酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「イギリス人の患者」~喪失感と絶望に彩られたラブストーリー

2024-04-18 22:03:27 | 読書
 読書を生活のリズムに据えているが、齢を重ねるにつれて冒険はしなくなり、お馴染みの作家の著書ばかりを読むようになる。とはいえ、小説や映画で紹介されていたり、何となく本屋に行ったら視界に飛び込んできたりで、手にすることもたまにはある。この1年で挙げれば「巨匠とマルガリータ」、「わたしの名は赤」、「あなたの人生の物語」、「すべての見えない光」、「アーサー王宮廷のヤンキー」あたりか。

 俺は今、67歳。父が69歳で亡くなったことを考えても、死に神は間違いなく身近をうろついている。上記に加え、死ぬまでに出合えてよかったと思える小説を読了した。「イギリス人の患者」(マイケル・オンダーチェ著、土屋政雄訳/創元文芸文庫)である。1992年に発表された同作は英語圏で最も権威のあるブッカー賞を受賞し、2018年には半世紀に及ぶ同賞のベストワン「ゴールド・マン・ブッカー賞」に選出された。

 映画化された「イングリッシュ・ペイシェント」(1996年)はアカデミー作品賞など多くの栄誉に輝いたが、俺は見ていない。本稿では小説に絞って記したい。舞台は第2次世界大戦末期、イタリア・トスカーナ地方のサン・ジローラモ屋敷だ。カナダ軍の従軍看護婦ハナは多くの兵士の最期を見届けてきたが、軍と一緒に移動せず、全身やけどのイギリス人の患者を看護するため同地にとどまった。ハナは図書室から取り出した本を患者に読み聞かせ、患者の記憶はアフリカ戦線を彷徨する。

 ハナの父親の友人、カラバッジョがやってくる。カナダ時代の幼いハナを知るカラバッジョは泥棒であり、連合軍のスパイでもあった。ドイツ軍の拷問で両手親指をなくしている。シーク教徒で英軍爆弾処理班のキップも屋敷構内で暮らすようになり、主にハナとキップの主観がカットバックして物語は紡がれていく。キップに重なるのが「すべての見えない光」のヴェルナーで、両者は科学に絶対的な価値を置いている。イギリス兵のキップ、ドイツ兵のヴェルナーは戦地のどこかですれ違っているはずだ。

 作者のオンダーチェは詩人でもあり、同作には複数の語り手の心象風景が、彼らを包む自然に重ねて表現されている。叙情を綴って小説を編んだと捉えることも可能だろう。イギリス人の患者の来し方はカラバッジョとの会話で明らかになる。諜報員アルマーシ(イギリス人の患者)と人妻キャサリン、ハナとキップの2組の宿命的な恋が心を撃つ。

 発表26年後に本作が「ゴールド・マン・ブッカー賞」に輝いた理由を考えてみた。ハナとカラバッジョはカナダ出身で、戦争でヨーロッパに流れ着いた。キップはインド生まれで反英主義者の兄と袂を分かつ。イギリス人の患者は英国生まれではなくハンガリー人だった。主な舞台は英国、北アフリカ、イタリアで、映画版のキャッチコピーは<あなたに抱かれて、地図のない世界へ>だった。登場人物がアイデンティティーを求めてボーダレスに彷徨う展開が、移民や難民が常態化した現在とフィットしている。

 背景は戦争だが、アルマージとカラバッジョは諜報員で、キップは爆弾処理班だ。午前中にナチスドイツの蛮行を告発したドキュメンタリー「キエフ裁判」を見た。詳細は次稿に記すが、独軍の破壊への衝動には衝撃を受けた。東部戦線から撤退した独軍は地雷を設置して〝何も残らない〟状況をつくり出した。キップは技術と精神を総動員して終戦に導く任務を負っていた。戦争の知られざる形が描かれていた。

 原爆投下を知ったキップがラストで取った行動に違和感を覚えたが読了後、少しずつ理解出来たような気がした。原爆はあまりに破壊的で人知を超えていた。爆弾と闘ってきた自分は何だったのかと問い、非白人の国に落とされた意味を考える。兄の言葉が甦り、アルマージにさえ殺意を抱いた。

 アルマージのアフリカ戦線での行動が、映画「情婦マノン」のロベールがマノンの亡骸を担いで砂漠を彷徨うラストと重なった。一緒にいる時はハナへの思いを表白しなかったキップだったが、帰国して安定した地位と家族を得て去来するのはハナの姿だ。読む人によってポイントは異なるだろうが、俺にとって本作は喪失感と絶望に彩られたラブストーリーだった。
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