【蟹と植木鉢】

2020年9月14日

【蟹と植木鉢】

ベランダにいくつか並べてある植物の植え替えがときどき必要になる。
園芸専門店に行って植物名を挙げ、それぞれにふさわしい土を買わされるのがいやだ。できれば一種類の土で済ませたいので、わざと近所の品揃えがない古びた雑貨屋に行き
「〇〇〇〇と〇〇〇〇の植え替えをしたいんですけど」
と言うと、ぼんやりしたおばあさんが
「土はあそこ」
と店の隅に積んである袋を指差す。
「〇〇〇〇と〇〇〇〇ですけど、だいじょうぶですか」
と聞くと
「だいじょうぶ」
と言う。それしかないので選択肢などないのだ。
その答えを期待して行ったので、満足して買ってきた大袋が数年経ってもまだ物置にある。植物の種類を問わず、なんでもそれを使っているけれど、従順な植物は文句を言わない。先日も、剪定されたガジュマルがふた枝ガラス瓶に投げ込んであったので、その荒っぽい土を植木鉢に盛って植えてやった。

乾いた土に水やりすると、粉末ココアに冷たい牛乳を注いだように、溶けない粉っぽい土が表面に浮き上がる。最初のうちは浮き上がる土を溢れさせないよう、のんびり少しずつ注水してやる。そうしていると、数日後には粉が浮かばなくなる。表土がようやく水になじんだのだ。

表面の土は水になじんでも鉢の内部には隙間があって空気がたくさん残っている。毎朝たっぷり水やりし、水が土中に染み込んでいくとボコッボコっと水泡が土の表面に上がってきてポカッと割れる。

蟹は甲羅に似せて穴を掘ると言うけれど、小さな植木鉢に合わせて穴を掘った小さな蟹が潜んでいて、毎朝の水やりで鉢が満ち潮になると、ボコッボコっと水泡を吐き出している。そんな風に見える。今朝も水やりをしたら、まだ蟹がいるようでボコッボコッが始まったのでとまるまで眺めていた。

植木の手入れをする人も、公園で落ち葉をかく人も、カラカラと風に舞う枯れ葉を追いかけてじゃれついている子猫も、みんなそういう他愛のない自然との接点を楽しんでいる。

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【いつかある日】

2020年9月13日

【いつかある日】

買い物帰りの公園に子どもが積んだと思われるかわいいケルン(cairn)があった。

「友よ山に 小さなケルンを 積んで墓にしてくれ ピッケル立てて」(『いつかある日』訳詞:深田久弥)

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【秋場所】

2020年9月13日

【秋場所】

今日から大相撲秋場所が始まるので酒の肴を買いに出たら年上のご近所さんと途中まで一緒になった。

「ようやく秋らしくなりましたね」
と言ったら、
「今年はコロナに加えて猛暑で大変でした。でもこれからまだ台風とインフルエンザの季節が来るから、もっともっと大変です」
と言う。
「われわれ、と言っちゃあ年下のあなたには失礼だけど、われわれは若い時代を存分に生きてきました。われわれの人生はもういいと言えばもういいけれど、いまの若い人たちは可哀想ですよ」
と目元を赤らめて言う。

自分のことより若い他人を気遣う年寄りを久しぶりに見た。我欲を離れて利他に思いが向くよい歳の頃なのかもしれない。人はやがて老い衰えて自利中心の頃に帰っていく。
「ねえそうでしょう」
といつにも増して話に熱がこもり、〝人生はもういい年寄り〟の御同輩になって、
「そうですね」
と相槌を打ちながら、この人、ずいぶん痩せこけて体調が悪そうだけど大丈夫かなぁと思う。

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【駒込の鈴与】

2020年9月12日

【駒込の鈴与】

JR 山手線駒込駅前に建設中のマンション工事現場に、郷里静岡県静岡市清水区松原町に本社がある建築会社のマークが掲げられていた。

愛郷心とは不思議なもので、なんだか自分のマンションを建てているような気分になる。

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【蚊帳のうちそと】

2020年9月12日

【蚊帳のうちそと】

蚊帳の外というのは、蚊帳のすぐそばにいて自分だけ入れないことを、ひけめや不安として感じたり、もしくはそう思うよう威圧され、いじめられるから辛いわけで、蚊帳の外の方が蚊帳の中よりずっとよい思うか、中と外が気にならないくらいに距離をおいてしまえば、もう蚊帳の「うちそと」などどうでもよいことである。

幼い頃から後者のような生き方が好きで、ずっとそうやって生きのびてきたので、なぜか網に囲まれ「うちそと」が区切られた空間を見ると、ひどく陰惨な気分になる。「境界」は人を狂わせる。場所であれ、人間関係であれ、「境界」のつくられた場所、出来やすい関係に近づくまいという、幼い頃からの保身術が無意識に働くのだろう。

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【テレビ風に話す人々】

2020年9月12日

【テレビ風に話す人々】

地下鉄にふた駅だけ乗って地上に出たら、なんとこの町では激しい雨が降り、今し方上がったばかりらしく、花屋の店員が店内に避難させた植木鉢をまた外に出して並べ直しているところだった。

このところ何度も、しまったり出したり不毛な作業を繰り返しているらしく、「まったくやってらんねえよ!」と言いたげな若い店員に年かさの店員が、「このところ大気の状態が不安定で予測のつかないゲリラ豪雨が各地で発生してるからなあ」とテレビの気象予報士のように言い訳しているのがおかしい。

ホームセンターに行ったら若い両親に連れられた幼児が、今朝のテレビ番組で仕入れた知識らしく、「ねえねえ!電車はさいしょチンバシから出てたんだよ!チンバシから!ねえってばぁ」と何度も大きな声で繰り返すので、お父さんが「だからどうだっていうんだよ」と言いたげに苦笑いしていた。幼児は新橋が発音しいづらいのだろう。

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【考えない人】

2020年9月12日

【考えない人】

「考える人」の反対である「考えない人」になることはそう簡単ではない。

ただ「考えたくない人」になりそうな自分に気づいて自分の不誠実をただすとき、考えるべきことだけを「考える人」こそ「考えない人」であることがわかる。「考えたくない人」であるときの自分は、考えない方がよいことばかり「考える人」になっている。

朝刊で外山滋比古(とやましげひこ)『思考の整理学』についての書評を読んでいてそう思った。

7 月に亡くなられ 96 歳だったという。本棚を探して再読してみる。

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【きちり】

2020年9月12日

【きちり】

整然と書いて「きちり」とルビがふられていて、そうか「きちり」や「きっちり」は、ことやもののありさまを、それらしい音声にたとえて表した擬態語ではないのかもしれないな、と思う。

そう思ったので「きちり」で辞書を引いたら、
整っていて、乱れのないさま。きちんと。「実に―と片付いていた」〈漱石・こゝろ〉(大辞泉)
とあって、ちゃんと自分が引っかかった漱石が引用されていて笑ってしまう。やっぱり。

「きちり」の「きち」はたぶん「吉」で、漢字の吉には漱石が「整然」と書いたようなことの意味が含まれており、そういうところにまで漱石の知性は届いている。

   ***

2020年9月12日追記:漱石は「判然」に「はっきり」とルビを振っていて、これも「整然」と「きちり」の関係に似ている。

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【すっかり】

2020年9月11日

【すっかり】

「すっかり」の意味を辞書で引くと「完全にある状態になっているさま。まったく。」という求めていた答えがあった。

ということは…と思って「悉皆(しっかい)」の意味を引くと「残らず。すっかり。全部。」という求めていた答えがあった。

ということは「山川草木悉皆成仏 (さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」、すなわち、この世に存在するすべての物質は間断なく置き変わることによって「同じ」であり、すべてに仏性が宿るという考え方、その悉皆(しっかい)が「すっかり」の語源なのだろう。漱石が「悉皆」と書いて「すっかり」とルビを振っていた。

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【底】

2020年9月11日

【底】

「底」にはいろいろな意味があり、いろいろな意味を踏まえた慣用句には「底が浅い」「底が堅い」「底が知れない」「底が割れる」「底を入れる」「底を打つ」「底を叩く」「底を突く」「底を払う」「底を割る」などがあり、株式相場に関するニュースで聞き覚えがあるせいかおおよその見当はつく。

おおよその意味がわかっているつもりの慣用句が思いがけない使われ方をしていると辞書をひきたくなる。おおよその理解ではすまない。

奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的だから、その結果として自分も嫌われているのだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、かえってその逆を考えていた。(夏目漱石『こゝろ』)

この「底を割る」を辞書で引くと「隠し事をしない。心の底を明かす。」とある。なるほど、そういう使い方はする。たとえば、
「奥さんは腹の底を割ったように本音を話しながら、こころの中ではすでに逆のことを考えていた」
と平易に書くとわかりやすく、『こころ」というものの分かりづらさが改まる。人は思うゆえに話し、話すゆえに思い、「ゆえに」は「即」に同じで「思う」と「話す」は同時にはたらいている。

「…隠さずいって頂戴」
 私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答えが何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。そうして私はそこに私の知らないあるものがあると信じていた。
「私には解りません」(夏目漱石『こゝろ』)

こうして「存在するとは?」という問いが改まる。改まり続けるゆえに人は「ちっともそこに落ち付いて」いられない。

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【今朝のポケット】

2020年9月10日

【今朝のポケット】

読み終えてしまった本を引っ張り出し、適当にひらいた数ページを、物語を構成する部品の一つひとつであることから離れて、文字を物自体として読むのが好きだ。壊れた機械を分解し、きれいな部品を集め、眺めて遊ぶのに似ている。

きれいな言葉の小石を見つけ、拾い集めてはポケットに入れ、本の中の散歩から帰宅したあと、紙の上に広げて眺める。とくに漱石が踏み固めた散歩道では、すぐにズボンの両脇がいっぱいになる。未明に目が覚めて散歩した今朝のポケットの中身。

目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです(『こゝろ』) 
私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった(『こゝろ』)
そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう(『こゝろ』)
私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう(『こゝろ』)
私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。世間というより近頃では人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人として、私も好かれるはずがないじゃありませんか(『こゝろ』)

夜が明けて窓を開けたら空に箒ではいたように絹雲がかかっていた。

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【かばん語】

2020年9月9日

【かばん語】

郷里静岡県清水では子どもが元気に遊びすぎてズボンの股が裂けたり縫い目がほつれて割れることを「さばける」と言った。びりっと音がしてお尻の部分が「さばける」と「けつんさばけた」、足を広げさせられると「股んさばける〜」などと笑い、大人たちが「あの人はさばけた人だ」と言うのを聞くとひどくおかしかった。

「さばける」は「さばく」と「さける」の混成語だろう。女性が座るとき着物の裾を、力士が蹲踞(そんきょ)するとき下がりを、両手で左右に分けることを「さばく」と言い、ひとつになっていたものがふたつに離れることを「さける」と言う。「さばく」と「さける」、ふたつの意味が合わさって「さばける」になっている。

たとえば「やぶける」は「やぶる」と「さける」との混成語で、英語では「portmanteau(かばん語)」と言う。旅行かばんのことで、ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』に語源がある。どうも清水では古い日本語表現が、少なくとも自分が子どもだった頃までは日常語として用いられる傾向が強かったようで、鬼ごっこをしても「とらえる」と「つかまる」の混成語で「とらまる」などと言っていた。

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【柄杓とコロナ】

2020年9月8日

【柄杓とコロナ】

神社仏閣への参拝時は、右手に持った柄杓(ひしゃく)で水を汲んで、左手にかけて左手を清め、左手に持ち替えた柄杓で同じように右手を清め、再び柄杓を右手に持ちかえ、左の手のひらに水を受けて口をすすぐという、非常に優れた衛生ルールが守られてきたけれど……

ウイルスにひしゃくとられてマスクかな

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【いせる】

2020年9月8日

【いせる】

録画しておいた NHK E テレ『ソーイング・ビー(The Great British Sewing Bee)』というイギリスのソーイング(裁縫)コンテスト番組を、夕食時、家人に質問しながら夢中になって観た。10 日には別のシリーズの放送も始まるらしい。

手仕事が大好きなので、こういう番組は面白くてたまらない。「いせ」「いせる」「いせこむ」という言葉を初めて聞いた。小学生時代の家庭科で裁縫箱を買わされ、暮らしの繕い物に困らない程度のことはひと通り教えられたけれど、こういう高度な言葉は知らない。

辞書を引くと「い・せる[動サ下一]裁縫で、長短 2 枚の布を縫い合わせるとき、長い方を細かくぐし縫いし、縮めて丸みやふくらみを出す。いせこむ。」とある。原理はわかる。番組中では袖山の作り方の中に出てきたけれど、足袋の爪先もそうやって作るらしい。

言葉はわかったような気分になるための道具なので、耳学問ではなく実際にやってみると、身体でわかって「いせる」はもっと面白いのだろう。逆に、実際にやってみなくてはわからないようなことを言葉で表現すると、「均等にいせていきます」などという、つかみどころのない表現になってしまう。何事も頭より身体の方が、手っ取り早く的確に理解する。

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【けげんないのち】

2020年9月7日

【けげんないのち】

博物学者アンリ・ファーブルは
「ハチにも表情がある。ときどきふっとけげんな顔をする」
と言ったという。顔がどこだかわからない原始的な生き物でさえ刺激を受けて反応するとき、一瞬けげんな動きをするように見える。そういう刺激・判断・反応という一連の現象を理性と言うなら、物質にだって理性はあると言えてしまう。東洋思想的に考えれば山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)の悟りに近づくよい認識だとは思う。

認知症が深く、嚥下も危なっかしく、そろそろ命が消えゆこうとする老人に、「あなたの身体に穴をあけて胃瘻(いろう)を設置してもいいですか」と本人の意思確認ができる理性があるかという問い自体が、西洋科学的ないのちのとらえ方の限界だ。そもそも「理性」などというものを踏み台にした問いの立て方がおかしいように思う。葛藤の看取りを通過していまさら思う。

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