真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「ウルトラヴァイオレット」(2006/米/監督・脚本:カート・ウィマー/出演:ミラ・ジョヴォヴィッチ、キャメロン・ブライト、ニック・チンランド、ウィリアム・フィクトナー、他)。
 21世紀末、軍の研究課程に於いて全く新種のウイルスが発見される。このウイルスに感染した人間は、知能、身体能力が共に驚異的に発達し、超人間“ファージ”と呼ばれた。ファージの高過ぎる能力に恐れを抱いた人間政府はファージの撲滅を開始、僅かに生き残つたファージは地下に潜り武装組織として先鋭化、両者の間で苛烈な戦闘が繰り広げられてゐた。
 ファージを根絶する最終兵器が開発されたとの報に、ファージは最強の戦士を送り込む。彼女の名前はヴァイオレット(ミラ)。感染者の夫と身篭つてゐた胎児とを人間政府に奪はれたヴァイオレットの人生には、最早復讐の二文字しか残されてゐなかつた。死闘の末、最終兵器の強奪に成功するヴァイオレット。秘密のベールに隠された兵器の正体は、九歳の少年・シックス(キャメロン・ブライト)であつた。人間への憎悪と、全てを復讐に捧げた今となつても矢張り残されてゐた母性との狭間で、ヴァイオレットは逡巡する。
 三ヶ月早く公開されたアメリカからも兎も角、後に詳しく触れるが兎に角芳しい評判を殆ど全く耳にしない映画である。カート・ウィマーの前作「リベリオン」(2002/主演:クリスチャン・ベール)に関しては、アメリカでは矢張りサッパリであつたが、少なくとも日本ではそれなりに好意的に迎へられてもゐたやうな記憶もあるのだが、今作は洋の東西を問はず、それこそケチョンケチョンの感がある。
 確かに私も、「ウルトラヴァイオレット」がよく出来た映画であると申すつもりは全くない。素晴らしい映画であるだなどと、口が裂けても言へない。だが然し。臆面も無く言ふが、私はこの映画が大好きである。大絶賛は断じてしないけれども、大満足である。「ウルトラヴァイオレット」には私に大好きであると言はしめるサムシングがある・・・のか、それとも彼我の映画の観方に何か本質的な差異があるいはあるのか、そのことを確かめに、二回観に行つたものである。果たして、答へは見付かつた。
 ケチョンケチョンの中身は、大体以下のとおりである。全部挙げて行けばそれこそキリが無いので、大まかなところで止める。曰く、最終兵器を強奪して逃走するヴァイオレットの、重力を自在に操作してビルの壁面を走行するバイクと攻撃ヘリとのチェイス・シーン(主に)のCGが、ゲーム画面以下にショボい。曰く、SF的世界観が殆ど全く蔑ろにされたまま、お話が安易な「グロリア」ものに収束してしまつてゐる。大体、凡そは吸血鬼のやうな存在である、らしいファージの基本設定は何処に行つたのだ(設定の中では、ファージは高ポテンシャルの代償に、血液中の赤血球がウイルスに侵食されてしまひ、定期的に血液を補給しなければならず、感染後十二年の生命、らしい>この辺りは本当に等閑にされてしまつてゐる)。曰く、ただでさへ安易な「グロリア」ものの中で、更に三十分鋏を入れられてゐるからかどうかは兎も角(公開尺は87分)、人間ドラマがハチャメチャ。序に下線部に関しては、他に四次元ポケットの要領で武器が無限に都合よく出て来る、次元圧縮テクノロジーなるトンデモ・ギミックも全篇を通して登場する。これは画面的にはカッコいいが。
 確かに、これらの指摘はどれも全くその通りである。全く異論を差し挟む余地は無い。ただその上で、私が思ふのは。私はこれまでも、往々にしてさういふ映画の観方をして来たやうな気も改めてみるとして来るが、今回初めて、意識的に明確に言葉にした形で認識するに至つた。必ずしも須くさういふ態度を取るべきである、だなどとは決して申すつもりはないが、かういふ映画は、あそこが駄目だここも駄目だ、といつた風ないはゆる減点法、を以てして観るべきではないのでなからうか。
 かういふ映画といふのは、「ウルトラヴァイオレット」はSF映画でもなければアクション映画でもない。勿論感動ドラマの類では更に一層ない。それでは何なのかといふと、「ウルトラヴァイオレット」は、ガン=カタ映画である
 一応改めて御説明するが、ガン=カタとは、「リベリオン」に於いてカート・ウィマーが考案した架空の戦闘術で、最も基本的には、二挺拳銃の操射法である。説明原理としては、第三次世界大戦までの銃撃戦の戦闘データを統計学的に分析。敵の撃つて来た銃弾の射線を回避し、(ガン=カタ)使用者の発射する銃弾を確実に命中させる為の動作体系である。拳銃の他に、刀剣や何でもいいから打撃物を用ゐる場合もある。西洋から生まれた銃の技術と、剣道、功夫といつた東洋武術とを融合させた無敵の「型」であるとされる。判り易く大雑把に、実際にガン=カタが使用されてゐる状況を説明すると、使用者が細かいカット割りで囲まれた多数の敵の中をクルクルと、あるいはヒラヒラと舞ひでも踊るかのやうに移動する。すると敵の攻撃は使用者には何故か(全く)当たらず、一方敵はバタバタと次々に倒されて行く。最後ガン=カタ使用者が締めのポーズを決めると、周囲は哀れ死体の山、といふ寸法である。「リベリオン」以降多くのジャンル、数々の作品に如実な影響を与へた、アクション映画に於ける決定的かつ画期的な新機軸である。
 今作に於いては、勿論ヴァイオレットがガン=カタを使用する。カート・ウィマーが、ガン=カタの出て来ない映画なんぞ撮る筈がない、と信じたい。尤も、ヴァイオレットだけではなく、卓越した身体能力を活かしてファージは皆ガン=カタを使用するやうでもあるが。最も明示的にガン=カタを使用し、なほかつ最強の使ひ手はヴァイオレットである。
 クリスチャン・ベールのガン=カタと、ミラ・ジョヴォヴィッチのガン=カタ。力強さの面で劣つてしまふのは当然である。アクション面では「ウルトラヴァイオレット」は「リベリオン」よりも後退してゐる、と論じる人もあるが、私は必ずしもさうは思はない。といふか、そもそもがさういふ立論は間違つてゐる。繰り返すが、「ウルトラヴァイオレット」はアクション映画ではない。ガン=カタ映画である。ならばガン=カタ面の上では「ウルトラヴァイオレット」はどうなのか。今ここで「リベリオン」を同じく銀幕で再見してみた場合に、果たして何れに優劣をつけるのかは自分の中でも全く見当がつかないが、「ウルトラヴァイオレット」のガン=カタは些かも見劣りはしない。確かに、表面的な力強さやあくまでフィクションの中での説得力、といつた面に注目するならば、クリスチャン・ベールのガン=カタの方が優れてもゐるのかも知れない。が元より、改めてわざわざ断るまでもなく、ガン=カタとは何程かの実効性が云々される類の代物では全くなく、決定的かつ画期的な、アクション・シークエンスに於ける新しい記号である。その上でミラのガン=カタは、美しい。兎に角美しい。文字通り、流れるやうな麗しさである。ミラのファイトシーンは全部で九シーンあるが、中でもクライマックスの、敵の本部の資料室でのガン=カタ・シーンが最も素晴らしい。蔵書室のやうな部屋で、カッコいい衣装とサブマシンガンの、弾倉に更に刀が付いた武器をキメたヴァイオレットが、数十人の重武装の兵の間を華麗に舞ひ、目にも留まらぬ電撃で鮮やかに撃ち倒して行く。
 公式サイトやインタビューでの、私はどれだけこの映画の撮影に際して訓練して来ました、といつた発言の類ほど当てにならぬものもないが、そこはそれ。「バイオハザード2」では、誰しもがCGだと思ひ込んでゐたビルの壁面を走り降りて来るシーンに於いて、実は実際にワイヤーに吊られて壁面を走つてゐたミラ姐さんである。余計な格好をつけずにしつかりスタントも使用しつつも、ミラも十分に動く。誰とは言はないがシャーリーズ・セロソのやうなナメた真似はせずに、少なくともガン=カタ映画として全く遜色が無い程度には十分に動いて呉れる。加へて、ヴァイオレットが次から次へとファッション・ショウの如き感覚で変へるカッコいい衣装が、どれも似合ふこと似合ふこと。トップモデル出身は伊達ではない。ミラ・ジョヴォヴィッチ最強のウェポンである。最早百点満点としか言ひやうがない。少なくとも個人的には。
 先に述べた、かういふ映画は減点法で観るべきではない、といふのはさういふ意味である。ガン=カタ映画として、とりあへずガン=カタは満点だ。それならばそれでいいではないか。さういふ態度も、時にアリではないかと考へる次第である。そこから先の瑣末がそれでも気になるのならば、そもそもがカート・ウィマーの映画なんぞ観に来る方が間違つてゐる。ただカート・ウィマー、一本の物語を全うに整合させることが出来ないといふ致命的な弱点を抱へつつも、それでも要所要所では、キチンとエモーションを描かうとする志向性と、真つ直ぐな感性とを有することだけは感じる。

 どうでもいいが、ウィキペディアのガン=カタの項で、映画のオマージュ作の中に「ウルトラヴァイオレット」が含まれてゐるのは如何なものか。考案者の撮つた、文字通りの本家だぞ。


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