口にする人もあるやも知れない。何処かで拾つて来たやうな文句で思考停止も甚だしい紋切型を御開陳されるくらゐならば、首から上を使ひ物を考へる習慣をおつけになつては如何か。言葉も生き物である。その通りである。そして、その生き物である言葉の生理に、より正確にいふならば語法と語義とに即してゐないのが、残念ながら我々が学校教育で習つて来た仮名遣ひ―の名に値しない代物―なのである。

 かつて国語学者橋本進吉博士はかう述べた、“假名遣は假名で國語を書く時の正しい書き方としての社會的のきまりである”とするならば、“表音的假名遣は假名遣にあらず”。


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 トルコ風呂とカウンセリング、そしてピンク映画についての本質論的考察である。ええと、切りがないゆゑツッコミは一切受け付けない。

 人並みの健康な性欲を持ち合はせつつも、具体的日常的な恋愛対象の欠如につき、要は女に不自由してトルコに行く、トルコに通ふ男が居る。金で束の間の恋愛を、否、金で恋愛感情を伴はぬ女の肉を買ふ男が居る。一方、あれやこれや思ひ悩み、くさくさ気を患ひ、カウンセリングを受けに行く者も居る、カウンセリングに通ふ者も居る。
 トルコ通ひと同列に論じられては心外だと、被カウンセリング側の心情を害してしまふやも知れないが、その程度の立論の中に於ける無理、もしくは瑕疵はこの先の暴論、更には詭弁の果ての最終的に底の抜けた着地点に比べれば、まるで瑣末なものである。開き直るにもほどがある。

 女に不自由してトルコに通ふ男が居る。まゝならない、不自由な心を抱へてカウンセリングに通ふ者も居る。どちらも己が内の不自由、に対処する為にトルコ、もしくはカウンセリングを利用する。
 ATフィールド内側の間合ひで話を進めるが、女に不自由する男も、不自由な心を抱へる者も、女に不自由することのない男や、心中に外部装置による療法を必要とするまでの病巣を特には抱へない者と比べた場合、一応は明らかに劣位に属する。もう一度断つておくが、私は今、最短距離の更にこちら側で話を進めてゐる。要は、女に不自由する男も、不自由な心を抱へる者も、世界に一本の線を引いて選別するならば、ダメ人間である。
 話は変りはしないが、一旦逸れる。田恆存が残した中でも必殺中必殺の名評論に、「一匹と九十九匹と‐ひとつの反時代的考察」(昭和二十二年二月)がある。文学と政治について、文学と政治、そのそれぞれの果たすべき役割について論じた評論である。
 「なんじらのうちたれか、百匹の羊を持たんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたずねらんや」、と新約聖書ルカ伝の一節を引用した後、田はかう述べる。
 「文学にしてなほこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか」。
 行きつ逸れた一匹のダメ羊のことを、残りのちやんと群れの中でお利口にしてゐる九十九人のことを打ち捨ててでも何とかして、どうにかして救はうとするのが文学である。思想の責務である、宗教の仕事である。絶対に田は首を縦に振らないくらゐにまで外延を拡大すると、更にロックである、映画である。
 対して、ひとまづはちやんと群れの中でお利口にしてゐる九十九人の面倒をキチンと見ることが、政治の役割である。より最終的には、百人中最低五十一人に飯を食はせ、服を着せ、雨風をしのげる住居に住まはせることが、政治の仕事である。行きつ逸れた一匹のダメ羊のことなどは初めから無視して済ますことも、この際政治には許される。
 即ち田は同時に、文学が残りの九十九人の面倒まで見ようとすることも、一方政治が行きつ逸れた一匹のダメ羊をも救はうとすることも、越権であり僭越であり、侵害であると断ずる。
 話を戻す。女に不自由する男も、不自由な心を抱へる者も、共にダメ人間である。そして、トルコはカウンセリングは、さうしたダメ人間の為に世界が、より判り易くいふと社会が用意した装置である。
 世界(もしくは社会)を百人の集団に喩へる。女に不自由する男も、不自由な心を抱へる者も、九十九人の何だカンだとはいひながらも一応はキチンとしてゐる群れの中から、零れ落ちて行きがちなダメ人間である。明後日の方向に、やゝもすると行きつ逸れてしまひさうになるダメ人間である。トルコもカウンセリングも、世界が彼等の、彼等と彼女等の為にあつらへた装置である。彼等が、彼等と彼女等が(群れから)零れ落ちてしまふのを、行きつ逸れてしまふのを防止する為の装置である。女の不自由と、心の不自由とをよしんば一時的ではあるにせよ解消し、九十九人の群れの中にとりあへず居させておく為に、トルコもカウンセリングもあるものである。
 即ちトルコに通ふ男も、カウンセリングに通ふ者も、何だカンだとはいひながらも未だ一応は(九十九人の)群れの中に居るのである。世界の、社会の中に踏み止まつてゐるのである。
 
 対して、女に不自由しつつも、不自由な心を抱へつつも、トルコに行きもしない男が居る、カウンセリングを受けもしない者が居る。より正確にいふ。さういつた者は、実はトルコに行けもしない男である、カウンセリングを受けられもしない者である。己が内の不自由に苦しみながらも、本気で零れ落ちると、本域で行きつ逸れた場合、世界内の、社会内の成員をケアする為の装置を利用することすら、最早叶はなくなつてしまふのである。
 女に不自由する男も不自由な心を抱へる者も、トルコに通ふ男もカウンセリングに通ふ者も、共にダメ人間である、弱き者である。対してトルコに行きもしない男は、カウンセリングを受けもしない者は、トルコに行かないからといつて、カウンセリングを受けないからといつて、弱くないのではない。トルコに行けもしないのである、カウンセリングを受けられもしないのである。即ち、更に弱いのである。そりやあもう、どうしやうもないくらゐに弱いのである。病院にまで自力で辿り着けないくらゐの重病人、と喩へたならば少しは判つて頂けようか。
 オチは薄々見えつつあるが、小生ドロップアウトはトルコに行きもしない、カウンセリングを受けもしない。生きてゐるだけで死にさうに苦しみつつも、トルコに行けもしない。カウンセリングを受けられもしない。さうして私は独り、どうしてゐやがるのかといふと、ピンク映画を観に行つてゐる。
 ピンクも装置のひとつではないか、さういふ人もあるやも知れない。どうだか。実も蓋もない物言ひを平然としてしまふと、あんなもの、この期に真面目に観てゐる方がどうかしてゐる。いい映画も、美しい映画もその玉石混合の中には含まれてゐないではない。も、玉石混合はあくまで玉石混合である。玉よりはクソの役にも立たない石つころの方が圧倒的に、決定的に断然多いに決まつてゐる。それは何事につけてもさうである、とするのがいはゆるスタージョン・ローなのであらう。が然し、ピンク映画ほど玉石混合の玉石混合ぶりが甚だしいジャンルといふのも、他には滅多にないやうに私には見受けられる。平気で導入部の最も重要なシークエンスがバッサリと抜け落ちてしまつたやうな、破天荒なプリントで堂々と上映してゐるやうなジャンルである。繰り返すがあんなもの、真面目に観てゐる方がどうかしてゐる。モンドやキャンプの領域で笑ひ混じりに語られる、あれやこれやのクズ映画やゴミ映画、B級C級Z級映画の類は、しばしば児戯に等しく私の目には映る、小林悟を通つてから出直して来い。私はどうかしてゐるので、ピンク映画を観てゐるのである、ピンク映画を観てゐるだけである。

 トルコに通ふ男が居る。カウンセリングに通ふ者が居る。トルコに通はずに、カウセリングにも通はずに、要はトルコにもカウンセリングにも通へずに、ピンク映画館に通つてゐるドロップアウトが居る。トルコ通ひもカウンセリング通ひも、まだまだ大丈夫、全然大丈夫、人として。それが結論である。


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 「ブラックレイン」(1989/米/監督:リドリー・スコット/撮影:ヤン・デ・ポン/出演:マイケル・ダグラス、健さん、松田優作、アンディ・ガルシア、富さん、ケイト・キャプショー、内田裕也、國村隼、安岡力也、神山繁、小野みゆき、島木譲二、ガッツ石松、他)。ビデオやDVDで見たのではない。小屋で上映されてゐるのを観に行つたのである。何で又この期に「ブラックレイン」、なのかといふと。パラマウント映画が福岡だか九州の何処だかに、映画のテーマパークを建設しようとしてゐる動きがあり、その、プロモーションの一環だといふことである。何にせよ、優作や裕也の姿が小屋で観られることは、何にも増して目出度いことである。

 上映は、商業地のど真ん中に建つファッション・ビルの、七階に入る小屋であつた。世界の中心に建つファッション・ビルといふことで、ダメ人間軍所属の小生ドロップアウトとしては、かつてはどうしても立ち入ること叶はない場所であつた。現在では攻略済みであるが、ジャッキー・チェンの「レッドブロンクス」(1995)が掛かつた時に、意を決して漸く突入した、どうでもいい思ひ出のある小屋である。その小屋は、三枚のスクリーンを擁する。最も大きいスクリーンは、そこそこ以上の大きさで、且つボディ・ソニック・システムとかいふ、音響に合はせて客席がブルブル震へる、特に効果も無いシステムも備へるスクリーンであつたので、秘かに期待してゐたのだが。「ブラックレイン」は三枚ある中で、一番小さいスクリーンでやつてゐた。ナめやがつて、とも思つたが、客席は思ひのほか埋まらなかつた。精々二十人程であらうか。悔しいが小屋側の選択は正しかつた、と言はざるを得ない。何度も見てゐる映画だとはいへ、それがスクリーンで観られるとなれば、もう一度観たくならないものであらうか。私は観たい。観る。例へば「Mr.Boo」のやうに、別に態々小屋まで観に行くこともなからう、とも思へなくもないやうな映画であつたとしても、もしも小屋で観られる機会があつたならば、矢張り観に行くと思ふ。因みに「Mr.Boo」の場合は、字幕版よりは広川太一郎の吹き替へ版の方を希望。流石に「超能力学園Z」まで来ると、私もわざわざ観に行きはしないかも知れないが。

 ともあれ再見した。どこから持つて来たのか、所々で画面が飛びすらする結構痛んだプリントではあつたが、まあそれはそれで、ある意味映画を観てゐる気分になれもするので良しとしよう。
 「松田優作の遺作が、ブラックレインでは、ちと寂しい」、とすら言ふ人も居る。私も、かつては優作の遺作といふことで、過大評価する弊だけは避けなくてはならない、と思つてゐた。が改めて観てみると、まあまあ以上に面白かつた。最終決戦。俺たちの優作が、女たらしで権勢と金の権化のマイケル・ダグラスのやうなクソ野郎に、殴り負けてしまふところは何度見ても納得は確かに行かないが、画は全篇カッコよく、十分に楽しめた。何よりも、優作と裕也が若い。若い優作と裕也とが、バジェットのデカい映画の中で思ふ存分大暴れしてゐる姿は、ただそれだけで私を心の底からワクワクさせて呉れた。
 優作と裕也が若い、と言つたがそれは正確ではない。優作はこの映画の公開直後に死んでしまつた。若いもへつたくれもない。優作の時間は「ブラックレイン」、から止まつたままなのだ。
 対して裕也は、「ブラックレイン」から現在までの十六年間に、壮年からおじいちやんへの橋を渡つてゐる。裕也の若さは本当の若さである。唐沢俊一氏の「裏モノ日記」の、2005年七月六日分にかうある。永島慎二の死に触れたマクラに続いて、赤塚不二夫に関して氏は言ふ。少年マンガの黄金時代。三十代に短か過ぎる全盛期をスタンピートした赤塚は、長い晩年を送り、現在はもう二年以上、病院のベッドの上で昏睡状態にある。
>不思議なことに人間は、万全に生き、 終はりをまつたうした人の一生にロマンや夢を感じない。ある一時期にエクスプロー ジョンし、人生を燃やし尽くした一生の方に、絶対に魅力を感じる。(原文は珍かな)
 裕也が万全に生き、てゐるかといへばそれもそれで大いに疑問ではあるが(笑)、私はここで、「ブラックレイン」公開後間もなく時間の止まつてしまつた優作と、今だ生き永らへて壮年からおじいちやんへの橋を渡つた裕也とを、敢へて比較しようとは全く思はない。最終的には、それは結果論かも知れないが選択可能性なんて、人の人生に於いて選択可能性などといふものは、最終的には殆ど存在しないやうな気もしないではないからである。何もある一時期にエクスプロー ジョンしよう、ある一時期に人生を燃やし尽くさうと思つて優作も早死にした訳ではないと思ふ。何もエクスプロージョンし損なつて、裕也(昭和14年生、因みに優作は24年)は今も生きてゐるといふ訳でもなからう。そんなバカな話があるものか。それが優作の一生で、それが裕也の人生である。さういふことなのであらう。そんなことを、画面一杯にはつちやけてゐる若い優作と裕也とを観ながら思つた。

 力也に用意された、爆発する高級車をバックに銃弾を何発も喰らつて、しかもスローモーションで死んで行く、死に際は字義通りエクストリームである。役者人生最高の死に様であらう。


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 「リンダ リンダ リンダ」 (2005/監督:山下敦弘/脚本:向井康介・宮下和雅子・山下敦弘/『バーランマウム』プロデュース:白井良明《ムーンライダーズ》/出演:香椎由宇、関根史織《Base Ball Bear》、ペ・ドゥナ、前田亜季、他)。
 高校生活最後の文化祭を目前に、ギターが指を怪我してしまふ。代はりのGを入れる入れないで、キーボード(香椎)とボーカルが対立。演奏が出来なくなつてしまつたGに続いて、Voまでもが抜けてしまつた女子高生バンドが、急遽KeyがGに回り、Voは誰か新メンバーを急拵へることでどうにか文化祭のステージに望まうとする、さういふ物語である。

 のつけからしくじつてしまつたのが、うつかり忘れてゐた。ドロップアウトには青春映画は御法度である。キラキラと輝きながらフラフラしてゐる女子高生の姿についついうつとりしながらも、うつかり忘れてゐた大事なことに、開始五分で私はフと気が付いた。私には何故に青春映画が御法度であるのかといふと、最短距離の更にこちら側でいふ。私は、人並みの明るくて楽しい青春なんぞ、終ぞ通つて来たことのない人間である。改めて断るほどのことでもないかも知れないが。
 全うな人並みで明るくて楽しい青春に、真正面から火の点いたダイナマイトを全力投球でど真ん中に投げ込む、全盛期のウィノナ・ライダーの映画、のやうな映画であつたならば心から安心して、エモーションのアクセル全開でボロ泣きしながら観てゐられるのだが、多少フラついてみたりモタついてみる程度で、最終的にはポジティブな、凡そ肯定的な青春映画なんてうつかり観てゐると、もう何と言つたら良いのか、絶望的に寂しくなつてしまふのである。何故か(笑)、一種追ひ詰められるやうな気持ちにすら追ひ込まれてしまふ。ハッキリ言ふが、否、いいのか悪いのかはよく判らないが、これも又ひとつの機会であらう。全速力でハッキリ言ふ。あるやなしやの(どちらかといはなくても無し)私の全てを賭してハッキリ言ふ。「独りで映画館に行くのは寂しい」。さういふ戯言をヌカす者が居る。冗談ではない。独りで映画館に行くのが寂しい、などと、そんなものは、寂しがり屋にしては甘ちやんもいいところである。素人以下のさみしがり屋である。そのやうな脆弱で怠惰な精神の持ち主に、どの面を下げてか「寂しい」、などといふ言葉を使はれるとそれだけでもう、ストレートにキルつてやらうかとすら思ふ。
 「独りで映画館に行くのは寂しい」。そのやうなことを言つてゐられるのは、一緒に映画館に映画を観に行く連れを、手近に手頃にいくらでも調達することが現実的に可能な者である。真の寂しさは、いふまでもなくその更に向かう側にある。孤独の本物なんて、考へてみれば無いなら無いに越したこともないやうな気もするが。独りで映画館に行く寂しさ、その更に向かう側に、そんな悠長なことをいつてゐられないくらゐの、一層切迫した絶望的なさみしさがある。独りでも寂し気でもしみつたれてゐても、映画でも観てゐないととても保ち堪へられなくて、やつてられないくらゐのさみしさがある。飯と水を摂つて出して、寝て起きたら次は映画でも観に行つてゐないと死んでしまふのである。そのくらゐさみしいのである。もしも生まれ変はりがあるとするならば、次の人生は、「独りで映画館に行くのは寂しい」、そんな呑気なことを言つてゐられる人生がいい。

 すつかり訳の判らない方向に話が反れてしまつたので、ゲーリー・オブライトが無理からジャーマン・スープレックスを引つこ抜くかのやうに話を元に戻す。人並みの青春も知らず、さみしくてさみしくて仕方が無いから映画を観に行つてゐる私は(段々リアルにデスりたくなつて来た)、うつかり銀幕から明るい青春なんぞを見せつけられてしまふと、ストレートに心が負けてしまふのである。さみしくてさみしくて映画を観に行つてゐるのに、更に一層絶望的に寂しくなつてしまふのである。映画に裏切られた、そんなお門違ひで、八つ当たりもいいところの気持ちにさへなつてしまふ。

 といふ訳で、ドロップアウトには青春映画は御法度であることは、単なる個人的な特殊事情と私のミスでしかないのだが、もうひとつ引つ掛かつた点がある。主人公達のバンドは急遽GとVoが抜け、KeyがGに回つてVoは新メンバーを急拵へることになる。そこで、当初の予定であつた元々のバンドのオリジナル曲は演奏出来ない。さて、それならばカバーとなると何を演つたものか、といふことでブルーハーツ、「リンダリンダ」、といふことになるのであるが、そこでそもそもが何故に「リンダリンダ」なのか、といつたことが全く欠如してゐる点が更に問題(?)である。
 ああでもないかうでもない、より正確にいふとあれも出来ない、これも出来ないと(軽音楽)部室にあるバンドスコアを取つ替へ引つ繰り返してゐると、古いカセットテープが出て来る。その中のジッタリンジンのテープを戯れに聴かうとしたところ、ケースの中に入つてゐたのはジッタリンジンですらなくブルーハーツであつた。要はそれだけである。
 リアルタイムの女子高生が、ブルーハーツを「これならコピー出来る」、と「リンダリンダ」を選んだ。確かにそれだけのシークエンスであるならば、それもそれだけでリアルであるのかも知れない。ただ、オッサン臭い物言ひになつてしまひ大変恐縮であるが、といふかリアルに既にオッサンであるので仕方も無いと居直つてもよいのだが。とまれ、リアルタイムで「リンダリンダ」を通つて来た世代としては、それはそれだけでは済まない問題なのである。「リンダリンダ」、といふ曲は特別な曲なのである。おいそれと拝借されては敵はない曲なのである。
 バカでも知つてゐる名フレーズ、「ドブネズミみたいに美しくなりたい」。当時殆ど正確には理解されなかつた歌詞である。恥づかしながら、私も真にその意味に辿り着いた(つもりになれた)のは遅ればせながらブルーハーツの既に解散後である。遅れて馳せ参じるにも程があるやうな気もするが、「リンダリンダ」がカラオケ定番のはつちやけソング(劇中でも女子高生にそのやうなものとして取り扱はられる)、としての扱ひに甘んじる昨今、結局今でもその歌詞は、殆ど全く正確には理解されてゐないのかも知れない。
 「ドブネズミみたいに誰よりもやさしい」
 「ドブネズミみたいに何よりもあたたかく」
 日本映画史上最も美しい映画「淫行タクシー ひわいな女たち」(2000/監督:関根和美/脚本:金泥駒/主演:佐々木基子・町田政則)、の感想の中で過去に述べた。折に触れ形を変へ、何時も何時も相変はらず同んなじことを独り言ちてゐるだけでもあるのだが。要は、ダメなものにはダメなものなりの意味が有つた。ダメなものにはダメなものなりの美しさが有つた。ダメなものにも、ダメなものにしか辿り着けない真実といふものがあつたのである。私は私なりの、ひとつの歪んだ歴史観の下に議論をしてゐるので、ここでは敢へて過去形で述べてゐるが、ダメなものもただダメなだけでは決してない。ダメなものにも、ダメなものなりの意味が、真実が、美しさがあるのである。断じてあるのである。「リンダリンダ」といふ曲は、さういふ曲であると私は捉へてゐる。さういつた意味も含めて、特別な曲なのである、おいそれと拝借されては敵はないのである。
 何故に「リンダリンダ」なのか、といつた点が全く欠如してゐる。といつて、矢張りそれはいはゆる繰言に過ぎないのかも知れない、と我ながら思はぬでもないこともない。勿論、我々にとつて「リンダリンダ」、とは特別な曲である。そのことに関して自ら疑ひを差し挟むつもりは毛頭無い。但し、真実は真実として差し措いて、現実問題としてのリアルさ、としてはそれで、即ちリアルタイムの女子高生にとつては、「リンダリンダ」も単なる演奏の簡単なはつちやけソングに過ぎない、といつてしまへばさういふ議論も成り立つてしまふやうな気もする。
 但し、これも「淫行タクシー ひわいな女たち」の感想の中で述べたことではあるが、リアルな現実と、嘘でも真実ならば、どちらを取るのかと問はれたならば私は一欠片の躊躇も無く、後者の方を選び取る。

 と、ここでこの期に我に返つてみると、これは最早、映画の感想でも何でもない。


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 「悩殺若女将 色つぽい腰つき」(2006/製作:Blue Forest Film/提供:オーピー映画/監督:竹洞哲也/脚本:小松公典/撮影監督:創優和/助監督:山口大輔/監督助手:伊藤一平/撮影助手:原伸也/照明助手:宮永昭典/題字:吉沢明歩/音楽:與語一平/挿入歌:『LIFE』作詞・作曲・唄:ニナザワールド/協力:菊屋うどん・加藤映像工房・小山悟・安達守・津田篤・膳場岳人・小松のヨメ、他多数/出演:吉沢明歩・青山えりな・倖田李梨・柳東史・松浦祐也・サーモン鮭山・岡田智宏・甲斐太郎・なかみつせいじ)。『PG』誌主催による2006年度ピンク映画ベストテン、作品部門第一位の受賞作である、因みに封切られたのは十二月。
 デリヘル嬢の北村花子(吉沢)は、自称青年実業家の高田信雄(サーモン)に、なけなしの全財産百万円を結婚新居の建築資金と偽り持ち逃げされる。帰る家も持たないのか、当て無く彷徨ふ花子は終に空腹に力尽き行き倒れてしまふ。箕輪一義(なかみつ)に助け起こされうどんを振舞はれた花子は、恩返しと称して半ば強引に一義のうどん屋に住み込みで働き始める。
 コメディ・タッチの鶴ならぬ蛙の恩返しは、一義の幼馴染・五味隆(柳)のドラマの深化から、夫婦、親子、そして男と女。通ひ合ひ結び合ふ心と心とを描いた、オーソドックスな人間ドラマへとシフトする。といふと、実は同日に小屋をハシゴして観てゐる、加藤義一の「混浴温泉 湯けむりで艶あそび」(2006/主演:上原空)と、全く似たやうな感想になつてみたりもするのだが。勿論決して悪くはなく、要素要素のバランスのよく取れた良質の娯楽映画ではあるものの、正直なところ2006ピンク映画ベストテン第一位といふのは、些かながら如何なものかと首を傾げぬでもない。全体的な構成の緩み、あるいは求心力の欠如が見られなくないこともあり、それだけの決定力を有する映画にはあまり思へない。とはいへひとまづ、加藤義一+竹洞哲也のオーピー若手ツートップが担ふ、王道娯楽映画路線への強い支持、とここは好意的に捉へておかう。叩かなくてもよいのを通り越し叩かぬ方が望ましい憎まれ口を矢張り叩くと、あれだけ木端微塵であつた2005年の竹洞哲也に監督賞を受賞させてゐる時点で、そもそも件のベストテン自体に、個人的にはあまり重く信頼を置いてはゐなくもある。
 登場順に松浦祐也は一義のうどん屋の、頭の弱い店員・番田礼。志村けんとコントに興じる際の柄本明ばりの怪演で、コミック・リリーフを好演。同時に、さりげなくも松浦祐也の必殺が今作火を噴くのは、幸(後述)からの久々の手紙を、一義が受け取る場面。一義に手渡す前に勝手に封を開けてみせるテンポの良い小ネタを挿みつつ、生き別れた娘から不意に届いた手紙を、半々の期待と不安とを胸に一義は繙く。そんな主人を心配さうに固唾を呑んで見守りながら、一義にとつて喜ばしい中身であつたことを看て取るや「大将バンザーイ!」と歓喜を爆発させる、ところまでを背中で演じ切る。松浦祐也の確かな地力が、威力を発揮した一幕である。倖田李梨は、夫の隆と商店街で書店を営む茜。劇中登場する書店は、松浦祐也の実家であるとのこと。出前に書店を訪れがてらエロ本を立ち読みする番田の妄想の中では、倖田李梨見参!を銀幕に刻み込む剛腕のエロ女ぶりがクリーン・ヒット。明るい書店内で堂々と、茜は倖田李梨十八番のエロダンスを披露。扇情的に男に跨る、ところで「ダメーッ!」と番田が自らのエプロンを引き上げ下から結合部を隠すアクションは、規制を逆手に取つた小気味良いギャグである。
 餞別が泣かせる、店を潰し町を去る隆と茜の件から、家を出て以降生き別れの状態にある一義の娘に物語が流れるやうに移行する件は見事の一言。青山えりなは、一義の娘・幸。真心をぶつきらぼうに包み隠した不器用な青年に扮する岡田智宏は、結婚を一義に反対され、幸と駆け落ちする若い料理人・須藤憲二。青山えりなの充実は映画に強い力を与へはするのだが、これでもう少し、同時に軽目の役柄もこなせるやうになつたならば、いよいよ手のつけられなくなる最強に、手が届きもすると思ふのだが。ハリばかりでメリハリが、無いといへば無い。一方主演の吉沢明歩も、2003年のAVデビューから、ピンク出演も「人妻の秘密 覗き覗かれ」(2004/監督:竹洞哲也/脚本:小松公典・竹洞哲也)を始め何だカンだで足掛け三年五作目ともなる。正しくアイドル的な魅力がその間全く損なはれてゐない点は素晴らしいが、その分といふか何といふか、お芝居の方も相変らずアイドル然としてゐるといへなくもない。
 今回一日で小倉、八幡と小屋をハシゴして計五本のピンクをこなして来た中、竹洞組、加藤組、山内(大輔)組のそれぞれ新作三本共で正しく八面六臂の大活躍を見せるのは、いづれも“撮影監督”としてクレジットされる創優和。構図へのこだはりを見せる山内組での撮影に比して、店を畳み困難を共にする決意の上での茜と隆の濡れ場に際して、今作では映画的色調への追求を感じさせる。妄想シーンの雑な紗の掛け具合には、再考の余地が窺へなくもないが。一方加藤組での仕事にあつては特段何がどうといふこともありはしないのだが、それは実は同時に、大多数の観客に対し決して緊張を強ひることもない、大いなる安定を意味してもゐる。多彩且つ何れも高水準の仕事ぶりには、2006年度ピンク映画ベストテンの技術賞受賞も大いに肯けるところである、筆の根も乾かぬ内にいふやうだが。同じく青山えりなの女優賞は兎も角新人女優賞受賞に関しては、最早さて措く。ヒントとしては、涼樹れんて誰だつけ?
 
 前々作「乱姦調教 牝犬たちの肉宴」からの恒例か、女性ヴォーカルによる挿入歌は、前作「親友の母 生肌の色香」から引き続いて起用のニナザワールドの『LIFE』。ハマッつてゐるのか邪魔なのかが、個人的には物凄く微妙なところである。とりあへず、無くても別に困らないやうな気はする。繁盛する一義の店(ロケ先:菊屋うどん)の客役で、台詞と濡れ場もままある甲斐太郎他、多数見切れる、協力勢であらう。花子の胸の谷間に鼻の下を伸ばし一義にどやされるアツシは、実は今作が竹洞組初参戦の津田篤。小松公典の隣でうどんを喰ふ中上健次のやうな強面は、現在脚本家・港岳彦として活躍する膳場岳人。姿を消した筈の高田まで含めて、一度は別れた者も全て一義の店に再び集ふラスト・シーンは、映画の締め括りとしては正しく百点満点。その上で。創優和の撮影に関して触れた中で、青味を充溢させた隆と茜との濡れ場は、それまでの積み重ねも踏まへて身震ひさせられる程の決定力を有してゐる。反面、花子と一義とではなく、隆と茜のシーンで映画が頂点を迎へてゐるところに、今作が最終的には全般的な構成の勘所を取り逃がしてしまつてゐはしまいか、と感ずるものである。良くも悪くもアイドルアイドルした主人公の弱さに、全ては集約されるといつてしまへば実も蓋も無いが。なかみつせいじは兎も角、柳東史や青山えりなと吉沢明歩とを並べて比較した場合、勝敗は自ずと明らかであらう。そこを挽回出来るだけのシークエンスは、残念ながら竹洞哲也も小松公典も用意出来なかつた。


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 「ハサミ男」(2004/監督:池田敏春/脚本:池田敏春&香川まさひと/原作:殊能将之/脚本協力:長谷川和彦・山口セツ・相米慎二/出演:麻生久美子・豊川悦司・阿部寛、他)。よくある、“映像化不可能”とか謳はれたミステリー小説を原作とする映画である。以下、ネタバレに関してはほぼ手放しにつき。
 成績が優秀で容姿にも恵まれた女子高生ばかり選んで、その喉に鋭利に研ぎ澄ましたハサミを突き立て殺害する連続猟奇殺人鬼・ハサミ男(豊川)。と、その助手格で自殺未遂を繰り返す知夏(麻生)。二人が次のターゲットに選んだ女子高生が、ハサミ男が手を下すよりも先に、ハサミ男の犯行を模した殺害方法によつて殺された。ハサミ男と知夏は、危険を冒しながらも真犯人を捜さうと決意する・・・といふストーリー。結末を真正面から堂々とネタバレしてのけると、ハサミ男とは<実は知夏が高校生の時に、知夏の眼前飛び降り自殺した父親(が、トヨエツ)>。即ち、ハサミ男の犯行は要は<多重人格症の知夏の、別人格として発現した父親>の凶行であつた。といふものである、堂々とするにもほどがある。
 原作に目を通さず書いてゐるので(通せ)正確なところは判らないが、原作は事件の真相にケリが付くところまでで、映画にはある更にその先といふのは、原作小説にはないものである。といふ書き込みを、公開当時に余所様の掲示板で見た覚えがある。

 知夏―とハサミ男―は、偽ハサミ男に殺害された女子高生の遺体の第一発見者に偶然なるのだが、もう一人別にゐた同率第一発見者・日高(斎藤歩)に、知夏は知夏こそがハサミ男であると見破られてしまふ。見破られてしまひつつ、知夏は日高をあつさり始末。そこに現れた偽ハサミ男@警視庁のサイコアナリスト・堀之内(阿部)と、堀之内を追つて来た刑事。知夏は堀之内の拳銃で自殺を図り重傷を負ひ、堀之内(彼が偽ハサミ男である旨は、実は所轄に感付かれてゐた)も追ひ詰められドミノ式スーサイド、堀之内は即死する。結局、真相を知る二人が各々死んでしまつたゆゑ、死んだ日高がハサミ男である、といふ方向で事件は処理される、原作はそこまでで終るらしい。
 映画の方はまだ続き、その後病院に入院した知夏のエピソードがある。その件が、原作にはない部分だといふ。加へて私が目にした書き込みでは、それが余計であるとする憤慨が述べられてあつた。が、そこが素晴らしい、入院した知夏のエピソードこそが素晴らしい。原作にはないといふことは、それはわざわざ池田敏春がどうしても描きたかつた節が脊髄で折り返して想像し得る。だからなほさら、といふ訳ではないが素晴らしい。狂ほしいほどに美しく、燃え上がるやうにエモーショナルな一幕なのである。

 知夏の多重人格症は器用な多重人格症で、自殺した父親の別人格と、知夏の元人格は同時に並立する。さういふ現象ないし症状が実際にあるのかどうかは知らないし、この際現実には存在しなかつたとて特に大きな問題ではない。画面の中では概ね常に、知夏の傍らには実際には存在しないトヨエツがあたかも存してゐるかのやうに描かれる。病室で、知夏のベッドにハサミ男も横たはつてゐる。そこに知夏の母親が見舞ひに現れる。ハサミ男<あるいは知夏の父親>は、「それでは僕は消えるね」と一旦姿を消す(知夏の意識の中から消滅する)。のちに、病院の屋上にて知夏はハサミ男と再会する。
 知夏の父親は、借金苦から自殺したものである。だが、知夏は誤解してゐた。知夏は、中学の時から不登校になつてゐた。知夏は父親が飛び降り自殺したのを目撃したショックから、父親が自分を嫌ひになつたから自殺したのだと思ひ込んでゐた。「私が勉強が出来なくて頭が悪いから、お父さんは自殺してしまつたの!?」、「違ふ」。「私が学校に行かなくなつて、髪もボサボサで可愛くないからお父さんは自殺してしまつたの!?」、「違ふ」。身を切られるやうに切なくも、熱く、重い優しさに満ち溢れた遣り取りが胸を貫く。これまで決定的な代表作に必ずしも恵まれなかつたのが玉に瑕とはいへ、麻生久美子の素晴らしさに関しては論を俟つまい。が、更にそれに加へて、麻生久美子のエモーションに引き摺られただけだといつて済ませばそれまでかも知れないが、初めて豊川悦司も普通に高く評価する気になつた。
 自殺した父親の人格を、知夏は自らの中に宿しともに生きる。麻生久美子は最早少女といふ齢ではないが、いはばくるくる少女といへよう。くるくる少女とは、8thアルバム「UFOと恋人」の中に収録されてゐる、筋肉少女帯の必殺曲のことである(詞:大槻ケンヂ/曲:橘高文彦、筋肉少女帯/編曲:筋肉少女帯)。ここでの必殺曲とは、この曲を聴いて魂が震へないやうな腐つた感性の持ち主は、B'Zかサザンでも聴いてやがれ、といふ必聴の大名曲であることをいふ。現実には存在しない、妄想の中の恋人と恋愛をする少女を歌つた曲である。

>くるくる少女は 膨らむ胸に  彼からの電波受信機がある
>アア 天秤座 夜  踊つた二人  夢なんかぢやない
>内面!ぐるぐる  内面!変はつたわ  内面!彼とのおしやべり
>内面!貰つた  内面!プレゼント ママが捨てた
>内面!夢でも  内面!ウソでも 恋してた♪   等といつた大槻の書いた狂つた、そして狂つてゐる分だけエクストリームに美しい歌詞に、橘高文彦がメタル全開の激情的な曲を付けた正しくキラーチューンである。
 
 麻生久美子が素晴らしい。くるくる少女の麻生久美子が素晴らしい。もうどうしやうもないくらゐに素晴らしい。息も詰まりさうなくらゐに素晴らしい。自らの心の中にしか存在しない、自らの心の中にのみ存在する死んでしまつた父親と知夏はともに生きる。危なつかしく、儚く脆い。然し時に、過剰なまでに強い。くるくる少女は他の何者にも依存しない、完全に独立したシステムである、だから弱い。当たり前の現し世とは異なり他の何者とも相互補完しない以上逃げ場がない、だから脆い。だけれども、他の何者にも頼ることなく独り屹立してゐる以上、そこには何程かの強さも同時に存する。全うではないとしても、並の人間には出来ない真似をやつてのけてゐる訳である。さういふ二律背反を、麻生久美子はエモーショナルに体現してゐる。
 原作にはなかつたシーンは更に続く。ハサミ男は、知夏の中に、<知夏の中にのみ生き続ける知夏が高校生の時に死んだ父親>は、もうこれからは独りで生きよ、ともう一度知夏の眼前病院の屋上から飛び降り、今度こそ完全に消滅する。飛び降りる前に、これ見よがしに大きく両腕を十字に拡げ、トヨエツが見得を切る。その姿と90°に開いたハサミのイメージとが、十字架にオーバーラップする。それは、くるくる少女達やくるくる少年達に対する、池田敏春のメッセージなのではなからうか。恐らくは「バトルロワイアル」で深作がガキ共に伝へようとしたのと同様な、熱く重い、次世代に対するメッセージである。「生きろ」だとか「ガンバレ」だとかいふ言葉は大嫌ひなので私は殺されても使はないが、我々次世代に対するメッセージである。俺には未来なんてないけれど、そのメッセージは敢て受け止めさせて呉れ。
 どうも私には、「バットマンリターンズ」や「BRⅡ」や「バタフライエフェクト」のやうに、壊れ気味かもしくは完全に壊れた映画にのみ、といふか映画に特に心を揺さぶられる傾向があるので今回も単にそれだけの、惰性に似た性行に過ぎないにせよ、美しく、素晴らしい映画であつた。やゝもすると、麻生久美子が美しく、素晴らしかつただけなのかも知れないが。


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 「人妻を濡らす蛇 -SM至極編-」(2005/制作:セメントマッチ/提供:オーピー映画/監督:池島ゆたか/原作・脚本:五代暁子『呪縛の屋敷』より 桃園書房刊SM小説『蛇』掲載/撮影:清水正二/編集:酒井正次/音楽:大場一魅/助監督:森山茂雄/監督助手:高田宝重・中川大資・松本一真/撮影助手:海津真也・中村純一/協力:後藤大輔、他一社/緊縛:狩野千秋/出演:山口真里・水沢ゆりな・華沢レモン・紅蘭・竹本泰志・中川大輔・神戸顕一・牧村耕次)。出演者中、神戸顕一は本篇クレジットのみ。
 舞台は前篇の三年後、ゆうな(山口)は渋谷武彦(牧村)との交はりも絶ち、現在は平凡な主婦として生活してゐた。ところが夫・水島(中川)の急な仕事により、キャンセルになつてしまつた夫婦のグアム旅行の埋め合はせの温泉一人旅を口実に、ゆうなは再び渋谷の下を訪れ、二度とは引き返せぬ魔界への扉を開いてしまふ、といふ後篇である。
 至極編には、渋谷の知識と技術の全てを受け継いだ弟子・森沢真悦(竹本)と、開華編で大暴れしたエリカ女王様(紅蘭)は電話越しの東京に止(とど)まり、代つて妹分のリョウ女王様(華沢)が新たに登場。竹本泰志には特に心配もないのだが、華沢レモンが女王様として登場して来た時には、前作紅蘭の伊達ではない本職ぶりが印象に強い分、正直些か以上の不安を覚えたものである。ものの、それは完全なる杞憂であつた。中々以上に堂に入つた女王様である、平板にギャルギャルしてゐるやうに見えて、結構カンのいい女優さんでもあるのであらうか。加へて、ゆうなの調教に際し暴走の余り渋谷に逆らひ逆鱗に触れ、挙句エリカ女王様にも見限られ真悦からゆうな以上の苛烈な責めを受ける。といふエクストリームな展開には、ストレートに感動した。
 「バットマンビギンズ」や「亡国のイージス」といつた大作映画―バジェットは一桁違ふが―が、のうのうと何が映つてゐるのかよく判らないポンチ画面を曝してゐたりもする中、何が映つてゐるのかがギリギリ判別出来る暗さの画面をキッチリ撮り上げた、撮影の清水正二は流石の匠を披露。バジェットでいふならば「亡イー」とでも二桁の、「ビギンズ」とならば三桁の差があらう、三桁て。
 ゆうなの美しく、且つ壮絶な野外での吊りを見せた後、自らの死期を悟つた渋谷はSM発祥の地で最期を迎へると書き残し、真悦を伴ひヨーロッパへと旅立つ。魔王然としたSMの権化が、その発祥の地、欧州を死地に選ぶとは。何とも泣かせる脚本である。五代暁子の癖にどうしたのか、消える間際のロウソクか?   >失礼
 結局ゆうなは、東京でエリカがリョウと共に経営するSMクラブに身を寄せることに。亀甲縛りで彩られた肉体にコートを一枚羽織つただけで、妻が急に失踪し荒んでゐた水島の前に姿を現し、夫に自らの真実の姿を晒す、といふのがラスト・シーンである。

 開華編の出来がよかつた分、監督:池島ゆたか&脚本:五代暁子といふコンビからするとどこまで期待してよいものかといふのは、直截にいへば半信半疑以下といつたところでもあつたのだが、それもいい意味で完全に裏切られた。よくて適温のエンターテイナー、といふのが個人的には池島ゆたかに対するこれまでの評価ではあつたが、暗さと歪みのテンションが肝のSM映画を十二分に暗く、歪めてモノにしてゐた。

 一点補足< 前篇、「襦袢を濡らす蛇」に於いては、美術評論家の渋谷(牧村耕次)を激昂させてしまつた若手編集者の小田切(平川直大)が、侘びを入れに渋谷宅を訪れるも苛烈極まりない責めによつて人格を崩壊する。といふ件があるのはいいとして、尺の都合によるものなのかも知れないが、肝心の小田切が渋谷に粗相を仕出かす発端が欠けてゐるのは如何なものか、と述べた。同様に、後篇「人妻を濡らす蛇」に於いても、矢張り足りないと思はれる一幕が大きくひとつばかりある。
 新たに登場するリョウ女王様(華沢レモン)が、主人公ゆうな(山口真里)の調教に際して暴走の余り渋谷の逆鱗に触れ、挙句の果てに姉貴筋のエリカ女王様(紅蘭)にも見限られてしまひ、渋谷の弟子・真悦(竹本泰志)にゆうな以上の苛烈な責めを受ける、といふ展開にはストレートに萌えた燃えたものではあつた。当の暴走の中身といふのが、未だ処女であるゆうなの後門にバイブを捻じ込まうとして、ゆうなのアナル・バージンは後々自らが頂かうと目論んでゐた渋谷の制止を受けるもそれに従はなかつた、といふものである。それならば当然に、渋谷がゆうなに二度目の破瓜の痛みを味ははせるシーンがあつて然るべきであらうと思はれるところなのだが、それがなかつた。それはSM映画の勘所あるいは見せ場といふ意味合ひの上でも、結構致命的な欠損であるやうに見受けられる。

 以下は地元駅前ロマンにて再見を果たした上での付記<< 配役中神戸顕一は、三年前を正確にトレースしたカットでおむすびを食べながら登場する農夫。今回は道も尋ねずに真直ぐ渋谷邸に向かふゆうなを、何処かで見覚えがあるやうな風情で振り返る。冒頭の濡れ場を飾る水沢ゆりなは、真悦の元恋人で、老舗和菓子屋の若旦那との玉の輿に乗る為に、真悦を捨てた女・ミク。真悦のストーキングに関して渋谷の下を相談に訪れ、初めからそのつもりであつた渋谷に制裁の調教を受ける。この一幕も、渋谷の愛弟子にして女を苛烈に憎悪するサディスト・真悦の誕生シーンとして、開巻から輝かしい充実を見せる。


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 2005年6月28日、林由美香が死んだ。享年34歳。未だ現段階では、細かいところは何も判らない。初めて知つた時は、怒らないから趣味の悪い冗談であつて呉れ、とも思つたが、どうやら逃げ場の無い事実のやうだ。詳細がどうあれ、逝つてしまつたものはもう戻つては来ない。天使は、天国へと旅立つて行つてしまつたのだ。

 林由美香、記事等ではAV女優と紹介されることが多い。確かに元々のデビュー自体はAVである。正直そつちのフィールドは丸つきり手付かず、といふかそこまで手が回らないのでよくは知らないが、勿論晩年でもさういふAVの仕事を多少はされてゐたやうである。が、矢張り我々ピンクス、といふか少なくとも私にとつて林由美香といへば、1989年のデビュー作(『貝如花 獲物』/監督:笠井雅裕/未見)以来、百数十本に出演して来たピンク映画の中にあつての林由美香、スクリーンの中の天使、として認識してゐるものである。スクリーンの中の天使、姿形が可愛らしいといふだけで天使だといふ訳ではない。確かに、とても可愛らしい女優さんである。より正確にいふと、二十歳そこらの頃は正直あまり可愛らしくはなかつた―失礼!―が、三十路前辺りから、若返つたのかと思へてしまふくらゐに本当に可愛らしくなつた。もう可愛くて可愛くて、出てる映画が多少詰まらなくとも林由美香が出てゐるからまあいいか、とさへ思へてしまへるくらゐに可愛らしかつた。
 けれども林由美香が天使であるところの―私が勝手に独りでさういつてゐるだけでもあるが―最大の所以は、その声にある。ああもう!可愛くて可愛くて身悶えする他に、もうどうしたらよいのか判らなくなつてしまふくらゐに。私は一体何をいつてゐるのだ?きつと天使といふ生き物はかういふ声で喋るに違ひない、と天使の存在の当否、などといふ無粋なテーマは黙殺の遥か彼方にどうでもよくなつてしまふ勢ひで、声も可愛い。声が可愛い。林由美香の映画を初めて観たのは果たしてどの映画であつたのか、今となつては記憶に全く定かではない。とはいへ、もう四捨五入すれば十年になるピンク映画を観始めた頃から、林由美香といへばエンジェル・ボイス!、と私の中で公式は勝手に定立してゐた。会話の中身なんてどうでもよかつた。といふか、寧ろどうでもいい方がよりよかつた、とすらいつてしまへるのかも知れない。今既に当たり前のやうにある現し世の中にどうにも身の遣り所を見付けられずに、潜り込んだピンクの小屋の暗がりの中、天使の声に、ただ純粋に美しい音に身を浸してゐられる時間は、あれやこれやといふか、あれもこれもの苦しみを、束の間忘れてゐられる至福の瞬間であつた。

 林由美香といふピンク・アクトレス。甚だ故人、といふか天国へと旅立つて行つてしまつた天使に対して非礼であるやも知れぬが、荒木太郎といふ映画監督を評価しない個人的な立場からすれば、その膨大な出演本数に対して、決して、決定力のある代表作に恵まれてゐるとはいへない女優ではある。平野勝之の「由美香」(1997年/製作:V&Rプランニング)は、ギリギリ本腰を入れて映画を観始める以前で観てゐない。いまおかしんじの「熟女・発情 タマしゃぶり」(2004)に関しては、ちやうど生きるか死ぬかのレベルで金に苦しんでゐた時期に公開されたので、観ることが出来なかつた(後日観る機会に恵まれた)。どの道、エンジェル・ボイスに脳の髄まで痺れてしまつてゐる。作品全体の評価などと、瑣末な事柄は最早問題ではなかつた。

 とはいへ、特に思ひ出に残つてゐる映画も勿論なくはない。勇気を振り絞つてあへていふが、私にとつての林由美香思ひ出の一本といへば、「三十路の女将 くはへ泣き」(1999年/製作:サカエ企画/提供:Xces Film/監督:新田栄/脚本:岡輝男/企画:稲山悌二/撮影:千葉幸雄/照明:高原賢一/編集:酒井正次/助監督:加藤義一/音楽:レインボーサウンド/メーク:桜春美/監督助手:北村隆/撮影助手:池宮直弘/照明助手:大橋陽一郎/効果:中村半次郎/出演:水原かおり・林由美香・佐々木基子・平賀勘一・速見健二・平河ナオヒ・丘尚輝)である。憚りながら“思ひ出の一本”だとかいひつつ、林由美香主演作ではないのだが。
 商店街で評判の居酒屋「雲や」の美人女将、野口雪枝(水原)。彼女にゾッコンなスポーツ用品店店主の“源さん”こと佐藤源介(平賀)や、“正やん”こと魚屋でバツイチの鈴木正利(平河)は、「雲や」に通ひ詰めるのは勿論商店街の親睦旅行に誘つてみたりと、どうにかして雪枝を落とさうと必死である。ところが雪枝には、五年前に結婚を約束してゐながら、ム所に入つてしまひ離れ離れになつてゐる吉岡吾郎(速見)といふ心に決めた男が既に居た・・・
 そこで林由美香はといふと。吾郎は刑期を終へ出所したものの、ム所帰りの男が出入りして「雲や」に迷惑をかけてしまつてはマズいと、雪枝の下に戻りあぐねる。そんな吾郎を、拾つて自分のスナック「美風」に住まはせるママ・寺島美咲の役である。
 先に勇気を振り絞つて、といつたが、一体何に蛮勇を要するのかといふと。ピンク映画を観てゐない、観たことがないといふ方には説明も要しようが、監督の新田栄と脚本の岡輝男といへば、“御大”小林悟に劣るとも勝らないルーチンワークのエクストリームさがバーストする、最も禍々しいといふ意味で最強、ではなくして最凶コンビとして御馴染みの二人である。が、この映画、少なくとも今作に限つていへば、やれば出来るぢやないかといふか、偶々雷にでも打たれたか何か悪いものでも食つたのかと思へて来る―随分な言ひ草である―くらゐに、柄にもなく真心の込められたイイ映画なのである。雪枝にうつつを抜かしてゐる間に、女房・ますみ(佐々木)が独り身の淋しさから惨めにもバイブで自らを慰めてゐるのを目撃してしまつた源介が、心を入れ替へますみを抱く濡れ場。ラストには、「雲や」で雪枝と吾郎とを商店街の皆で祝福する宴席が開かれる。クライマックスは一同万歳!!のストップモーション。その中で源介は素直に手放しで雪枝と吾郎とを祝福してゐるが、源介の隣りで正利は何時までも諦め切れずに悔しさを噛み締めてゐる。とても何時もの最凶コンビの映画とは思へないやうな、登場人物一人一人の心情の微妙な襞までが、丹念に描かれてある映画なのである。
 中でも私が最も好きな場面は、何で新田栄の映画なんかで泣いてしまふのだ、と後で恥づかしくなつてしまつた一幕は、吾郎には雪枝といふ約束の相手が居ることを知つた美咲が、けんもほろろに吾郎を「美風」から追ひ出してしまふ件。美咲も吾郎に惚れてゐる。けれども吾郎には、元々雪枝といふ女が既に居た。矢張り吾郎は雪枝と結ばれた方が幸せになれるであらうことは、美咲にも判つてゐる。だから美咲は、前科持ちの吾郎が邪魔臭くなつてしまつた風を装ひ、わざと邪険にして追ひ出すのである。「さつさと雪枝とかいふ女の所に行つちまひな!」、と口に出してこそいはないが、惚れた男の幸せの為に、惚れた男を別の女の下へと追ひ返すのである。当然ピンク映画であるからして、美咲は吾郎と寝る。吾郎との別れ際、最後にもう一度だけと美咲は吾郎に抱かれる。都合のいい話である、歌謡曲のやうなシークエンスである。何処にそんな女が居るものか、何だ矢張り何時も通りの岡輝男のスチャラカ脚本ぢやないかと、いふ人もあるのかも知れない。さういはれてみればそれが正しいやうな気もしないでもないが、私は泣いた。二年も前に観た映画であるが、今でも深く心に残つてゐる。
 出演者中本篇クレジットのみの丘尚輝は、「雲や」の板前。他に計四名が、客役として店内に見切れる。

 一度だけ、生の林由美香さんを拝見する機会に恵まれたことがある。何の映画であつたか思ひ出すことが今は出来ないが、故福岡オークラ劇場にて開かれた上映会に、林由美香さんがゲストとして来福されたことがあつた。仕事終りに駆けつけるには少々早い開始時間ではあつたが、台風で到着が遅れて、ちやうどいい時間に間に合へたことを覚えてゐる。元々はAV畑の出身であつたので、擬似が主体のピンクの現場で、初めての時にいきなり本番を仕出かしうつかり名を馳せてしまつた、といふエピソード等を御紹介されてゐた。
 天使は天国へと旅立つて行つてしまつた。虎は死して皮を残す。女優は死ねども映画は残る。これからも、銀幕の中から林由美香はエンジェル・ボイスを行き逸れた私達、といふか行き逸れてゐるのは俺の極私的な事情か、とまれエンジェル・ボイスを、私達に囁きかけたり笑ひかけたりして呉れる。合掌。


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 「ラブホテル 朝まで生だし」(2005/製作:杉の子プロダクション/提供:オーピー映画/監督・音楽:杉浦昭嘉/脚本:丸本昌子・杉浦昭嘉/撮影・照明:小山田勝治/編集:酒井正次/助監督:小川隆史/監督助手:福本明日香/撮影助手:赤池登志貴・花村也寸志/照明助手:永井左紋/現場応援:広瀬寛巳/スチール:梶原英輔/効果:梅沢身知子/フィルム:報映産業/録音:シネキャビン/現像:東映ラボ・テック/出演:せりざわ愛蘭・三茶詩まや・桐島秋子・幸野賀一・柳東史・井上淳一・皆木正純)。
 杉浦昭嘉といふ人は、世代的にはバリバリの若手であるにも関らず、小林悟や小川欽也、十本のうち九本のヤル気を出してゐない時の関根和美らと同じく、どちらかといはなくともネガティブな意味合での大蔵映画(現:オーピー映画)本流に棹差す存在として、広く決して高く評価されてゐない映画監督ではある。尤も、そもそもピンク映画を観てゐる母集団の大きさが小さゝにつき、“広く”もへつたくれもないといつてしまへばそれまででもある。ともあれ、当サイト的には2002年の「独身OL 欲しくて、濡れて」(主演:木下美菜)辺りから、そこはかとなさ過ぎる体裁に隠された、実は一貫して志向されてあるのかも知れない穏やかで順当なエモーションに注目して、新作が公開される度にその人と意識して小屋に足を運んでゐたものである。ところで話は戻るが、小川欽也の和久との名義の使ひ分けには、何某かの主体的、あるいは実質的な線引きといふものは存するのであらうか。心持ち、欽也時よりは和久の時の方が幾分良心的なやうな気がしなくもない。

 脱サラした遊間虎太郎(幸野)は妻のアカリ(桐島秋子/『義父の指遊び 抜かないで!』に於けるダイナマイト・エロ芝居が鮮烈に印象に残る)を伴ひ、営業を停止してゐたラブホテル「ガウディ」の雇はれ支配人を住み込みで働き始める。ガウディの301号室には「何か」がゐて、301号室でセックスするとその何者かの影響で女が感じ易くなる、とかいふ評判が客の間では流れてゐた。さうはいへ虎太郎もアカリも、そんな噂を鵜呑みになどしてゐなかつた。ある日、虎太郎が客の帰つた後の301号室を掃除してゐると、何処からか降つて来るコスモスの花びらと、せりざわ愛蘭の幻想を見る。虎太郎が、過去に301号室で何か事件があつたのではないかと調べてみたところ、五年前、主婦売春を繰り返す女が、301号室で客の男に絞殺される。そして殺された女・千春(せりざわ)の夫・倉本三郎(柳東史)は、農場でキバナコスモスを栽培してゐた。霊媒師(井上淳一/『くの一忍法帖 柳生外伝』で小沢仁志と共同脚本の井上淳一と同一人物?)を呼んでみると、千春の霊は成仏せず301号室に漂つてゐるといふ。虎太郎は倉本を探し出し、ガウディに連れて来る。301号室に独り放り込まれた倉本は未だ、千春のことを許してはゐなかつた。やがてコスモスの花びら舞ふ中、千春の霊が倉本の前に姿を現す。そして赦し合ひ、愛し合ふ二人。千春の霊は成仏した、301号室にはもう何もゐない。ものの評判だけは残り、ホテルは相変らずどうにか繁盛してゐた。開巻インポ気味だつた虎太郎もすつかり回復し、アカリと慈愛に満ちた夫婦生活を完遂し映画は幕を閉ぢる。
 とか何とか、何とはなしに全篇大まかにトレースしてのけたが、杉浦昭嘉映画の主力装備のひとつは、自身でつけてゐるその音楽にあると思ふ。音楽的なサムシングを正確に語る用語も能力の持ち合はせもないのだが、有体に聞いたまゝを言葉にすると、如何にも安物のシンセで適当にこしらへた、安いことこの上ないフニャフニャした劇伴である。が、こゝに断ずる。杉浦昭嘉の音楽は、絶対にヒサイシ・ジョーなんかよりもエモーショナだ、少なくとも小生にとつては。倉本と千春との濡れ場、どうして五年間許してゐなかつた女とコロッと結ばれ得るのか、説明も蓋然性の欠片もない。だが然し、杉浦サウンドによつて、全ては然るべき流れとしてすつかりシークエンスが成立してしまふ。まるつきり納得させられて、ついうつかり感動すらして観てしまふ。音楽的にはよしんば決して高級な代物ではないにせよ、杉浦昭嘉の音楽は劇伴としてさういふ説得力を有してゐる、と私は思ふ。正直さういふ私見に、あまり自信を持てるものでもないのだが。
 要は相も変らない、杉浦昭嘉を評価してゐない向きからしてみれば又ぞろな、何でもない映画でしかないのかも知れない。が、プログラム・ピクチャーといふカテゴリーの中で、何でもないけれど実は案外誠実、といふ映画を撮り続ける営為はそれはそれで矢張り尊くもあり、またそれは目先の何でもなさに囚はれてゐては、決して見えて来ないのではなからうか。といふのも蛮勇を振り絞り、ここで強く訴へたい、一体誰に対して、何に向かつて。
 素晴らしいオッパイの三茶詩まやと普通にイケメンの皆木正純は、レイプ体験に基くセックス恐怖症を克服するべく噂を頼りにガウディを訪れる水鳥薫と、彼氏の中田松彦。もう一組絡みは見せずに見切れる301号室のカップル客は、スタッフ動員か。となると女の方は、福本明日香?映画の最初と終盤にもう一度、虎太郎に「儲かりまつか?」と声をかける往来なのに首からタオルを提げた浴衣が杉浦昭嘉。

 付記< 今作に俳優部で登場する井上淳一は、何かと面倒臭さうな御仁の井上淳一とは単なる同姓同名のレッドな別人


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 「重甲ビーファイター」第十五話、「翔んだアイドル」(1995年 5年14日放送/監督: 渡辺勝也/脚本:扇澤延男)。この脚本の扇澤延男といふ人、今回この雑文を書くに当たつてあれこれと調べてみたところ、これも又私の大好きだつたドラマ、「刑事追ふ!」の中でも一番ダークだつた第四話「陰画」や、屈指のストーリーの完成度を誇る第六話「籠城」の脚本も手掛けてゐる、その筋では結構それとして名の通つた人でもあるやうだ。

 「重甲ビーファイター」。特に必要もないので説明は最小限度に止(とど)める。甲虫をモチーフにしたメタル・ヒーローであるビーファイターが、地球の平和を守る為に異次元からの侵略者ジャマールと戦ふ物語である。

 「翔んだアイドル」、主人公は町工場で働く工員の守。壊れたおもちやを直してあげたりと子供達からは人気者であるが、同僚からは苛められてゐる。母親を養ふ為にも、辛い日々を辛抱して過ごしてゐる。守の唯一の心の支へは、アイドル歌手の矢野かおる。矢野かおるが出演するテレビに守が噛り付いてゐると、他の工員からは「矢野かおるも守なんかがファンぢや迷惑だよな」、などと酷い揶揄を受ける。
 ジャマールが今回投入する怪人は、その名もブーブーブー(ここで笑ふのはあへてナシにしよう)。ブーブーブーが鼻から噴出するガスを吸ふと、人間は「ブーブーブー」としか言へなくなつてしまふ。そのことによつてコミュニケーションを根本から阻害し、社会を大混乱に陥れようといふのが、今回ジャマールが展開する高尚なのだか下らないのだかよく判らない作戦である。
 矢野かおるがブーブーブーガスを吸つてしまひ、「ブーブーブー」としか言へなくなつてしまふ。パパラッチに追はれ、逃げ隠れしてゐるところをかおるは守と出会ふ。パンク・ミーツ・アイドル、「ブーブーブー」としか言へないかおるはとても人前には出て行けぬ、かおるを連れて守は逃げる。守はかおるを守る為に、そして憧れのアイドルを独り占めする為に、ビーファイターとの戦闘で不時着し半壊したジャマール戦闘機を修理する。かおると二人で誰も居ない、何処か二人だけの世界へ逃げるのだ。
 どうにか修理を終へ、守はかおるを乗せジャマール戦闘機で飛び立つ。一方、ビーファイターは撃墜した筈のジャマール戦闘機の飛行を察知する。三人のビーファイターのメンバーの中から、紅一点のレッドルが追ふ。
 守とかおるの前に現れたレッドル、レッドルは守に言ふ。予め断つておく、ここから先は、正確な台詞の一言一句を覚えてゐる訳ではない、基本的に大意である。レッドルは守に言ふ、「ブーブーブーを倒せばかおるちやんも元に戻る、大丈夫よ」。守はレッドルに答へた、「それならばブーブーブーを倒さないでお呉れ。元に戻つてしまへば、かおるちやんは再び僕の元を去つてしまふ」。当然、レッドルはそんな守を激しく叱責する。「相手の不幸につけこむような、そんな寂しい夢は見ないで!私は怪物を倒す、被害に苦しんでいる人の為に。そして、マモさん、あなたの間違った夢を終らせる為にも !!!!!!!!」。この台詞に関しては色々と調べてゐたら出て来た、大体実際にこんな感じの台詞であつたと思はれる。
 抗弁するでなく、守は振り絞る。(自分が間違つた夢を抱いてゐることは承知の上で)「間違つた夢でも、そんなものしか縋り付くもののない人間だつてゐるんだ」。この瞬間扇澤延男は三十分の子供番組で、三十分丸々コマーシャルに毛の生えたやうな特撮番組で、100%の覚悟を見せた。世界の99%を全て捨てても、残りの1%に全力を懸ける100%の覚悟を見せた。

 日本一の名評論、田恆存の『一匹と九十九匹と―ひとつの反時代的考察―』(昭和22年2月)からの孫引きである。新約ルカ伝より、「なんじらのうちたれか、百匹の羊を持たんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたずねざらんや」。親鸞上人の「善人往生を遂ぐ いはんや悪人をや」といふのも、甲本ヒロトが「君が救はれないんなら 世界中救はれないよ」と歌つたのも、全く同じ意味であると私は理解してゐる。因みに『一匹と九十九匹と』、は前出引用からかう続く。「文学にしてなほこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか」。間違つた夢にしか縋り付くもののない、失せたる一匹の為に、ここで扇澤延男は全てのエモーションを懸けたのだ。

 結局、ビーファイターはブーブーブーを倒す。「ブーブーブー」、としか言へなかつた人々も元に戻り、社会は平穏を取り戻す。元に戻つたかおるも、「これで又歌へる」と一言礼を残し呆気なく守の下を去る。置き土産といふ訳でもないが、ジャマール戦闘機を修理してゐた時にかおるが汗を拭いて呉れたタオルを見詰め、「仕方がないけどこんなもんか」と守はションボりする。
 ラスト・シーン。工場で、何時ものやうに働いてゐる守を、不意にかおるが訪ねて来る。これから二人の、本当の関係が始まるのだ。


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 「妻失格 濡れたW不倫」(2006/製作:ナベシネマ/提供:オーピー映画/監督:渡邊元嗣/脚本:山崎浩治/撮影:飯岡聖英/照明:小川満/編集:酒井正次/助監督:永井卓爾/監督助手:野崎諒一/撮影助手:邊母木伸治・宮原かおり/照明助手:八木徹/スチール:津田一郎/効果:梅沢身知子/タイミング:安斎公一/録音:シネキャビン/現像:東映ラボ・テック/出演:夏井亜美《桜井あみ改め》・沢田麗奈・真田幹也・西岡秀記・朝倉まりあ)。出演者中、夏井亜美の“桜井あみ改め”括弧特記は、実際さういふ風にクレジットされる。
 知人の結婚式で会した二組の夫婦、諏訪啓太(西岡)・かすみ(夏井)夫妻と、及川仁(真田)・詠美(朝倉)夫妻。かすみ・詠美・仁は元々会社の同僚で、啓太は三人の会社に出入りする、オーピー商事の営業マン。結婚前、総合職の詠美は仁へのラブレターを一般職のかすみに代筆を頼み、そのお礼にと啓太を紹介した間柄だつた。お人好しの仁はその後リストラされ、現在は専業主夫として家庭に入つてゐる。仕事が忙しいと詠美と啓太は連日午前様、その裏で、二人は互ひの結婚前からの肉体関係を依然続けてもゐた。独り取り残されたかのやうな、漠然とした不安をかすみと仁は共有する。ある日、啓太に傘を持たせ送り出したかすみに―詠美ではない―啓太の浮気相手から宣戦布告とも取れる、挑戦的に不倫を告発する電話が入る。
 出し抜けに飛び込んで来た頂上、松岡邦彦の「ド・有頂天ラブホテル」に続く、当サイト選定2006年ピンク映画暫定第二位。藪から棒にどうしたものか、今回渡邊元嗣は決して最終的には伝へられないもどかしい純愛を、もどかしく切なくも美しく、何処にこんなスペックを隠し持つてゐたのかとさへいふべき必殺の丹念さを以て描き切る。主要キャストの半分が幸せにはなれないまゝに、なほのこと観客の胸を撃ち抜くラブ・ストーリーの傑作である。
 詠美に頼まれ、かすみは仁への恋の便りを代りに認(したた)める。机上には、詠美と二人写つたスナップ写真。楽しげに笑ふかすみと詠美、の背後に、仁が見切れる。詠美と二人のスナップではなく、後ろに小さく仁が見切れる写真を、かすみは結婚後も大切に保管してゐた。モノローグですら決して言葉では語られぬ、かすみの仁への想ひ。仁への恋情をそのまゝに、かすみは詠美名義の手紙に仮託する。結果仁は、詠美と結婚する。現在時制、互ひの伴侶の不貞に悩む仁はかすみに、本当はかすみが好きであつたのを、あのラブレターが詠美を選ぶ決め手となつたと熱く語る。その手紙こそが、実はかすみの手によるものであつたとも知らず。
 全てを台詞頼りに片づけてしまはずに、流麗な編集と巧みな小道具とで物語を紡いで行く展開は圧巻の一言。カット数が、普段のナベシネマより明らかに多い筈だ。飯岡聖英の超絶か渡邊元嗣の機を見るに敏な所作指導かは量りかねるが、黙らせておけばデフォルトで途方に暮れてゐるやうに映らなくもない夏井亜美の表情を、何れにせよこれ以上なく効果的に切り取り作劇の功を奏せしめてゐる。頼りなく見える例(ためし)が多いものの今回は頼りない男役の真田幹也、“ピンク界のケビン・ベーコン”西岡秀記―何だそれ―も、悪人顔を自己中心的なプレイ・ボーイ役に活かし共々適役。朝倉まりあの、当人だけはお芝居をしてゐるつもりの台詞回しは些かキツいが、爆乳勝負の堂々とした桃色の破壊力は極大。攻撃的な撮影が唸る濡れ場のテンションも総じて高く、それでゐて同時に大人の純愛映画として立派に成立を果たす、正しくピンクで映画なピンク映画至高の一本。誰だ、かすみと仁もヤッてんぢやねえか、さういふ無粋を言ひ出す輩は、ポケモソか舞妓の映画でも観てろ。

 配役残り、沢田麗奈は、スポーツ感覚で不倫を楽しむ啓太が詠美以外にも不貞を働く、ホステスの太田美雪。出番は二度の濡れ場のみながら、役柄に絶妙にハマッたキャラクターで、単なる絡み要員に止(とど)まらない重要な繋ぎ役を好演する。
 在りもの音源の使用ではあれ、劇伴も満点の選曲。美しい物語を、いや増して美しく盛り上げる。胸が狂ほしくさせられる、是が非とも小屋で観ておくべき珠玉の一本、有難う御座いました。


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 「萌えメイド 未成熟なご奉仕」(2006/製作:ナベシネマ/提供:オーピー映画/監督:渡邊元嗣/脚本:山崎浩治/撮影:飯岡聖英/照明:小川満/編集:酒井正次/助監督:永井卓爾/監督助手:清水雅美/撮影助手:小宮由紀夫/効果:梅沢身知子/衣装・下着協賛:ウィズ・コレクション/出演:藍山みなみ・風間今日子・なかみつせいじ・西岡秀記・堀本能礼・華美月)。照明助手に力尽きる。
 軽くゴス寄りのロリータ娘・田口梢(藍山)と、梢と何時でも一緒ながらもまるで対照的な、特服上等!のヤンキー娘・榊原麗奈(華)。カード・ショッピング狂ひで自己破産寸前の梢は、如何にも胡散臭げなスカウト・香坂(堀本)に誘はれるままに、メイド・デリヘル「萌えるメイド御殿」の門を叩く。メイドもデリヘルも冗談ぢやねえ、と突つ張る麗奈ではあつたが、香坂の妻にして御殿の女主人がかつて世話になつたレディース“愛死天留”の三代目総長・冴子(風間)であつたことから、義理を重んじ梢と行動を共にすることにする。
 前作「盗撮サイト 情事に濡れた人妻」から二枚看板と男優陣の2/3を踏襲した今作は、判り易過ぎてこの期に指摘してみせるのも些か憚られるが、ピンク版「下妻物語」である。麗奈が出撃するのは、引きこもりの野間哲也(西岡)、いきなり仁義を切るメイドが何処の宇宙に居るものか。一方梢をホテルに呼んだのは、何某かデカい粗相を仕出かし秘かに死を決意した馬場忠太郎(なかみつ)。ここに至つて、「下妻物語」云々以前に少なくとも公開は三ヶ月前の、「巨乳妻メイド倶楽部」(監督:的場ちせ)にプロットが似通つて見えてしまふのは、どうにも如何ともし難い。「下妻物語」を、当時壊滅的に金に困つてゐた為未見につき、どういふお話なのか殆ど全く知らない、といふ極々私的な事情にもよるものなのかも知れないが。
 とはいへ馬場が麗奈の生き別れた父親であることを梢が知つてからは、「下妻物語」もメイドも何処吹く風、物語は俄かに大衆文学の世界へとシフトする。かういふいい意味での節操の無さ、といふのも娯楽映画の活きの良さを計るひとつの尺度であらう。全般的にルーズな凡作だと、グダグダと右往左往するばかりで目も当てられないが。川原で二人、梢と麗奈は馬場を探す。「馬場さあん!」、「お父さあん!」、「忠太郎!」、「馬場忠太郎!」、最後に声を合はせて「番場の忠太郎!」、二人は顔を見合はせる。なかなかに鮮やかな脚本の魔術に感心したのも束の間、二人の前方を入水自殺を図るべくロープで自らの体に縛りつけた巨石を抱へた、馬場がヨタヨタと歩いて行くショットは実に笑はせる。渡邊元嗣の軽妙洒脱と、それに十全に応へ得るピンクが誇る天下の千両役者・なかみつせいじ。何といふこともないままに、完成度の高さが光る。馬場が麗奈の生き別れた父親であることを梢が悟るに至つた、二段構への伏線も堅実。当たり前の手続きの重要さを、改めて実感させられる。
 兎にも角にも、御馴染みウィズ・コレクション提供衣装に動くカタログ感覚で身を包んだ藍山みなみの、可愛らしいこと可愛らしいこと。例によつて提供衣装は目下日本で独自の進化、あるいは退化を遂げつつある俗流解釈―俗の前に“風”をつけてもよいが―による今時のメイド・ファッションですらない、ゴス目のロリータ衣装かあるいは単なるエロ衣装でしかないのだが。麗しい黒髪に、小さな顔の半分は最早あらうかといふアラレちやんメガネの藍山みなみ。話は最遠方に逸れてもしまふが、ここでひとつだけ明らかにしておきたい事柄がある。アラレちやんメガネといふのは、『Dr.スランプ』でアラレちやんがかけてゐたメガネのことを指すものではない。正しくは、デビュー当時の香山リカがかけてゐたメガネである。話を戻す、アラレちやんメガネにロリータ衣装の藍山みなみ。ひとまづ視覚的な完成を見たことに加へて、まるでマンガかアニメの登場人物がそのまま飛び出して来たかのやうな、オーバー気味のキュートな所作が実に上手くはまつてゐる。元来この筋の最強硬は、二次の世界に頑なに留まることを選び三次元の世界に目を向けることすら潔しとはしない向きも多く見受けられるやうではあるが、今作の藍山みなみに関しては、さうした方々からも十二分に御賛同を得られるのではなからうか。
 結局コンセプト、としての文言だけ拝借して、全般的にはメイドといふものを全うに追求する気配のあまり窺へなかつた渡邊元嗣ではあるが、オーラスは「行つてらつしやいませ御主人様☆」、とメイドカフェよろしく映画を締め括る。ピンクの小屋でそんなことをいはれても、なかなかにどうしたらいいものか複雑なところでもある。俺は又此処に帰つて来るのか、帰るところでもないだらう。

 麗奈と馬場は、共に熱狂的な矢沢C吉ファン。矢沢C吉語録『盛り上がり』、の表紙をわざわざ作るまでは良かつたが、どうせそこまでするならば、正確にはそこは矢沢C吉激論集ではなかつたか。“激論集”つて何だよwwwと、この期には苦笑せぬでもないが。


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 「盗撮サイト 情事に濡れた人妻」(2006/製作:ナベシネマ/提供:オーピー映画/監督:渡邊元嗣/脚本:山崎浩治/撮影:飯岡聖英/照明:/編集:酒井正次/助監督:高田宝重/監督助手:永井卓爾/撮影助手:橋本彩子/照明助手:赤羽剛/効果:梅沢身知子/下着協賛:ウィズ・コレクション/出演:華美月・藍山みなみ・瀬戸恵子・西岡秀記・堀本能礼・真田幹也)。問題なのが、照明が本篇クレジットにはポスター等にある、佐々木英二ではなかつた。一関といふ苗字までは拾へたのだが、力及ばず。
 牧村正午(西岡)と京香(華美月)の若夫婦が、何処にあるのだか、超頻出のハウス・スタジオに転居して来る。一般映画に即していふと、「菊次郎の夏」にて、正男の母親が別の家族と新しい生活を送つてゐた一軒家である。出張で家を空けがちの正午に対し、京香も京香で実父が体調を崩したと、実家に戻ることが多かつた。何か常に監視されてゐるかのやうな、漠然とした不安を覚える京香は正午に相談してみるものの、忙しさにかまけ満足に取り合つてさへ呉れない。正午との夫婦生活のあつた次の朝、“ミスターX”とベタに名乗る謎の送信者から、京香にそのことを指摘するメールが届く。正体不明の、されども確固とした悪意に、京香は次第に蝕まれて行く。
 といふ極めてオーソドックスなプロットの、といふか要は代り映えのしない若妻盗撮サスペンスである。藍山みなみは、夫婦生活を知るメールを受け取り現実的な監視の恐怖に慄く京香を不意に訪問する、独身時代のレズビアンの相手・松浦佳苗。京香を奪はれてしまつたと、以前の関係を取り戻さうとする。現在の幸福を守る為に、京香は佳苗を拒む。二人揃つて、素材で得体の知れぬキャラクターを好演する堀本能礼と瀬戸恵子は、大家夫婦の松尾恵介と美恵子。
 抑揚に欠ける展開はのんべんだらりと進行し、底の浅い真相が明らかになりかけたところで、無茶な体勢から無理矢理引つこ抜いたジャーマン・スープレックスのやうな、滅茶苦茶な大技が炸裂する。ふたつばかり見られた不自然な描写を伏線として巧みに回収してみせるどんでん返しは、強引に程がありながらも見事に結実。それまではさしてパッともせぬそこら辺のAV嬢程度にしか見えなかつた華美月が、両手を吊られ拘束されたままとはいへ高笑ひ珍しく額面通りの“衝撃的な真相”といふ奴を、観客に提示してみせるシーンは正しく圧巻。ここで京香の誇るまるで別人のやうな輝きには、渡邊元嗣の普段は発揮されぬことも多い底力が大いに発揮、全篇を通した撮影部の安定も、地味に光る。。狂乱的な乱交シーンで堂々と締め括る、力強い快作である。それでゐてラスト・ショットは主演女優の呑気なVサインで締めてみたりする無邪気さは、実に渡邊元嗣らしい。

 唯一惜しいのは、キー・パーソンたる涼役の真田幹也。他の登場人物と、観客との予想を超えて性の深淵を極めんとする京香が見初めた男にしては、若いのは構はないがどうにもかうにも心許ない。佇まひの質量が清々しく足りぬ。


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 「痴漢電車 エッチな痴女に御用心!」(2005/製作:ナベシネマ/提供:オーピー映画/監督:渡邊元嗣/脚本:山崎浩治/撮影:飯岡聖英/照明:ガッツ/編集:酒井正次/助監督:田中康文/監督助手:金沢勇大/撮影助手:橋本彩子/照明助手:任泰至/出演:飯沢もも・華沢レモン・真田幹也・西岡秀記・朝倉まりあ・広瀬寛巳、他多数)。出演者中、広瀬寛巳他多数は本篇クレジットのみ。
 亀山冬樹(真田)は電車の車中で、須藤千尋(飯沢)が痴漢されてゐる現場を目撃する。ちやつかり自分もさりげなく手を伸ばしつつ、そんな己は心の棚に上げ、痴漢を告発する。痴漢男・田村義夫(西岡)は容疑を否認するも、田村の手が千尋の秘部に触れてゐる写メを撮影した、女弁護士の須藤奈穂(朝倉)が横から現れる。電車を降りるや、奈穂はその場で千尋の代理人となり、IT企業の重役だとかで世間体を慮る田村とチャッチャと示談を成立させる。ところが実は、千尋と奈穂とはコンビを組んだ、姉妹詐欺師であつたのだ。因みに千尋が妹。
 電車男をトレースするかのやうな導入部から一転、エルメスに相当する女が肉体を武器にした桃色詐欺師であつたところから、映画はさつさと全く別の物語へと移行する。
 華沢レモンは、ローン詐欺師・田村美貴。それにしても女詐欺師の多い世界だ、工夫を欠いてもゐまいか。牛乳瓶メガネで、待ち合はせた婚約者と間違へたふりをして男に近付いては、あれやこれやと誑し込み新たに結婚の約束を取りつけると、結婚指輪と称して指輪購入の高額ローンを組ませる。冬樹を今にも落とさんとしたところを、何のことはない同業者である千尋に阻まれる。奈穂は美貴と組んだ田村に、結婚を餌にちらつかされ、虎の子の貯金を逆に巻き上げられてしまふ。一方千尋は、冬樹の子供を身篭つたとして、堕胎手術の費用を巻き上げようとするも、失業中で収入が無いにも関らず、田舎生まれの冬樹は子供は宝だ、と子供を産んで呉れることを主張する。そんなこんなで冬樹の純愛と、姉妹の田村への復讐とが展開の主動因となる。矢張り電車男とは全然違ふお話だ。
 すれつからしの女詐欺師が、田舎生まれの主人公の純朴さに絆され失つてゐた人間性を取り戻す。といふプロット自体には何ら不足はないのだが、飯沢ももの、如何にも今時のギャルギャルしただらしのない口元が、個人的には私のこの映画への愛を妨げた。残念なことではあるが、たとへそれがどんなに即物的で仕方のない理由であつたとしても、それが矢張り映画、といふか映画鑑賞にとつて最も重要な要素のひとつであることには疑ひもなからう。

 東京での封切りは12/30、即ち要は今年の正月映画である。ピンクとはいへ正月映画ともなれば、普段は三人しか出て来ない―脱ぐ―女優が四人、五人と出て来たりと、それなりに豪華であつたりもするのだが。今作に関しては朝倉まりあのオッパイと、広瀬寛巳以下の妙に潤沢な電車乗客要員の頭数以外には、とりたてて豪華なところはない。


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 「夫婦交換 刺激に飢ゑた巨乳妻」(2005/製作:ナベシネマ/提供:オーピー映画/監督:渡邊元嗣/脚本:山崎浩治/撮影:飯岡聖英/照明:小川満/編集:酒井正次/助監督:永井卓爾/監督助手:宮崎剛/撮影助手:橋本彩子/照明助手:石井拓也/下着・大人のおもちや協賛:ウィズ・コレクション/出演:朝倉まりあ・未来祐樹・なかみつせいじ・西岡秀記・風間今日子)。
 ジョイトイ会社に勤める営業課長の原田哲夫(なかみつ)と、宣伝コピー担当の伊藤龍太(西岡)。哲夫・七瀬(朝倉)夫婦と龍太・綾乃(未来)夫婦は経費削減のため、一軒家の社宅―ピンク超頻出のハウススタジオ、何処にあるのだらう?―の二階と一階とに分かれ同居してゐた。七瀬と綾乃はそれぞれセックスレスにあつた欲求不満を解消する為、フリマのチラシを見てゐて思ひついた、互ひの夫を交換するスワッピングを仕掛ける。
 元々はさういふ物語の筈―多分脚本はさうなつてゐるのではあるまいかと思ふ―なのであらうが、何故だか渡邊元嗣は七瀬と綾乃とがそれぞれ単独で互ひの夫と浮気をし、それが偶々交叉したかのやうに描く。尤も、映画が最も面白く弾むのはその、それぞれ一緒に居る七瀬&綾乃と哲夫&龍太とが、それぞれの浮気相手と携帯で話す、浮気相手の配偶者が隣に居ると知らずに、といふシークエンスであつたりもする。
 展開も渡邊元嗣の演出も、衝撃を受けた登場人物に『ガビーン !!!!!!!!』とか実際にいはせてみたりなんかする古色ゆかしい苔むした代物ではあるものの、熟練したなかみつせいじの変幻自在のオーバーアクトが意外に映画の体を成し、有無をいはせぬ朝倉まりあのド迫力の爆乳はピンクを補完して余りある、といふかお腹一杯にさせて呉れる。

 風間今日子は、哲夫の得意先のSMクラブ女社長・万里子。


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