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真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 関根和美の2001年の旧作「痴漢電車 ぐつしより下唇」(脚本:関根和美・小松公典/撮影:柳田友貴大先生)を観に行つた。既に感想も書いてある。感想を書いた際の時点で、故福岡オークラで数度観てゐる映画である。今回で、人生通算では四~五度目にならうかとは思ふ。いきなり実も蓋も無い結論を述べてしまふと、ハッキリいつて、さうさうといふかそもそも、何度と観る映画では全くない。一切ない。些かもない。一度途中で寝てしまはずに最後まで観通すことが出来たならば、それきりにしてしまつて完全に構はない映画である。寧ろ、寝落ちたままにしたとて、何程か喪ふものも、得損なふものがある訳でもない。既に述べてあるやうに、十本中八、九本の何時もの関根和美の中でも、底の方に位置する一本である。ルーチンワークの極みにある一本である。
 さうはいひつつも、そんな「ぐつしより下唇」をスルーしようとは、欠片も思はなかつた。のんべんだらりとしかしてゐない関根の旧作を、私は普通に観たくなつてゐた。いとほしくすら感じ、いとほしく観に行き、いとほしく観て来た。
 幾度繰り返し観ようと、新たに得るところのものなど無いことは、勿論とつくに初めから判つてゐる。“ラブキング”章吾(中村拓)の奸計に陥れられ、美咲(小泉未貴)と結ばれる筈が痴漢の汚名を着せられた植草教授、もとい聖二(山崎岳人)が、拡声器片手に章吾と美咲とがセックスするホテルの部屋に突入するクライマックス。そのシーンに、既に遥か彼方に通り過ぎられてしまつた昔のこととはいへ、未だ祭りの季節忘れじ、な関根和美の頑強な活動屋魂が発露、してゐよう筈もない。私はそこまでアクティブな映画の観方をしはしないし、又するべきでもないと思つてゐる。
 詰まるところ、初めから詰まらないと判つてゐるピンクをノコノコ観に行つて、勿論詰まらないままに、それでもいとほしく観て来たのである。それは福岡オークラを喪つてしまつたことによる、だらしのないセンチメンタリズムであるのかも知れないが、なほのことそれでも構はないと思ふ。ルーチンワークであらうと何時もの関根和美であらうと、ゴミ映画クズ映画Z級以下のカス映画であらうと、今は一本一本のピンクが、それでもいとほしくて仕方がない。といふか、逆からいへばそれでも荒木太郎は観る気がしないのか?
 詰まらない映画は詰まらない。出来の悪い映画は出来の悪い。ヤル気が全く感じられない映画には、矢張り全くヤル気が感じられない。全くヤル気が感じられないとまでいふのは、流石に今作に関しても言ひ過ぎか。少なくとも脚本には、起承転結を手際よく纏めた、娯楽映画の正統への誠実な志向が感じられる。それも些か褒め過ぎかも(爽)。全篇を通してボーン・トゥ・ビー・ルーズな演出と、全く蛇足としか思へない大オチとが一切を台無しにしてしまひはするが。とはいへ、加藤義一に撮らせてみたならば、もつと幾らでも面白くなつたやうな気もしないではない。
 話を戻すと、私は決して、もしくは私とて、今作に何程かの価値を見出さうとしてゐる訳ではない。今作を、ストレートな凡作といふ謗りから救ひ出さうとしてゐる訳でもないことだけは、ここに声を大にして言明しておく。私が感じたいとほしさは、所詮私の気の迷ひに過ぎないことは、最初から、そして最も判つてゐるつもりである。その上でなほ、それでもいいのではないか。それはそれで、それでもいいのではないか。
 久々に繰り返すが、当サイトが推奨するピンク映画の観方とは。つべこべいはず、番組が変る毎自動的に、兎に角黙つて百本観るべし。話はそれからだ、といふものである。映画会社や監督の名前で映画を掻い摘んで、それはそれとして巨大なピラミッドの一角のみを、それなりに広大な大海の上澄みだけを掠め取るやうな真似は詰まらん。ミニシアターで一般公開もされるやうな映画や、レイトショーで特集上映を組まれるやうな映画だけを観て、それがピンクか。何をかいはんや。冗談ではない。冗談ではない。冗談ではない。
 どうやら映画の撮り方を根本から忘れてしまつたらしい瀬々敬久の、全盛期の文字通りの圧倒の凄まじさに関しては、ここで出遅れるにも甚だしい私如きの論を俟つまでもなからう。それはひとつの頂点であり、絶対である。当サイト絶賛の、山邦紀の最強。観客の全てを翻弄して狂ひ咲く変幻怪奇と、実は的確にそれを統べる冷徹な論理。超絶のデビュー作から四年、未だVシネに下野したままの城定秀夫の必殺。当たり前を当たり前のやうに撮る。表面的には見えにくいけれども、実は最も確かな技術が要求されるフィールドにプロフェッショナルとしての良心を賭ける、古くは伊藤正治や中村和愛らの、忘れ去られるにはあまりに惜しいエクセスの沈黙する宝石達。最近では再び登場、オーピーの若きエース格・加藤義一。燦然と輝く巨星、超新星、キラ星達。それらは勿論素晴らしい。それはそれで勿論いい。その上でなほ。
 「ぐつしより下唇」。今作のやうな純然たるやつつけ仕事に対してさへ。時にいとほしくていとほしくて仕方のない時もある。仕方のない者もゐる。ハチャメチャな自己紹介をするが、私のハンドルは、(近代)ドロップアウトカウボーイズである。何故に単身一個人であるにも関らず、“ドロップアウトカウボーイ”ではなくして、あくまで複数形なのか。もしも仮に万が一、この世界、即ち近代の中で、ただ独り私のみが近代的個人になり損ねた不完全な存在であるならば、元より欠片の値打ちも無いこの命、何時でも強制終了させて呉れる。晴れ晴れと、些かも自慢にならない手柄として、この命と引き換へに不完全な世界を完成させて呉れる。が幸か不幸か、私はそれ程特別な人間ではない。残念ながら、私の不完全さは完全であり、何事か特殊なものですらない。平々凡々たる不完全さである。それ故の、あくまで複数形の“ドロップアウトカウボーイズ”なのである。
 かつて中原昌也は、ティム・バートンを評してかう言つた。「ティム・バートンは、心のさもしい人間のための映画を撮り続ける」。当該書籍が、引越しをしたきり(越したのは二年半前以上前であるが)何処に箱詰めしたのか判らなくなつてしまひ出て来ないので、正確には細部に差異があるやも知れぬ。ともあれ。くどいやうだが、今作のやうな、純然たるやつつけ仕事。あくまでひたすらに、それでも番線を支へ続けて来たこと以外にも、心の貧しい者の為の貧しい映画。さういふものも、時にあつてもよいのではないか。埒の明かぬいとほしさの果てに、戯れにさういふ一層埒の明かぬ結論に達してしまつた。心の貧しい者の為の貧しい映画。さういふ映画ばかりでも、困つてしまふが。


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