白松と菩提樹

2014年5月9日(金)
白松と菩提樹

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染井霊園内を散歩するとき、いつも気にしている樹木が二本ある。その一本が白松(はくしょう)で、樹齢百年以上経っていると思われるこの樹を植えたのは誰だろうと見るたびに思う。そばに初代台湾総督となった樺山資紀の墓があることと関係があるのではないかとと思ったりするが真相はわからない。

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その樺山資紀の墓のそばに菩提樹が植えられており、秋になると見事なヘリコプターを発進させて種子を散布し、自然が作る美しい造形の一つとして見るたびに感動している。その木が病気になったのか、ばっさりと剪定されて痛々しい姿になったのが2010年の今頃で、その翌年はほとんど実をつけなかった。

|2009年秋のヘリコプター。この翌年の春に剪定が行われた|

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剪定から四年経った今年はどうだろうと見に行ったら、樹勢が戻ったのかたくさんの実をつけていた。やれやれひと安心と思い、菩提樹のある区画の持ち主を見たら一文字に三つ星、毛利家の家紋が墓碑に刻まれていてびっくりした。墓の主は福原實で、長州藩士として生まれ、戊辰戦争、西南戦争を経て陸軍少将、政治家としても名を残した人だった。

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長州藩士福原實は薩摩藩士樺山資紀より七歳年下だったが二十年以上早く他界しているので、順番通りの時間経過を物差しにすれば、樺山の墓より福原の墓が没年分だけ古いことになる。

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廃藩置県(1871年)によって発生した五十万人におよぶ失業士族の不満はけ口となるよう画策し、樺山ら薩摩閥は「琉球漂流民殺害事件」を口実とした台湾出兵(1874年)を主張した。西南戦争(1877年)では、樺山は熊本鎮台参謀長、福原は征討軍団砲兵部長として従軍している。琉球の日本帰属問題が決着するのは日清戦争(1894年から1895年)後になるが、福原は二代目官選沖縄県知事を1887から1888年のあいだ勤めている。

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染井霊園内にある二本の木と薩長武士たちの墓、白松と菩提樹、樺山資紀と福原實の間を行ったり来たりしながら、位置関係をちょっとだけ調べてみた。

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染井霊園の白松(はくしょう) 2014

 

 

2014年5月8日(木)
染井霊園の白松(はくしょう) 2014

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日記のタイトルに 2014 と西暦をつけたのは、2007 年と 2008 年にも同様の日記を書いているからだ。熱心に調べて書いたのに数年経ったら内容をほとんど忘れているので、もういちどそれらをまとめ 2014 と更新した年をを書いておくことにした。

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豊島区駒込の染井霊園内に白松という不思議な木があり、シロカワマツ、シロマツ、ハクショウ、サンコノマツなどとも呼ばれる中国原産の常緑高木である。なかなか珍しい樹木なのだそうで、動物のパンダのように中国は国際外交において戦略的な贈り物にも用いるという。

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日本へ最初に持ち込まれたプラタナスのある郷里静岡県清水区興津の独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構カンキツ研究部、通称興津の柑橘試験場にもかつてこの珍しい木があった。郷里静岡県清水区岡町在住の方からメールをもらい、1978年に訪中された際に北京故宮の宮廷花園天一門内の欽安殿前庭にある白松の下から五粒の種子を拾って持ち帰り、庭に植えたら30年経って3メートルの高さまで育っているという。その方が興津の柑橘試験場に行き、枯れて伐採され切り株となった白松の年輪を数えたら100年に近く、試験場創設初期のものであったことがわかったという。

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清水区岡町に植えられて発芽し、30年で3メートルに育った白松の話しを聞き、はたして染井霊園の白松がどれくらいの高さがあるのか気になって確認してみたらほぼ13メートルの高さほどに育っており、単純計算すると樹齢130年となり、その計算が正しければ明治時代に植えられたことになる。

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白松のある一角は染井霊園内でも古木がかたまって植えられている不思議な場所であり、白松のあるあたりには樺山資紀(薩摩藩士、軍人、政治家)、南郷茂光(加賀藩士、軍人)、福原實(長州藩士、軍人)などの墓が集まっている。彼らは軍人として清国や台湾にも関わりがあるので、その関係でここに白松が植えられたのかなと思う。

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白松脇に山科元忠の墓があり、山科は東京衛生試験所で麻黄(まおう)の研究に携わった人だ。白松裏手の西家もまた判読しがたい碑を読むと医家であるらしく、白松のまわりにはなぜか軍人と医者が集まっている。また白松近くには会津落城の際松平容保の小姓だった高嶺秀夫の墓があり、かれは東京高等師範学校長、東京女子高等師範学校長、東京美術学校長、東京音楽学校長など教育者として名を遺した。

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そういうことを手帳片手に調べてまわったが、白松がなぜこの場所に植えられたかは結局のところわからない。ただ白松のある一種イ3号3側は石が敷き詰められたちゃんとした道であり、そのあたりには爵位を授かったり書物に名を遺した成功者が多く、そういう人たちの墓のまわりは樹が植えられている。名を遺した者たちは木も遺したのだろう(とりとめもなく未完)。


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セキレイの腰づかい

2014年5月7日(水)
セキレイの腰づかい


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義母が暮らす埼玉県の特養ホームは、所在地周辺の地名(★1)からも明らかなように、かつては沼地だったところを田んぼとして開いた土地である。そのため大雨に備える遊水池(★2)があちらこちらにあるし、コンクリートで固められた水路は水量のわりにずいぶん深く掘られている。

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水の多い土地が都市化したのを住みやすく感じる鳥もいるらしい。特養ホーム前バス停は、下車する客が自分たち夫婦とあと一人いればいいくらいに淋しい終点なのだけれど、コンクリート舗装の広場に降り立つとセキレイが出迎えに出ていることが多い。

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人の数メートル先を尾羽を振りふり歩く姿は、幟旗(のぼりばた)を持った温泉宿従業員によるバス停出迎えのようだ。
「チュチ、チュチ、チュチ!(お疲れになったでございましょ。ささ、お宿はこちらでございますよ)」
と言いながら案内してくれるのだけれど、客の荷物を持ってはくれない。古来よりセキレイはそんな風に人の暮らしに添ってきたようで、ミチオシエドリなどという通称もある。

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セキレイが都会化して人なつこさを感じるようになったと呟いている人がいて、人の暮らしを利用しつつ生息域を広げている鳥(★3)なので、あらためてそう感じる人も増えているのだろう。

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つい最近、昔の人はセキレイをバカな鳥だと思っていたと書かれているのを読んだ記憶があるのだけれど、バカと断じた理由が思い出せない。セキレイはなぜバカ?と心の中で知りたいことをつぶやきながら調べていたら、
「知り切っているのに鶺鴒(せきれい)馬鹿な奴」
という古川柳がひかれている文章を見つけた。

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『日本書紀』に「時有鶺鴒飛來搖其首尾。二神見而學之。」と書かれているそうで、イザナギとイザナミはセキレイのせわしない腰づかいを見て性交の仕方を学んだのだという。セキレイが人にとっては分かり切った行為を、腰を振って教えようとしていると見立てての嘲笑なのだろう。
「鶺鴒も一度教えて呆れ果て」
というのもあった。教えられなくても神の子たちは年頃になれば呆れるほど性交好きになるし、だからこんなに産んで増やして地に満ちたのだ。

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特養ホーム前で出会うセキレイの腰振りは、場所が場所のせいかどうしても性交指南に見えない。たとえれば坂上二郎演じる番頭が
「お疲れになったでございましょ。ささ、お宿はこちらでございますよ」
と後ろを振り返りつつせかせか歩きをしているようであり、やがて客に後ろから追いつかれそうになると
「飛びます、飛びます!」
と啼いては数メートル先まで飛んで道を教えている。

★1 所在地周辺の地名
地名は見沼で海老沼小に隣接している。

★2 遊水池
今月末、特養ホームのイベントでケアワーカーと入所者が遊水池公園に遊びに行くというイベントがある。ご家族の参加大歓迎とのことなので楽しみにしている。

★3 ハクセキレイは人の食べこぼしをつついたりしながら都市部に順応し生息域を広げているという。

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鰯(いわし)とくしゃみ

2014年5月6日(火)
鰯(いわし)とくしゃみ

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痙攣(けいれん)するような吸気があって、その後呼気を激しく爆発させるように放射することをくしゃみという(★1)。「ひぇー・くしょん」を言葉で因数分解するとそういうことになる。二十代の頃からなぜか朝はくしゃみがつきものだったのだけれど、花粉症という言葉が一般的になってからの春は、くしゃみの出方が尋常でない。

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生まれて初めてぎっくり腰になったのもにっくきくしゃみがきっかけで、背もたれのない丸椅子に腰掛け(★2)、背中を丸めてパソコン操作をしている最中の隙を突かれた。くしゃみをした途端、腰に激痛がはしって椅子から転げ落ち、ちょうど事務機器メーカーの営業がドアチャイムを鳴らしたので、玄関まで這って行って「助けて…」と言ったら「だ、だいじょうぶですか!」とびっくりしていた。そりゃ驚くだろう。

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ひとまわり年上の出版社社長(★3)にそのことを話したら面白がり、いつのまにか「あいつはあくびをしてぎっくり腰になった」という話になって広まってしまい、それもまた泣きっ面を蜂に刺されたようで「いたたたたたっ…」と呻いたことを覚えている。

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今年もまた目がさめた途端にくしゃみ百連発の季節がやって来た。花粉ではなく室内の埃が原因なのではないかと思ってからは、毎朝掃除機をかけることも日課として励行しているけれど改善する兆しがない。先日も激しいくしゃみ二十連発くらいのところで脇腹に激痛がはしり、寝ていられなくなって冷や汗を流しながら夜明けを待った。

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五十肩になったとき整形外科でもらった経皮吸収型鎮痛・消炎剤『スミルスチック3%』(★4)を塗ったら少しは痛みが和らいだので日記を書いたから四日ほど前のことになる。今でもまだくしゃみをすると痛いので検索したら、くしゃみによって「肋骨(ろっこつ)を損傷するおそれもある」と Wikipedia にあるのでびっくりした。確かに痛いのは筋肉というより肋骨であり、肋骨はそんなに脆(もろ)いのかと思ったら自分が鰯(いわし)になったような気がした。

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たしかに肋骨にヒビが入ったかもしれないと思うくらいに今も痛いのだけれど、「あいつはあくびをして肋骨を折った」と噂されそうなので、あまり大きな声では言わないようにしている。一週間経ち、連休が明けても痛みが引かなかったら整形外科に行こう。

★1 くしゃみ
くしゃみは上気道で起こり、下気道で同じように起きる反射を咳(せき)という。下気道と言えば谷岡ヤスジの漫画『ヤスジのメッタメタガキ道講座』を懐かしく思い出し、「あーさーー」とやかましく啼くムジ鳥のように、朝になると元気の良いくしゃみが出る。

★2 丸椅子に腰掛け
くしゃみはぎっくり腰のきっかけになるそうで、ぎっくり腰の心配がある人はくしゃみが出そうになったら、近くにある壁などに手をついて身体を安定させると予防になるという。とはいえくしゃみが出そうになるたびにそんなこともしていられない。ぎっくり腰持ちとしては、腰や背を固定できない丸椅子で、長時間根を詰めた仕事をしないというのが注意点であるように思う。

★3 ひとまわり年上の出版社社長
病気になられて東北に転地療養中。

★4 スミルスチック3%
大正富山医薬品株式会社が製造するフェルビナクを主成分とした白色半透明の固形軟膏剤。関節や筋肉の痛みに即効性があってびっくりする。


関連する日記→ 2014年5月3日(土) 魔法のスチック

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薔薇の五月

2014年5月5日(月)
薔薇の五月

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五月のいまごろは街角の薔薇がきれいだ。専門家が丹精した薔薇園ではなくて、素人が世話をした道端の薔薇にも、番茶に出花があるように、まだ傷んでいる部分も少なくてとても美しい一瞬がある。

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そんなことを思い出したので、夕食の買い物を引き受けたついでに、首にカメラをぶら下げて下町商店街あたりを路地から路地へと歩きながら撮影してきた。

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道端の軒下に植えられた薔薇なので、引き気味に撮ると生活のやるせなさまで映り込んでしまう。それはそれで美しい風景ではあるのだけれど、路傍に生まれた娘さん一生一度の晴れ姿なので、見合い写真のつもりで無理してアップにしてみた。

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風薫る五月はまた薔薇の五月でもある。

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五月の庭

2014年5月5日(月)
五月の庭

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平日も連休も関係なく毎日母親の食事介助に通う妻と一緒に、埼玉の老人ホームまで五月最初の訪問をした。義母が暮らす南向きの居室からベランダに出たら、前回四月二十九日の訪問から五日しか経っていないのに、小さな庭には生き物の気配が増していた。

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蕾ばかりだった柚子には、弾けるように開花した白い花がちらほらと見える。虫たちにとってかなり魅力的な花であるようで、開花を待ち侘びた大きめの蜂たちが、ブンブン羽音が聞こえてきそうな勢いでまわりを群れ飛んでいる。

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となりにあるカリンは花がとうに散ってしまったけれど、こんどは子房がずいぶん膨らんできており、柱頭、花柱、子房などの構造がよく見える。

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老人ホームの細長い庭はアゲハチョウが定期的に巡回する蝶道(ちょうどう)になっている。細長い庭を東西に通過していく個体もあれば、老人ホームの壁沿いの上昇気流にのり、南北に山岳越えをするように舞い上がっていく個体もある。

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蝶道に沿ってアゲハチョウが飛来するたびに、縄張りを守ろうとスクランブル発進していく一回り小さい蝶がおり、撃退後カリンの葉で一休みする姿を見つけたので撮影したらミスジチョウだった。片方の羽を損傷しているが、意に介さないかのように高速で上手に飛ぶ。

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身体を損なった姿を見て胸が痛むのは、人間がかなり長い命を生きられるからで、あんな身体になってこの先お気の毒になどと思うからなのだけれど、蝶の命は身の不幸を悲しんでいられるほど長くない。

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そんなことを考えていたら人を恐れないミスジチョウが、カメラを持ってもたれたベランダの脇に止まるので怪我の具合を見せてもらった。この夏無事に子孫を残せたら、その子どもは越冬してふたたび五月の庭に羽化するはずで、来年もまたこの個体の子孫が庭を飛び交う姿が見られますようにと祈る。


→ 前回の訪問 2014年4月30日(水) 遠くの世界と近くの世界

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坂の上の景色

2014年5月4日(日)
坂の上の景色

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子どもの頃は平坦な低地を転々と移り住む暮らしだったので、坂のあるまちにぼんやりとした憧れがあった。やがて東京という坂の多いまちで暮らすようになったら、それが当たり前になって坂道自体をあまり意識することもなく暮らしている。

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けれど年老いた親たちがそうだったように、やがて上り下りを大儀に思うことでもういちど坂道が意識にのぼる日が来る。坂道が苦にならないうちはまだまだ若いのだ。

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坂には上りが苦にならないものとそうでないものとがあり、それには景色の見え方という精神的な要因も関係しているようだ。坂が続く先が好もしく見える坂であれば、疲れ知らずで上れてしまうということも起こる。

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国立公文書館で春の企画展「高度成長の時代へ 1951-1972」を見て来た。人間の歴史は、自ら坂の見え方を変えておいて、それに殺到して高みに上ろうとする行為の繰り返しのように見える。明治期を描いた司馬遼太郎『坂の上の雲』を剽窃して高度成長期に置き換えてみた。

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まことに小さな国が、高度経済成長期を迎えようとしている。
小さなといえば、敗戦後の日本ほど小さな国はなかったであろう。
商業といえばヤミ市しかなく、人材といえば戦時中、銃後の民であった老人とおんな子どもと疲れ果てた帰還兵しかなかった。
敗戦に次ぐ戦後によって、日本人ははじめて等身大の「国家」というものをもった。誰もが「民主的国民」になった。
不慣れながら「民主的国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の大衆としてその新鮮さに昂揚した。
この痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。
社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも社長にも教師にもなりえた。
この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。


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近所に坂上の景色がよい道があり、よい見え方を決定づけていると思える一軒のお宅目指して上るのが好きだ。昨日もまた初夏のような陽気に汗をかきながら上ってみた。

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この坂もまた明治人たちが希望の高みを坂上に見据えて上った坂である。坂上に建つ家の隣りにはかつて洋画家小杉放庵(★1)が作ったテニスコートがあり、その名をポプラ倶楽部(★2)といった。当時は田端村周辺に移り住んだ文化人たち(★3)の社交場となっており、見晴らしの良い坂上に続くこの道はポプラ坂と呼ばれた。

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書簡の中でポプラ倶楽部についても書き残している芥川龍之介の死によって夢破れ、次なる幻想の高みを目指して転居していった文化人たちの夢のあとではあるが、ポプラ坂上へと続く景色は、その向こうに一朶(いちだ)の白い雲が輝いている程度に今も美しい。

★1 小杉放庵
栃木県出身の洋画家で春陽会の創設者。1881-1964。

★2 ポプラ倶楽部
ポプラ倶楽部があった場所は現在北区立田端児童館になっている。

★3 田端村周辺に移り住んだ文化人
陶芸家板谷波山、洋画家山本鼎、彫刻家吉田三郎、詩人室生犀星、小説家芥川龍之介、菊池寛など。

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魔法のスチック

2014年5月3日(土)
魔法のスチック

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2011年の初夏に右腕が痛くて上がらなくなり、整形外科に行ったら五十肩と言われた。治療法はないけれど自然に治る、それまでのあいだ痛かったらこれを塗れと言って経皮吸収型鎮痛・消炎剤『スミルスチック3%』というスティックタイプの塗り薬をもらってきた。

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一年近く我慢していたら肩痛は治ってしまったけれど、その後も関節や筋肉の痛みを感じるたびに『スミルスチック3%』は大活躍をし、わが家では魔法のスチックと呼ばれる神様のような存在だった。

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身体の痛みを騙すために騙しだまし大切に使っていたけれど、とうとう最後の数ミリを使い切った。丸三年間も使っていたわけだけれど、うまい具合に使用期限は2014年7月になっていた。

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常備薬として補充したいのだけれど、わざわざ整形外科まで行って処方箋をもらうのが面倒くさい。血圧の薬をもらうため調剤薬局に行ったので聞いてみたら、処方箋がないと売ることはできないけれど、整形外科に行かなくともかかりつけの診療所で処方箋がもらえるだろうという。

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それはよいことを聞いたけれど、血圧の薬を貰いに行くのは月末になる。それまでは無理して捻って痛いところをつくらないよう、身体の方を騙しだまし使うことにする。

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言葉の抑え揚げ

2014年5月3日(土)

言葉の抑え揚げ

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このところ毎晩テレビのスポーツ中継を見ている。毎晩登場する解説者は方言の混じらない標準語を話されるのだけれど、言葉の音調、微妙な抑え揚げに特徴がある。

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毎晩耳を澄ませて聞いていて
「わかった、この人は九州人、しかもずばり長崎!」
という結論に至ったので、ネット検索したらやはり長崎県出身者だった。

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耳を澄ませながら筑紫哲也、前川清、鳥越俊太郎とも似ているという話も出たので、長崎に限らず九州出身者によく似た音調で話す方が多いのだろう。

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日本中どんな地域の言葉にも微妙な抑え揚げによる音調の違いがある。テレビを見ながら標準語を話す人の声を聞いて出身地を当てる遊びをよくやるのだけれど、沖縄、北海道は別として、東北、北関東、北陸、四国などと言い当てるより、九州に当たりの出る確率が高いのを不思議に思う。

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というか、最近はみな流暢に標準化しているので
「この人どこの出身だと思う?」
という問題を出しても九州以外はあまり当たらず、当てるというより
「えっ、そうなの!?」
という意外な答えを楽しむための遊びになっている。

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もはや「戦後」ではない昭和を見に行く

2014年5月1日(木)
もはや「戦後」ではない昭和を見に行く

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五月一日、未明まで激しい雨音が聞こえていたけれど、朝食準備を終える頃には雨も上がって晴れてきたので、国立公文書館平成26年春の特別展「高度成長の時代へ 1951-1972」を見に行くことにした。


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多くの日本人が懐かしく思い出す昭和とは、1950(昭和25)年の朝鮮動乱による特需によって潤い、1956(昭和31)年には実質国民総生産(GNP)が戦前の水準を超え、経済白書に「もはや『戦後』ではない」と書かれて始まる高度成長期の日本なのだと思う。


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国民所得倍増計画の書類を見たが、大臣たちの書名が武将の花押のようなのでびっくりした。こういうのは今でも用いられているのだろうか。


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昭和三十一年度年次経済性報告の最後に書かれた「もはや『戦後』ではない」という言葉が流行語となってその後の高度成長を牽引したわけだが、その原本を初めて見た。


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展示を見て資料を買い、満足したので神田神保町2-21-10「たかせ」 で蕎麦を食べ、駿河台下交差点から文坂を明大方向へちょっと登ったところにある懐かしい「古瀬戸珈琲店」でブラジルを飲んで帰ってきた。

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男のスケール

2014年5月1日(木)
男のスケール

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八十歳近くなった叔父と清水で墓参りをした。仏花の丈を揃えるため、バッグの中から折り畳み式のハサミを取り出したら
「俺はそれのいかい(大きい)やつを持ってる」
と叔父が嬉しそうに言う。

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線香に火をつけるため、使い捨てライターを使ったアウトドア用トーチを取り出したら
「俺はボンベ式のやつを持ってるけどやっぱ強力だな」
と叔父が嬉しそうに言う。

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年をとって計算が苦手になったと言うので、僕も最近は電卓の世話になることが多いと言ったら、
「電卓はだめだ。小数点の数字なんていくら詳しくても実際の役に立たない。屋根を葺く瓦の数を計算するにしても、算盤の割り算なら余りが玉の数で出るんて、大工に見せて玉の数だけ左右を詰めてくりょうと言えば話が早いだ」
と嬉しそうに言う。

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昔はルート計算まで算盤でやったと言う叔父が、最近は自分が何をしようとしてここに来たのかさえ忘れると苦笑いする。僕も仕事場で席を立って数歩歩いたら、何のために席を立ったか忘れることがあると言ったら、
「俺は玄関を出て家の脇を通って裏の物置の戸を開けようとして、何を取りに来たのか忘れてる」
と嬉しそうに言う。

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叔父と話すとつねに年齢分くらいスケールを大きくした答えが返ってくる。幼い頃に別れてほとんど覚えていないが、父親とは常にこういう存在なのだろうかと思えて興味深い。

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