酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「怒り」~境界を疾走する吉田修一

2022-07-15 18:57:58 | 読書
 前稿末に記した<先進国であり得ない制限選挙>について、知人に「ようわからん」と言われた。要するに供託金制度と、候補者と有権者の間に壁をつくる公職選挙法である。例えば先進国で若い世代が環境問題を訴えるため、国政に打って出ようとする。供託金はないから立候補しても費用はかからないし、街中で意見を戦わせることも可能だ。

 だが日本では、10人集まらないと団体と見做されないし、当選者が出ないと比例区では1人当たり600万円の供託金が没収される。金、看板、地盤がないと議員になれないのが日本の現実だ。民主主義の根幹に関わる問題が無視されていることに絶望的な気分になる。

 前々稿で映画「流浪の月」(李相日監督)を紹介した。李は「怒り」(2016年)の監督だが、作品は見ていない。今回は吉田修一の原作(上下/中公文庫)について記すことにする。吉田の小説を読むのは「太陽は動かない」、「森は知っている」、「ウォーターゲーム」、「路(ルウ)」(テレビドラマも)、「犯罪小説集」次いで6作目になる。映画化された「悪人」、「さよなら渓谷」も見た。

 吉田は芥川賞を受賞しているが、純文学とエンターテインメントの境界を疾走する希有な作家だ。膨大な作品群を誇り、多くが映像化されている。英会話学校講師殺人事件にインスパイアされて「怒り」を書いたという。犯人が整形手術をしたこと、女装姿が公開されたことが本作にも反映されている。

 小説はベストセラーで映画もヒットした。内容をご存じの方も多いと思うので、ネタバレはご容赦願いたい。事件は炎暑の8月、八王子で起きた。夫妻が部屋で惨殺される。顔見知りではなく、犯人の名は山神一也と判明する。だが、1年を経てもその足取りは掴めない。

 現場の異常な痕跡は衝撃的だった。トルーマン・カポーティの「冷血」を思い出す。通り魔による怨恨や憎悪と無縁な殺人で、山神は全裸で長い時間を過ごしている。<怒>の血文字が捜査員に強い印象を刻んだ。公開捜査番組も放映され、南條と北見は専従刑事として全国を回る。

 丁寧でオーソドックス、そして行間に濃密な気配が漂う……。これが吉田作品の印象だ。「怒り」にも作者の力量が窺える。房総、東京、沖縄で山神に似た容貌の3人の青年が現れる。房総の漁協で田代が働き始めた。無口でおとなしい田代の上司である洋平が映画版の主人公で、渡辺謙が演じている。人情と義理が息づく温かい街として房総は描かれている。

 東京編では優馬がストーリーの軸になる。サラリーマンの優馬は発展場でナンパした直人と暮らし始めた。贅沢で奔放な生活を送っているが、ゲイであることは義姉にしか教えていない。大上段に振りかざしてはいないが、背景にはLGBT問題も据えられている。

 「鷹野一彦シリーズ」の主人公は沖縄の架空の島、南蘭島で暮らしていたという設定だった。吉田は沖縄に愛着を感じているようで、沖縄編には政治的な発言で泊まり客を辟易させる民宿の主も登場する。その息子である辰也と同級生の泉の前に現れたのがバックパッカー風の田中だった。

 吉田の人物造形の巧みさに感嘆させられる。3人の〝山神候補〟だけでなく周囲の人間も細かい点まで描写されている。整形後と推察される写真がテレビで公開されるや、房総、東京、沖縄でさざ波が生じた。「似ている」、「もしかしたら」……。上巻を読み終えた時、俺は推理してみた。自慢するわけではないが、勘は当たっていた。

 山神の犯行に、人間らしさは感じられない。人間は時に欲望に衝き動かされ、絆を求める。田代も直人も過去と事情を抱えていたが、愛を受け入れようとする優しさがあった。直人はホスピスで暮らす優馬の母の元に通う。兄も、恐らく母も、優馬がゲイであることを認めている様子だった。ひとり〝人間〟の枠に入らないのは田中である。

 「怒り」のメインテーマは<人をどこまで信じられるか>だ。洋平は娘の愛子と恋仲になった田代を疑った。優馬も直人を信じられず、警察からの電話を切ってしまう。田中と兄弟のように親しくなった辰也だが、米兵にレイプされた泉の気持ちを慮って、人間の仮面を被った田中に怒りを爆発させた。

 読了後、2人の女性が解けぬ謎として残った。家出して新宿のソープランドで働いていた愛子を洋平は保護団体の協力で連れ戻す。深刻な状況なのに、愛子は子供っぽい。洋平は器量が悪い愛子は幸せになれないと決めつけ、田代が山神でも仕方がないとまで考えていた。愛子は恋人を裏切った過去もあり、真面目で素直ともいえない。軽度の発達障害とも思えるが、女性は常に俺にはミステリアスだ。

 もう1人は北見刑事の恋人だった美佳だ。野良猫を介して知り合ったが、北見の真剣な思いを拒絶する。山神ほどではないにしても明かしたくない過去を抱えているのだろう。泉は偶然、新宿の映画館で独りぼっちの北見を目撃した。孤独、希望、決意……。多彩な登場人物は様々な思いを秘めて物語の先を歩み始める。余韻の去らない作品の映画版にも触れてみたい。
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