【ためつすがめつ慣用表現】

2020年9月7日

【ためつすがめつ慣用表現】

「ためつすがめつ」という言葉は、いつの頃だったかわからない子ども時代に丸おぼえした。「手にとってためつすがめつしていたが…」というような用い方で何度も読んだ記憶がある。

実際に「ためつすがめつする」仕草は映画やテレビで見て覚えた。丸おぼえや物まねは典型的な慣用表現の身につけ方であり、言葉とは別に、慣用表現的な演技というのも役者には必要なのだろう。

「あるものを、いろいろの方面からよく見るようす」と辞書にはあり、「矯(た)めつ」はじっと、「眇(すが)めつ」は目を細めて見ることを言う。

昨夜、年上の友人たちと家飲み会をした。そのうちのひとりが勘違いして近所の有名劇団のオーディションを受けてしまい、合格して研究生になったというので、「テレビ出演が決まったら教えてね」と言って笑った。レッスン用の台本を見せてくれたので酔った勢いで読み合わせに付き合った。男は自分一人なので当然王様であり、リア王の慣用表現的演技を思い出しながらセリフを読み上げている自分がいた。

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【肝属】

2020年9月6日

【肝属】

台風 10 号に関するニュースを見ていたら、鹿児島県にある「きもつきがわ」の名前が出てきて字幕に「肝属川」とあるので意外な文字に驚いた。

「属」の音読みは「ぞく」と「しょく」で金属や属託などと用いる。訓読みは知らないので辞書を引いたら「やから」と並んで「つく」がある。ということは「肝属」と書いて「きもぞく」でなく「きもつき」もありなのだ。初めて知った。

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【ぶった】

2020年9月6日

【ぶった】

「ぶつ」とキーボードに打つと「打つ」が変換候補に現れ、「打つ」は「うつ」とも読むし「ぶつ」とも読むことがわかる。「打(ぶ)つ」は「打(う)つ」の音変化で、たたいたり、なぐったりする能動的な行為をいい、一方で自分の体を物にぶつける受動的なことも「ぶつ」と言う。受動的な用い方にはちょっと不思議な響きがある。

標準語圏ではあまり聞かないけれど、郷里静岡県清水の女性は痛々しい包帯姿の人を見ると
「ぶった?」
とひと声かける。その声音(こわね)はとても優しい。幼い子が泣いていると年寄りは
「どこをぶった、どこをぶった」
と、なだめ、いたわるように声かけする。

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【神様の住所】

2020年9月6日

【神様の住所】

家人が突然「富士山にも住所があるの?」と聞くので、富士山の無住地域であっても木花咲耶姫(このはなさくやひめ)宛の郵便物に必要なのではないかと思い、「あるんじゃないかな」と答えておいた。

気になったので富士山頂上剣ヶ峰の住所を調べたら、郵便番号は 418-0011 で静岡県富士宮市粟倉になっている。夏の間だけ開設される富士山頂郵便局も郵便番号 418-0011 で住所は静岡県富士宮市粟倉地先になっている。そこは富士山本宮浅間大社奥宮の社務所内なので、神武天皇曽祖母様宛の郵便物はその住所に出せば良いのだろう。

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【花とみつばち】

2020年9月5日

【花とみつばち】

メモがわりに日記を書いて「(まぁどうでもいいけど。)」と思うとき、ついつい郷ひろみの「♪ どうでもいいけど〜〜」という歌い出しが思い浮かんでしまう。歌い出しだけを思い出して「名曲」だと感心する 1994 年のヒット曲である。

この『花とみつばち』は岩谷時子作詞、筒美京平作曲による流行歌だけれど、「♪ どうでもいいけど〜、帰るの、いるの、夜明けだよ…」という歌い出しが、いかにも九州出身者のイントネーションに聞こえて微笑ましく、作詞と作曲と歌い手が絡み合うことの妙を感じる。

同い年の友人が郷ひろみと小学校の同級生で、ということは自分も郷ひろみと同学年なのだと思っていたけれど、調べてみたら郷ひろみは一学年下だった。どうしてそういう思い違いをしたのだろうと記憶を辿ったら思い出した。友人は早生まれで小学校就学時に学年を一つ遅らせ、それで郷ひろみと同級生になったのだった。昭和三十年生まれは、まだそういうことが通じる時代の子どもだったのである。まぁどうでもいいけど。

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【孫引きのゆらぎ】

2020年9月5日

【孫引きのゆらぎ】

平易に書かれた学術的な本を読んでいたら、孫引きという言葉が面白い使われ方をしている。

「孫引き」を辞書で引くと「直接に原典から引くのではなく、他の本に引用された文章をそのまま用いること。」とある。この解説の中から「では『引用』とはなんだろう」とさらに辞書を引くと「人の言葉や文章を、自分の話や文の中に引いて用いること」とある。

「孫引き」を辞書で引いて解説を読み、「では『引用』とはなんだろう」というように「」内に『』を加えてさらに深く意味を掘り下げていく「検索」と「再検索」、英語で「サーチ」と「リサーチ」は、繰り返し辞書を引くことであって孫引きとは言わない。この著者は辞書内のさらなる辞書引きのことを「孫引き」と言っている。16 歳年下の東大教授だけれど、その世代の学者はこういうことも孫引きと言うのだろうか。

平易に書かれているとはいえ、その本も学術的研究を多数援用して書かれているので、諸説の引用には脚注で文献が明示してある。それぞれ原典にあたっているはずだけれど、引用文献内で行われている引用をそのまま自分の本に引用してしまうことを「孫引き」という。誤りがあった場合、それは「孫引き」が原因なので、大学では「孫引きはするな」と教えるのではないか。

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【脳は眠らない】

2020年9月4日

【脳は眠らない】

脳には最大処理能力に制限がかかっていて、限界値に近づくと耐えられないほど眠くなる……ような気がする。自分の場合。

クラウドサービスに文字データを連続アップロードすると、各種サービスのための情報下処理に負荷がかかるのか、「少し時間を置いてからやり直してください」と言ってくるのに似ている。ちょい寝をして休ませてやると脳の処理能力が復活するのか、さっき眠くなった難しい本の内容がすんなり理解できたりする。

脳が使うエネルギー量は睡眠中も覚醒時と変わらないらしい。ということは睡眠中も脳は無意識下の思考をしているのだろう。認知科学で「思考」とされるべきことがらが、意識に現れる百万分の一の情報を除いては、ほとんど無意識化で処理されていることがわかっているという。

睡眠中も考えている脳のおかげで見る夢に、B級映画的にくだらないものが多いのは、難しいことを考えると眠くなって脳の本業が疎かになるからだろう。

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【寝相と坐像】

2020年9月4日

【寝相と坐像】

寝姿のことを寝相(ねぞう)といい、昔から寝相が悪いと言われ続けている。寝相を問題にするなら「ざぞう」や「りつぞう」の良し悪しだってあっていいと思うけれど、それらの読みを当てた漢字は坐像や立像であり、「相(ぞう)」が良かろうが悪かろうが、「像(ぞう)」になってしまったら固まっているので直せない。

寝相の類義語に「ねずまい」があって、それならば「いずまい」や「たたずまい」が対応する。人の寝たり坐ったり立ったりが「すまう」であり、家がどうのこうのではなく、人の姿である「すまい」すなわち「ありさま」の良し悪しは確かにある。

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【ナール博士】

2020年9月4日

【ナール博士】

脳科学の本に「カリフォルニア大学のナール博士」という先生が出てきて、ああ世の中にはそういう名の人がいるのだなあと思い、脚注の引用文献でスペルを確認したら Narr だった。

子どもの頃に読んでいた漫画本の登場人物が「なるほど」と納得したとき「なーる」と言うのが妙に記憶に残り、今でも納得して感心した時は、口にこそ出さないが心の中で「なーる」と言っている。妙に気に入って身についた。

何年か前に漱石の『吾輩は猫である』を読み返していたら先生が納得して「なーる」と呟く箇所が出てきた。誰だったか忘れたけれど、昭和の時代の漫画家が漱石の猫を愛読していたか、明治の文豪が使うほど一般的だった言葉が、昭和の時代の子ども向け漫画の世界にも生きていたのだろう。「なーる」。

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【認知的無意識】

2020年9月3日

【認知的無意識】

認知的無意識、コルサコフ症候群について軽く触れられた本を読んでいて、子どもの頃によくあった出来事を思い出した。

ウェルニッケ-コルサコフ症候群といわれるその症状は、自分が自分であることの証明書になっている、過去から現在までの基礎台帳となる古い記憶はちゃんと覚えているのに、いま、ほんのちょっと前、あるいはもうちょっと以前といった、過去からいまに近いあたりの記憶がすっぽり阻害されてしまう症状で、チアミン欠乏症などの低栄養またはアルコール依存症に現れるという。ちゃんとした服装をして、ちゃんといつも通りの交通機関に乗って帰宅したのに、勤め先を退社して帰宅するまでの記憶がない人の事例があって、自分の小学生時代を思い出した。

勤め先を退社して帰宅するまでの記憶がない人の話は泥酔しての話で、それは多分誰にもよくある話なのだけれど、自分の場合は素面(しらふ)の小学生時代の出来事だ。学校が終わって校門を出て、気がついたら家の前に立っている自分に気づき、いつもの通学路で前を通ったはずの店の様子、すれ違ったであろう人々の様子など、帰宅途中の帰り道の記憶が全くないということがよくあった。不思議に思いつつ、どんな子どもにもありがちなことだろうと思って忘れていたけれど、そういうことは意外に珍しいことなのだろうか。

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【旗と地図】

2020年9月3日

【旗と地図】

日本国内で日の丸を見ても「きょうは旗日か」と思う程度の注意しか喚起されないけれど、国外で日の丸を見かけると「なんでこんなところに故国の国旗があるんだろう」と特別な興味をひかれる。同様に、国内で見知らぬ街を歩いていて看板に大きく出身県の地図が描かれていると「なんでこんのところに故郷の地図があるんだろう」と特別な興味をひかれる。

鮫洲の運転免許試験場で免許証の更新を終え、旧東海道を品川まで歩いてみたら、青物横丁交差点角に静岡県の地図を掲げた『BISTRO 恵(びすとろ けい)』という店を見つけた。静岡出身の店主が静岡の食材でつくるフランス料理の店だという。

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【人の流し方】

2020年9月3日

【人の流し方】

新型コロナウイルス感染拡大の影響で、ゴールド免許の最寄警察署更新が滞っている(【新型コロナと運転免許】)。誕生日直前となり、仕事も一段落し、試験場に行けばすぐやってもらえるというので、混雑状況を調べ、四半世紀ぶりに鮫洲の試験場に行ってきた。

初めて新開業した高輪ゲートウェイ駅を通過し、品川駅で乗り換えのため京急のホームに出たら、ホームが整列乗車用に色分けされていた。

青は羽田空港行き快特と急行、赤は都営地下鉄から乗り入れて横浜方面へ向かう快特と特急…といった具合に色分けされており、非常に合理的にできている。美観的に優れているとは思わないけれど、ベルトコンベアで自動的に運ばれる受動的存在になった気がする。楽と言えば楽だ。

試験場も四半世紀前に比べて綺麗になっており、間隔をおいて密を避け、受動的に流されていくためテープとロープフェンスによる波線的導線が場内全体に描かれていた。人間がパンデミックの中を物として流されていくモダンタイムス的物流で、カクカク動くチャップリンになったような気がした。

   ***

ベッドの中でパジャマごとパンツを脱いで下半身スッポンポンになったところで目が覚め、慌てて元通りにはいた。風呂に入る夢を見ていたのだ。こういう夢は初めてで、動作を伴った寝ぼけに近い。モダンタイムスの影響が残っていたのだろう。時計を見たら午前 4 時なので、昨日の自分を思い出すようにこの日記を書いた。

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【寒い朝】

2020年9月2日

【寒い朝】

2017 年の今日 9 月 2 日は土曜日で、晴れて「寒いくらいの朝」だと日記に書いてある。9 月 2 日で「寒いくらい」というのはすごいことだ。

翌 3 日の日記を見るとやはり「涼しい朝」とあるが、その後の日記に気温に関する言及がないので、時季相応の残暑がぶり返したのだろう。

このぶり返しの「ぶり」はおもしろい。「働きぶり」と言えば様子、「久しぶり」と言えば時間、「大ぶり」と言えば量をあらわす。「時季相応の猛暑ぶり」であることをさらに強調すると「時季相応の猛暑っぷり」になり、「っぷり」は促音半濁音の力をえて「ぶり」より強くてむし暑い。

などと、今日の日記を書き、植木の水やりのため窓を開けたら、今朝もなんだか涼しい。

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【三十六年目のパキラ】

2020年9月1日

【三十六年目のパキラ】

小さいものは理屈抜きに可愛い。36 年前にもらった時は手のひらにのるほど小さなハイドロカルチャーだったが、今では 1.5 メートルほどの背丈になった。

大きくなり歳をとってからも相変わらず可愛いのは、小さな芽の誕生が 36 年前と変わらず数ミリほどの 6 枚葉から始まるからで、新しい極小の芽が出るたびに「カワイイ!」と言われ続けている。

なぜかときどき 7 枚葉の芽が出ることがあり、その時は「おめでとう!当たりです」と声をかけている。

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