電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
白松とツァラトゥストラはかく語りき
2014年5月10日(土)
白松とツァラトゥストラはかく語りき
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今よりもっともっと珍しかったはずの白松(はくしょう)の古木が染井霊園内に一本あり、それが誰によって植えられたかということがまだ気になっている。幕末明治維新を生きた薩長出身軍人の墓が多いので彼ら所以かなとも思ったけれど、墓と白松の位置関係ががしっくりと腑に落ちない。
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大切な樹木を墓のそばに植えるとすれば、墓と樹木が一体となった見栄えを考慮するはずで、白松が最も美しく見える墓を探せば良いのではないかと単純に考えたら、昨日見つけた長崎出身の医家である西家の墓を思い出したのでもういちど見に行った。
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医家西家の先祖である初代西吉兵衛は長崎の南蛮(★1)通詞だった。通詞というのは世襲と決められていたので息子である二代目西吉兵衛も父の跡を継いで通詞となった。
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通詞でも唐人(★2)通詞は同時に通商を許されたが、南蛮通詞は許されなかったため二代目西吉兵衛は学を志し、南蛮外科をころびバテレン(★3)のフェレイラ(沢野忠庵)に学び、紅毛(★4)外科を出島のオランダ商館医に学び、南蛮・紅毛両流を踏まえた西流外科を確立した。
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二代目西吉兵衛は1673(延宝1)年、幕府から出府を命じられ宗門改めの参勤通詞目付と外科医官を兼ね、江戸西久保(★5)に屋敷を拝領して玄甫と改名した。その息子西玄哲 (にしげんてつ)は奥医師(★6)となり門下に杉田玄白(★7)がいる。
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染井霊園の区画割りは東西南北に対して45度傾いており、西家の墓にお参りするときは南西に向かって敷石をたどって墓の前の拝石に立つ。そのとき墓石の真後ろに白松がそびえ、南西からの日差しを遮って眩しくなく、墓と墓前に刻まれた欧文が読みやすいようになっている。2014年5月現在のGoogleマップで航空写真を見ると、西家の参道は見事に白松が北東に落とす影に入っている。
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石に刻まれた文字の意味が分からないので、「senfine ruligas la rado」あたりを入力して検索すると「Esperanto Nederland」と出る。東京外大出身の友人が即座に調べてくれ、ニーチェのツァラトゥストラの一節「一切は行き、一切は帰る。存在の車輪は永遠に回る。」のエスペラント訳のようだという。
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染井霊園の白松がいつ誰によって植えられたかの確証が得られたわけではないけれど、白松を見上げて墓参りをし、ニーチェの語りかけに耳を澄ますという、清々しい散歩コースを見つけたので自分なりにこれで納得した。
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★1 南蛮
スペイン人・ポルトガル人など南ヨーロッパ系民族の総称。
★2 唐人
中国大陸から来る商人などの総称。
★3 ころびバテレン
江戸幕府のキリシタン弾圧・拷問により信仰を捨てた宣教師(バテレン)。
★4 紅毛
オランダ人、イギリス人など北ヨーロッパ系民族の総称。
★5 西久保
港区虎ノ門あたり。大好きなカレーの『スマトラ』が旧町名西久保にあった。
★6 奥医師
江戸幕府の医官。奥に住んでいる将軍とその家族を診察した。
★7 杉田玄白
江戸時代の蘭学医。『解体新書』の訳者。
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